2022.11.6「神の信仰を持て マルコ11:22-24」

「マルコによる福音書」は、どの福音書よりも多く、また詳しくイエス様の奇跡を記しています。イエス様はただご自分が奇跡を起こすのではなく、私たちに信仰を持つように促しておられます。本日の箇所を、もう一度お読みいたします。マルコ11:22-24イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」神から奇跡を受けるためにはどのような信仰が必要なのでしょうか?3つのポイントで聖書からメッセージをさせていただきます。

1.神の信仰を持て

マルコ11:22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。…」日本語の訳は「神を信じなさい」となっています。しかし、ギリシャ語も英語の聖書も、「神にあって信仰を持て」あるいは「神の信仰を持て」となっています。イエス様がおっしゃっているのは普通の信仰ではなく、神から奇跡を受けるための信仰をおっしゃっているのではないかと思います。信仰には大きく分けて3つあります。第一の信仰は、救いに至る信仰です。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じることによって罪赦され、霊的に新しく生まれます。この信仰があれば、死んでも天の御国に行くことができます。第二の信仰は、日常生活において神さまを信頼しながら生きることです。Ⅱコリント5:7「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます」と書いてあります。聖書を読み、神さまと交わるときに、神さまから信仰がやってきます。その信仰によって毎日、生活するということです。第三は神から奇跡を受ける信仰です。マルコ11:23「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には」とあります。Ⅰコリント13:2「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても」と書いていますが、これはあきらかに神から奇跡を受ける信仰と言うことができます。きょうは、この第三の信仰について、学びたいと思います。

「神にあって信仰を持て」あるいは「神の信仰を持て」と言われても、一体どういうことなのか分かりません。福音書の中から、イエス様から奇跡的な癒しをいただいた3人の人物を取り上げたいと思います。第一は、マルコ1章からです。マルコ1:40-42「ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。」前の聖書は「らい病」となっていますが、彼は、まずイエス様にみこころを求めました。イエス様がI am willing「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、その人はきよめられました。彼は「イエス様は私のツァラアトを治すことが出来る」と近づいたのです。そして、イエス様からおことばをいただき癒されました。彼の信仰は、奇蹟を受ける信仰と言えるのではないでしょうか?第二は、マルコ10章に、盲人のバルテマイの事が記されています。彼はエリコにイエス様が来られることを知って、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫びました。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめましたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫び続けました。イエス様が「あの人を呼んで来なさい」と言われ、人々が彼をイエス様の所に連れて来ました。イエスは彼に「私に何をしてほしいのですか」聞かれました。すると、彼は「先生、目が見えるようにしてください」と言いました。イエスは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言われました。バルテマイははっきりと口に出して、主の奇跡的な癒しを受けました?第三は、マタイ14章にはペテロが水の上を歩いた奇跡が記されています。ペテロが「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。確かにペテロは途中で疑って、沈みかけました。でも、何歩か知りませんが、確かにペテロは水の上を歩いたのです。ペテロの信仰は、奇蹟を受け取る信仰と言えるのではないでしょうか?ただ今、3人の人物を福音書から取り上げました。これらの所に3つの共通点があります。第一はイエス様に奇跡的なことを求めました。第二はイエス様が答えました。「わたしの心だ。きよくなれ」「わたしに何をしてほしいのですか」「来なさい」です。第三はそのおことばを信じました。信仰によって奇跡を受け取ったと言い換えても良いでしょう。つまり、彼らは勝手に、ひとりよがりに信じたのではありません。イエス様の応答があり、そしてそれを信じたのです。これこそ「神にあって信仰を持て」あるいは「神の信仰を持て」ということでしょう。

