2024.7.7「神を恐れよ 伝道者12:13-14」

 神さまは私たちの天のお父様であり、とても近づきやすい存在です。ですから、ある人たちは神さまを「天パパ」と呼んだりします。どう呼ぼうと人の勝手ですが、ちょっとだけ危惧するところがあります。クリスチャンであっても、神を恐れていない人たちがいるからです。彼らは、「神を恐れるとは旧約聖書が表わしている神であり、新約聖書は優しい神さまだ」と言うのです。きょうは、神を恐れるとは、新しい契約の中に生きている私たちにも必要であることを共に学びたいと思います。

1.神を恐れよ

 伝道者の書12:13,14「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」伝道者の書は伝統的にはソロモンが書いたと言われています。「空しい」「空しい」と連呼されていて、とても聖書とは思えません。昔、『方丈記』を読んだことがありますが、仏教が言う「虚無」と似ているところがあります。聖書学者たちは、「伝道者の書12章13節がなければ、聖書の聖典には加えられなかっただろう」と言います。おそらく、この書物の記者は「空しい人生に対する解決は、神を恐れ、神の命令を守ることだ」と言っているのではないかと思います。キング・ジェームス訳には、Let us hear the conclusion、「結論を聞け」と書かれています。また、口語訳聖書は「すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」と書かれています。これら2つの訳を合わせると、12章13節は、「結論を聞け。神を恐れ、その命令を守ることがすべての人の本分である」ということになります。現代は、「本分」というような言い方はほとんどなされないでしょう。バイトばかりしている大学生に「学生の本分とは勉学に励むことである」と言っても聞いてくれるでしょうか。本分は「その人の尽くすべき義務」という意味なようですが、やっぱり堅い表現かもしれません。では、「神を恐れるということが、人間の本分である」と言われたなら、納得できるでしょうか?「それは、旧約聖書の教えであり、新約の私たちのためのものではない」という答えが返ってくるかもしれません。特に、神さまを「天パパ」を呼んでいる人たちからは、律法的で堅苦しいと言われるでしょう。

 もちろん、私たちはキリストにあって神さまを「お父様」と呼べる特権が与えられています。でも、「主の祈りで」は「天におられる私たちの父よ」と呼びかけます。「天」というのは、「私たちよりも離れている高いところ」という意味があります。ということは、神さまは親しい父であると同時に、私たちから離れている聖なるお方であるということでしょう。日本のことわざに「親しき中にも礼儀あり」というのがありますが、ある程度、当たっているところがあります。私たちは神さまと親しい関係を持ちながらも、神さまを恐れる必要があるということです。これら2つは一見、相反する事柄、矛盾している事柄に思えますが、新約に住む私たちにとても重要な事柄であろうと思います。そこで、新約的に神を恐れるというのは、どういうことなのかということをいくつか取り上げて学びたいと思います。私たちにとって、神を恐れるとは、どういうことなのか、聖書から3つ取り上げたいと思います。

 

2.神のさばきを恐れる

 第一に神を恐れるとは、神のさばきを恐れるということです。伝道者の書12:14「神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」日本人は、人の目を恐れて生きています。ゴミ投集積所に「だれか見ているよ!」というポイ捨て禁止ための立札が掲げられています。でも、あまり抑制力はないようです。なぜなら、本当にだれも見ていない時があるからです。「旅の恥はかき捨て」ということわざがあります。ウェブにこのように解説がありました。「旅先には知人もいないし、長くとどまるわけでもないので、普段ならしないような恥ずかしい言動も平気でやってしまうものだということ」。人は、近所の目の届かないところだと、破廉恥なことをするかもしれせん。人の目には限界がありますが、神さまはそうではありません。神さまの目には、隠されているものがないからです。伝道者の書12章14節と似ているみことばが新約聖書にもあります。マタイ10:26「ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。」これは人を恐れるのではなく、神を恐れよという文脈で語られています。つまり、神さまの御目では、すべてが明らかであり、それに対する報いもあるということです。インドネシアのエディ・レオ師が、「神を恐れるとは、人が見ていようと、見ていまいと一貫した行動をとることである。もし、隠れたところで犯した罪を告白しなければ、やがては屋上で言い広められるようになる」と教えて下さいました。私たちはイエス・キリストの贖いによって、すべての罪がきよめられています。地獄に落とされるような裁きを受けることはありません。それでも、地上における神のさばきがないわけではありません。

