2025.8.17「感謝の力 ローマ1:20-25」

この世はとっても複雑そうに見えます。不景気や犯罪、事件など、悪いニュースが飛び交い、私たちの心と思いは知らず知らずのうちに汚染されてしまいます。しまいには、何が大事で、何が永遠に続くのかもわからなくなります。しかし、聖書は「このことを第一にするなら、他のことは理路整然となり、すべてのことがうまくいきますよ」と教えています。きょうは感謝することがいかに大切かということを聖書から共に学びたいと思います。

1.感謝をしないと…

 パウロは自然界を見たなら、神さまの存在は疑う余地がないと、はっきり言っています。ローマ1:20「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」聖書はこの世のすべてのものは神さまによって創られたと言っています。パウロは「すべての被造物を見たなら、神がおられるということがわかるでしょう」と言う訳です。でも、どうでしょう?欧米の人たちは神と言ったなら、God、創造主しかいないと分かっています。でも、その神に従う人は数十%しかいないでしょう。日本人はそもそもの出発点がなっていません。「神」と言われても、「どの神ですか?」逆に質問されます。野球の神様、かまどの神様、山の神様、神社の神様…数えたらきりがありません。でも、この世界を創られ、私たちを造られたのが「本当の神様」です。神さまはお一方、唯一です。このように私が講壇の上から神さまのことを宣言していますが、25歳の時からです。イエス・キリストを心に受け入れてから、やっと分かるようになりました。だから、偉そうなことは言えないのです。結論を申し上げますが、救い主イエス・キリストを信じると、霊の目が開かれ、この世界と自分を造られた神さまがおられることが分かります。

 聖書に戻ります。パウロはローマにまだ行ったことがありません。おそらく、この手紙は、コリントから「いずれ、そこに行きますよ」とローマにいるクリスチャンに充てて書かれたものと思われます。ローマ1章の前半では「ローマに行きたい」とあいさつしていますが、後半から、急にいらだっているように思えます。パウロは一体、だれにいらだっているのでしょうか?まことの神を知らない、福音を聞いたこともない大多数のローマ人に向かって述べているのです。しかし、パウロは同時に、ローマ人のような生活をしている私たち異邦人に向けて述べているのです。その中には日本人も含まれているということです。ローマ1章後半は、人類が罪と悪にまみれていく様を書いています。また、パウロは、人類がこのように堕落の道を転げ落ちていく、そもそもの原因は何かということも書いています。一体何が、罪と悪の原因なのでしょうか?それが、ローマ1:21節です。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」そもそもの原因は、神を神としてあがめず、感謝もしないことです。そのため、思いが空しくなり、心が暗くなったのです。「空しくなる」とは、vain無益という意味であり、目的がないということです。言い換えると、生きる目的がないということです。神から離れて生きている人は、何のために生きるのかわからず、空しい生活を送ってしまうということです。その後どうなるか、しばらく罪と悪の下降線ついて見て行きたいと思います。

 思いが空しくなると、まことの神以外のもの、偶像崇拝をするようになります。ローマ1:23「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」当時のローマの人たちはギリシャ神話の神を拝んでいました。さらには皇帝が神になりました。エジプトやバビロンでは鳥、獣、這うものを拝んでいましたが、ローマもそうだったのでありましょう。日本も死んだ人を神社に祀って拝んでいます。亀有は香取神社ですが、隣の新宿には日枝(ひえだ)神社がありました。日本書紀や古事記に書かれている神話から来たものです。一体だれが祀られているのかわからず、その神社の氏子になり、みんなで神輿をかついでいるのです。とにかく、神から離れた人は、思いが空しくなり、本来神でないものを手で作って拝んでいます。仏像や観音様もそのたぐいでしょう。救われる前は、「その人の自由であり、そういう人もいて良い」と思っていました。でも、私たちを造られた神さまがその姿を見ると、悲しくなるのは間違いありません。たとえると、子どもが自分ではなく、よそのおじさんに対して「お父さん」と慕っているようなものだからです。偶像崇拝の後は、どうなるでしょう?26節、27節は性的な乱れがあると書かれています。「恥ずべき情欲、女も男も、自然に反したものに替えてしまった。男同士で恥ずべきことを行い」と書かれています。ローマ時代もそういうことがあり、ポンペイの遺跡にたくさん残っています。ある遺跡は公開されていますが、見せてはいけないものもあります。でも、現代の人たちは、彼ら以上のことをしているので、公開が自由になっているようです。その後は、29節以降は「あらゆる不義、悪、どん欲、殺意、争い、欺き、中傷、無慈悲」と、罪と悪のオンパレードが続いています。