 私はこのような信仰を持っている人は、韓国のチョー・ヨンギ牧師ではないかと思います。先生はおんぼろの天幕から、2万人も入る大会堂をヨイド島に建てました。最後には80万人の会員を擁する世界最大の教会になりました。チョー先生は日本にも度々来られ、「このようにすれば教会が成長する」と教えて下さいました。多くの牧師たちは、1000名教会を目指しました。でも、そうはなりませんでした。なぜでしょう?「信仰が足りなかったから」という結論に達しました。確かに、チョー・ヨンギ牧師には山を動かすほどの信仰の賜物がありました。「そうだったのか?それでは仕方がない」と諦めてしまいました。確かに「信仰の賜物」というのはあります。しかし、それだとほんの一部の人しか、神からの奇跡を受けることができません。奇跡の解釈がそもそも間違っているのではないでしょうか。人間から見たら、それは奇跡かもしれませんが、神さまから見たらあたり前のことです。人間の方が勝手にこれは普通の信仰、ここから先は奇跡を受けるための信仰と線引きをします。確かに目が見えたり、耳が聞こえたり、癌が癒されるのは奇跡かもしれません。でも、神さまの働きはすべて奇跡なのです。大きいか、小さいかの違いがあっても、すべては信仰から来るものなのです。もし、神さまが大きなことをなしたいなら、私たち大きな信仰を与えるでしょう。私たちがそのまま信じたら、結果的に奇跡が起るのです。

2.口で言う

第二は、心の中で信じたことを「口で言う」ということです。マルコ11:23まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」この23節に「言う」ということばが3回出てきます。英語ではsayです。Sayは中学校で習う基本的な単語です。その第一の意味は、「言う、言葉に言い表す、決意や意見として述べる」です。あとから言いますが、「言葉に言い表す」はconfess「告白する」と同じものです。とにかく、23節には「言う」が3回出てきます。第一はイエス様が「まことに、あなたがたに言います」と「以下のことは真実であり、私が保証しますよ」という意味です。原語では、Amen I say to you「アーメン、私はあなたがたに言います」です。イエス様がこのようにおっしゃるときは、とても大事なことを言われる時です。つまり、私たちがイエス様がおっしゃることを値引きしないで、以下のことを額面通り受け取る必要があるということです。第二は「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い」です。「立ち上がって、海に入れ」と、だれが言うのでしょうか?それは、あなたであり、私です。しかし、山が立ち上がって、海に入るでしょうか? おそらくこの意味は、はじめ山は座っているということです。想像してみると、山に足がはえて、のこのこ海まで歩いていって「どぼん」です。まるで漫画のように思えますがそうではありません。テレビで南米のチリ側のアンデス山脈のことが放映されていました。おどろくべきことに、山が海に沈んだり、また隆起したり、沈んだり、隆起したりを繰り返していたのです。実は世界中にそういうところがいっぱいあります。どこだったか忘れましたが、4000メートルの山頂に貝殻の化石があります。つまり、太古の昔、その山頂は海底であったという証拠です。ヨブ9:5「神は山々を移されるが、山々は気づかない。神は怒って、それらをくつがえされる。」とあります。第三は、「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる」とあります。言うことと信じることは、直結しているべきであるということです。その間に、疑いを入れてしまうと、信仰による神のわざが起らなくなるということです。つまり、神さまがなさる奇跡的なみわざは、私たちが言うことに縛られているとも考えられます。

