ルカ11章には、私たちが知るべき霊的な真理が詳しく記されています。西洋周りのキリスト教会はこのような事実を受け入れませんが、聖書にはサタンとその悪霊の存在がはっきりと記されています。もし、これらのことに無知であるならば、私たちはサタンのもとで苦しみ続けるしかありません。イエス・キリストは私たちを罪から贖っただけではなく、サタンの支配から解放してくださったことを知ることはとても重要です。
1.サタンの国と神の国
問題の発端は、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したことです。その人が悪霊から解放されて、ものを言い始めました。そのことを見た群衆(マタイ福音書ではパリサイ人たち)がそのことに対して、このようなことを言いました。ルカ11:15「しかし、彼らのうちのある者たちは、『悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』と言った。」ベルゼブルは、もとは「バアル・ゼブール」と言われ、ペリシテ人の町エクロンの偶像神の名称でした。その意味は、「宮殿の主」、あるいは、「住居の主」、「家長」などでした。ユダヤ教のラビたちはそれを揶揄して、ベルゼブル(蠅の主)に変えました。このところでは、悪霊のかしら、サタンを指す名称として用いられています。イエス様がおっしゃったことばから、サタンには国があるという驚くべきことが分かります。ルカ11:17-18「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。あなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言いますが、サタンが仲間割れしたのなら、どうしてサタンの国は立ち行くことができるでしょう。』」彼らの論法は、イエス・キリストが悪霊のかしらであって、その手下どもの悪霊を追い出しているのだということです。しかし、イエス様は「いくらサタンの国であっても、かしらと手下どもで争いを起こしたならその国が倒れてしまうだろう」とおっしゃいました。このところではっきり分かることは、サタンには国があるということです。
私たちは国というとcuntryのことを思い浮かべるかもしれません。Cuntryとは、国土とか領土という意味です。しかし、新約聖書は「サタンの国」のことをギリシャ語で「バシレイアー」と書いてあります。バシレイアーというのは、王権、支配、王国という意味です。つまり、サタンの国というのは、サタンがかしらとして治める、kingdom王国であるということです。おそらく、その支配形式は、ピラミッド型のhierarchy階級制度であろうと思います。民主的では絶対ありません。独裁政治です。ダニエル書10章には「ペルシャの君」と「ギリシャの君」という名称が出てきます。おそらく、その国を支配している悪霊のかしらではないかと思います。エペソ人への手紙には、天使の階級を現わすことばがいくつも書かれています。エペソ1:21「すべての支配、権威、権力、主権」、エペソ3:10「天上にある支配と権威」、エペソ6:12「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」。日本語で訳すと、とても抽象的に聞こえます。でも、ギリシャ語ではアルケース、エクスーシアス、ドュナメオウ、クリオテートス、コスモクラトス…みたいになります。おそらく、階級を現わす名称ではないかと思います。私たちは聖書から、天使長にはミカエルとかガブリエルがいると知っています。サタンあるいは悪魔は、はっきりとした名称は分かりませんが、イザヤ書14章からLucifer(明けの明星)と呼ばれています。あまり、こういうことを強調すると、オカルト的で危ないと思われるかもしれません。今から20年くらい前にピーター・ワグナーが「霊的な地図」ということを述べて、福音派の教会が2つに分かれたことがあります。シンディ・ジェーコブ師たちは、紛争などで大量殺戮が行われたところや、魔術が行われている都市にでかけて、とりなしの祈りをしました。何でも悪霊のせいにするのは問題ですが、国家的な宗教の背後には悪魔が支配して、人々を縛っているように思えます。ヒンズー教によるカースト制度、テロを行うイスラム教の過激派、フリーメーソンなどの組織の背後には、悪魔と悪霊が働いていると思います。