 順番をもう一度さぐっていきます。第一は思いが空しくなり心が鈍くなるということです。第二はまことの神の代わりに、偶像崇拝するということです。第三は、性的な乱れです。現代に起こっている性の問題は昔からあったものです。ソドムゴモラ、そして異教の習慣の再現なのです。第四は、あらゆる不義、悪、殺意、争いへとエスカレートするということです。でも、そもそものはじまりは何だったのでしょうか?それは、21節「神を神としてあがめず、感謝もしない」所から始まったのです。私たちを造られた神さまをあがめ、感謝をしなかったからです。神さまに対する感謝を忘れたので、このような罪と悪が波及していったのです。私たちはこのように日曜日、教会堂に集まって礼拝をささげています。聖書から教えを聞き、感謝と賛美と祈りをささげています。しかし、これは当たり前のことではないのです。確かに日本ではクリスチャン人口は1%くらいかもしれません。たとえ一握りのクリスチャンであっても、私たちは日本の国民を代表している祭司として、神さまをあがめ、感謝をささげているのです。エリヤはたった一人で、バアルの預言者たちと戦っているつもりでした。しかし、主は「バアルにひざをかがめない7000人の人たちを残している」(Ⅰ列王記19:18)と言われました。イザヤ書には「のこりの者(レムナント)」ということばが何度も出てきます。私たちこそ、主が残しておられたレムナントなのです。私たちは日本の国民の代表として、ここで神をあがめ、感謝をささげているのです。アーメン。みなさんはお気づきでしょうか?まことの神をあがめ、感謝をすると、人生の目的が分かってきます。なぜなら、神をあがめ、感謝をすると、「思いが新しくなり、心が鮮明で明るくなり」神さまとつながるからです。すると人間の手で造った偶像礼拝が馬鹿らしくなります。性的な情欲からも解放されます。さらには、不義や罪のかわりに、義と愛と平和を求めるようになるのです。これは、神の奇跡でなくて何でしょう?人間は教育や道徳では変わりません。キリストを信じることにより、私たちを造られた神様と和解することから始まります。私たちは聖霊によって生まれ変わり、神のいのちが与えられるのです。それまでは、神に造られたことの感謝でしたが、次にはキリストによって罪、贖われたことの感謝になるのです。自分を神さまのいけにえとしてささげ、感謝と賛美のいけにえをささげる者となるのです。そして、神さまのみこころに沿った生き方をするために、この世に出ていくのです。すべてのスタートは神をあがめ、この方に感謝ささげることから始まるのです。

 私は感謝を全くしないで育ってきました。父があまり働かないので、その代わり姉や兄がお家にお金を入れました。一番上の姉は嫁いでいたにも関わらず、実家に帰って母や弟や妹の面倒をよく見ていました。姉は私たちにヤクルトを買ってきては飲ませてくれました。私にはセーターとか靴、参考書も買ってくれました。しかし、私は一度もお礼を言ったことがありません。父や母だったらともかく、姉にお礼を言うのは卑屈な気持ちになるのでできませんでした。そのため、いつも、いただいたものにケチをつけていました。私がクリスチャンになり、50代後半、故郷伝道のために何度か帰りました。そのとき、姉の家を訪れました。そして、「私が子どものとき、たくさん買ってくれてどうもありがとうございました」と涙ながら感謝を述べました。姉は「いいのよ」とはぐらかしていましたが、50年ぶりに姉にお礼が言えて良かったと思います。新島襄が子どものとき、創世記一章一節を読んでこのように思いました。神は、木だけではなく、花も草も、空も水も、そして、鳥や獣もみなつくられたのだ。そうすると私は、神についてなんと間違った考えと態度をとっていたことだろう。いつもお願いばかりしてきた。いや、今までの「神さま」は本当の神様ではない。私は、この本当の神様を無視してきたのだ。本当は、心からお礼を申し上げなければいけなかったのだ。感謝しなければいけなかったのだ。「神さま。この天と地とをおつくり下さったことを、感謝いたします。私の両親を造られたことを感謝いたします。そして、私をもおつくり下さったことを感謝いたします。今まで知らなかったとはいえ、お礼を申し上げなかったことをおゆるしください。神さま、もし目をお持ちならば私に目をとめてください。耳をお持ちであれば、私にその耳を傾けてください」と、生まれてはじめてお祈りをしました。