それでは、聖書から3つ例をあげたいと思います。第一は、盲人のバルテマイです。彼は「先生、目が見えるようにしてください。」と言いました。イエス様はおそらく、彼が何を求めていたか知っていたはずです。でも「私をあわれんでください」だけでは足りなかったのです。イエス様は、はっきりと彼に口で言うことを求めました。彼は「先生、目が見えるようにしてください」と言いました。そうしたら、イエス様は「あなたの信仰があなたを救いました」と言われました。神のみわざがバルテマイの告白によって完了したのです。第二は、マルコ5章に記されている、12年間も長血を患っていた女性のことです。彼女は「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」思っていました。しかし、原文のギリシャ語は「言っていた」と書いてあります。英語の詳訳聖書もFor she kept saying, If I only touch His garments,「『衣に触りさえすれば私の健康は回復する』と言いづづけていた」と訳しています。あとでイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。彼女が言っていたことと信仰が直結していたので、奇跡的な癒しをイエス様からゲットできたのです。第三は、民数記13章と14章に記されています。モーセは約束の地カナンを12人に探らせました。40日後、偵察隊はぶどうやざくろ、いちじくを担いできました。カレブは「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と言いました。ところが、他の10人はイスラエルの子らに悪く言いふらして言いました。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。…私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」するとどうなったでしょう?イスラエルの子らはモーセとアロンに「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ」と不平を言いました。ヨシュアとカレブは自分たちの衣を引き裂き、「もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる」と言いました。どうなったでしょう?ヨシュアとカレブだけ除いて、20歳以上の人たちは彼らが言ったとおり荒野で死にました。イスラエルの民は自分たちが言ったことを刈り取ったのです。これは信仰ではなく、不信仰の例です。箴言18:20,21「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇の収穫で満ち足りる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」否定的なことばは否定的なことを刈り取り、肯定的なことばは肯定的なことを刈り取ります。私たちが発することばはとても重要だということです。

ケネス・ヘーゲン師は信仰と告白の関係をこのように述べています。だれかが正しいことを信じているかどうかは、その人が何を口で言うかによって判別できます。その人の告白が間違っているなら、彼の信じていることが間違っているのです。彼の信じていることが間違っているなら、彼の考えていることが間違っているのです。信じること、考えること、口で言うこと、これら三つはみな仲良しなのです。私たちが自分の思考をまっすぐにするために、神はご自分のみことばを私たちに与えておられます。告白には、罪の告白もありますが、それは否定的な側面です。もちろん、それも重要なことですが、聖書は肯定的な側面のことを、より多く語っています。告白は、私たちが信じていることを表明することです。神は私たちの告白を通して働かれます。告白のない信仰は存在しません。告白は、信仰が自らを表現する方法なのです。マルコ11章23節によれば、私たちが口で言うこと、すなわち告白することは何でも、信仰のことでも不信仰のことでも、成功でも失敗でも、病気でも健康でも、それを受け取ることができるのです。大多数のクリスチャンが誠実ではあっても、弱い原因は、自分がキリストにあってどういう者であるかということを、あえて告白したことが一度もないからです。彼らは、神が自分をどのようにご覧になっておられるかを見出して、それを告白しなければならないのです。アーメン。告白は信仰が自らを表現する方法です。そして、神さまは私たちの告白を通して働かれます。

3.疑わないで信じる

 マルコ11:23b、24「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」マタイ14章にはペテロが水の上を歩いた奇跡が記されています。ペテロが「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行きました。ところが、イエス様がおられるところにたどり着くことができませんでした。なぜでしょう?マタイ14:30「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」イエス様がおっしゃったようにペテロは疑ってしまったのです。でも、なぜ疑ったのでしょう?「ところが強風を見て怖くなり」と書いてあります。風自体は見えませんが、波吹雪とともに風が顔にあたり、ペテロはイエス様から目をそらしてしまいました。そのため、彼の理性が信仰を打ち負かしてしまいました。「人間が水の上を歩けるはずがない。私は漁師なので水の恐ろしさを知っている。おぼれて死んだ人も何人もいる。俺はなんて馬鹿げたことをイエス様に要求したんだ。ありえないことだ。」そう思ったとたん、体がずぶずぶと沈んでしまいました。「ところが強風を見て怖くなり」とありますが、恐れと疑いは、信仰を食い尽くす仲の良い兄弟です。私たちは見る、聞く、触るなどの五感によってこの世界から情報を得ています。これらは「体の感覚によって知る真理」と言えましょう。一方、「啓示による真理」は神のみことばと御霊によるものです。霊の領域なので、見ることも、聞くことも、触ることもできません。「体の感覚によって知る真理」と「啓示による真理」が矛盾するときがあります。まさしく、湖の上を歩いているペテロがそうでした。風と波しぶきが顔に当たって、「体の感覚によって知る真理」が打ち勝ち、イエス様のおことばを疑ってしまったのです。そのとたん、ペテロの体は沈み始めました。