イエス様は実際はこのようなことが起きているのだと彼らにおっしゃいました。ルカ11:20「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」神の指とは何でしょう?おそらくそれは、聖霊ではないかと思います。マルコ福音書では、イエス様がこのように語っています。マルコ3:28-30「『まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。』このように言われたのは、彼らが、『イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。』」イエス様は聖霊の力によって、悪霊を追い出しました。ところが、反対者たちは「ベルゼブルによって追い出したのだ」と言いました。最後に、イエス様はそれは、聖霊を冒瀆する、赦されることのない罪であると言いました。文脈から判断すると、神の指とは、聖霊のことではないかと思います。はっきり分かることは、イエス様はサタンの国に挑戦したということです。言い換えると、「その人から口をきけなくする霊を追い出した」ということは、サタンの国が侵略されたということです。つまり、サタンの持ち物であった人物が、解放されたからです。そして、そのことはイエス・キリストと一緒に神の国が来ている証拠であるということです。さきほど、国とはバシレイアであり、王権、支配、王国という意味であると申し上げました。「神の国」とは、「神の支配、神の王国」です。つまり、サタンの国に、神の国が侵略して来たということです。その証拠として、イエス様によって、口をきけなくする霊が追い出されたことです。これはサタンの国にとっては、ただならぬことであり、緊急事態が起ったということです。戦闘機がある国の領空を侵犯したなら、スクランブル機が発進するのと同じです。私たちが聖書を読んでいると、「ああ、イエス様は人々の病を癒し、悪霊を追い出しているのだ。すばらしい」と思うかもしれません。しかし、そうではなくイエス様は聖霊の力によって、サタンの国を侵略して、その領域を神の国に置き換えているということです。サタンから見たら侵略者イエスです。
2.もっと強い人
次に、イエス様は、国ではなく、家の中をたとえとして教えておられます。新改訳2017は、「屋敷」になっています。ルカ11:21-22「強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」このみことばを解釈するとこのようになります。「強い者」とはサタンのことです。サタンが十分に武装して、自分の屋敷を守っています。財産とは何でしょう?財産とは人間のことです。「もっと強い人」とは、イエス・キリストのことです。イエス様が強い者であるサタンに打ち勝ち、彼の武具を奪い、分捕り品を分けるということです。しかし、どうしてそのように解釈できるのでしょう?おそらく、イエス様はイザヤ49章のみことばから語ったのではないかと思います。イザヤ49:24-25「奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれ人を横暴な者から救い出せるだろうか。まことに、主はこう言われる。『捕らわれ人は勇士から取り戻され、奪われた物も横暴な者から奪い返される。あなたが争う者と、このわたしが争い、あなたの子らを、このわたしが救う。』」イザヤ49章には、物だけではなく、捕らわれ人も取り戻すと書かれています。旧約聖書を読むと、戦いの記事がたくさん出てきます。アブラハムやダビデは、奪われた物と捕えられた人たちを奪還しに行きました。奪われた物の中には奴隷や家畜も含まれていました。おそらく、イエス様のたとえは文脈から理解すると、捕えられていたのは口のきけない人物でした。彼の言語の能力が乗っ取られていたのです。しかし、イエス様によって悪霊が追い出され、言葉を発することができるようになったのです。
でも、このたとえをもっと拡大して解釈すると、サタンの持ち物というのは私たち人類のことです。アダムが罪を犯して神から離れたとき、サタンがこの世界と私たちを横領したと考えられます。イエス様が悪魔から誘惑を受けた記事がルカ4章に記されています。悪魔はイエス様に「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから」と言いました。イエス様はそのことに言及しないで「あなたの神である主を礼拝しなさい」と言っただけです。また、イザヤ61章にはメシヤ預言が記されています。メシヤは、「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げる」と書かれています。しかし、人間がサタンの所有物だと言うなら、人々から笑われるかもしれません。でも、そうでしょうか?Ⅰヨハネ5:19「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」私たちというのはキリストを信じて、神に属している人たちのことです。しかし、世全体、つまり救われていない人は、悪い者の支配下にあるということではないでしょうか?パウロは私たちが救われることをこのように述べています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」このみことばからも、生まれつきの人たちはサタンの支配下にあり、信じた人は神さまの御国を相続できるということが分かります。