2.感謝の力

 ビル・ジョンソンは「感謝は天国と合意することである」と言っています。彼はある本でこのように述べています。「感謝は、私たちの命は神からの賜物であり、神がすべての主権者であるという真理を認めて、天と一致します。神は贅沢なほど寛大であり、この地球で私たちに与えられた人生は、生き残るための人生ではなく、豊かさと祝福の人生なのです。」後半は、感謝がいかに大切か、いくつかの聖句を引用しながら共に学びたいと思います。

第一は感謝することが神のみこころだからです。Ⅰテサロニケ5:16-18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」このところに、「神があなたがたに望んでおられること」とありますので、神のみこころであるということです。多くの人たちは、「神のみこころが何であるか分かりません」と言います。でも、このところから、「すべてのことにおいて感謝することが神のみこころである」とはっきりと分かります。でも、なぜ、すべてのことを感謝しなければならないのでしょうか?多くの場合私たちは、良いことが起これば感謝します。思い通り行かなかったり、悪いことが起こると感謝しません。そのかわり、不平や不満が出てきます。イスラエルの民を見ると分かりますが、さっき、紅海が分かれるような奇跡を体験したのに、荒野に来たら飲み水がない、食べ物がないと不平を漏らしました。神さまは彼らに天からマナを降らせ、岩から水を湧き出させました。すると「彼らは肉が食べたい、ニラもたまねぎも食べたい。ああ、エジプトでは肉鍋をかこんでいたな。エジプトに帰りたい」と言いました。神さまは海からうずらを運んできましたが、どん欲に食べるので、その姿を見て神さまは嫌になりました。全然、感謝もせず、「あれが食べたい、これが食べたい」と要求ばかりしているイスラエルでした。でも、なぜ、困難や逆境の中でも感謝をささげるべきなのでしょうか?それは、神さまがそのような中でも、私たちのためにちゃんと働いているという信仰の表明なのです。私たちは人生の行程において、水がなかったり、食べ物が乏しくなることもあります。アマレクのような敵が襲ってくることもあるでしょう。でも、これらは約束の地に入るための心の準備だったのです。イスラエルは約束の地に入ることを忘れていたので、不平や不満をもらしたのです。感謝は私たちに命と目的を与えてくれます。なぜなら、神さまご自身が命と目的の源だからです。あらゆる状況でも感謝をささげることは、その神さまとつながって、命と目的をいただく機会となるのです。感謝によって、神からの命と目的をいただくと、もう一つ上の次元を生きることができるようになります。半分はこの地上ですが、半分は天国を歩いているのです。そうすると、天国から必要なものが地上に降りて来て、ますます感謝したくなるのです。感謝は天国の扉をあけるドアです。

 第二は感謝を加える祈りが効果的だからです。ピリピ4:6,7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきない。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」「そうすれば」とありますので、この箇所は効果的な祈りを教えている箇所です。単なる祈りと効果的な祈りがあります。単なる祈りは、マタイ7章のように、自分たちの必要を求めることです。「求めよ、そうすれば与えられる」と書かれています。でも、これは初心者の祈りです。なぜなら、子どもは「ください」「ください」といつも言っているからです。みなさんは、いつもお願いされる人と会いたいでしょうか?その人が電話して来たり、会いに来るときは、必ず頼み事であるなら、どうでしょう?自分の子どもでもイヤになるのではないでしょうか?パウロは「感謝をもってささげる祈りと願いによって…」と言っています。願う前に、感謝することが大切だということです。「あのときはどうもありがとうございました」「前日はどうもありがとうございました」と言うのです。あるときは、何も求めないで、感謝という品物だけを差し上げる場合もあって良いのです。私たちは大変お世話になった人に定期的に何かをプレゼントします。人間的な義理ではなく、心からの感謝です。私がこの教会に赴任してまもなく、一組の結婚式の司式をさせていただいたことがあります。古い会堂でしたから1990年よりも前だと思います。なんと毎年秋になると、その方から20世紀梨が一箱送られてきます。かれこれ30年以上、毎年です。その梨をいだだく前に、そのご家族の祝福を祈ります。私も李光雨師から無料でカウンセリングしていただきました。その後、10年以上、コーヒー豆をお送りしました。ある時に、「もう結構です」と言われ喜んで辞めました。少し余計なことを言いましたが、感謝をもってささげる祈りは効果があるということです。ピリピ4章には、すべての理解を超えた神の平安が心と思いをキリストイエスにあって守られると書かれています。神の平安は、単なる安らぎではなく、実体があり、祝福の伴ったものです。

