2024.9.1「報いてくださる神 マタイ6:1-6」

 マタイによる福音書6章の前半には、善行、祈り、断食のことが記されています。これらのことはユダヤ教にとって信仰深いことの現れであり、重要な徳目でした。また、このところを読むと「隠れたところで見ておられる神」という表現が4回、「父が報いて下さる」が4回ほど記されています。きょうは、私たちが信じて仰ぐ、父なる神さまがどのようなお方なのか、2つのポイントで学びたいと思います。

1.隠れたところで見ておられる神

 マタイ6:4「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」もう一箇所お読みいたします。マタイ6:6「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」皆さんは、「神さまは隠れたところで見ておられる」と聞いてどう思われるでしょうか?嬉しいでしょうか、それとも怖いでしょうか?日本では子どもをしつけるとき、「だれかが見ているよ」と言うかもしれません。宗教的な家では「神さまが見ているぞ」とおどかし半分で言うかもしれません。そういう家庭で育った子どもは、「神さまはとても恐ろしい方である」というイメージができあがるでしょう。神さまを恐れるということは良いことですが、罰や呪いを与えるような神さまは違うと思います。では、どういうことを父なる神さまが隠れたところでご覧になっているのでしょうか?第一は善行あるいは施しです。ユダヤ人は人から見てもらいたいと思っていたのでしょう。第二は祈りです。特に宗教家たちは、人々に見られるように、会堂や大通りの辻に立って祈りました。第三は断食です。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせていました。善行、祈り、断食はとても良いことなのですが、「人に見せるためにやってはいけませんよ」ということです。もちろん、神さまに見せるためにやるわけではありませんが、神さまは隠れたところで見ておられるということを言いたいのです。

 最初、学びたいのは、どうして、イエス様は「神さまは隠れたところで見ておられる」とおっしゃったのかということです。意地悪な考えをすると、「ああ、神さまは陰険だな」と思うかもしれません。あるいは、いつも「私のことをチェックして、あら捜しをしているのかしら?」と嫌になるかもしれません。でも、そういうことではないと思います。まず、「神さまは隠れたところで見ておられる」というのは、神さまのご性質から来ているのではないかと思います。第一は、神さまが霊的なお方なので、肉眼では見えません。すぐそこにいらっしゃっても見えないのです。逆に考えると、神さまが見えたら、自由に生活できません。プライベートも何もなくなるからです。第二は、神さまは偏在なるお方だということです。偏在というのは、場所に支配されないで、どこにでも存在できるということです。詩篇139篇にそのことが述べられています。詩篇139:7-10「 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも、そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。」第三は、何でも見ることができるという全知性から来ていると思います。詩篇139:11,12「たとえ私が「おお闇よ、私をおおえ。私の周りの光よ、夜となれ」と言ってもあなたにとっては闇も暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗闇も光も同じことです。」あるテレビ番組で、逃走車をヘリコプターが空の上から追いかけていました。夜だったのですが、犯人が車を乗り捨てて、森の中に逃げ込みました。ヘリコプターには熱を感知する特殊なカメラが搭載してあり、暗闇でも、人の姿をはっきり映し出すことができました。同じように、神さまの御目から、私たちは隠れることはできないということです。

 日本では、「だれかが見ているよ」というのが、抑止力になるかもしれません。それでも、この世の人たちは、人の目を盗んで悪いことをします。信仰がない人は、神さまは恐ろしい方と思っており、「私のことを見ないでくれ!」と言うかもしれません。クリスチャンであっても、ある時は見られても良いけど、ある時は「見られちゃ困ります」という時もあるかもしれません。では、どうしたら「神さまは隠れたところで見ておられる」ことが、平気であり、逆に慰めになるのでしょうか?エペソ2:3「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」そうです。義なる神は、罪をさばかなければならないお方です。人の罪を放置しておくことができないのです。人は罪の中で生まれ、また、罪を犯すので、当然、神の怒りであるさばきを受ける存在であるということです。神さまを信じていない人でも悪い事をすると、怖くて隠したくなるのは、良心があるからです。ローマ5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」昔、ビリー・グラハム師の『神との平和』という本を読んだことがあります。内容はすっかり忘れましたが、Billy Graham Libraryというブログにその本の概要が書いてありました。・・・イザヤ57:21「悪しき者には平安がない。──私の神はそう仰せられる。」しかし、キリストは十字架の血によって、私たちのために神との平和を築いてくださり、ご自身が私たちの平和となってくださいました。信仰によってキリストを受け入れるならば、私たちは神によって義と認められ、他の手段では得られない内なる平安を実現することができるのです。キリストが私たちの心に入ると、私たちは罪の意識に悩まされることから解放されます。すべての汚れや不適格感が清められ、安心して頭を上げることができ、自信を持って同胞の顔を見ることができるのです。さらに重要なことは、私たちは死の時にも、このような平安と安心感を持って神の前に立つことができるということです。・・・アーメン。