さらに、このイエス様のたとえを見ると、もっと強い者であるイエス様がサタンを襲って、サタンの武具を奪うと書かれています。つまり、何らかのかたちで、サタンの武装が解除され、その中の虜たちが解放されるということです。一体、イエス様はそのことのために何をなさられたのでしょうか?創世記3章には最も古い福音が記されています。アダムが堕落した直後、主はサタンに「(女の子孫である」彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記3:15)と言われました。女の子孫であるイエス・キリストは、十字架につけられて死にました。しかし、三日目によみがえられました。サタンは知らなかったかもしれないが、キリストが十字架で死ぬことは、サタンの武具を奪い取ることになるのです。サタンの武具とは、人間の罪を神の前に訴えることです。義なる神は罪ある人間をさばかなければなりません。しかし、キリストは十字架で死なれたことにより、すべての罪を贖われたのです。さらには、復活によってキリストを信じる者が義と認められるという保証を示してくださいました。死は罪の結果、生じたものでした。しかし、キリストはその死を打ち破り、よみがえられました。つまりは、サタンが持っている罪の訴えと、死の力を滅ぼしてくださったのです。それはとりもなおさず、サタンの武装を解除することになったのです。確かに、サタンの国はピラミッド型のhierarchy階級制度の王国でありました。しかし、サタンのかしらが砕かれたことにより、王国に大変動が起りました。彼らの支配体制はばらばらになり、彼らは勝手に戦っているのです。
私たちは「福音」ということばを良く聞きますが、good news「良い知らせ」ぐらいの程度であります。しかし、ギリシャ、ローマ時代の「福音」は、そういう意味ではありません。福音はギリシャ語でユアンゲリオンと言いますが、元々は戦争で勝利したという知らせのことを意味していました。紀元前490年、マラソンの戦いがありました。ギリシャ軍が捨て身の作戦で、ペルシャ軍に勝利しました。その中に、エウクレスという兵士がいました。彼は喜び勇んで狂喜乱舞し、マラトンからアテナイまで重装備のまま駆け抜け、「勝った!」と叫んで絶命したといいます。
ちなみに、マラトンからアテナイ間は現代の道路でも46kmほどあります。これが陸上競技の「マラソン」原型となったと言われています。なぜ、この知らせが重要なのでしょう?もし、兵士たちが負けたなら、町全体が略奪され住民も殺されます。だから、敵軍が到着する前に逃げなければなりません。しかし、勝利したなら逃げる必要がありません。兵士たちの凱旋祝いの準備をするでしょう。いわば、イエス・キリストは悪魔に打ち勝った凱旋将軍なのです。使徒パウロはⅡコリント2章でこのように言っています。「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」(Ⅱコリント2:14,15)もし、あなたがキリストに属しているなら、個人的にどんなことがあったとしても、勝利の凱旋の行列に加えられているのです。
3.家の管理
ルカ11:24-26「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」家というのは私たちのことです。さきほど、サタンよりももっと強い人が、サタンに打ち勝って、悪霊を追い出してくれたはずです。あなたは神さまのものになったはずです。しかし、一旦、出て行ったはずの悪霊が仲間を連れて戻ってきました。そして、その人の状態は、前よりも悪くなったと言う話です。まず、これはだれのことを話しているのでしょうか?他の福音書を見ますと、イエス様を非難したのは、パリサイ人や律法学者であったことが分かります。彼らは聖書をよく勉強し、宗教的な生活をしていました。しかし、実質はどうだったのでしょう?マタイ23章を見ると、イエス様は「わざわいだ、偽善者の律法学者、パリサイ人。外側は美しく見えても、内側は強欲と放縦で満ちている」と言いました。彼らはイエス様をメシヤとして認めず、信じようともしませんでした。妬みからイエス様に反抗し、最後には十字架につけてしまうのです。宗教的に堕落した人は、普通の人よりも、もっと悪いと言われます。なぜでしょう?未信者は罰があたるのではないかと神さまを恐れます。しかし、一旦、信じても堕落した人は、神さまを恐れず、「毒を飲んだら皿までも」のごとく、歯止めのきかないところがあります。それが当時の律法学者、パリサイ人たちでした。
