2022.10.16「仕えるために マルコ10:42-45」

マルコによる福音書の鍵のことばはマルコ10章45節と言われています。「だれが決めたのか?」と言われても分かりません。とにかくこのみことばは、イエス様がこの世に来られた目的をマルコなりに言い当てているとしか思えません。マルコはイエス様の弟子ではありませんが、ペテロの通訳者として活躍しました。一度はパウロに捨てられましたが、バルナバとペテロに仕え、やがてこの福音書を書いたのではないかと言われています。最後にマルコはパウロの同労者となり、「彼は私の務めのために役に立つ」(Ⅱテモテ4:11)と評価されています。

1.マルコ福音書の特徴

だれが言ったか分かりませんが、一般には、マルコ福音書はローマ人向けにかかれた福音書だと言われています。ちなみにルカ福音書はギリシャ人向け、ヨハネ福音書は全世界向け、そしてマタイ福音書はユダヤ人向けと言われています。黙示録4章には、4つ生き物が記されています。それらの生き物は天使のセラフィムかもしれません。黙示録4:7「第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。」エゼキエル書にも似たような描写があります。こじつけと言われれば、それまでですが、これらは4つの福音書におけるメシヤの特徴を表わしているのではないかと思います。獅子はマタイによる福音書のイエス様、雄牛はマルコによる福音書のイエス様、人間はルカによる福音書のイエス様、鷲はヨハネによる福音書のイエス様です。この説からすると、マルコによる福音書は、雄牛であります。雄牛というのは、当時、畑を耕すために働かされました。つまり、イエス様がこの地上に来られたのは、雄牛のように働くためであったということです。つまり、しもべなるメシヤであります。ローマの社会では「奴隷は何ができるか」ということが問題であり、生まれや育ちは関係ありませんでした。そのために、マルコ福音書にはマタイやルカのようなメシヤの誕生の秘話は記されていません。「いきなりステーキ」ではなく、いきなり公生涯からはじまります。そして、ローマ人はあまり知的ではありません。力が問題であり、イエス様もそのようなお方として描かれています。マルコ福音書には教えが少なく、非常に淡泊です。そして、イエス様がなされた奇蹟に対しては、最も多くの紙面をさいています。

 マルコ福音書のイエス様は雄牛のごとく、行動するメシヤです。たとえば、マルコ福音書1章には「すぐ」とか「すぐに」ということばが数多く用いられています。日本語の聖書をざっと数えても、8回あります。英語の聖書ではimmediately「直ちに、すぐさま、早速」という副詞になっています。本当にイエスさまは休む暇もないくらい、場所を移動して働いておられます。おそらく、マルコ福音書の背後には、ペテロがいますので、ペテロの性格が現れているような気もします。ペテロはせっかちで、性急な人であったからです。私の性格に良く合っています。神さまは「落ち着きのない私をも用いておられるのだなー」と感慨にふけってしまいます。でも、イエス様はのべつまもなく、動き回っていたのではありません。マルコ1:32-38夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の人が戸口に集まって来た。イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」この箇所を読むととても不思議に思います。安息日が明けた前の晩、イエス様のところに大勢の人たちがやって来ました。その人たちはイエス様によって癒され、解放を受けました。次の日の朝早く、イエス様は起きて寂しいところに出かけ祈っておられました。父なる神さまと交わっておられたのでしょう。でも、シモンたちがやってきて「皆があなたを捜しています」と言いました。おちおち祈る時間もありません。その次に、イエス様は不思議なことを言われました。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」シモン・ペテロたちが「癒しと解放を求めて多くの人々が来ていますよ」と、伝えたにもかかわらず、イエスさまは「さあ、近くにある別の町や村へ行こう」と言われました。私がイエス様だったら、「せっかくブレイクが起きたのだから、しばらくここでミニストリーをしよう」と思うでしょう。でも、イエス様はそうしませんでした。なぜでしょう?それは朝早く、父なる神さまと祈っているうちに、その日の行動が示されたのではないかと思います。つまり、イエス様は人々のニーズによって動かされたのではなく、父なる神さまのみこころを行なうために、主体的に行動されたということです。イエス様は、ただ人々のために忙しく働いていたのではないということです。父なる神さまの導きと助けの中で行動されていたということです。

 忙しいとは、心が滅びると書きます。確かにイエス様は忙しく働いていました。でも、何も考えずに動いていたのではありません。父なる神さまと御霊に導かれて、行動していたのです。マルコ1:10「イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。」とあります。このところでは、聖霊が鳩のように例えられています。御霊が鳩のように降り、そのままイエス様の肩に留まり続けたのではないかと想像します。その証拠にマタイ1:12「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた」とあるからです。ルカ4:14「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」と書かれています。イエス様の行動の指示は父なる神さまからであり、奇蹟の源は御霊なる聖霊であったことは間違いありません。私たちはとても忙しい現代に生きています。精神的にも肉体的にもカラカラになることがあるでしょう。イエス様も忙しく動き回っているように見えます。しかし、イエス様は父なる神さまと交わり、御霊に満たされていました。ビル・ジョンソンが言っています。「鳩はとても温和であり、臆病な鳥です。鳩のような御霊をずっとあなたの肩に載せて生活できるでしょうか? 」

