だれか有名人が死ぬと、テレビでは「天国に旅だった」と言います。かつては、「あの世に行った」「他界した」と言いました。人々は、「あの人は天国に行った」と勝手に言います。おそらく、海外の映画や物語から影響を受けたのではないかと思います。「天国に行った」と言われると何となくロマンチックで悲しみを和らげてくれます。きょうは「天国はどのように来るのか?」と題して、クリスチャンが死んだ後のことを学びたいと思います。結論から言いますと、天国は三段階でやってきます。パラダイス、千年王国、そして新天新地です。
1.パラダイス
パラダイスということばが最初に出てくるのは、ルカ福音書23章です。イエス様は二人の犯罪人の真ん中に十字架に付けられました。片方の犯罪人が死ぬ間際に悔い改めて、このように言いました。ルカ23:42-43「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」犯罪人は私たちが一般に言うような信仰告白はしていません。彼はイエス様が御国の王になられたとき、「私のことを思い出してください」と願っただけです。しかし、彼の中にはイエス様が御国の王であり、メシアなのだという信仰がありました。一見、不十分な感じがしますが、イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われました。ちょっと考えてみると、合点がいかない所があります。イエス様が死なれたのは金曜日の午後3時であり、土曜日は安息日、日曜日の早朝、復活なされます。イエス様はユダヤの考えによると、足掛け3日、死なれたのです。しかし、肉体は死にましたが、霊においてはそうでありませんでした。Ⅰペテロ3章18,19節には、「肉体においては死に渡され、霊においては生かされて、…捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました」と書かれています。教会が唱える使徒信条では、「陰府に下られ」と書かれています。そして、エペソ4章にはその後のことが書かれています。エペソ4:8、10「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。…この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。」神学的に言うと、イエス様は一旦陰府にくだられましたが、復活するとき、陰府にいる人たちを連れて昇天されたということです。それを私たちはパラダイスというのです。
ルカ16章で、イエス様は金持ちと貧しい人ラザロの死後のことをお話しておられます。貧しい人ラザロが死ぬと、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれました。一方、金持ちは死後、よみで苦しんでいます。そこには炎が迫っており、熱くて苦しみもだえています。目を上げると遠くにアブラハムとその懐にいるラザロが見えました。彼はアブラハムに「舌を冷やすための水をください」と願っています。しかし、アブラハムは「両者の間には深い淵があって、渡ろうとしても渡れず、来ようとしても来ることができない」と言いました。おそらく、旧約時代の陰府は二階建てになっており、上は義人たちがおり、下は悪人たちがいたのではないかと思います。イエス様が陰府にくだられ、復活したとき、陰府の上の階、義人たちがいるところを引き上げ、そこをパラダイスにしたのでないかということです。パラダイスは、ペルシャ語では「囲い地、果樹園、庭園」という意味があります。ギリシャ語70人訳聖書は、エデンの園を「パラダイス」と訳したようです。後に、義人の行く場所、楽園と考えられるようになりました。イエス様が復活なされた後は、キリストを信じていない人は、これまでどおり陰府に行きます。一方、キリストを信じた人はパラダイスに引き上げられ、イエス様とともにいることになります。肉体は眠っていますが、霊においては生きており、やがて来る復活を待っているということです。
ですから、私たちクリスチャンが死んだら、天国よりも、「パラダイスに行った」と言う方が正確なのです。ユダヤ人は神ということを恐れたので、天に置き換えて言いました。ですから、「神の国」と言う方が正しいのです。神の国は神の支配と言う意味であり、キリストがこの地上に来られたとき、やってきたのです。マルコ1:14,15イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様が神の国を持って来られ、十字架と復活によってさらにその入口が確保されました。人は生きている内に神の国に入ることができ、死んだら、パラダイスに移されるのです。肉体は眠りますが、私たちの霊は一瞬たりとも途絶えることはありません。ですから、ドアをあけるように「パラダイス」に入るのです。ですから、死は悲しみというよりも、半分は喜びなのです。一度、パラダイスに上ったことがあるパウロは、できるなら死んでイエス様のところに行きたいと葛藤しています。ピリピ1:23-24「私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。」
トーマス・エジソンが臨終の床で何か言いたがっていたので、医者が身をかがめて近づきました。彼は「そこはとても美しいところだ」と弱い声でしたが、はっきりと言ったそうです。赤ちゃんはお母さんのおなかにいるときは、そこがあまりにも住み心地が良いので出たくないと思うでしょう。外に出るとき、痛みと苦しみが伴うからです。私たちもこの世にずっと留まっていたいと願うでしょう。確かに魂が肉体から離れるときは痛みと苦しみが伴うかもしれません。でも、その先は、とても美しいパラダイスです。そこに一旦、入ったなら、地上に戻って来たいとは思わないでしょう。イエス様は私たちのため、パラダイスを用意しておられます。死後、行く所があるということはなんとすばらしいことでしょう?年を取って来ると、「もうすぐだな」という、楽しみさえあります。聖歌642に「ヨルダンのかなたに」があります。カナンとは天国でありパラダイスです。「ヨルダンのかなたに広がれるは、げにわがゆずりのカナンの地なり、心は踊るよ、心は踊るよ、カナンの地おもうだに我がむね踊るよ。旅路の備えはいかに友よ、いざいざゆかばや、あまつ国に、心は踊るよ、心は踊るよ、カナンの地おもうだに我がむね踊るよ。」
