教会では「救われた」と言いますが、それはキリストを信じて、罪が赦され、永遠のいのちが与えられたということです。しかし、救いはそれだけではなく、その先があります。ある人たちは、「洗礼を受けて天国行きの切符をいただいたので、あとは自由気ままに生活させていただきます」と言います。教会も洗礼をゴールにしてきたので、そういう人たちが増えるのを許してきました。実は洗礼を受けて救われた、その先があるということです。四回に分けて、「救いの一貫性について学びたいと思います。第一回目は「救いのはじめ」です。
1.回心
一般に、キリスト教会では「人が救われるためには悔い改めと信仰が必要だ」と言われています。しかし、「罪を悔い改めて、キリスト信じることだ」と誤解されています。ジョエル・オースティンのメッセージの最後で、決断の祈りがあります。そのとき、“I repent my sins”「(複数形の)罪を悔い改めます」と祈ります。悪くはないのですが、「これまで犯してきた罪を悔い改めます。ごめんなさい」と、謝る必要があるなら、それは行いによる救いになってしまいます。大体、救われる前は、霊的に死んでいるので、何が罪なのか分かりません。聖書的な「悔い改め」は、方向転換のことであり、神様に背いていた人生から、神様へと向きを変えることです。ですから、人が救われることをキリスト教会では「回心」と呼んでいます。英語ではconversionと言います。conversionは転換という意味ですが、キリスト教会では「改宗、帰依」という意味です。聖書では使徒パウロが劇的な回心の経験をしています。彼は熱心なユダヤ教徒で、「道の者たち」を迫害していました。ところが、ダマスコに向かう途中、復活のキリストが現れ、地に打ち倒されました。「主よ、あなたはどなたですか?」と聞くと、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言われました。彼はそのあと、キリストの福音を熱心に宣べ伝える使徒パウロになります。しかし、パウロのように劇的に回心する人は稀でしょう。でも、回心において重要なポイントは、何から方向転換するかということを理解することです。
使徒パウロは神がだれであるか知っていました。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通点は旧約聖書の創造主なる神を信じているということです。しかし、パウロはキリストがだれであるかを知りませんでした。彼は「主よ、あなたはだれですか?」と聞いています。「私はあなたが迫害しているイエスである」と聞いて、パウロは「あ、はん」と分かったのです。つまり、ナザレのイエスが主、すなわちキリストであることが分かったのです。キリストとは、救い主であり、神と私たち人間との仲介者であるという意味です。イエス様は十字架で私たちの罪をあがない、三日目によみがえり、主となられました。救い主と主は厳密には同じではありませんが、とにかく、イエス・キリストも信じる必要があるということです。私たち日本人は異邦人なので、神が誰かを知らないし、イエスを信じる理由も分かりません。ヨハネ14:1「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」このところでは、神様とイエス様の両方を信じるように言われています。ヨハネ5:24 「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」このところでも、「私を遣わされた方を信じる者は」と書かれています。「私」すなわちイエス様を遣わしたお方は父なる神様です。私たちは聖書が啓示している神様を信じる必要があります。日本には「神様」がたくさんいます。アニミズムの宗教観があるので、物や動物、人間が神様になったりしています。あるいは実在しない中国経由のインドの神々もいます。京都や奈良にいくと、お寺にたくさん祀られています。聖書が啓示する神は、天地と造られた創造主なる神です。神は唯一であり、絶対者であり、キリストの父なる神です。「神を見せてくれ、見たら信じる」という人がいますが、神は霊であるので、肉眼では見えません。しかし、宇宙や自然界からある程度、神の存在を知ることができます。しかし、神を啓示している聖書を読まなければ、まことの神を知ることはできません。
