イエス様は人々に教えるとき、たくさんのたとえ話を用いて話されました。たとえ話はだれでもわかるのですが、そこに深い意味が隠されています。キリスト教会では古代から、たとえ話において解釈上の紛糾が起り、現代でもどれが真実を言い当てているのか分からないものもあります。イエス様のたとえ話は四福音書に満載されていますが、きょうはマタイ13章を中心に学びたいと思います。
1.たとえ話の目的と効果
イエス様はなぜ、たとえで話されたのでしょうか?たとえの目的や効果は何なのでしょうか?私はマタイ13章の「種蒔きのたとえから」3つあげてみました。第一は人々に興味を持たせるためです。たとえはギリシャ語で、パラボーレと言いますが「そばに投げる」という意味から来ています。だれも行ったことのない天国のことをどうやって伝えるでしょうか?また、霊的な深い真理をどうやって分かりやすく伝えるでしょうか?そのためイエス様は、たとえ話を「ぽん」と人々の前に投げたのです。人々は「ああ、面白い話だ。それは何だろうな?」と興味を持つことができました。多くの場合、たとえ話はだれでもが知っている題材です。イエス様のたとえを聞いて、大半は「ああ、耕作のことだろう?そんなこと知っているよ。でも、道端に種を蒔くやつがいるなんてよっぽどじゃねー」と一笑して終わりだった人が大半だったのでしょう。だから、イエス様は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:9)と言われたのです。だれでも耳を持っていますが、「その意味を知ろうとして、耳を傾けているか?」と言うことです。たとえ話は小さな子どもから大人まで、わかるような内容でした。でも、そこには深い真理が隠されていたのです。
第二は聞こうとしない人には真理が隠されるためです。そこには呪いみたいなものがあります。残念ながらイエス様の弟子たちは、たとえ話の意味がわかりませんでした。彼らは恥ずかしいので、だれもいないところで「その意味は何ですか?」と尋ねました。イエス様はこのように言われました。マタイ13:11-13「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」「持っている者が与えられる」とは、その意味を悟ろうとする探究心です。悟ろうとしな人にはその意味が隠されるということです。たとえでは、道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べたとあります。それをイエス様は「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者(悪魔)が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」(マタイ13:19)と解説されました。
第三は反感を持っている人に教えるためです。その人たちはイエス様から教えてもたいたくなかったので、イエス様は自分でその答えを理解するようにたとえで話されました。マタイ21章でイエス様は「ぶどう園のたとえ」を話されました。「働きに行くよ」と言ったけど行かなかったお兄さんは、祭司長やパリサイ人のことでした。マタイ22章の「王子の披露宴のたとえ」では、招待されたけど行かなかったのは、同じく彼らのことでした。彼らはそれは自分たちのことだと分かっていても、悔い改めることをしませんでした。
次にたとえを解釈するための原則をお分かちしたいと思います。第一はたとえ話がだれに向けて語られているか、たとえ話の背景を知るということです。多くの場合、たとえ話の直前を見るとわかります。マタイ13章のたとえ話はどうでしょう?マタイ13:2,3「すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。」このたとえは群衆に向けて語られたのです。道端、岩地、いばら、良い地というのは、群衆のそれぞれの心を表わしていました。
第二は中心的なメッセージを見つけ出すということです。全部ではありませんが、イエス様はたとえ話の直後に「これはこういうことです」と一言でまとめておられます。マタイ13章では弟子たちにずいぶんと長くたとえの意味を教えておられます。普通だったら、一言だけなのですが、こういうことは滅多にありません。マタイ13章19節以降、弟子たちだけに、その意味を解き明かしています。道ばたに蒔かれたものとは、御国のことばを聞いても悟らない人です。岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:20-23)。イエス様はなんとご親切なんでしょう。でも、その理由が述べられています。イエス様は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」とおっしゃいました。弟子の特権というのは素晴らしいと思います。私たちもキリストの弟子であることを自覚して、みことばの意味を教えてもらいましょう。
