2022.10.2「教会の福音書16:15-19」 

4つの福音書の中でマタイだけに「教会」ということばが出てきます。それは16章と18章の二箇所です。でも、イエス様がおられたときはまだ「教会」は存在していませんでした。なぜ、「教会」として取り上げられているのでしょうか?イエス様はおそらくアラム語で「神の民」に近いことばでおっしゃったと思われます。ところが、マタイがAD.60年頃、ギリシャ語で福音書を書いたとき「エクレーシア」にしたのではないかと思います。「エクレーシア」を日本語の聖書は「教会」と訳しています。英語のChurchもそうですが、両者とも的確な名称ではありません。とにかく、マタイ福音書から「教会」について学びたいと思います。

1.この岩の上に

きょうの箇所は「教会論」を学ぶとき、必ず引用される箇所です。神学的にエクレーシアは、「呼び出された者の集会」あるいは「神の民の集まり」という意味です。しかし、教会やChurchはドイツ語の「キルヘ」から来たものであり、そのような意味がありません。ウォッチマン・ニーやウィットネス・リーは、「召会」(召された集会)と訳しています。あるブラザレンの群は「教会」は「教える会になっている」と揶揄しています。私たちはそのようなつもりはないのですが、「教える会」になっているならば残念です。「主イエス・キリストを中心に、そのまわりに集まって来た民」が正確な意味です。でも、歴史的に「教会」と名付けられたのですから、これで行くしかありません。ちなみに、「神」「罪」「悔い改め」は良い訳ではありませんが、しょうがなく使っています。ことばの意味はこのくらいにして、先に進めたいと思います。マタイ16:18「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」このみことばは、歴史的にとても物議をかもしている聖句です。ローマ・カトリック教会は、ペテロの上に教会を建てると解釈し、「ペテロの首位権」を主張します。歴代の教皇、あるいは法王はすべてペテロから始まっています。しかし、ペテロは「岩の1つの塊、石」という意味です。イエス様は「この岩の上に、わたしの教会を建てます」とおっしゃいました。この「岩」は「大きな岩、岩盤」を意味するギリシャ語です。だから、ペテロと「岩」は違うものです。プロテスタント教会は、「ペテロが信仰告白したキリストの上に教会を建てる」と解釈しています。詩篇118:22,23「家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ」と書いてあります。これはイエス・キリストを預言するみことばであり、新約聖書に3か所(マタイ21:42、使徒4:11、Ⅰペテロ2:7)引用されています。さらに、エペソ2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」と書いてあります。これらのみことばから分かるように、イエス・キリストご自身が教会の礎石、要の石なのです。

私は5年間、建設現場で働いておりました。川崎に扇島という日本鋼管の工場があります。あのときは埋め立てた人工の島だったのですが、現在はその上を湾岸道路が走っています。埋め立てた砂の上に工場を建てるのですから、本来なら無理です。イエス様も「岩の上に建てた家と砂の上に家を建てた人のたとえ」を話しています。あのときは、騒音も問題なかったので、パイルドライバーでどっかん、どっかん地中に杭を打ち込みました。とっても太い鋼管杭やコンクリート杭を打ち込むのですが、継ぎ足し、継ぎ足しで、60mから70m打ち込みました。なぜなら、そこに支持層と言われる岩盤があるからです。1年半後、私がその現場を去る時、構造物の下を見たら15センチくらい浮いていました。つまり、砂が沈下したからです。構造物は無数の杭で支えられていたということです。当亀有教会はどうでしょう?葛飾地区はものすごく地盤が悪く、少し掘ると真っ黒な土壌が現れます。昔はその名のとおり亀が住んでいたような沼地です。この教会を建てるとき、どうしたかというと杭は打ちませんでした。フーチングと言いまして、船のような一体型の土台を作り、そこに建物が浮いているという構造です。岩盤まで杭を打ったら、基礎だけでも数千万円かかるでしょう。そのようなことよりも、すばらしいみことばは「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」とおっしゃったイエス・キリストのことばです。私はこれをやれば教会は大きくなると、弟子訓練やセルチャーチ、カウンセリングの学び…いろいろやってもうまくいきませんでした。最後のたどりついた結論は、人為的な組織や方法ではなく、教会はキリストご自身が建てるということです。もちろん私たちはすべきことはあるでしょうが、教会においては、キリストの主権を認めることが最も重要であることに気が付きました。キリストの主権を認める教会であるなら、よみの門もそれに打ち勝つことはできないのです。アーメン。

