2022.12.11「失われた人のたとえ ルカ15:1-7」

たとえ話を解釈するためには、このたとえがだれに向けて語られているのか、その背景を知ることがとても重要です。ルカ15:1「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。」対象はパリサイ人、律法学者たちです。同時に、イエスの話を聞こうとしてやってきた取税人、罪人たちでもあります。このたとえの目的は、律法学者とパリサイ人のつぶやきに対するイエス・キリストの答えとして語られたものです。

1.迷った一匹の羊のたとえ

ルカ15:4「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。」聖書では人間は羊にたとえられています。イザヤ53:6「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」と書いてあります。羊は迷いやすい動物ですが、意外に頑固なところもあります。そして、羊飼いとは主のことです。詩篇23:1,2「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。」新約聖書にも似た箇所があります。ヨハネ10:10「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」この「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」と言われるお方は、イエス・キリストご自身のことです。ルカ15章には3つのたとえ話がもりこまれていますが、興味深いことに三位一体の神さまがそれぞれ主役として出てきます。この迷った一匹の羊のたとえには、羊飼いイエス様が主役として登場しています。そして、この物語の羊は、弱い人間を象徴しています。この羊は迷ったまま帰り道が分からず、自分の力で戻ることができません。そのため、羊飼いがいなくなった羊を捜しに出て行くしかありません。このたとえの対象である取税人や罪人の中に、そういう人たちがいるということでしょう。

では、パリサイ人、律法学者はこの物語の中にいるでしょうか?このたとえからは分かりませんが、マタイ18章に似たようなたとえ話があります。マタイ18:13,14「その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。」野原に残された99匹の羊はパリサイ人、律法学者ではないでしょうか?なぜなら、彼らは迷っていないからです。あとでイエス様は一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」とおっしゃっています。半分皮肉ともとれますが、パリサイ人、律法学者を悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とおっしゃっています。そして、迷った一匹、つまり小さい者たちとは、取税人、罪人たちです。もし、迷わなかった九十九匹の羊に人格があるならば、「俺たちを野において、一匹の迷った羊を捜しに行くのか?もし、俺たちが狼に襲われたらどう責任を取るのか?」という不満が出るかもしれません。パリサイ人、律法学者は、取税人や罪人たちを受け入れるイエス様に、ねたみと憎しみを持っていたのではないでしょうか。また、彼らは取税人や罪人たちが救いを求めてイエス様のところに来るのを面白くありませんでした。「そんなに救いを安売りするな」と心の中でさばいていたにちがいありあません。

中心的なメッセージとは何でしょうか?イエス様はたとえの締めくくりとして、このように言われました。ルカ15:5-7「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」「あなたがたに言います」という、あなたがたは、まさしくパリサイ人、律法学者のことであり、イエス様は彼らに語っておられるのです。つまり、このたとえの中心的なメッセージは、15:7「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」のみことばです。いなくなった羊が見つかったら、友だちや近所の人たちを呼び集め、「一緒に喜んでください」と言うでしょう。それと同じように「一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にあるのに、どうして一緒に喜べないのか」と教えておられるのです。弱くて迷っていた人が救われたという、神さまの喜びが中心メッセージなのです。

最後は個人的な適用です。いなくなった羊は、弱さのために滅びに向かっている人間を象徴しています。「私も以前は、迷っていたのに、イエス様によって見出されたんだ。ハレルヤ!感謝します。」こういう適用は悪くはないと思いますが、二次的です。中心的なメッセージは、悔い改めたひとりの罪人についての天における喜でした。それが羊を見出す羊飼いの喜びに表されていました。なのに、パリサイ人、律法学者たちは喜ぶことができませんでした。ということは、私たちがクリスチャンも長い間、信仰生活を送っていると彼らのようになる恐れがあるということです。何十年か前、自分が救われたときは、この世の罪と肉をそのまま着ている人物でした。しかし、それからみことばを学び、イエス様に従い、だんだんときよめられていきました。そうすると、昨日、今日、教会に来た人が洗礼を受けても、喜べない場合があるかもしれません。「悔い改め方が足りない」「ぎゃあぎゃあ、さわいでいる。目立ち過ぎ!」「本当にイエス様を信じているのか分からない」。そうではありません。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」だから、私も彼らが救われたことを一緒に喜びます。たとえ、この世の罪と肉をそのまま着ているように見えても、「やがては本当の聖徒たちになるんだ。だから暖かく迎えてやろう」と思えば良いのです。