2.千年王国
千年王国は、千年期とも呼ばれています。これに対しては、色んな立場があります。宗教改革者たちは、千年王国はユダヤ人の夢であるとその存在を退けました。千年王国を象徴的に考え、主イエスが来られた時からそうなったと考える人もいます。しかし、聖書を字義的に捉える人たちは、ヨハネ黙示録20章に書かれているし、旧約聖書の預言の成就であると考えます。私は聖書通りに解釈する後者の立場です。また、そのような立場の人は、千年王国とは「来たるべき世」のことであり、福音書で言われている「御国」のことであると考えます。つまり、マタイ6章で「御国が来ますように」という祈りは、「千年王国が来ますように」という意味だということです。なぜでしょう?ペテロが「私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」と言いました。イエス様は「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます」(マタイ19:28)と言われました。これは、御国において弟子たちがイエス様と一緒に治めるということです。残念ながら、弟子たちは「イエス様がローマを倒して、イスラエル王国を復興するはずだ」と考えていました。しかし、それはイエス様が十字架で贖いを成し遂げ、復活昇天した後のことです。イエス様のたとえ話にも、来るべき世のことが書かれています。ルカ19章に「ミナのたとえ」が記されています。主人は十ミナもうけたしもべに「十の町を支配する者になりなさい」と言いました。また、五ミナもうけたしもべには「五つの町を治める者になりなさい」と言いました。これは、彼らが御国において、いくつかの町を治める者になるということが言われているのです。つまり、この地上において忠実であったかどうかがテストされ、そのことが来るべき世である千年王国で報いられるということです。
私が最も言いたいことは、千年王国のことは旧約聖書、特に預言書においてたくさん預言されているということです。イザヤ書11章に自然界の回復が預言されています。イザヤ11:6-9「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」高木慶太師は「地ののろいが取り除かれるとき、動物のどう猛性や、毒がなくなり、弱肉強食の習慣もなくなる」と言っています。使徒パウロはローマ8章でこう述べています。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。…被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」これはイエス様が世の終わりに来られて、千年王国が樹立するときに、自然界も贖われるという真理です。つまり、この地球の動植物が完全に回復するということです。また、人間の肉体の傷害も回復します。イザヤ35:5-6心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。」イザヤ65:20「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命を全うしない老人もいない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。…わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、…子を産んで、突然その子が死ぬこともない。」この地上はまことに不平等です。アダムの罪のゆえに幼くして死んだり、障害を持って生まれる人がいます。でも、千年王国では豊かに報われるのです。
最後に千年王国はイスラエルの回復の時であります。イエス様の弟子たちはそのことがいつ起こるか心配しています。使徒1:6-7「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」イエスは彼らに言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」ペンテコステの前に、このようなことが話題にのぼりました。でも、キリスト教会はこのことを無視しがちです。でも、そうではありません。一度選んだ、イスラエルの民を回復するというのが神さまのみこころです。エゼキエル40章から48章において、御国における神殿と12部族の領地が克明に記されています。栄光のエルサレムには、聖所が再建され、神殿礼拝が再び制定されます。以前の旧約時代の神殿とは、構造も規模も、また礼拝の様式も全く異なっています。また、「この御国は地球の全地域を含み、人類のすべての国々がその支配領域になります。ゼカリヤ14:9「主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」アーメン。でも、千年王国は神の国の完全かつ最終的な実現ではありません。黙示録20章には、「千年の間、悪魔であるサタンは縛られるが、やがて解放される」と書かれています。また、死と陰府は千年王国の終わりに来る、最後の審判の時までは滅ぼされません。一口に言うと、千年王国は「この地上でなされなかったことの報い」であります。自然界の回復、人間の肉体の回復、そしてイスラエルの回復です。現在、どこかしこに戦争や紛争があり、環境破壊や地球温暖化問題があります。極論からすると、世の終わりにイエス・キリストが再臨され、御国を打ち立ててくださるまで待つしかないのです。
この地上では報われなくても、千年王国では報われます。盲人は見え、足の障害のある人は鹿のように走りまわり、耳の聞こえない人は聞こえ、口のきけない人は歌います。そういえば、イエス様は千年王国の出来事を地上に持ってきた方でもあります。「御国には病気も障害もないところなんだよ」と実演するために奇跡を行ったのです。今でも、奇跡はおこりますが、全部が全部ではありません。でも、千年王国に行ったら1つの例外もありません。みな癒されます。
3.新天新地
