ノーマン・ピール博士は「心の平和は、あなたの力とエネルギーの源である」とある本に書いておられます。彼はニューヨークにある教会の牧師でした。そこには、多くのビジネスマがいて、忙しく働き、ストレスを抱えて生きていました。その結果、精神的にも肉体的にも病気になり、医者や薬に頼っていました。ところが、そこにはクリスチャンの医師がいて、「この町の教会に行って、祈りをささげなさい、そうすれば良くなります」と助言したそうです。
心の平和を保つには・・・1.静かな環境に行くということです。
イエス様は日中、人々を教え、病をいやしました。そのうち、日が暮れてしまいました。「このままでは人々が空腹で倒れてしまうのでは」ということで五つのパンと二匹の魚で、大群衆を養われました。その後、どうしたでしょう?マタイ14:22-23「それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」イエス様はしばしば、人々から離れ、祈っておられたことが分かります。少し前の、マタイ14:13にも「それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。」と同じようなことが書かれています。このように、イエス様はご自分の働きに一区切りをつけると、山とか、人がいないところに行って祈っておられました。それは、父なる神さまと交わるためであり、心と体を休めるためでありました。
私たちも静かな環境で、心と体を休める必要があります。重要な心の平和を保つためです。私たちは情報過多の時代に生きています。仕事のために、分刻みに動いたりします。知らず知らずのうちに、ストレスがたまり、血圧も高くなっているでしょう。緊張するとアドレナリンが体に行き渡り、それが長期にわたると病気になってしまいます。現代人は、お酒を飲んだり、薬を飲んだりします。医者に行くと、安定剤など、さまざまな錠剤を出してくれるでしょう。私たちはそのような対症療法をしてはいけません。一人になって、自分と神さまと交わる時を持つのです。そのためにはテレビを消し、スマホも消し、すべての情報を遮断する必要があります。イエス様が「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6:6)と言われたとおりです。ちなみに、「奥の部屋」はclosetとも言いますが、「押し入れ」の他に「私室、小室」という意味があります。これは、祈りや黙想のための、小部屋であります。日本は家が小さいので、よっぽど工夫しないと自分の場所を確保することができないでしょう。私も家内が黙想できるように、牧師館に小部屋を設計しましたが、完全に物置になっています。
ノーマン・ピール博士は、「平和的な印象を心に蓄積しておき、必要に応じてそれを活用するように」と勧めています。彼が東海岸のアトランティックシティに滞在していたとき、そのことを発見しました。彼は部屋のデスクで仕事をしながら、ビーチと海を眺めていました。その日は曇り空で、雲と霧と太陽が交互にやってくる日でした。カモメがかれた声で鳴いています。海の波は砂浜に、悠々と打ち寄せては引いています。時折、太陽が顔を出し、大きな光の筋が海を横切っていきます。そして、その光は、また海から不思議な霧に包まれて消えていきます。彼はその光景に安らぎを覚え、しばし目を閉じました。そうしているうちに、突然、目をつぶっていても、目を開けていても、その光景がはっきりと見えることに気が付きました。もちろん、記憶の中で見ているのですが、1年後、10年後も同じように見えるはずだと考えたのです。そこで彼は、平和で静かな情景をいつでも取り出すことができ、癒しの効果があることが分かりました。私もこの本を読んで、「そういえばそうだな」と思いました。数年前、一人で八ケ岳のふもとに行ったことがあります。春の5月だったので、霧島つつじが林の中に咲いていました。南アルプスにはまだ雪が残っており、とても雄大な眺めでした。小淵沢には湧水の名所があり、冷たい水が滾々と流れていました。私はそのことを思ったら、とても静寂な気持ちになりました。皆さんも、子どものとき小川で魚釣りをしたり、広い原っぱを散歩したことがあるのではないでしょうか?ノーマン・ピール博士は「『記憶された安らぎ』の実践は、リラクゼーションと精神的な安らぎのための並外れたテクックである」と言っています。