 パウロの書簡を見ると、信仰者であっても神のさばきを受けることがあることが分かります。Ⅰテモテ1:19-20「ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。」パウロの神学の根本は信仰義認です。しかし、一度信じた者が滅びる可能性があるのでしょうか?ヒメナイとアレクサンドロが犯した罪は何か分かりません。でも、パウロは「神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました」と言っています。おそらく、この二人はサタンによって大きな痛手を被ったに違いありません。最悪の場合はいのちを落としたかもしれません。でも、この二人が地獄に行ったということではなく、この地上のいのちを失う代わりに、永遠の御国には入れると言うことではないかと思います。神さまは私たちに70年、あるいは80年の寿命を与えておられます。しかし、何かのことによってそれよりも早く亡くなることもあるでしょう。私たちは、「あの人が早死にしたのはそのせいだ」と言ってはいけません。ケネス・ヘーゲンの本に「その人がこれ以上、罪を犯さないように、神さまが天に召す場合がある。それは恵みである」と書いてありました。神さまは霊的な法則と一般的な法則を定められました。もし、神さまの法則に従えば長生きするのに、神さまの法則に従わなければ長寿をまっとうできないこともありえるということです。たとえば、エペソ6章にこのようなみことばがあります。エペソ6:2,3「あなたの父と母を敬え。」これは約束を伴う第一の戒めです。「そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く」という約束です。「あなたの日々は長く続く」とは簡単に言うと、長生きするということです。聖書では「長生きは神さまの祝福の1つである」と考えられています。日常生活において、しばしば怒ったり、だれかに恨みを抱いて生きていると精神にも肉体にも良くありません。平安で明るい心が健康に良いことは箴言にも記されています。

 旧約聖書の民数記を見ると怖くなりますが、神のさばきを受けて死ぬ人がたくさん出ています。旧約時代に生きていたなら、いのちがいくつあっても足りないでしょう。でも、旧約聖書はイスラエルの民の救済史なので、私たち異邦人に直接当てはまるわけではありません。肝心なのは、イスラエルの民の失敗を教訓として私たちが受け止めるということです。また、イエス・キリストの贖いを通して旧約聖書を読むなら、どんなに私たちが恵みとあわれみを受けているか分かります。「旧約聖書の神さまは厳しすぎる」とか言って、旧約聖書を読まない人がいます。でも、それは間違っています。「イエス様がどうして十字架にかからなければならなかったのか」は、旧約聖書からでしか分からない部分がたくさんあります。旧約聖書が一貫して教えていることは、「罪は必ずさばかれなければならない」ということです。聖書で罪をうやむやにしている箇所はありません。イエス様が十字架で死なれたのは、本来、私たちが受けるべき罪のさばきや咎、呪いを代わりに受けてくださったからです。しかし、私たちが救われた後も、罪を犯し続けているなら、何らかの被害が及ぶことは必至です。神を恐れるとは、イエス・キリストの贖いの中に自分を留めて置くと言うことです。キリストの十字架は旧約聖書の盾、要塞、御翼、高きやぐら、隠れ場にあたるからです。好んで罪を犯すことは、キリストの十字架からはみ出すということです。そうすれば、必ず何らかの災いを身に受けることになるでしょう。そういう意味で、私たちは神さまを恐れなければなりません。俗な言い方ですみませんが、神さまをなめてはいけません。神さまは隠れたところで、私たちのことをごらんになっています。私たちの神さまは罰を与えよう待ち構えている厳しい神さまではありません。私たちがキリストの十字架の贖いにとどまり続けるように願っておられる父なる神さまなのです。神さまを恐れるとは、真実のうちを歩むということでもあります。

 

3.神を試みない

 第二に神を恐れるとは、神さまを試みないということです。イエス様は悪魔から誘惑を受けたとき、このように対処しました。マタイ4:5-7すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」イエス様が悪魔に対処されたことばは、すべて申命記のことばです。申命記には、イスラエルの民が荒野で試みられたときのことが記されているからです。イエス様はイスラエルの民が荒野で失敗したことをご自分で贖われたのです。イエス様が引用した箇所は申命記です。イスラエルの民はどのようなことをして主を試みたのでしょうか?申命記6:16-18「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である【主】を試みてはならない。あなたがたの神である【主】の命令、主が命じられたさとしと掟を必ず守らなければならない。【主】の目にかなう良いことをしなさい。そうすれば、あなたは幸せになり、【主】があなたの父祖たちに誓われた、あの良い地を所有することができる。」出エジプト記17章に、かつてマサで起った出来事が記されています。エジプトから脱出した民は、荒野を旅しているとき、「水がない」と不平をもらしました。私たちも不平をもらすことがありますが、それが主を試みることなのでしょうか?少し後に「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである」(出エジプト17:7)と書かれています。恐らく、主を試みるとは、「水がないのは主が私たちを渇きで死なせようとしているんだ」と主の保護に対してつぶやくことであろうと思います。言い換えると、「主が私たちと一緒にいるなら、飲み水が供給されることは至極当然である」と言うことでしょう。つまり、飲み水がないのは神さまのせいだと考えるのは、神さまを疑ってかかっているということです。

