2022.11.20「大宣教命令 マルコ16:15-20

マタイ28章と並んで、マルコ16章の大宣教命令は福音書のクライマックスです。イエス様が天にお帰りになられる直前に弟子たちに与えた命令ですから、よっぽど重要だったに違いありません。でも、もう1つ重要なのは、その命令は弟子たちだけではなく、私たちクリスチャン全員に与えられているものです。「教会に与えられている」と言うなら、牧師か伝道者に対してであろうと勘違いするかもしれません。そうではなく、この命令はイエス様を信じているすべてのクリスチャンに与えらえた究極の命令ということができます。

1.福音を宣べ伝える

 マルコ16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」福音を宣べ伝えることは、私たちの責任であり、救うのは神さまがなさることです。神さまは何でもできますが、福音を伝えることだけはしません。天使も福音を伝えません。キリストに贖われた者だけが、福音を伝えるように召されているのです。当然、福音を伝えないと、救われるべき人も救われないということです。「福音を伝える」ということにプレッシャーを感じている人はおられるでしょうか?私は非常にプレッシャーを感じます。このような礼拝は、ほとんどの人は心が開かれており、牧師が語るメッセージを受け入れてくれるでしょう。ところが、一歩、この建物を出て語るとなるとどうなるでしょう?私がイエス様を信じて救われた直後は、家族や友人に福音を伝えまくりました。直接言えない場合は、礼拝のカセットテープを送りつけました。でも、どうでしょう。友人たちは「私がキリスト教にかぶれてしまった」と馬鹿にしました。その後、神学校に行って聖書を学びました。今度は、恐れが出てきました。「伝えるためにはもっと聖書を勉強しなければならない。また、伝える側にも問題がある。私のように粗野で言葉使いも悪いなら人をつまずかせてしまう。だから、もっときよめられる必要がある」と思いました。さらに直接献身をすると、伝道が使命になりました。「伝道」という二文字がガーンと響いて、とても緊張しました。まず、礼拝に来られている求道者にアタックしました。それから、特別伝道集会のチラシを何千枚も家々に配りました。駅前でも配布したことがあります。でも、拒絶されるととてもショックを受けます。やがて伝道がだんだん苦しくなりました。ですから、きょうのマルコ16章の「大宣教命令」はパスしたい箇所です。でも、牧師が「私は伝道が嫌いです。苦手です」と言ったら、一体、だれが伝道するでしょうか?

 誤解を与えないようにしたいと思いますが、伝道は嫌いですが、福音を宣べ伝えることは嫌いではありません。神学校で学んだ伝道は、新興宗教の「折伏」に近いものでした。調べてみたら、折伏とは「人を議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。執拗に説得して、相手を自分の意見や方針に従わせること」という意味でした。もちろん、そこまではしませんが、なんとか信じてもらいたいという気負いがあります。動機が愛なのですが、信じないと滅びてしまうので「どうか信じてもらいたい」という悲壮感がありました。キリスト教会では「伝道と福音を宣べ伝えることは同じである」と言うでしょう。おそらく、意味は同じだと思います。でも、昭和の初期の伝道は三浦綾子さんの『塩狩峠』のようなイメージがあります。伝道師が道路の辻に立って、説教しています。道行く人が「やめろ、耶蘇教!」と馬鹿にして、雪の球を投げました。私も路傍伝道をしたことがありますが、効果はありませんでした。度胸は着くかもしれませんが、一方的に話すので、効果は全くありません。最近は、関係作りが大切だと言って、仲よくなってからじっくり福音を伝えるというように変わりました。でも、いざ福音を伝えるとなると、プレッシャーを感じて、結局、伝えないままで終わるということがあります。『4つの法則』とかいろんなツールを使う伝道もあります。でも、とても機械的な感じがします。イエス様について語る。救いのみことばの引用する。自分の救いの証しする。でも、何かが自分の中で邪魔をしているように思えます。おそらく、その人を信じさせなければならないという気負いがあるからでしょう。最初、申し上げましたが、福音を宣べ伝えることは、私たちの責任ですが、救うのは神さまがなさることです。「このままじゃ、地獄に行くので、なんとか信じさせなければならない」と気負いがあるかもしれません。でも、当人はいたって呑気で、そんなことを心配していません。心配して、焦っているのはこっちだけです。福音宣教のために大切なものを3つあげることができます。