新天新地に関しては、2019年8月18日の聖日礼拝で、既に説教しておりますので、ここではもっとコンパクトにしたいと思います。新天新地のことは、イザヤ書でも預言されています。イザヤ65:17「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」そして、使徒ペテロも同じことを手紙で述べています。Ⅰペテロ3:12-13「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」ペテロの考え方からすると、現在の天とその万象は焼け落ちるということです。どういう意味かというと、この地球も太陽も月もなくなり、全く新しい天体に移り住むということです。そのことは、ヨハネ黙示録21章に記されています。黙示録21:1「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」さらにこう書かれています。黙示録21:23「都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。」文字通り考えると、現在の地球、太陽、月をはじめ、現在地球から見えている宇宙がなくなり全く別なものになるということです。私は天文学者ではありませんが、現在、宇宙には銀河がいくつあるのか調べてみました。AstroArtsによると「これまで宇宙には2000億個ほど銀河が存在すると考えられてきたが、銀河の3次元分布図とモデルを基にした新しい見積もりによれば、その10倍の2兆個も存在するようだ」ということです。宇宙に存在する銀河のうち9割がまだ調べられていないというのは、驚くべきことです。ですから、私たちが住めるような「新しい天と新しい地」はふんだんにあるということです。イエス様が「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」(ヨハネ14:2)と言われたとおりです。
新天新地を詳しく述べる前に、千年王国と新天新地の違いを言わなければなりません。千年王国は行いによって報いられるところでした。信仰者が受ける報いには二種類あります。1つは任せられたものに忠実であったか、良い行い、弟子の一人に水一杯差し上げたことまでも報いられる良い報いです。でも、洗礼を受けても全く礼拝に来なかった人、不忠実であったり、死に至るほどではない罪を犯した人はどうでしょう?マタイ25章から少し述べたいと思います。愚かな5人の乙女は、婚礼の祝いから締め出されてしまいました。1タラント地面に隠しておいたしもべは、外の暗闇に追い出され、そこで歯切りしました。困っている人に食べ物や衣服、宿を与えなかった人は永遠の刑罰(ゲヘナの火)に入りました。でも、それらすべては千年王国におけるさばきです。簡単に言うと、千年王国で喜び楽しむ信仰者と、暗やみで苦しむ信仰者がいるといことでしょう。でも、新天新地は信じた人が平等で受ける恵みの世界です。黙示録21:6「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる」とあります。また、都の大通に植わっているいのちの木から自由に食べることができます。信仰者の将来はとても単純です。主イエス・キリストを信じた者はすべて新天新地に入ることができます。なぜなら、新天新地は褒賞ではなく、恵みだからです。私たちの救いは無代価であり、信じる人は永遠のいのちを受けます。でも、永遠のいのちを得ているからと言って、この地上で罪を犯しても良いという訳では決してありません。その人はきたるべき世、千年王国で懲らしめを受けることでしょう。でも、それで地獄に落とされるわけではありません。懲らしめを受けた後、新天新地で復帰でるでしょう。たとえ復帰できなくても、完成された千年王国に入ることができるのです。新天新地においては、勝利者も敗北者も、高いも低いもありません。
新天新地において、最も素晴らしい恵みの1つはこのことではないでしょうか?黙示録21:3-4「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」私たちは神さまを仰ぎ見ることができます。もう1つすばらしいことは、エルサレムの都の描写です。都の土台は様々な宝石でできており、城壁は透き通った碧玉で作られ、12の門は巨大な真珠でできています。ウィットネスリーは宝石の意味を教えています。「金は、もともと神によって創造されたものです。しかし宝石は、最初から神に創造されたものではありません。宝石は、強烈な熱と高圧を経ることによって、異なる要素が化合したものです。たとえば、木は燃えて炭素になり、それから長い期間圧力をかけられて、宝石になります。私たちは燃やされて、圧力をかけられなければなりません。多くの場合、主は私たちのために「オーブン」を按排します。ときには親愛な人でさえ高熱になることもあります。自分の妻だけでは十分ではありません。私たちはまた子どもたちに「燃やして」もらう必要があります。妻が夫を「燃やす」こともあるでしょう。ですから、私たちは宝石になるために、燃やされることと圧力をかけられることが必要なのです。」せっかく、新天新地の恵みに酔いしれていたのに、この地上での苦しみと試練に戻されたような感じがします。私たちが死んだらどうなるでしょう?肉体は眠りますが魂はパラダイスに上ります。キリストが再臨されたら肉体が復活し、御国で過ごします。1000年後、サタンと死とよみが火の池に投げ込まれます。その後、新しい天と新しい地に移り住み永遠に生きるのです。ある人は「最終的には全ての人が救われるのでしょう」と言います。黙示録21:8「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」ジョン・バニヤンの『天路歴程』の最後のページを紹介します。死の苦しみを通過しないで、門に達した人がいました。門番は「証明書をお出しなさい、王にお見せするから」と言いました。彼はひとことも答えませんでした。彼は捕らえられ、空中を通って丘の中腹に見えた戸口に運び、そこに入れました。その時、私は滅亡の都と同様、天の門からも地獄に通じる道があると分かったのである」。黙示録の最後にも、新天新地に入れない人が書かれているのは驚きです。