マタイ16:18、19「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」また、このみことばは教会に「天の御国の鍵」が与えられていることを教えてくれる箇所でもあります。ギリシャ語で「かぎ」は、入ることを許可あるいは禁止する権威を象徴しています。おそらく、その鍵とは、扉の「かんぬき」であろうと思います。イエス様はペテロに「神の国の執事になって、その戸の開閉をつかさどるように」とおっしゃったのでしょう。ジョエル・オスティーンは、よく天国のことをジョークでお話しします。クリスチャンが亡くなり、天国の門をくぐって最初に出会う人がペテロだというのです。やはり、ペテロが天国の門番なのでしょうか?「つなぐ」はギリシャ語で「デオウ」であり、「縛る、拘束する、禁ずる」という意味があります。また、「解く」はギリシャ語で「ルオウ」であり、「ほどく、釈放する、許す」という意味があります。かつては、ペテロの後継者であるとした教皇が「破門」の権威を乱用しました。多くの人たちは破門されることを恐れていました。乱用してはいけませんが、この権威はペテロだけではなく、キリストの教会に与えられていると信じます。私たちは福音を管理しています。私たちがこの福音を伝えるとき、信じる人は天国に入り、信じない人は天国に入ることができません。もし、それが本当であるなら、私たちはどえらいものを預かっていることになります。パウロは「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)と言いました。福音には人々を救う力があります。また、キリストの御名は人々の病を癒し、悪魔から解放する力があります。私たち教会が、その天の御国のかぎを預かっていることを忘れてはいけません。むしろ、最大限に行使する責任があります。アーメン。

今から30,40年前、日本の教会は「1000万人救霊」とか「人口の10%がクリスチャンになるように」という目標を掲げていました。なぜなら、そのくらいの数になると国に対して影響力を持つことが出来ると考えていたからです。たしかにある宗教団体は政党まで作っており、そのような力を持っているかもしれません。しかし、なかなかクリスチャン人口は増えず、人口の1%いるかいないかです。そうするとどうしても少数派コンプレックスに陥ってしまいます。日本の小さい教会が何ができるんだと思うようになります。私も数に対して、とても卑屈になっていました。しかし、Ⅱコリント5:20「私たちはキリストに代わる使節なのです」と書かれています。英語の聖書はambassador大使、特命全権大使、代理人という意味です。そして、あるとき分かりました、クリスチャンが大使であるなら、教会は大使館ではないだろうか!つまり、教会は地上における天の御国の門であり、人々に救いを与える鍵を神から授かっていると分かりました。ということは、大使館は大きいか、小さいかは問題ではありません。天の御国の大使館として、神の権威を帯びているということです。赤坂に行くと立派なアメリカ大使館があります。一度、インドネシアの大使館に行ったことがありますが、首都高の脇にあり地味な感じがしました。東京には他にもたくさんの大使館があります。たしかに立派な建物もありますが、国によってはそうでもない建物もあります。でも、共通して言えることは、その国を代表しているということです。また、その国の法律で守られ、我が国にありながら治外法権であります。もし、地方教会が天の御国の大使館であるなら、「もし」ではありませんが、天の御国の権威の及ぶところであります。教会の建物の大きさ、人数は全く関係ありません。教会は御国の大使館であり、クリスチャンは御国の大使です。ですから、数の亡霊に悩まされる必要はありません。