 第三は感謝は良くないものを良いものに変える力があるからです。Ⅰテモテ4:3-5「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」当時の社会では、偶像にささげられた肉が他の肉と一緒に市場に並べられていました。信仰の弱い人たちは、偶像に一度捧げられたものは汚れていると言って食べませんでした。しかし、信仰の強い人は、たとえ偶像にささげられたものであっても、肉は肉、食べても問題はないと主張しました。使徒パウロは、「偶像というのは実際存在しないのだから、食べても良いのだ。しかし、躓く人が起こるといけないので、私は、肉は食べないことにする」と言いました。田舎では、何かいただくと、真先に仏壇にあげます。その後、降ろして、食べるということが良くありました。パウロはテモテにこう教えています。「神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」このところから、「感謝が汚れた食物を聖別する」と言われています。これは、どういうことかというと、感謝して、神さまの前に捧げ直すということです。その後、神さまと神さまの目的のために食物を取り分けるということです。感謝が食べ物の性質そのものを聖なるものに変えるということです。私たちは仏壇ではなく、神さまのところに捧げるのです。その後、神さまのために働くことができるようにいただくのです。旧約聖書を見ると、祭司やレビ人が祭壇にささげた後の肉やパンを食べることができました。現代はほとんどの食べ物に防腐剤や添加物が入っています。自然食や無農薬しか食べない人もいますが、限界があるでしょう。もちろん、注意することは必要ですが、感謝の祈りの効果ということも覚えておく必要があります。私たちが感謝すると、私たちがいただく、食物がきよめられ、無害になるということを期待して良いと思います。

 第四は感謝するは良いことだからです。詩篇92:1「主に感謝することは良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。」こんな単純なみことばがあったのだろうか?と思うほどです。「主に感謝することは良いことです」アーメン。何を言いたいのかというと、感謝は神さまから何かをいただくための駆け引きではないということです。人を操作することを英語で、manipulationと言います。私たちが何かを神さまから得たいために、感謝をするというのは、良くない動機です。感謝はこれからのためではなく、これまで主がどのようなことをなしてくださったか思い出して感謝するのです。詩篇136篇はそのことをたくさん書いている箇所です。詩篇136:1-3「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。主の主であられる方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。」その後、ざっと数えただけでも「感謝せよ」が5回出てきます。多くの場合、主がなされたことを感謝しています。それらのことを「主の恵み」として感謝しています。エジプトから出てきたイスラエルはなぜ堕落したのでしょうか?それは主の恵みを忘れて、感謝しなかったからです。すべてのことを当たり前として考えていました。そればかりか、あるものではなく、ないものを数えあげて不平や不満を漏らしたのです。私はベテル教会の本をたくさん読みましたが、「ビル・ジョンソンのような使徒ではないし、クリス・バトロンのような預言者でもない。ケビンデ・ドモンのように奇跡や癒しも行うことができない」としょげていました。その時、救われたとき、ある事のために召されたことを思い出しました。それは「信仰を分かりやすく教える」ということでした。神さまはそのために、私に「知恵のことば」を与えていると確信しています。メッセージの準備もそうですが、小グループで聖書から分かち合っているとき、御霊の知恵が与えられます。「ああ、私には預言はないけど、知恵があるじゃないか」と感謝しました。箴言には知恵は金や銀、宝石よりも尊いと書かれています。どうぞ、みなさんもないものに目をとめて愚痴るのではなく、今、あるものを感謝しましょう。目が見えることも、手足が動くことも感謝です。たとえ家族がいなくても、神の家族がいます。たとえ体が弱くても口が動くではありませんか。聖書のことばを理解する知能も、まだあります。そして、キリストによって永遠のいのちが与えられています。このようにして神さまを礼拝できることも感謝なことです。アーメン。