 第一はその人のため祈ることです。マタイ5章に「心の貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。義に飢え渇く者は幸いです」とあります。つまり、相手が飢え渇いていないと、いくら福音を提示しても、跳ね返されてしまいます。それはエネルギーの無駄使いです。では、どうしたら良いのでしょう?まず、その人に飢え渇きが与えられるように祈ることです。祈れば聖霊がその人にプレッシャーをかけて下さいます。ヨハネ16:8「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」聖霊様がその人の側に立って、救いが必要であること悟らせてくださいます。ですから、福音宣教は祈りから始めるということです。その人のために祈っていると、チャンスが必ず訪れます。

 第二は「行く」ことです。マルコ16章は「全世界に出て行き」とあり、マタイ28章も「あなたがたは行って」と書かれています。英語ではこれをreach outと言います。日本語では「伝道」と訳すのですが、直訳は「手を伸べる、働きかける」ということです。ローマ10章には、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書かれています。福音宣教は「口」だと思われがちですが、「足」だったのです。その人のところに通うということです。最初は、しつこいと言われるかもしれません。でも、損得でやっているのではないことをきっと分ってもらえるでしょう。かつても、私たちもだれかがしつこく誘ってくれたので救われたのではないでしょうか?

第三は「口を開く」ということです。いきなり聖書のことばを説教しなくても良いです。「自分はこう思ったよ」ぐらいで良いのです。私たちは美味しい食べ物、面白い小説、良いサプリメントを発見したらだれかに伝えたくなるでしょう。「福音」はgood newsですから、気負う必要はまったくありません。私が大好きな友人イエス様のことをどうして紹介できないのでしょうか?福音宣教は「私の大好きなイエス様を自慢することです」と言い換えても良いでしょう。私たちは自分が尊敬する人をだれかに紹介したいと思います。それと同じで、自分を底なし沼から救い上げてくれたイエス様を伝えるのにどうして恥ずかしいことでしょうか?パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」(ローマ1:16)と言いました。

私たちは義務で、仕方なく福音を宣べ伝えるのではありません。確かに、福音を宣べ伝えるのはイエス様の命令であり、クリスチャンの責任かもしれません。でも、神さまは命令だけを与える方ではありません。それに伴う資源、力を保証してくださいます。マルコ16:19「主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」一度、イエス様は天にお帰りになられました。ところが、不思議なことに「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」と書いてあります。天にお帰りになったはずのイエス様が弟子たちと働いているとは一体どういうことでしょう?これは、聖霊によってイエス様が戻って来られたということです。つまり、キリストの御霊として私たちと一緒に働いてくださるということです。確かに福音を宣べ伝えるのは私たちの責任です。でも、みことばに伴うしるしをもって共に働いていてくださるのです。責任を英語でresponsibilityといいます。しかし、この語は2つのことばからできています。responseとabilityです。つまり、私たちが神さまのability能力に、response応答するということです。

 