2.仕えるために

 もう一度、マルコ10:42-44をお読みいたします。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」42節に「そこで」とありますから、その前に何かあったと言うことです。マタイ20章を見ると、ヤコブとヨハネのお母さんが、「イエス様の御国で、ひとりは右にひとりは左に座らせてください」とお願いしたようです。それで、10人の弟子たちはそれを聞いて、腹を立てました。なぜなら「二人が抜け駆けして、ひどい」と思ったからでしょう。つまり、みんな同じことを考えていたということです。それに対して、イエス様は「どんな人が偉い人なのか」ということを教えられたのです。イエス様は偉くなりたいという願いを否定はされませんでしたが、この世と全く違う方法でした。なんと、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」とおっしゃったのです。英語の聖書で「仕える者」は、ministerであり、「しもべ」は servantです。一般にministerは「大臣」「使節」「聖職者」と訳されていますが、ギリシャ語のディアコノスは「仕える人、奉公人」だったのですね。servantはかなり前から、サーバント・リーダーシップということが言われています。とにかく、イエス様はこの世とは真逆のことを言っています。

 私は1990年から2000年まで、弟子訓練プログラムを学び、当教会にもそれらの教えを取り入れようと努力しました。その頃、韓国ではリバイバルが起っていたので、日本の教会の牧師たちが韓国から教会形成について学びました。多くの牧師たちは「日本の教会が成長しないのは、牧師に権威がないからだ。まず、韓国の教会のように牧師は権威を持たなけばならない」と言いました。私はその頃(今もそうですが)、何でもやっていました。引っ越しのお手伝い、車での送り迎え、掃除もみんなと混じって一緒にやっていました。その教えを聞いたために、掃除をしていると、なんだか卑屈になりました。韓国は儒教の影響を受けているので、教会内でも「牧師先生様!」と、とても高めています。最初は彼らの文化から来ていることが分からなかったので、何とか権威を持たなければならないと努力しました。でも、聖書を読むとこの世の権威者のようなやり方ではなく、人々に仕えなさいと書かれています。どっちが本当なのだと混乱しました。悩んでいるとき、セルチャーチの教えが入ってきました。蒲郡教会の石原牧師が「みんなフラットでなければならない」と言いました。それで、2000年からは完全にセルチャーチ方式を導入し、ネクタイをしないで、説教することになりました。ゴスペルからたくさんの人たちが救われたのは良いですが、みんなタメ口になりました。役員会もタメ口になり、傷つくことが多くなりました。家内にそのことをぼやくと、「あなたがそういう教会にしたのでしょう?」と言われました。

 私は2017年1月に関東セルチャーチのコーディネーターを降りました(こう見えても、少し、偉かったのです)。今、思うと弟子訓練とセルチャーチでは、牧師のリーダー像が真逆でありました。前者は牧師の権威をできるだけ高め、後者は牧師の権威をできるだけ低くするものでした。イエス様は「先生と呼ばれてはならない」(マタイ23:8)と教えられました。ある教団では、今でもその教えを守り、牧師を「兄弟」と呼んでいるところもあります。しかし、日本では指導してくれる人を「先生」と呼びます。お花の先生、柔道の先生、学校の先生…。しかし、福音書の先生は、言語では「ラビ」ですから、ちょっとニュアンスが違います。ラビはアラム語で、「わが主、大いなる者」の意味であり、ユダヤ人の教師に対する尊称です。日本語の聖書では「先生」と訳していますが、百歩譲って、教会に先生がいてはいけなのでしょうか?別に私は「先生」と呼ばれたい訳ではありません。ちなみに、私は学校でよく叱られたので「先生(先公)」のイメージは良くありません。今は、先生と呼ばれていますが、「気持ち悪い、だれのことだろう」と半分思っています。イエス様はユダヤ教の世界でそのように言われましたが、使徒パウロはどうでしょう?エペソ4:11-12「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」これらの5人は、「教会の五職」と呼ばれ、キリストご自身が立てた、「キリストの賜物」と言われています。言い換えると、これらの5人は今日で言う「先生」と呼ばれても良い人たちなのです。なぜなら、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」に召されているからです。

 少し話題を変えます。指導者、リーダーは賜物であると信じます。この世においてもそうですが、リーダーとは、だれか従って来る人がいて、はじめてリーダーと呼ばれる資格があります。ギャングのリーダーもいます。彼に従っている人たちがいるのでリーダーです。ですから、この世では良いリーダーもいれば、悪いリーダーもいるということです。ハワイのラフル・モアは「私たちはリーダーを作ることはできない。それらは神さまの賜物だから。私たちができることは、悪いリーダーを良いリーダーに変えることである」と言いました。現代は、サーバント・リーダーシップ(仕えるリーダーシップ)ということが良く言われます。その考えが、良いか分かりません。聖書を見ると分かりますが、神さまは一人のリーダーを立てて、その人を通して働かれるようです。モーセ、ヨシュア、アブラハム、ダビデ、ペテロ、パウロ、さらには教会の歴史でもそうです。聖書的なリーダーは3つのことが必要だと思います。第一は、神さまから与えられた権威を用いて群れを守るということです。第二は、リーダーとしての最終的な決定とその責任を取るということです。第三は、リーダーの賜物ある人たちを育てて、委譲していくということです。あなたは何をもって仕えているでしょう?あなたはだれに仕えているでしょう?イエス様のことばです。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」