私たちは目を開けると、とても忙しい生活に巻き込まれます。電車も1本逃したら、「しまった」と思うでしょうか?エレベーターも、行った後だとがっかりするでしょうか?私などは、信号待ちしていて、前の車が出遅れるとイラっと来ます。主婦の方ですと、一度でいくつかのことを同時にこなそうとするでしょう。一週間もあっという間に過ぎてしまいます。だから、聖書には「安息日を守れ」と命じられているのです。詩篇46篇では、「やめよ。知れ。わたしこそ神」と書かれています。「やめよ」と言われないと、やめないのです。イエス様も群衆が次から次へと押し寄せ必要を求めてきました。彼らの言いなりになったら、イエス様ですら燃え尽きてしまうでしょう。だから、強制的に彼らを解散させ、ご自分は祈るために一人山に登られたのです。重要なことは、だれが人生の主体になっているかということです。私たちは仕事や家事、人々によって、コントロールされているのではないでしょうか?もちろん、やるべきことがたくさんあるときは、追いまくられているという感じがします。それでも、私たちは適度に休みをとって、心と体のバランスをとる必要があります。スポーツにもインターバルというのがありますが、仕事も適度に休まないとかえって能率が低下します。私たちは外の世界を一時遮断して、一人になることはとても重要です。自分は今どのような生活をして、何を考えているのか?神さまに何を願い、何をゆだねるべきなのか?「やめよ。知れ。わたしこそ神」を実践すると、見えなかったものが見えてきます。考えつかなかったものが考えつき、道が開かれることが良くあります。どうぞ、静かな環境を作って下さい。そうすれば、受け身的な人生から、能動的な人生に変わります。パウロは「御霊によって歩みなさい」と言われました。私にも言えることですが、神さまよりも早く歩いてはいけません。「活動して、静まって、活動して、静まって」を繰り返しましょう。
2.不安材料を締め出す
心の平和を保つためには、心から混乱をもたらす不安材料を締め出す必要があります。福音書の弟子たちはどのような状況でしょうか?マタイ14:24「舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。」とあります。ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルもあるので、夕方になると山から湖に向かって強い風が吹くことがよくあるようです。彼らは向かい風の中にあり、漕いでも、漕いでも、ダメだったようです。そのとき、イエス様が暗い湖の上を歩いて近づいて来るではありませんか?この後、ペテロが舟から降りて、水の上を歩きました。ところが、強風を見て怖くなり沈みかけました。イエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。きょうは、奇跡の話ではなく、嵐の中を漕いでいた弟子たちのことをお話したいと思います。別のところでは、イエス様と一緒に乗っているとき、嵐に遭遇したことが記されています。そのとき、イエス様は舟の後ろで腕枕をして眠っておられました。嵐があまりにもひどく、舟が水浸しになりました。ペテロは「私たちが死んでも、かまわないのですか?」とイエス様を起こしたことがあります。その時も、「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか?」(マルコ4:40)と言われました。福音書を読むと、ガリラヤ湖ではろくなことはありません。一匹も魚がとれなかったり、このように嵐に遭遇したりしています。問題は、ペテロをはじめ多くの弟子たちは漁師でした。ガリラヤ湖のことはよく知っているはずなのに、このように度々、恐れ、イエス様に助けを求めています。
舟が私たちの心であるなら、嵐は私たちの環境です。私たちの周りは、私たちの能力を超えて、荒れ狂うときがあります。最近のニュースでは「これまでに経験したこともない」と良く言われます。温暖化のために、台風にしても、豪雨にしても、度を越しているようです。本当に命を守ることを優先しなければならない時があります。では、舟が沈まない方法とは何でしょう?それは水を舟の中に入れないようにすることです。一番良いのは、潜水艦のように四方が壁になっている船です。現代は、潜水艦でなくても、簡単に沈まない船ができています。一番、問題なのは、外の嵐、外の水を自分の船の中に入れることです。そうすると、どんな船でも沈没してしまいます。さて、私たちはどのようなものを心に入らないように注意すべきなのでしょうか?あるいは、気が付かないうちに、心の中に入っているものもあるでしょう。一番は、恐れです。イエス様は「恐れるな」と何度もおっしゃっています。また、イエス様は「信仰がないのですか」ともおっしゃっています。恐れと信仰は良く似ています。どちらもまだ起きていないことを、起こったように考えるからです。でも、恐れと信仰は一緒に歩むことはできません。恐れを選ぶと信仰が締め出され、信仰を選ぶと恐れが締め出されます。私たちは信仰を選ぶべきです。ヨブは「私が恐れていたもの、それが降りかかった」(ヨブ3:25)と言っています。恐れには物事を実現させる力があります。私たちは恐れを締め出して、いつでも信仰を選び取るべきです。聖書には365回「恐れるな」とかいてあるそうです。毎日、最低一回は「恐れるな」と自分に語るべきです。