 キリストの贖いによって、私たちの醜いすべての罪が赦され、神さまに受け入れられていることを知るとどうなるでしょう?今更、隠そうとは思わなくなります。神の御目のもとで、自由に生活しようと思うようになるのです。幼子は両親のもとではありのままであり、無防備です。うんちをしても、食べ物を吐いても咎められることはありません。なぜなら、自分を生んでくれた存在であり、自分は両親のものだからです。だから、隠したり、隠れたりすることはありません。しかし、アダムとエバは罪を犯したあと、「神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」と創世記3章に書かれています。全知全能、偏在の神さまから隠れることは不可能です。なぜ、二人は隠れたのでしょう?罪責感と恥と恐れがあったからです。しかし、キリストの贖いを受けると、私たちの心からそのようなものが消え去るのです。神さまは私たちの父であり、私たちを愛していることを知っているからです。むしろ、見られている方が安心なのです。詩篇34:15「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる」とあります。「正しい人」というのは、新約聖書的にはキリストの贖いによって義とされた人たちのことです。父なる神は、キリストを通して、私たちをご覧になっているので罪がないのです。そして、救われた人は、正しい意味で神を恐れるようになります。これはさばきが怖いからと言う意味ではありません。「私は罪なき者とみられているので、喜んでそのような生活がしたい」という応答なのです。その人にとって、「人が自分をどう見ているかではなく、神さまの御目のもとでどうなのか」ということが基準になります。すると、人が自分をどう思おうと、どう見ようと、誤解しようと、けなそうと、気にしなくなります。いつも、神さまとの平和があるということを喜ぶことができます。

 結論的に「神さまは隠れたところで見ておられる」というのは、罪に対するさばきを恐れるということではありません。閻魔大王のように、「悪いことをしちゃダメだよ」という抑止力でもありません。むしろ、私たちを愛しておられる父なる神であります。キリストによって神との平和を持っている人は、そのことが嬉しいのです。神さまが見ておられるというのは、私たちを助け、私たちを守り、私たちに必要を与えたいからです。それは親が子どもを愛する愛と同じです。私たちは父なる神の御目のもとで、安全に自由に暮らすことができるのです。Ⅱ歴代16:9第三版「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」とあります。現在、地球を回っている人工衛星は5000機ぐらいあると言われています。気象情報はおまけで、ほとんどが軍事目的です。007ではありませんが、人を認識できるほどの地上分解能を持ったものが存在します。人間でもそれくらいできるのですから、全知全能の神さまだったらもっとすごいでしょう。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」。神さまと比べたらなら、人の目は節穴同然です。節穴同然の人の目ではなく、私のことをちゃんと見て、評価してくださるキリストの神さまを信じましょう。私たちはキリストの十字架の贖いによって、罪赦され、完全に受け入れられているのです。パウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)と言いました。その通りです。アーメン。