 私たちも世の人たちと同じように、「神さまがいるのに、どうしてこのようなことが起るんだ」とつぶやくかもしれません。あるいは「神さまひどい、私にこんな仕打ちを与えて」と言うかもしれません。それは神を恐れないことであり、神を試みることです。ヨブは一瞬にしてすべてのものを失いました。その時、彼の妻は何と言ったでしょう?ヨブ2:9-10すると、妻が彼に言った。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」しかし、彼は妻に言った。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった。普通だったら、「神さまがいるのに、どうしてこんなことが起るんだ!」と天に向かってこぶしを突き上げるところですが、ヨブはそうはしませんでした。「神さまがおられるのに、どうしてこんなことが起るんだ」とつぶやいたり、「神さまがいるなら、必要が与えられるのは当然だ」と怒って神さまに要求することが、神さまを試みることであろうと思います。この世の中では、子どもの不始末は親の責任です。なぜなら、親は子どもの生活をめんどうみる義務と責任があるからです。でも、その子ども自身が、「私がこんなことをしたのは、親のせいだ、親が悪いからだ」と言ったらどうなるでしょう?親はとっても悲しくなるでしょう。これまで、一生懸命したことが、全く報われなかったような気になります。父なる神さまも同じであろうと思います。私たちはちょっと、試練や苦しみに会うと、「神さまは私のことを見捨てたのではないだろうか?」と疑うかもしれません。もっと悪いのは「神さまがいるなら、私をこのような目には合わせないはずだ」と神さまのせいにすることです。

 「神を試みる」の反対は何でしょう?神さまをどこまでも信じるということです。ダニエル書を読むと、神さまを試みることの誘惑を受けた若者たちがいます。彼ら3人は王様が立てた金の像を拝みませんでした。それで、訴えられて、今、火の燃える炉の中に投げ込まれようとしています。王様は「どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか」と言いました。3人はどう答えたでしょう?ダニエル3:16「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」言い換えると、「救い出されることを信じますが、たとえ救い出されなくても、まことの神さまを信じます」ということです。この後、奇跡的に3人は救い出されます。でも、この3人は、奇跡が起こる、起らないは関係なく、神さまを信じて従っていくという一貫した態度を持っていました。「たとえそうでなくても」という姿勢が、大事だと思います。哀歌3:22,23(新改訳三版)私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」主の恵みとあわれみを感謝しましょう。

4.神を軽んじない

 第三に神を恐れるとは、神を軽んじないということです。俗な言い方をすると、神さまを馬鹿にしないということです。福音書にこのような物語があります。イエス様が悪霊を追い出したら、人々が「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言いました。彼らにイエス様はこのように答えました。マルコ3:28,29「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」新しい訳は「冒瀆する」ですが、以前の訳は「けがす」でした。イエス様を冒瀆しても赦されるけれど、「聖霊を冒瀆する者は、永遠に赦されない」とはどういう意味でしょう?とても、恐ろしくなります。旧約聖書に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出20:7)とあります。ところが、洋画を見ていると、神さまやイエス様の名前が、呼び捨てされていますが、全くこの十戒に反しています。かつての私も同じようなことをしていましたが、知らないでしたことなので赦していただけたと思っています。

 「神を軽んじない」の反対は、神さまをこころから敬うということです。私たちはこのように神さまを礼拝していますが、神さまを敬うことの現れだと思います。ヨハネ4章に「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と書かれています。このみことばは、私たちの霊と真理なのか、それとも神の霊と神の真理なのか分からないところがあります。文脈から判断すると、神はご自分を礼拝する者たちを求めておられますので、このところは私たちの霊と私たちの真理と解釈すべきです。でも、私たちの霊と私たちの真理はどこまで、純粋で、真実なのか分かりません。もしかしたら、この世の罪に濁っていたり、汚れているかもしれません。ヘブル人への手紙10章には「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます」と書かれています。つまり、イエス様の贖いによって、私たちはきよめられ、神さまに受け入れられるということでしょう。それは、イエス様の血によって、私たちの霊と私たちの真理がきよめられ、神さまを礼拝することができるということです。ハレルヤ!私たちは天国に行くまで、罪の残りかす、肉があります。そのため、神さまの前に、不遜なこところが残っています。でも、そういうことを含め、神さまは私たちのことを愛し、受け入れてくださる真実な神さまです。パウロは「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13)と言いました。この「真実」は英語で、faithful忠実とも訳せることばです。言い換えると、私たちは忠実でなくても、キリストは常に忠実なので、私たちをいつでも救ってくださるということです。主の真理、主の忠実さに感謝します。

 ローマ人への手紙を見ると、「罪を犯した人には、神の怒りがのぞむ」と書かれています。すべての人が罪を犯したので、だれ一人、神のさばきを免れることはできません。しかし唯一、神のさばきを免れる道があります。それはイエス・キリストの十字架です。だれでも十字架のもとに来れば、罪赦され、神の赦しを豊かに受けることができるのです。私たちは高いビルを見ると、先の尖った避雷針を必ず見ることができます。避雷針があるなら、建物は落雷から免れることができます。同じように、イエス・キリストは私たちのすべての罪を負われ、神から裁かれました。言い換えると、人類に対する神の怒りがイエス様のもとに下ったのです。それ以来、神さまの罪人に対する態度が変わりました。「十字架の贖いを受けている人の上に、さばきは下さない」とお決めになったのです。私たちは「犯した罪の代わりに、良い行いをもって償え」と言われていません。ただ、キリストを信じる信仰によって、私たちは罪赦され、愛なる神さまのもとに来ることができるのです。救いを受けている人は、神さまを怖いとは思いません。なぜなら、神の子としての特権が与えられているので「アバ、父よ」と恵みの座に進むことができるのです。でも、私たちはこれからも罪を犯す可能性があるので、正しい意味で、神を恐れるのです。