2.信じてバプテスマを受ける

 マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」このみことばはとても誤解されやすいみことばです。どのように誤解されるかと言うと、ある人たちはバプテスマ(洗礼)によって救われると思っているからです。はっきり言って、バプテスマを受けなければ救われないとはどこにも書いていません。エペソ2:8「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とあります。もし、交通事故で瀕死の重傷の人が「イエス様を信じます」と告白しました。しかし、バプテスマを受けることができなかったので、天国に行けないということではありません。行いではなく、信仰によってのみ人は救われるからです。では、バプテスマ、洗礼は何のためにあるのでしょうか?バプテスマ(洗礼)は、イエス様を信じた人がすべきことなのです。第一に、バプテスマ(洗礼)は、「私はイエス様を信じました」と公に告白することです。それはヤコブ書にある「行いの伴った信仰」です。本当にイエス様を信じたなら、その人は公にイエス様を主と告白し、バプテスマ(洗礼)を受けるべきなのです。人々の前で、公に告白するということは、神の家族である教会の仲間入りをするということでもあります。「私もイエス様を信じましたので、どうかよろしくお願いします」ということなのです。

第二は、バプテスマ(洗礼)は、これから信仰生活を送るために必要なことです。バプテスマは罪が洗い流されるという意味ではありません。ユダヤ教では確かにそのような意味があったかもしれません。でも、水では犯した罪はきよめられません。キリストの血がすべての罪をきよめてくださるのです。バプテスマの本当の意味は、キリストと共に古い人に死んで、キリストとともによみがえるということを体験的に知るためにあるのです。バプテスマの動詞、バプティゾ―は「水に浸す」という意味です。しかし、パウロは死へ神秘的に結合する洗礼として捉えました。ローマ6:3-4「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」つまり、一度イエス様と死んで葬られ、今度はイエス様と共によみがえるということを体験的に知るためにあるのです。

 第三はバプテスマは伝道の終わりであり、救いの完成という意味です。「もう、求道生活は終わりました。あなたはもう救われましたよ」ということなのです。もちろん、救いは完成してはいません。これから救いを完成するする必要があります。神の子として生まれた以上は、成長する必要があるということです。その人は霊的に新しく生まれましたが、魂は古いところがたくさんあります。それがだんだんきよめられていく必要があります。つまり、バプテスマは入学式みたいなものです。卒業は死んで天国に入るときです。

 教会によってはバプテスマを受けることと、教会員になることを分けている所もあります。おそらく、そこには歴史的な考えがあるのでしょう。ヨーロッパの教会のほとんどは国教会でした。今でもイギリスやドイツに国教会というものがあります。そういう国は、宗教税というものがあり、聖職者は国家公務員と同じ扱いです。そういう国では、幼児洗礼が義務化され、その人が信じる信じないに関わらず、国教会の一員なのです。「そうではない、信仰を持った者たちが教会を形成すべきだ」と国教会から独立したのが自由教会です。国が支えてくれないので、献金も奉仕も教職者の任命も自分たちでやります。アメリカ合衆国のほとんどは自由教会であり、日本の教会もそうです。でも、自由教会を強く主張するところは、バプテスマを受けるだけではだめで、教会員となる条件を受け入れ、誓約を結ぶことを条件としてます。しかし、多くの教会は、バプテスマイコール教会員です。誓約がない変わりに、洗礼を受けたら来なくなる人がたくさんいます。3年以内に、半分は教会から去って行くというデーターすらあります。

 私は規則や制度で教会を維持したくありません。なぜなら、それは律法主義につながるからです。パウロはガラテヤの教会にこのように言いました。ガラテヤ3:3「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」ガラテヤの教会は、キリストを信じる信仰によって義と認められました。なぜなら、律法の行いによって義と認められる人は、ひとりもいないからです。当時の律法というのは、モーセの律法を守り、割礼などの儀式を受けるということです。それは言い換えるなら、洗礼を受けた人に、「これからは、こういうことをしなければ本物のクリスチャンにはなれません」ということです。教会員となるために、誓約を交わす必要があるという教会を批判するつもりはありません。おそらく、そういう教会の方が洗礼を受けても教会に留まる率が高いかもしれません。でも、喜んでそこに留まっているかが問題です。カルトとは言いませんが、「教会を離れたら救から漏れてしまう」ような教えだったら脅迫と同じです。当教会は「信仰、希望、愛」を掲げています。その根底にはキリストにある恵み、キリストにある自由です。矯正されて、脅されて、信仰生活を続けるのは間違っています。では、何が必要なのでしょうか?パウロは多くの手紙に頌栄を記しています。一番有名なのは、Ⅱコリント13:13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」です。規則や制度ではなく、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私たちの信仰生活を支えるのです。