2.報いてくださる神

マタイ6:4「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」もう一箇所お読みいたします。マタイ6:6「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」これらの文章に、「そうすれば」という接続詞があります。隠れたところで施しや祈り、断食をするならば、隠れたところで見ておられる神さまが、報いてくださるということです。言い換えると、人々の前で、施しや祈り、断食をするならば、人々から報いられてしまって、神さまからは報いられないということです。でも、神さまを信じていない人たちは、人からの報いで十分であり、それが目的になる場合すらあります。オリンピックの金メダルも、やっぱり人から賞賛されると、「これまでの努力が報われたなー」と嬉しく思うでしょう。「報われる」はギリシャ語でアポディドゥミといますが、「渡す」「差し出す」「返す」「戻す」が本来の意味です。しかし、善い意味でも、悪い意味でも、「返報する」「報いる」という意味もあります。ですから、英語でも同じように、pay backは、「借金を返す」と言う意味と「仕返しをする」という両方の意味があります。ローマ12:19「悪に悪を報いることをせず」は、悪い方の意味です。でも、マタイ6章で言われている報いは良い方の意味です。でも、キリスト教会では一般に「報いを求める」というのは、卑しいものと考えられているのではないでしょうか?讃美歌536「むくいをのぞまで、人に与えよ、こは主のかしこき、みむねならずや。水の上に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを」とあります。とても美しい賛美です。もちろん、報われることを期待して、良いことをするのは動機が汚れているかもしれません。でも、人からではなく、神さまからの報いは期待しても良いのではないでしょうか?

イエス様の弟子たちは、イエス様に従って行きましたが、やっぱり報いを求めていました。金持ちの青年が悲しみながら立ち去った後、ペテロがイエス様にこのように言いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか」と聞きました。イエス様はそのとき、「ペテロ、報いを求めるなんて意地汚いぞ」おっしゃいませんでした。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19:28,29)。これはあきらかに、やがて来る御国(千年王国)での報いのことです。確かに、御国では、この地上で得られなかった報いが与えられます。ルカ福音書のミナのたとえでは、十ミナもうけたしもべに「十の町を支配する者になりなさい」と言われ、五ミナもうけたしもべには「五つの町を治めなさい」と言われています。たとえ地上で報われなくても、御国では報われるのです。でも、私たちはこの地上でもいくらか報われて欲しいと願うのではないでしょうか?旧約聖書のヨブはすべての財産と10人の子どもたちを一瞬にして失いました。それから重い皮膚病になり、友人たちからも責められました。でも、最後にどうなったでしょうか?すべての財産がもとの二倍与えられ、10人の子どもが与えられ、そのあと140年も生きたと書かれています。故郷を捨ててナオミに着いてきたルツも、最後に報いられました。マタイ6章で言われている、施しや祈り、断食も、隠れたところでやっているなら、父なる神さまが報いてくださるということではないでしょうか?当人たちは、報いを期待やっているわけではなかったでしょうが、隠れたところで見ておられる神さまが報いてくださるという約束です。ですから、報いは目的ではなく、あとからついてくるボーナスみたいなものです。このことは、祝福と同じです。

私が最近読んだ “Unwiding Anxiety”(不安を解消する)本の1つのテーマは依存症からどのように脱却するかということでした。行動を変えるために必要なことは、「タバコを吸うのをやめよう」、「ケーキを食べるのをやめよう」、「ストレスを感じたときに子供を怒鳴るのをやめよう」、「不安を感じるのをやめよう」と自分に言い聞かせるだけです。しかし、そうはいきません。習慣を変えるための唯一の持続可能な方法は、報酬の価値を更新(アップデート)することです。報酬価値は眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)と呼ばれる脳のある部分にマッピング(地図化)されています。眼窩前頭皮質はちょうど目の奥にあり、感情、感覚、過去の行動などの情報が統合される脳の交差点です。この眼窩前頭皮質に新しい報酬の価値観をアップデートするのです。タバコはなかなかやめられない人がいました。タバコは肺気腫や肺がんのリスクが高まることは知っています。多くの人は10代でタバコを吸い始めるので、学校で若くてかっこいいとか、親に反抗するとか、そういったタバコに対する強い報酬の価値観を持っています。私はタバコを吸うときに注意してもらうことで、タバコが自分にとってどれほどの報酬になるかをその場で確認してもらうのです。ある女性は、タバコを吸うと「臭いチーズのようなにおいがして、化学物質のような味がして、「ヤバい 」と報告していました。このような意識を持つことは、脳内の報酬値をリセットするために重要であり、その結果、習慣を断ち切ることができるのです。報酬ベースの学習は報酬に基づいています。行動が報われるものであれば、あなたはそれを再び行い、報われないものであれば、あなたはそれをやめるのです。この本から、人間が報酬で行動していることを申し上げました。ですから、聖書的な報酬価値を更新する必要があります。