ノーマン・ピール博士はある新聞記事を取り上げています。「人間は原子・アドム時代に突入し、思考や感情のコントロールは石器時代のレベルになっている。パニックが続出し、不安は私たちの時代の病である」と言っている。しかし、医師は患者の恐怖に賢く対処する方法を示そうとせず、製薬会社の援助を受けて、ますます多くの薬を処方している」。ノーマン・ピール博士は「この記事は医者と製薬会社に対して過剰なほど厳しい。私の知る限り、ほとんどの医師は精神的、心理的な解決策を提案している。しかも、薬の原料は神によって創られたものであり、その適切な使用は神の目的の範囲内であると考えるのは不合理ではない」と述べています。ノーマン・ピール博士は医師や薬を否定していません。でも、彼は牧師としてさらにこう述べています。「しかし、ほとんどの緊張は、おそらく身体ではなく精神に関連しています。問題は、人々が心の平和を薬物から得るのか、それともイエス・キリストの福音から得るのか、ということです。それとも、決して消えることのないものに信頼を置くのでしょうか?」
心の体がつながっていると考えるようになったのは1898年、フロイトの友人ブロイアーがヒステリーを研究したことに発します。彼はオーストリアの医師、精神分析学者です。ヒステリーによってリュウマチに似た症状が、筋膜に起こるということが分かりました。しかし、近代の医学は、デカルトモデルやニュートンモデルで考えられるような機械的な構造で肉体を考えます。情報という形の知性がすべてのシステムを動かし、行動を生み出しているのです。ところが、新しい情報モデルによると、身体の活動の多くは自律的で無意識的なレベルで行われていることがわかりました。さらには、心の深いところにある怒りや悲しみが関節や消化器系に影響を与えることが分かってきました。心と体がつながっていることを心身相関psychosomaticと言うのですが、まだまだ、医学的にはマイナーな存在としか認められていません。現代は病気の治療も重要ですが、病気にならないためにはどうしたら良いかということも研究されています。キャロライン・リーフ師は「研究者たちは約87%の病気が私たちの思考生活が原因であり、約13%が食生活や遺伝や環境からくるものです。慢性的な病気は、有毒な感情と決定的につながっています」と調査結果を発表しています。
ある時、コピー機が故障したので、インターネットで調べてみました。私はキャノンのサービスにつながったと思っていましたが、ある有料のコンサルタントでした。お試し500円で、質問してみましたが、買い換えることで解決しました。ところが、1か月後、4800円がクレジットで決算されていました。契約したことになっていたのですね。このままだと来月も引かれます。ものすごい憤怒が沸き起こり、体が熱くなりました。お金は戻って来ませんでしたが、授業料だと思ったら怒りが収まりました。憤怒がいかに体に悪いか分かりました。私たちは悪感情を心から排除し、愛や喜びや平和に置き換える必要があります。悪感情とは、怒り、憎しみ、人を赦さない心、憂いや思い煩いです。これらのことは、聖書で昔から教えられていました。箴言17:22「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす」。
3.揺るがない基盤を持つ
マタイ14:32-34「そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した。それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。」イエス・キリストによって嵐が静まり、弟子たちは、向こう岸に無事着くことができました。私たちの心が平和であるためには、揺るがない基盤を持つということが重要です。ここには、比喩的でありますが、すばらしい真理が隠されています。彼らの舟にイエス様がお乗りになられたということです。第二のポイントで舟とは私たちの心であると申し上げました。つまり、私たちの心の中にイエス様をお迎えするということです。クリスチャンであるなら、もれなく心の中にイエス様をお迎えしているはずです。でも、問題なのはどのようなお方として、心にお迎えしているかということです。私たちの心にはいろんな部屋があります。そこには秘密の部屋があり、内側から鍵をかけており、イエス様にも入らせないかもしれません。「イエス様は友人の一人であり、私の趣味や好みには干渉してもらいたくありません。」そうなると、問題が起こるたびごとに、不安と恐れによって平安が失われてしまいます。弟子たちはどうしたでしょう?「舟の中にいた弟子たちは『まことに、あなたは神の子です』と言って、イエスを礼拝した」とあります。彼らは舟を降りてから礼拝したのではありません。狭い舟の中で、イエス様を礼拝したのです。これは私たちの心にイエス様を神様としてお迎えし、さらには神さまの栄光のためにお仕えするという意味がこめられています。イエス様は私たちの召使いではありません。困ったときだけお願いするのは偶像の神様です。すべての部屋が開けられるマスター・キーをイエス様に差し出しましょう。あなたには秘密の部屋も秘密の時間もありません。心の部屋全部をイエス様が王として治めるならば、どんなことが起きても揺るがされることはありません。