 マルコ6章には、ペテロが水の上を歩いたことは記されていませんが、このように書いてあります。マルコ6:49-52「しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。」イエス様は5つのパンで5000人を養いました。その後、弟子たちだけが舟で湖を渡ろうとしました。その途中、向かい風のため漕ぎ悩んでいました。真っ暗な湖の上をイエス様が歩いて来られました。マルコ福音書は彼らが恐れた理由は、「パンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである」と述べています。弟子たちは、ほんの少し前、イエス様が5000人を養った奇跡を目撃しました。でも、イエス様が水の上を歩けるはずがないと思っていたのです。幽霊だと思って恐れたのです。不信仰はペテロだけの問題ではなく、他の弟子たちもそうであったということです。なぜ、奇跡を信じられないのでしょうか?それは思いが古いままだからです。私たちは弟子たちのことを批判できません。「奇跡というものは滅多に起こらないから奇跡なんだ。滅多に起こらないことを期待して生きていたら、フラストレーションがたまる一方だ。それよりも、医者や科学者が言うことを信じて、現実的に生きるべきだろう」。しかし、これは思いが新しくなっていない人です。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」とあります。私たちの責任は、奇跡を受け取れるように、思いを新しくする必要があるということです。全能の神さまにとって普通の出来事も奇跡的な出来事も境目はありません。もし「神さまが願えば、日常的に奇跡は起こるんだ」と考えましょう。

ケネス・ヘーゲン少年は半病人で、他の子供たちのように遊んだり走ったりすることがありませんでした。医者は「医学的に知られている限りでは、このような心臓の状態で16歳まで生き延びた人は一人もいない」と言いました。1934年1月1日(16歳)別の家に引っ越しすることになりました。葬儀社のハリス氏と運転手のマクドナルド氏が、担架に乗せて私を運び出し、救急車に入れてくれました。ハリス氏は「お望みなら、街角までドライブすることもできるよ。きょうは元旦で、ほとんどの仕事は休みだから、道は混んでいないはすだ」と言ってくれました。このバプテスト派であった少年は祖母の「メソジスト派」の聖書を読んでいました。その時、私の内側の何かが語り出して、「何でも彼が言うことは彼に成る」というみことばを私に思いださせたのです。イエス様が「心で信じ、口で言うことは実現する」と言われました。「私はそれを私の心の中で信じます。私はそれを私の口で告白します」と答えました。救急車の中で「確かに私はこれらの建物をこれからも見ます。私はいつかここに来て、ここに立ちます」と言いました。1934年1月1日の午後2時が、私にとっての出発点となりました。1月が過ぎました。私はまだ寝たきりでした。2月が過ぎました。私はまだ寝たきりでした。3月、4月、5月、6月、7月が過ぎました。7か月たっても、私はまだ寝たっきりでした。悪魔は私に語り続けました。「それは、うまくいっていないだろう!」。私は彼に言いました。「私はおまえの言うことなんか信じるつもりはないさ、老いぼれの疑わせ者め」。私は私の告白をしっかり保っていました。私はそれを放棄することを拒みました。私は言いました。「あのみことばは、イエス様がこの地上におられた時に言われたことです。私はそれをしっかり保ってきます」。1934年8月の第二の土曜日、1月に救急車の中から見た建物の前に立ちました。私の顔に涙があふれました。私は片手を上げました。人々がどう思おうが構いませんでした。私は言いました。「悪魔よ、お前に読めるかどうか知らないが、お前が読めないといけないから…」と言って、私のシャツのポケットから私の新約聖書を取出し、マルコ11章23,24節を開き、それを悪魔に読んでやったのです。ケネス・ヘーゲンは17歳でバプテスト派の少年説教者になり、病気一つせず、預言者・教師として約70年間携わることになります。