しかし、この物語は私たち個人の中にも適用することができます。家と言うのは、私たちの心と体です。そして、心と体の中から悪霊を追い出してもらいました。罪も悔い改めたので、心と体が掃除され、きちんと片付いている状態です。でも、それではだめなのです。なぜなら、家の中が空っぽだからです。だから、イエス様を信じていない人から、悪霊を追い出しても、出て行った悪霊が仲間を連れて戻ってくるので、前よりももっと悪くなります。ですから、まず、イエス様を信じてから悪霊を追い出すというのが一般的なセオリーです。この世は真空を嫌います。「私は何も信じません。中立です」と言うのも良くありません。イエス様を心の中にお迎えしなければなりません。しかし、ここに問題があります。ある人たちは、イエス様を救い主として信じてはいますが、主として王様として心の中にお迎えしていないということがあります。黙示録3章にあるように、心の外に立ってドアを叩いているイエス様を内側にお入れしました。でも、客人であり、ゲストとしてであるなら問題です。心の王座には、あなた自身がおり、イエス様は部屋のどこかにいるかもしれないからです。それだと、悪霊が戻ってきたとき、うまく対処できません。ある人が、イエス様を二階にいることは許可しました。しかし、一階は私のものだと主張しました。悪霊がやってきました。彼は抵抗できず、悪霊の侵入を許してしまいました。「イエス様、どうして私を守ってくれなかったのですか?」と文句を言いました。イエス様は「あなたは一階は自分のものだと言って、私に許可しなかったからです」と答えました。
私たちは家の管理、つまり心と体の管理を一体だれにお任せするでしょうか?イエス様は救い主であり、同時にあなたの主、あなたの王様なのです。そして、あなたの家のすべての部屋を主イエスに明け渡さなけばなりません。家には台所、客間、ベッドルーム、バスルーム、物置、個人の部屋などがあるでしょう。個人の部屋であなたはこっそり、変なインターネットを見ているかもしれません。物置に何かこっそりしまっているかもしれません。これはどういう意味でしょう?イエス様に「趣味は私のものです」と言っているようなものです。あるいは、「イエス様、私は絶対あの人を赦すことはできません」「イエス様、私はこの主義主張を変えるつもりはありません」と言っているようなものです。讃美歌に、I surrender all「主よささぐ」という賛美があります。I surrender partial(部分的)ではなく、I surrender all(すべて)です。サタンはあなたのささげきっていないものをよく知っています。そのところに、悪霊を遣わしてあなたを攻撃するように仕向けます。そこはあなたがイエス様に明け渡していない部分であり、悪霊が働く足場になってしまいます。ですから、私たちは聖霊によって示されたなら、「はい、これをささげます」と言わなければなりません。すると、「神さま、あなたは私から全部取ってしまうのですか?それだったら、私は生きる喜びも楽しみもありません」と嘆くでしょう。でも、不思議なことに、一度、ささげると、神さまは必要なものであれば戻してくれます。その時、ひとことこう言われます。「これは私のものです。あなたに一時的に預けます。でも、私が『戻しなさい』と言ったら、戻すのですよ」。考えて見たら、私たちのいのちも、神さまのものであり、一時的に預かっているのです。このように考えると、ヨブのように「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)潔い人生を送ることがきっとできるでしょう。
私たちは家の中を正しく管理する必要があります。私たちはどうするでしょう?家を掃除したり、いらないものは捨てたり、壊れたところは修繕します。心の中も同じで、いらないものを入れてしまっていたなら排除すべきです。生ゴミは悪霊を招いてしまうので、罪や汚れたものはちゃんと捨てましょう。日々、聖書を読んで祈ることも重要ですが、週に一度は公同の礼拝に出席することも重要だと思います。なぜなら、聖霊の臨在によって気づきが与えられるからです。自分一人だと、どうしても甘えてしまいます。私たちは自分に甘いのです。賛美やメッセージ、兄弟姉妹との交わりの中で、気づきが与えられます。私たちは自分の顔を見るとき、鏡が必要です。鏡というのは、自分以外の自分に対する客観的な見方です。ちょっとショックを受けることもありますが、修正や矯正のためには良いことなのです。スポーツ選手はみな、自分のコーチを持っています。信仰の世界でもコーチやメンターがいたら幸いです。でも、一番は、主イエス・キリストです。このお方は私たちのマスターです。どうぞ、いつでも、私たちの心の王座に、主イエス・キリストをお招きしましょう。あなたはマルタの妹、マリヤのように、主の足元に座り、おことばに耳を傾けるのです。そうすれば、あなたは御国の祝福に満たされることができます。