ところで、私たちの肉というか、生まれつきの性質には、「努力した分、報われたい」という願いがあるのではないでしょうか?私たちを突き動かしているものの中に、「報い」というものがあるということは確かです。報われると嬉しいし、報われないと悲しいというのは自然な感情です。アンデルセンはデンマークの出身ですが、30才の遅咲きの童話作家です。彼はクリスチャンでありましたが、その作品のほとんどが「悲しい物語」です。言い換えると、報いが描かれていないということです。「人魚姫」「赤いくつ」「びんの首」「マッチ売りの少女」「銀貨」など最後がとても悲しいです。でも、「みにくいアヒルの子」は最後が良いです。アンデルセンは貧しい靴職人として生まれ、文学好きの父と迷信深い母との間で育ちましたが、11歳の時、父を失いました。15歳のとき、俳優を志してコペンハーゲンに出ましたが、貧窮をきわめた上、挫折しました。その後、大学で学ぶ幸運に恵まれ、30才の時、『即興詩人』によって文名を確立しました。まことに、遅咲きの童話作家です。恐らく、彼の貧しく、苦労した生活が作品に現れているのではないかと思います。私は戦争やヤクザ映画など、報われないような作品は見ません。Marbelが作るハッピーエンドで終わるヒーローものは大好きです。その点、聖書の神さまは報いてくださる神さまなので、本当にうれしいです。

この世には「神なんかいないんだ」と思っている人がほとんどでしょう?でも、そういう人が会社で働いていて、毎月、給与をもらったときどう思うでしょう?「なんで、俺の給与があいつより低いんだ。俺はもっと働いているはずだ」と思い、フラストレーションがたまるのではないでしょうか?自分を犠牲にして、夫や子供たちに尽くした妻はどうでしょう?若いときはともかく、年老いて、だれも面倒見てくれなかったら、「何のための人生だったのだろう」とがっかりするでしょう。科学者や医学者も、せっかく自分が発見したものが、上の者に奪われたらどう思うでしょう。考えてみたら、この世では報われず、貧乏くじを引かされる方が多いのではないでしょうか?「神なんかいないんだ」と思っている人は、「自分は報われることがないんだ」という人生と等しいでしょう。でも、逆に、たとえ日陰の人生であっても、神さまが見ておられ、きっと報いてくださると信じている人はどうでしょう?「聖書に『地上で人々から報われたら、その分、神さまからの報いがすくない』と書いてあるじゃないか?だから、天における報いが多いにきまっている。ハレルヤ!アーメン」。神さまがおられるということは、「報いがある、報いが与えられる」という人生です。私たちは、兄弟から妬みを買い、エジプトに奴隷に売られたヨセフのことを知っています。一生懸命真面目に働いていたのに、ポテファルの妻から濡れ衣を着せられ、牢獄にぶちこまれました。牢に入って来た人の夢を解き明かしてあげましたが、彼はすっかり忘れてしまいました。しかし、二年後、パロが不思議な夢を見て、だれもそれを解き明かすことができませんでした。牢獄から呼び出されたヨセフがそれを解き明かし、一夜にして、エジプトの宰相になることができました。ヨセフの生涯から、報いてくださる神さまを知ることができます。

神さまは私のことを分かっていらっしゃる。これだけでも、満足です。今まで、「私のことをだれも分かってくれない」と悲観した人生でした。でも、私のことを隠れたところで見ておられ、しかも報いてくださるとはなんとありがたいことでしょう。神さまがいない人生には報いがありません。しかし、神さまがおられる人生には報いがあります。霊的に目が開かれると、「ああ、神さまからこんなにたくさんの愛と恵みと慰めをいただいている」という感謝が生まれます。神さまは目には見えませんが、隠れたところから私たちをご覧になっておられます。その目的は、私たちの父として、私たちを守り、豊かな報いを与えたいからです。