2.なくした銀貨のたとえ

ルカ15:8「また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。」前の聖書には、「銀貨」とだけしか書かれていませんでした。ギリシャ語の聖書は、ドラクマスとなっています。これはギリシャの銀貨で、ローマのデナリ銀貨と価値は同じで、一日分の給与にあたります。しかし、ある聖書学者は「その銀貨は10枚で1セットの記念品のようなものではないか」と言っています。今日では、オリンピック記念銀貨というのがありますが、定かではありません。『なんでも鑑定団』で、コイン収集家が、珍しいコインを持って来るのを見たことがあります。ある時、5円玉のエラー・コインが出ていました。穴が中心からずれていただけではなく、丸のかたちもいびつで、厚さも一様ではありませんでした。何と、50万円の評価額が出ていました。持ち主は50年程前、偶然に手に入れたものですが、それまでずっと保管していたようです。もし、その銀貨が10枚で1セットの記念品であるなら、その1枚をなくしたら大変なことになります。そちらの方がロマンがあって面白い気がします。その根拠として、この女性の捜し方は尋常ではありません。また、喜び方も大袈裟です。「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。」とあるからです。

さきほどの、「迷った一匹の羊のたとえ」と比較したいと思います。なくした一枚の銀貨は、取税人、罪人たちのことでしょう。手許にあった9枚はパリサイ人、律法学者と考えることができます。何故なら、彼らは自分たちはアブラハムの子孫であり、自分たちは選ばれていると自負していたからです。彼女は「1枚ぐらいどうってことないだろう」とは思いませんでした。「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか」と書かれています。「迷った一匹の羊」は、弱さのゆえに迷った人間を象徴していました。この1枚の銀貨には人格がありませんので、無知のゆえに失われている人間を象徴しているように思えます。つまり、自分に価値があるかどうかも分からない、神さまのことも分からない人のことです。そして、女の人は、三位一体の神の聖霊と言うことができるでしょう。聖霊は人に啓示を与えてくれます。つまり、「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか」というお方は、無知のゆえに失われた人間をさがす聖霊のお姿です。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」とあります。「かたち」は英語の聖書ではimageです。Imageは残像、面影、肖像という意味があります。簡単に言うと、人間には神さまと似たところ、面影があるということです。不完全でありながらも、神さまの属性が人間にもあるということです。愛、善、聖さを求める心があります。物を作ったり、発明することができます。知性や理性があるでしょう。宗教心があるのは、神さまを求めているからです。動物は人間とかなり似ていますが、宗教心はありません。

宗教改革者たちは、人間は完全に堕落しており、自らの理性では神を発見できないと言いました。ところが、啓蒙主義思想を受けた神学者たちは、人間の理性で神に到達し、救いを得ることが出来ると言いました。しかし、それは無理です。聖書のみことばと聖霊によらなければ、どの神さまがまことの神であるか分かりません。たとえ、まことの神がだれであるかを知ったとしても、救われることはできません。私たちは自分で信じたつもりかもしれませんが、そうではありません。回心は聖霊のなさるわざだからです。ヨハネ16:8「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」Ⅰコリント12:3「また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とあります。そういう訳で、「明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜す」お方は、三位一体の神である、聖霊のことです。

中心的なメッセージは、迷った一匹の羊のたとえと同じです。ルカ15:9,10「見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」それと同じように「一人の罪人が悔い改めるなら、大きな喜びが天にあるのに、どうして一緒に喜べないのか」と教えておられるのです。「迷った一匹の羊のたとえ」と同じように、「なくした銀貨のたとえ」においても、悔い改めの思想は持ち出されていません。なぜなら、なくなったものは生命のない物質です。それゆえ、それは、罪人の責任を取り扱うものではありません。無知で失われていた人が救われたという、神さまの喜びが中心メッセージなのです。

最後は個人的な適用です。失われた銀貨は、無知のゆえに滅びに向かっている人間を象徴しています。イザヤ43:3、4「わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している…」多くのキリスト教会は、「このみことばはクリスチャンになった人に言われているのだ」と解釈します。つまり、救われていない人は無価値な存在だというのです。聖歌522「地のちりにひとしかり、何一つとりえなし」、聖歌613「虫にも等しき、もののために主はかくも、むごき目にあいしか」など、謙遜を歌っている賛美があります。しかし、それは間違っています。だれが、価値のないもののために、十字架で血を流して贖うでしょうか?贖うというのは、買い戻すという意味です。もとは価値があったのに、それが失われているということです。2017訳はイザヤ書43:4「私の目には高価で尊い」が戻りました。英語の詳訳聖書は、Because you are precious in My sight and honored, and because I love you.「私の目で高価で栄誉がある。なぜなら、私はあなたを愛しているから」です。つまり、銀貨は失われてはいましたが、1ドラクマとしての価値があったのです。聖霊様が啓示の光をあてて、その人が主を信じるように導いてくださったのです。愛なる神さまがキリストを十字架に与えて、私たちの存在価値を贖ってくださったのです。