3.自分のいのちを与えるため

 マルコ10:45「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」「人の子」は、ダニエル書には、終末におけるメシヤ的人物として描かれています。イエス様が裁判にかけられた時、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と言われました。すると、大祭司は衣を裂きながら「この男は神を冒瀆した」と言いました。また、ステパノが殉教するとき、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言いました。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向かって殺到しました(使徒7:56)。つまり、当時、ユダヤ人にとって、「人の子」には特別な意味がありました。イエス様は政治的なメシヤと誤解されるので、あえてご自分を「人の子」と言ったようであります。つまり、「人の子」とは、イエス・キリストご自身であるということです。イエス様は何のためにこの地上に来られたのでしょうか?もちろん、仕えるためです。イエス様は福音を宣べ伝え、神の国のことを教え、病を癒し、悪霊を追い出されました。また、弟子たちを訓練して、ご自分のミニストリーをお委ねになられました。でも、イエス様しかできないミニストリーがあります。それは「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」とあり、十字架の贖いのことであります。言い換えると、イエス様の地上での使命の最終目標は、十字架で死ぬということです。でも、それは殉教の死ではなく、贖いの死であります。それから先、数えきれない聖徒たちが殉教します。しかし、贖いの死はイエス・キリストだけです。福音書はエルサレムがゴールとなるように書かれており、ルカは「エルサレムで遂げようとする最期のこと(エキサダス)と書いています。エキサダスはイスラエルがエジプトから脱出する出エジプトの出来事です。イエス様は十字架の死によって、人類を罪の奴隷から脱出させるために、神の子羊として来られたのです。

 イエス様は他の箇所で、このようにおっしゃられました、「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:11,12)。イエス・キリストは一番偉いお方、神であられましたが、仕える者となりました。イエス様の贖いはだれも真似のできないことです。イエス様だけが私たちのため贖いの代価としてご自分のいのちを与えてくださいました。イエス様はしもべとしてそのように私たちに仕えてくださいました。その結果どうなったでしょう?最も高く上げられました。もし、私たちが仕える者として、しもべとして仕えたならば、同じように高められるということです。つまり、罪の贖いはイエス様固有のものですが、結果的に高くされるという模範になられたということです。つまり、神さまから報われるということです。そのことを一番良く表しているのは、ピリピ2章のみことばです。ピリピ2:6-11「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」アーメン。イエス様は神の御座を捨てて、この地上に下り、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。それだけではありません。自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。イエス様は私たちを救うために、ご自分の命を捨ててくださったのです。その後、どうなったでしょう?父なる神さまがイエス様をよみがえらせてくださいました。これはどういう意味かというと、キリストの死によって罪の贖いが全うされたということです。復活は人類の罪に対する父なる神の怒りがなだめられ、キリストを信じる者を義とするという保証です。その後、父なる神はイエス様を引き上げ、御座に据えさせて下さいました。その結果、イエス様は以前とは違う名称が与えられました。「主」という名称です。主は旧約聖書ではヤハウエであり、イスラエルの神であるという名称です。一方、新約の「主」はギリシャ語でキュリオスですが、イエス様が主なる神となられたということです。つまり、父なる神さまが御子イエスに王たる権威を渡されたということです。つまり、イエス様がもといた地位よりも、高められたということです。そして、救われた私たちは「イエス・キリストは主です」と告白して礼拝するのです。でも、ピリピ2章を見ると私たちだけではなく、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめて、「イエス・キリストは主です」と告白するのですから、一体、どうなっているのでしょう?想像もつきません。

 イエス様は、私たちに仕えるために地上に下って来られました。その最終的なゴールは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」でも、なぜ「すべての人のため」ではなく、「多くの人のための贖いの代価」と書かれているのでしょうか?「イエス様は全人類の罪を贖われたのではないですか?」と言いたくなります。ここは難しいところですが、もし、そうであれば全人類はそのまま救われてしまいます。「多くの人のための贖い」というのは、「キリストを信じる多くの人のための贖い」と言えるでしょう。ジョン・カルヴァンは「限定的贖罪」と言いました。キリスト十字架の贖いの死は、救いに選ばれた者のためだけであり、すべての人のためではないという教理です。しかし、私はそう思いません。「多くの人のため」という意味は、キリストのいのちをいただいて救われた人たちのことです。言い換えると、キリストのいのちを受け取らない人たちも存在するということです。彼らのためにも代価は支払われているのです。でも、それを受け取らないために、無駄になっているということです。私の先輩がたとえ話をしてくれました。「鈴木君に百科事典をプレゼントしたい。代金は私が払ったので、後はお店に取りに行けば良いんだ。でも、行かなかったら、その本は君のものにならないよ。」と教えてくれました。贖いはすでに完了しています。無駄にならないように受け取って下さい。