もう1つは、イエス・キリストを信じる必要があります。Ⅰテモテ2:5,6「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」このところに、「神と人との間の仲介者」とあり、「人としてのキリスト・イエスです」と書かれています。私たちには罪があるので、このままでは聖い神様のところには行けません。神は私たちの罪を赦すために、ご自分の御子をこの世に遣わしました。それが、クリスマスです。イエスは人間の名前であり、キリストは「救い主」という職名です。イエス様は神でありなら人間として正しい生活を送り、完全な贖いになられました。「世の罪を取り除く神の子羊」という呼び名はそこから来ています。イエス様が私たちの罪を負い、代わりに罰せられたので、父なる神は私たちを赦すことがおできになるのです。パウロが「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました」と言っているとおりです。私たちがこのキリストを信じるとき、父なる神は私たちの罪を赦し、義と認めてくださいます。これは神様の救いの奥義なので、私たちは全部理解できません。「人間的な救いを求める宗教は」、私たちが良い行いをするとか、罪を償うとか言いますが、それでは義なる神に達することはできません。これまで犯した罪を良い行いでカバーすることはできないのです。そうではなく、神様は信仰による救い、恵による救いの道を私たちにお与えくださいました。それは、だれも誇ることができないためです。
つまり、回心とは第一に偶像の神から、唯一まことの神へと方向転換することです。第二は、私のために十字架で罪を贖って下さったイエス・キリストを救い主として信じることです。第三は自分の良い行いに頼るのではなく、キリストによって完成された贖いを受け入れるということです。私たちはパウロのように劇的な回心があってもなくても良いのです。回心の体験は、人とそれぞれ違いますので、人の体験を神学にしてはいけません。体験はともかく、少なくとも、この3つのことに対して、考えを変えて信じるなら人は救われるのです。
2.新生
福音派のキリスト教は、この新生をとても重要視します。私が最初救われた座間キリスト教会はその当時、日本ホーリネス教団に属していました。また、韓国の聖潔教会・チンムロ教会と姉妹関係を結び、その教会から大きな額をいただきました。そこには「新生、聖化、神癒、再臨」と書かれていました。おそらく、戦前に中田重治監督のホーリネスの宣教師が韓国に伝道に出かけ、教会を設立した名残だと思います。しかし、新生の強調はアメリカの第三次リバイバルから来ていると思います。福音派のDLムーディやビリーグラハムが有名です。彼らは大集会を開いて、メッセージのあとに「今晩、イエス・キリストを信じる者は前に出て来なさい」と招きをします。信じた人が、講壇の前に進み出て、一緒に、信仰告白をします。すると、講師は「あなたは今日、救われました。あなたはいつ死んでも神様の前に立つことができます」と言ってくれます。しかし、そのあと、教会につながる人はあまりいないことが分かりました。ビリーグラハムの日本大会では、教会定着率が5%だということでした。それでは良くないということで、一生懸命、フォローアップを行うことになりました。その時、問われることは「あなたはキリストを信じたときに新しく生まれ変わりましたか?」ということです。つまり、「新生の体験があるか」ということです。回心の体験も、新生の体験も似ているような感じがしますが、どこが違うのでしょうか?回心の場合は「キリストに出会った、キリストをどのように信じたか」という体験です。一方、新生の体験はキリストを信じてから、「どのように内面的に変わったか?」ということです。福音派の人たちは、「私は○○年、○月、○日、○時、○分救われました」と言うのです。いや、「言わせる」のです。しかし、赤ちゃんが「私はお母さんのおなかから、○年、○月、○日生まれました」と言えるでしょうか?