 

3.信じる人々のしるし

 マルコ16:17,18「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」ここだけを読んで、クリスチャンはだれでも、奇跡的な働きができると言う人がいます。しかし、みことばは文脈から理解する必要がありますこれは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えるときに、このようなしるしが伴うということです。なぜなら、福音宣教は悪魔との戦いだからです。悪魔は神さまから離れた魂を握っています。人々はキリストが自分たちの罪を贖って下さったにも関わらず、サタンの奴隷市場に売られているのです。彼らに伝える福音とはどのようなものでしょうか?「あなたの罪はキリストによって既に贖われています。キリストを信じてそこから出て来なさい」と言えば良いのです。その人がキリストを信じたら、神さまがその人を救ってくださいます。コロサイ1:13 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」ということが実現するのです。でも、悪魔はその人を簡単には離しません。なぜなら、自分の所有物だからです。そのため、いろんな妨害をしてきます。その人の思いを攪乱して、福音が理解できないようにします。あるいは、感情的に不安と恐れを与えます。さらには意思を妨害して、「信じたら自由意思がなくなり奴隷になると」と嘘をつきます。つまり、私たちの魂に混乱、疑い、恐れの爆弾をガンガン投げ込むのです。その人は、イエス・キリスト以外のことなら、何でも答えてくれます。しかし、キリストを救い主として告白できないのです。これは明らかに悪魔の妨害です。

 そのため主は私たちに権威を与えてくださいました。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」クリスチャンであるならだれでも、イエスの御名によって悪霊を追い出すことができます。私たちに力があるのではなく、イエスの御名に力があるのです。新しいことばというのは、信仰のことば、あるいは異言であります。異言はほとんどの人が与えられる聖霊の賜物です。私たちは何と祈ったら良いか分からない時があります。ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」アーメン。異言は自分では理解できなくても、神さまへの直通の祈りになりますので、ないよりはある方がずっと良いです。「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」とありますが、これは悪霊の妨げを象徴しています。パウロはマルタ島でまむしに噛まれました。パウロは、その生き物を火の中に振り落として、何の害も受けませんでした。島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていました。しかし、いくら待っても、彼に少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ」と言い出しました(使徒28:3-6)。最後は、「病人に手を置けば病人はいやされます。」イエス様は病を癒しながら、福音を宣べ伝えました。病の癒しと福音宣教はセットです。人々は病が癒されると心を開き、こんどは霊的な救いを求めます。なぜなら、病が癒されてもいずれ死にます。でも、キリストを信じるなら永遠の命が与えられます。

 あるカリスマ的な教会は、「病の癒しや悪霊追い出しは、油注がれた教職者でなければならない」と主張します。それはクリスチャンに不要な恐れを与え、信徒と教職者を分ける間違った考え方です。しかし、聖書はそのように書いていません。「信じる人々には次のようなしるしが伴います」と書いているからです。使徒の働き8章には、ピリポのサマリヤ宣教のことが記されています。「群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。」(使徒8:6-8)。病の癒しと悪霊追い出しをカリスマ的な教職者の占有物にしてはいけません。神からの正しい教職者は「信じる者はだれでもきます。あなたにも、あなたにもできます」と言う人です。福音はgood news「喜びの訪れ」です。福音は伝えれば伝えるほど喜びがわいてきます。不思議なことに人から拒絶されると、イエス様のお気持ちが分かり感動します。それは喜びが自分に帰ってきたからです。福音を伝える人に主は共に働いてくださいます。マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」とあるからです。