第三は1つ1つのことを寓喩的に解釈しないということです。私たちは、たとえが教えたい主題は1つであると考えるべきです。ルカ10章に「善きサマリヤ人のたとえ」が記されています。サマリヤ人がイエス・キリスト、強盗が悪魔、旅人は罪人、オリーブ油が聖霊、ぶどう酒はキリストの血、宿屋は教会…こういう風に解釈すると主題から逸れてしまいます。イエス様は律法学者に「あなたの隣人はだれか?サマリヤ人だろう?」ということを教えたいがためにこの譬えを用いたのです。でも、その律法学者は「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えをはぐらかしました。それでイエス様は「あなたも行って、同じようにしなさい」と言われました。ある人たちは、「善きサマリヤ人のたとえ」は隣人に親切にすることだと結論づけますが、そうではありません。ユダヤ人の隣人がサマリヤ人であることをイエス様は教えたかったのです。
このように、たとえの効果と目的について学びました。イエス様は群衆に「耳のある者は聞きなさい」とつっぱねました。ここで分かることは、イエス様の弟子になると、他の人には教えてくれない深い意味を特別に教えてくださるということです。アーメン。
2.天の御国の広がり
マタイ13章24節以降、「天の御国は」ではじまる譬えが、6つあります。まず、前半の3つを学びたいと思います。マタイによる福音書はユダヤ人向けにかかれていますので、本来は「神」というところを、あえて「天」と置き換えています。ですから、これは「神の国のたとえ」と言っても構いません。でも、天の御国の方がロマンがあるように聞こえるでしょうか?イエス様は「天の御国は」と言っていますが、天の御国そのものがどうであるかということよりも、その性質を教えておられるようです。第一は「毒麦のたとえ」です。ある人が自分の畑に良い種を蒔きました。人々が眠っている間に毒麦を蒔きました。後から、しもべたちは「毒麦を抜きましょうか?」と提案したら、主人は麦も一緒に抜く恐れがあるので、両方とも育つままにしておきなさいと言いました。イエス様はあとで弟子たちにこのように解説をしておられます。畑とは世界ことで、良い種とは御国の子どもです。毒麦とは悪い者の子どもたちです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収獲とはこの世の終わりのことです。世の終わり、御使いたちにより麦が刈り取られ、毒麦が集められて火で焼かれると言われました。このたとえを読むと、この世界に御国の子どもたちと、悪い者の子どもたちが混在しているように思えます。しかも、はじめから選びが決まっているようなニュアンスがあります。もし、そうであったなら、福音を宣べ伝えても無駄なような気がしてしまいます。そんな簡単に、御国の子どもと悪い者の子どもと分けることができるのでしょうか?なぜなら、キリストを信じる前は、だれでも罪人であるからです。かつての私のように「この人は一番無理かな?」と思われる人がクリスチャンになったりするからです。最初、「毒麦のたとえ」を読んだとき、このところからメッセージできないように思いました。
しかし、13章31節以降には2つのたとえ話があります。イエス様は「天の御国はからし種に似ています」とおっしゃいました。からし種は、どんな種よりも小さいのですが、生長すると空の鳥が宿るほど大きくなります。高さが3mから4mになるそうです。それだったら、空の鳥が来て、その枝に巣を作るかもしれません。さらに、イエス様は「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます」とおっしゃいました。この2つのたとえに対して、否定的な解釈があります。木の枝(天の御国)にやどる空の鳥は悪魔だと言います。また、パン種(イースト菌)は腐敗を表わしているので、天の御国には大きくなっても、良くないものが混じってしまうという解釈です。しかし、私はからし種のたとえも、パン種のたとえも、両者とも天の御国が拡大することをたとえていると考えます。イエス様はたった12人の弟子たちからはじめました。イエス様は彼らに「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」(ルカ12:32)とおっしゃいました。小さな群れとは12弟子たちのことです。御国の原型でした。まだ「教会」にはなりきれていませんが、教会の原型です。なぜなら、彼らの宣教から教会が生まれたからです。また、パン種のたとえは、迫害下にあっても、密かに広がっていくという御国の特徴を表しています。福音はパレスチナから始まり、ヨーロッパ大陸、南北アメリカ大陸、アジア、オセアニア、そしてアフリカに広がりました。つまり、この2つのたとえ話は御国が拡大することを教えていると考えられます。