新生について語られている聖書はヨハネ3章のイエス様とニコデモの会話です。イエス様は「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。これに対して、ニコデモは「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかし、イエス様がおっしゃりたいのは、聖霊によって霊的に生まれることだったのです。これはアダム以来の人間は、霊的に死んでいるという前提に立っています。イエス様は、聖霊は風のようであると言われました。聖霊は風のように思いのままに動くし、聖霊は目に見えないということです。でも、風が吹くと木の葉が動いて、「ああ、風が吹いているな」と分かります。同じように、その人に聖霊が吹くと、霊が生まれ変わり、その人の性質が変わるということです。すると、「ああ、新生したな」ということが、自分も他の人もわかるということです。問題は、新生は人間の努力や願いではありません。もちろん、人は求める必要がありますが、生まれ変わらせてくださるのは聖霊であるということです。だから、人間的に人を説得したり、強要したりしてもダメだということです。新生したかどうかは、その人自身と神様しか知らないことです。一見、信じているように見えても、本当は信じていない人もいるからです。その人は洗礼を受けたかもしれませんが、本当は新生していない場合もあるのです。「救うか、救わないか」という、主権は聖霊にあることを恐れをもって受け止める必要があります。ローマ9:16「ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」アーメン。
ウィットネス・リーが『神の永遠の計画』という本の中でこのようなことを述べています。人間の霊は完全な単位であり、良心、交わり、直角からなりたっている三つの部分あるいは機能があります。「良心」は容易に理解できます。善悪を識別することは、良心の一つの機能です。罪に定めたり、あるいは義とすることは、良心の働きです。Ⅰヨハネ1:8,9「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」良心が目覚めたので、罪の悔い改めができるという証拠です。次に「交わり」を理解するのも容易なことです。交わりとは、神と私たちが交わることです。私たちの霊の内でこのような機能によって神に触れることができます。Ⅰヨハネ1:3「私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」交わりとは言い換えると、祈りによって神様と会話することだと思います。しかし、「直覚」を理解することはそんなに簡単ではありません。直覚とは、直接的な感覚、あるいは直接的な認識を持つことを意味します。私たちの霊には、理由、環境、背景に関わらず、直感なるものがあります。Ⅰヨハネ2:27「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。」簡単に言うと、聖霊が私たちの霊に示してくださるということでしょう。ダビデも詩篇16篇でこのように言っています。「私はほめたたえます。助言を下さる【主】を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。」
まことに主観的ではありますが、霊が新しく生まれると何らかの変化が訪れます。3歳くらいの子どもに「あなたは生きていますか?」と聞くとどうこたえるでしょう?「うん、生きているよ」とからだを動かして教えてくれるのではないでしょうか?子どもは生命の理屈を知らなくても、自分で生きていることが分かるのです。同じように、霊的に新しく生まれたクリスチャンも、「神様がいること、自分が前と違うこと」が分かります。子どもは両親と会話できるようになりますが、私たちも父なる神やイエス様と会話をすることができます。やがて、子どもは知性が発達し、読み書きができるようになります。同じようにクリスチャンも聖書を読んで、そこに何が書いてあるか理解できるようになります。これまでは自分の考えや経験を頼って生きてきましたが、目に見えない神様のみこころに従って生きるようになります。さらには平安、喜び、感謝が出てきます。Ⅰペテロ1:8,9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」
3.神の子としての身分
救いに関して述べるとき、重要なことの一つは「神の子とされる」ということです。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」これは「私はだれか」というアイデンティティに関わることでとても重要です。なぜなら、人は自分がだれかというアイデンティティで行動しているからです。この世では、何ができるかというdoingで、どういう人物か判断します。その人自身も、人から認められるために、資格をとったり、高価なものを所有したり、業績を上げたりするでしょう。スポーツ選手も、「とにかく、結果を出さなければ」とがんばっています。しかし、それらはすべて、行いによるものです。しかし、聖書が教える真理はそうではありません。自分がだれかということを知るなら、それにふさわしい行いが出てくるという考えです。つまり、doingよりもbeingという存在が重要だということです。