この世の人たちはどうして、混乱の中で生きているのでしょうか?私たちから見たら混乱ですが、彼ら自身は「問題ありません」と答えるかもしれません。たとえ心や体を壊していても、必要を感じていません。現代はポストモダンと言いましょうか、道徳や倫理を蹴飛ばしています。男性であること、女性であることは自分で選ぶことができると考えています。テレビでは「お姉キャラ」として堂々と出ています。同性婚も認められるようになりました。結婚観や家庭すらも崩れてきており、同居のようになっています。はっきり言って、そういう人たちには「心の平和」はないと思います。「余計なお世話です」と言われるかもしれませんが、神さまが定めた秩序は宇宙だけではなく、倫理の中にもあるからです。神さまが男と女を創造し、家庭を与えました。神さまが定めた律法は天地が崩れ去っても残ります。律法に反したら罪に定められ、いのちを失います。つまり、神さまが定めた法則に反している生き方をするなら、必ず刈り取りもすることになるのです。それは、その人が神さまを信じようと、信じまいと問題ではありません。法則というものは、どの時代も、どこの国も、どんな人であっても、万有引力のように例外はありません。イエス様は「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言われました。
クリスチャンとは、キリストの十字架によって罪赦され、神との平和を持っている存在です。ローマ5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメン。私たちは一体だれと平和と持つべきなのでしょうか?「人ではなく、絶対者なる神さまと」です。この方が罪を赦すとおっしゃったなら、赦されるのです。だれからも後ろ指をさされる必要はありません。聖歌463の3節「負い目は払われ、重荷はなし、きよめの血潮に日々あらわる。あがない、あがない、われは歌わん、ハレルヤーときわに、われはうたわん」。パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言っています。私はクリスチャンになった頃は、あまりピンときていませんでした。でも、年を増すごとに、「負い目がないということは、本当にすばらしいことなだー」と思います。これこそ、神との平和を持っている者の特権だと思います。
ダンテは、人生で何を求めるかと問われ、「私はすべての人が求めるもの、すなわち平和と安息を求めています」と答えました。現代人がこれほどの心の平和を切望している時代はないでしょう。人々は「宗教なんて」とキリスト教もその一つだと思って求めようとしません。その代わり、心のやすらぎを与える薬物の販売は、巨大な規模になっています。心配事や不安や動揺を感じたら、ただ薬を飲めばいいという時代になったのでしょうか?そうではありません。私たちは私たちを創られた創造主に立ち返る必要があります。電化製品でも故障したら、メーカーさんに相談するでしょう。また、パソコンでも、すべての機械には取り扱い説明書がついています。私たち人間の取り扱い説明書は「聖書」です。私たちのメーカーは神さまです。神さまから離れ、取り扱い説明書も読まないので、人生がうまくいかず平安もないのです。ノーマン・ピール博士が平和の意味を彼の本でこのように解説しています。「心の平和とは、癒しという意味ではなく、全く逆である。心の平和は、大きなエネルギーの源なのだ。夢の世界へ逃避するのではなく、現実の世界へより効果的に参加することを意味する。平和とは無邪気な安らぎではなく、創造的な活動へのダイナミックな刺激を意味する」と解説していました。そういえば、平和「シャローム」の意味は、健全、安寧、繁栄で、精神的・物質的・個人的・社会的に満たされている状態を示すということです。たとえて言うなら、高回転しているコマです。一見、眠っているようですが、力に満ちています。台風も中心部分は静か(平和)です。しかし、台風にはものすごいエネルギーがあります。
私たちは動揺していたり、緊張していたりすると何事もうまくいきません。私たちは神さまの御手の中でリラックスして、霊的に精神的な平穏を得ることが必要です。私たちの力とエネルギーの源は神ご自身が下さる平和の中にあります。そのためには、忙しさの中でも、静かな環境を確保して主と交わりましょう。心の中から恐れや怒りを締め出して、信仰・希望・愛に満たしてもらいましょう。私たちの平和の基盤は王なるイエス・キリストご自身です。この方を礼拝し、この方のみことばに従うならシャロームから来る力とエネルギーに満たされます。