さて、最初の「毒麦のたとえ」では、良い麦と毒麦が世界に混在しているということでした。つまり、この世には、御国の子どもたちと悪い者の子どもたちがいるということです。ルカ16章には「この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである」と書かれています。「この世の子ら」と「光の子ら」に分けられています。また、イエス様はヨハネ8章でユダヤ人たちに「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています」とおっしゃいました。ユダヤ人たちが、悪い者の子どもたちだということです。「毒麦のたとえ」から、はじめから選びが決まっているんだから、もう仕方がないと思ってしまいます。つまり、福音宣教を無駄のように思ってしまいます。ところが、その後の「からし種のたとえ」と「パン種」とたとえを組み合わせたらどうなるでしょうか?バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。その後、イエス様が宣教を開始され、イエス様と一緒に天の御国が訪れたのです。そして、福音を信じた人が御国にどんどん入りました。ペンテコステの日、聖霊がお降りになり教会が発足し、御国に入る数が3000人、5000人と、どっと増し加わりました。初代教会に対する迫害も厳しくなりましたが、西暦313年キリスト教はローマの国教になりました。確かにその中には腐敗があり、悪魔も存在しました。でも、見えないところで、キリストを信じる人たちがどんどん増えていったのです。今は、世界中に新生したクリスチャンが存在しています。私たちは、世の終わりの時代に生きていますが、一人でも多くの人が御国に入るように福音を宣べ伝える使命があります。キリストの福音を信じることは、御国に入ることですから、それは天の御国の拡大につながります。父なる神さまの人類に対する願いはこうです。Ⅰペテロ3:9「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
3.天の御国のかけがえのなさ
マタイ13章44節から52節まで、天の御国のたとえが3つあります。まず、その中の2つを取り上げたいと思います。マタイ13:44-46「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」この2つのたとえは、天の御国のかけがえのなさを教えています。両者の違いは、前者は偶然に発見したもの、後者は一生懸命捜し当てて発見したものです。そして両者とも、共通しているのが、全財産を売り払ったことです。また、みなさんは偶然、たまたまキリストに出会った人でしょうか?それともあちこち探し求め、やっとキリストの救いにあずかった人でしょうか?このところに残っている人たちは、全存在をかけて信じた人ではないかと思います。天の御国が、良いものの1つであると考えている人は、もっと良いものが現れたら、そちらの方に行くかもしれません。まず、「畑に隠された宝」を見て行きたいと思います。この人は土地を所有していない、小作人かもしれません。ある日、鍬で畑を耕していたらコツンと堅い物に当たりました。当時の人たちは宝を壺に入れて、地下に埋めておきました。しかし、戦争などで所有者がいなくなると、そのまま地下に放置される場合があったようです。その人が、蓋を開けるみると金塊が入っていたのではないでしょうか?彼は壺に蓋をして、上から土をかけて、知らんぷりして家に帰りました。このまま宝を持ち帰ったら、泥棒と言われるからです。畑ごと買ったらどこからも問題は起りません。「そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」とあります。どうやってお金を集めたのでしょうか?持ち物すべてですから、家や土地、持ち物全部を売ったでしょう。もし、足りなかったらだれかから借金して土地代を工面したかもしれません。奥さんの実家からも借りたかもしれません。そして、ついにその畑を買いました。その後は、ゆっくり掘り起こせば良いのです。みなさんの中に、偶然、たまたまキリストに出会った人はいるでしょうか?「ブラック・ゴスペルを歌いたかったけど、歌っている本人を信じてしまった!」とか。求めていなかったけど、「信じたら本物だったとか」という人はおられないでしょうか?