神様は私たちにキリストを信じることによって、「あなたは神の子です」という身分を与えてくださいます。神様は王様ですから、その子どもたちは、王子であり、王女ということになります。神様は全宇宙の創造者であり、所有者です。その神様が私たちの父であるなら、すべての必要が与えられることは間違いありません。パウロはローマ8章で、「私たちは神様をアバ父よ」と呼べると言っています。さらに、「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」(ローマ8:17)と言っています。共同相続人とは、文字通り「一つの財産を共同で相続する者」という意味です。私の生まれた家では、おじいちゃんは財産を放棄したようです。また、おばあちゃんも地主の娘だったのに、こおり1つで嫁いできたようです。私の父はそれが面白くなくて、「本家に財産をよこせ」と談判に行ったようですが、かなわなかったようです。我が家の家系には、「もらえるはずのものをもらわない」という片意地があるようです。まさしく、家系の咎であり、私もそのようなところがありました。ひねくれて、だれにも頼ろうとしない、生き延びる人生でありました。しかし、天地を造られた神様が私の父であると知って、がぜんうれしくなりました。同時に、生き延びる人生から、神の息子という人生になりました。
ニール・アンダーソン師は「私はだれか」ということが信仰生活においてとても重要であると、『暗闇からの解放』という本で述べています。「クリスチャンになるということは、単に何かを得るということではなく、誰かになるということなのです。クリスチャンとは、単に赦しを得た人、天国に行くことができた人、聖霊を得た人、新しい性質を得た人ではありません。クリスチャンとは、私たちの最も深いアイデンティティという意味では、聖徒であり、霊的に生まれた神の子であり、神の傑作であり、光の子であり、天国の市民なのです。新しく生まれ変わることで、それまで存在していなかった人に変えられたのです。クリスチャンとして何を受け取るかが重要なのではなく、あなたが誰であるかが重要なのです。あなたがクリスチャンとして何をするかではなく、あなたが誰であるかが決まるのです。キリストにある自分のアイデンティティを理解することは、クリスチャンとしての生活を成功させるために絶対に必要です。どんな人でも、自分自身の認識と矛盾するような行動を一貫してとることはできません。自分をダメな奴だと思っている人は、ダメな奴のような生き方をするでしょう。しかし、自分がキリストにあって霊的に生かされている神の子であると思えば、キリストが生きたように勝利と自由に生きるようになるでしょう。神を知ることに次いで、自分が誰であるかを知ることは、あなたが持つことのできる最も重要な真理です。」アーメン。キリスト教会では洗礼を受けた人に、モーセの十戒を教え、「こういう罪を犯してはいけません」と教えます。とたんに、その人は縛られた思いになり、救いの喜びが失せてしまうでしょう。つまり、そのような戒めを教える前に、自分がだれであるかを教えるべきなのです。もし、自分が神の子であり、聖徒であることを知ったなら、それに反することは自然にしなくなるのです。神の子として聖徒としてふるまうようになるでしょう。
ヨハネもそのことをご自身の手紙で教えています。Ⅰヨハネ3:1「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」ヨハネは律法によってクリスチャンを動かすのではなく、すばらしい神の愛に応えるように教えています。教会は箇条書きで「これしてはいけない、あれしてはいけない」と教えがちですが、罪に対してはどうでしょう?Ⅰヨハネ3:9「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」なんということでしょう?「神から生まれた者は、罪を犯しません。罪を犯すことができないのです」と言っています。もし、このような教えを私が学校で聞いていたなら、悲惨な生活をしなくてすんだかもしれません。学校では私は「行儀の悪い子」として扱われていたからです。しかし、ヨハネの教えは、いわゆる教えではありません。神から生まれたという、生命的な関係があります。「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。」と言っているからです。種はギリシャ語でスペルマであり、子孫を残すための男性のものです。まさしく、私たちは神の種によって、生まれた神の子なのであります。神の性質が宿っているので、神の性質にそぐわないことはやりたくないのです。一方、ヨハネは「罪を犯している者は、悪魔から出たものです。…このことによって、神の子どもと悪魔のこどもの区別がはっきりします」とも言っています。何か厳粛な思いにさせられます。神の子であるなら、自然に義を行うということです。このように考えると、キリストの救いは、この世の道徳とは全く違うということが分かります。私たちはこの世の教えと道徳と価値観によって、本来の生き方をしていませんでした。ところが、キリストを信じて新しく生まれ変わり、神の子とされることにより、性質も生き方も変わってきます。これは私たち人間が努力して得るものではなく、神からの一方的な恵みです。このように救いとは、私たちがこの世で学ぶことのできなかったgood newsです。