3.失われた息子のたとえ

失われている人と救われている人を数から比較すると、「迷った一匹の羊のたとえ」は、1対99でした。「なくした銀貨のたとえ」は、1対9でした。最後の「失われた息子のたとえ」は1対1です。ルカ15:11-16「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」ここに出てくるお父さんは、羊飼いのように、息子を捜しに行っていません。お家で息子の帰りを待っているだけです。なぜでしょう?それは弟息子は、自分の意思で、自分のもとを離れて行ったからです。もし、父親が息子を追いかけて、町の歓楽街を探し求めて歩くなら、共依存の父親になってしまいます。この息子の父は、父なる神を表わしています。失われた羊は、弱さのゆえに滅びにむかっている人のことでした。なくした銀貨は、無知のゆえに滅びに向かっているに人のことでした。では、家を出て行った息子はどうでしょう?彼は父なる神がだれかを知っていました。また、財産をもらったのですから、自分が誰であるかも知っていたでしょう。失われた息子は、自らの意思で神を離れて滅びに向かっている人のことです。言い換えると神さまのことを知りながらも、反逆している人のことです。ですから、神さまは、その人が悔い改めて、自分の意思で戻ってくるのを待つしかありません。

まず、中心的でないメッセージから学びたいと思います。キリスト教会では「放蕩息子のたとえ」と呼ばれ、弟息子が主人公のようになっています。しかし、そうではありません。帰ってきた弟息子を無条件に迎え入れた父こそが主人公なのです。でも、弟息子が父のもとに帰ろうとした前後のことは、救いを得ようとする人間の姿を現しています。彼はどん底で悔い改めました。悔い改めとは罪を後悔するだけではなく、父なる神さまのところに向きを変えて進むことです。ルカ15:17-20「しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。」弟息子は、父に対してこうい言おうと一度練習してから、立ち上がって、自分の父のもとへ向かいました。大事なことは、彼は父のもとを離れてはいましたが、息子だったのです。ただ、失われていただけなのです。神から離れた人々は、自分の人生を浪費しています。たとえ、すべてを失い、どん底の人生でも、神に立ち返ろうと思いを変えることができたら幸いです。

では、中心的なメッセージとは何でしょうか?ルカ15:20-24「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。」悔い改めた息子を受け入れた父こそが、中心的なメッセージであります。父は毎日、息子の帰りを待っていたのでしょう。父親は遠くにいる息子を見つけて、自ら駆け寄って首を抱き、口づけをしました。彼はそれまで豚の世話をしていたのですから、匂いがプンプンしていたのではないでしょうか?日本語の詳訳聖書聖書は「激しく接吻した」と書かれています。弟息子は練習した時にように「雇い人の一人にしてください」と言おうとしたのですが、止められました。普通だったら、1年位、雇人のように働かせて、本当に悔い改めているかテストするところでしょう?でも、そうではありませんでした。一番良い衣は、義の衣を、指輪は息子としての身分回復、履物はもう奴隷ではないということを象徴しています。そして、盛大な祝宴が始まりました。これは、父なる神の私たちに対する、無条件の愛を教えています。ここには、キリストの血による罪の贖いもなく、新生に関する記述もありません。財産をすべて失ったのに、その償いを求めていません。「甘すぎるんじゃないか」と文句が出そうです。しかし、父親は「この息子は、死んでいた」とはっきり述べています。

では、個人的な適用とは何でしょう?もちろん、「自分が放蕩息子であって、父なる神さまは私を受け入れて下さった。ハレルヤ!感謝します。」で構いません。何故なら、私たちも程度の差はあれ、放蕩息子のような生活をしてきたからです。でも、このたとえは、パリサイ人、律法学者たちに向けて語られたものでもあります。このたとえでは、お父さんは弟息子の帰還を喜び、祝宴を催しました。ところが兄息子はちっとも喜んでいません。不満たらたらです。ルカ15:29「しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。』この兄の姿は、パリサイ人、律法学者たちのことです。彼らは取税人や罪人たちのような罪は犯していなかったかもしれません。でも、自分の従順を指摘することによって父を悲しませ、家に入って喜びをともにしてほしいという父の熱心な嘆願に抵抗しました。私たちは、父なる神さまの失われた者に対する思いやりを知り、悔い改めた者に対する赦しと回復を一緒に喜ぶべきなのです。もう一度言います。失われた息子のたとえの中心メッセージは悔い改めて来た者たちに対する、無条件の愛です。父なる神の無条件の愛こそが、私たちが神さまに対する健全なイメージです。迷った者を探し求める牧者なるイエス様、無知な者に啓示を与える聖霊様、無条件の愛をもって迎えてくださる父なる神さまに感謝します。