もう1つは、「良い真珠をさがしている商人のたとえ」です。この人は商人です。バイヤーと言った方が良いかもしれません。当時、真珠は現代のような養殖のものはなく、深い海に命がけで潜らないと発見できませんでした。ですから、真珠は他の宝石よりもとても高価でした。おそらくこの商人はどこかの国の女王の首を飾るための真珠を依頼されていたのかもしれません。ですから、いろんなところを歩き回り捜していたのでしょう。あるところで、すばらしい値うちのある真珠を1つ見つけました。その1つが、色、艶、形、大きさ、すべてがワンダフルでした。何度が交渉しましたが、持ち合わせのお金では購入できませんでした。彼は手付金を払って、待ってもらいました。家に帰って、持っていた物すべてを売り払い、それを買いました。自分の財産全部と1個の真珠なんてどうかしていると思われるでしょう。でも、それは世界に2つとない真珠だったのです。もちろん、彼は元を取ることができました。ある人たちは、真理があるのか?永遠のいのちはあるのか?まことの神はおられるのか?捜し回って主イエス・キリストに出会った人もいるでしょう?多くの人たちには隠されていますが、キリストこそ、天の御国に入るための門だったのです。永遠のいのちと永遠の御国をいただけたら、他に何がいるでしょうか?
私もこれまでいろんな失敗をし、恥をかいてきました。今でもたくさんのトラウマが頭をよぎります。なぜ、あのときあのようにできなかったのか?悔しい思い出もたくさんあります。でも、私は25歳でイエス様を信じて、永遠のいのちと永遠の御国をいただくことができました。まさしく、それはかけがえのない宝、高価な真珠であります。私はたいしたものを捨てたわけではありませんが、キリストを信じて本当によかったと思っています。なぜなら、過去の失敗や恥、トラウマがあっても、今は永遠のいのちと永遠の御国をいただいています。キリストにあっていただいているものと比べるなら、過去のマイナスを加えても、はるかにプラスの方が良いです。むしろ、過去にあれだけ嫌なものがあったので、現在持っている宝物がきわだって良く見えます。「過去、いろいろあったけど、まあ、いいか?あれはあれで良かったんだ。救われたんだから、勝ち得て余りがある。本当にありがたいことだ。アーメン」と心から思っています。
ルー・ウォーレスは、南北戦争で活躍したインディアナ州の大佐でした。除隊後はニューメキシコの準知事を務めました。公務中に、彼はこのようなことをしました。「キリスト教はウソっぱちだ。人々の間にあるキリスト教という迷信を滅ぼすために、私は近いうちにキリスト教撲滅論を書こうと思っている」と言いました。そして彼は実際、そのキリスト教撲滅論を書くために、キリスト教に否定するような証拠を得ようと、様々な努力をしました。彼はインガソール博士という、当時の著名な無神論者にも会って、無神論を勉強しました。また、パレスチナにも行って、そこで考古学的なことまで調べ上げて、キリスト教に反する証拠を得ようとしたのです。そしてついに彼は、キリスト教撲滅論を書き始めました。ところがです。書いている途中に、もうそれ以上書けなくなってしまったのです。キリスト教を滅ぼそうとして書き始めたというのに、彼のペンはそれ以上進まなくなってしまいました。実は、書いている途中に、キリストというお方の圧倒的な命にふれて、彼は回心してクリスチャンになってしまったのです。そのために、彼はそれまで書いていたその本を捨てました。しかし、それに代えて、彼は別の本を書きました。ルー・ウォーレスが書いたその別の本とは、あの不朽の名作と言われる小説「ベン・ハー」です。多くの人たちは「ああ、ベン・ハーの映画だったら、私も見ましたよ。あの戦車の決闘シーン、すごかったですね。いやあ!映画って本当にいいもんですね」と言います。でも、本当の題は“Ben Hur: A Tale of the Christ”『ベン・ハー:キリストの物語』です。あの映画は、ルー・ウォーレス自身のキリストとの出会いを描いているのです。もしかしたら、私たちは悪い者の子どもとして裁かれていたかもしれません。でも、キリストに出会って性質が新しく変えられ、御国の子どもになりました。それは偶然の出会いだったかもしれませんが、背後で全知全能の神さまが働いていたことは確かです。一生懸命探し求めて自分が発見したかもしれませんが、その啓示を与えてくれたのは神の霊であったのです。かけがえのない天の御国を得られたのは、神の恵みです。