イスラエルの民がミディアンと戦いを交えたことがありました。その時、主はギデオンに「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ」(士師記7:2)と言われました。32,000人から10,000人、最後に300人だけになりました。主は「300人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す」と言われました。旧約聖書では「馬の数や兵士の数に頼るのではなく、主にのみ頼りなさい」と度々言われています。もう一度マタイ16章から引用します。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

2.ふたりでも三人でも

マタイ18章にも「教会」ということばが出てきます。マタイ18:15-18「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」マタイ18:18「地上でつなぐことは天でもつながれ…」のくだりは、マタイ16章と全く同じです。18章のこの箇所は、教会は兄弟姉妹の罪を罰したり、赦したりする権威が与えられている根拠を示す箇所として知られています。インターネットのウィキペディアからいくつか引用させていただきます。「宗教改革者たちは、みことばの説教礼典の執行と並んで、戒規を真の制度的教会のしるしの一つと考えた。戒規は誤った教理、罪の行いに対して行使される、キリスト教会の教育、訓練の極端な形である。…カルヴァンは、30年近くにわたって、神権政治を行って同市の教会改革を強力に指導した。ジュネーヴにおいては厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい規律・戒規を求めた。」と書いてありました。キリスト教が国教会になりますと、宗教的な罪すらも法律によって罰せらせることになります。ローマ・カトリック教会は恥ずべき宗教裁判を長年やってきましたが、プロテスタント教会も同じ轍を踏むとはどういうことでしょうか?現在は、カルヴァンほど厳しくはありませんが、ほとんどの教会は「戒規」を定めています。戒規には、訓戒、陪餐停止、除名の3段階があります。私は亀有教会に赴任して30年以上になりますが、このような形の戒規はしたことはほとんどありません。でも、「カルヴァンのようにやったら気持ち良いだろうな-」と思ったことはあります。しかし、セルチャーチを始めたために、みなさんが「ため口」になりました。

私は「戒規」の根拠とされる15節から18節をマタイ18章全体から読む必要があると思います。もちろん、元の聖書には章も節もありませんが、文脈から解釈する必要があるということです。マタイ18章1節から11節までは、「小さい者につまずきを与えてはならない」ということが教えられています。その目的は「人の子は、失われている者を救うために来たのです」と言えます。そして、12節から14節までは「迷った一匹の羊を捜し出す」というたとえ話が記されています。その結論はこのように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」です。つまり、「小さい者につまずきを与えてはならない。小さい者を大切にしなさい」ということです。これらの教えのあとに、15節「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という文章が続くのです。ほとんどの教会は「戒規」を定め、それを教会員に守らせます。パウロも「戒めるように」とテモテとテトスに教えています。しかし、それは裁判官のように断罪する戒め方ではありません。「戒規」の英語はdisciplineであり、「規律、訓練」が主な意味であります。ですから、その人の信仰生活が良くなることが目的です。私がなぜ、こういうことを強調するかと言うと、学校で私が先生から一番怒られたからです。水の入ったバケツを持たされたり、棒でお尻を叩かれたり、蹴られたりしました。まるで犯罪者ように見られたことも何度もあり、その時はとても傷つきました。学校の先生方が、「靖尋君が牧師になって、人々に教えている」なんて想像もつかないでしょう。本当に奇跡であり、主の憐みであります。甘いと言われるかもしれませんが、できるだけ「戒規」という伝家の宝刀は抜かないようにしています。この教会が単立になったとき、「『亀有教会の理念』も作るべきだ」と言われて作りました。「戒規」についてはこのように書かれています。「関係を大切にしながら、牧師と共に戒規を行使する。戒規は教会において、異端の誤った教理の侵入を防ぐため、また罪に陥った者を懲戒するため、あるいは回復へと導くために行使されます。マタイ18章に記されている順番に従って行使し…」と書かれています。

そういうことで、最後に「マタイ18章に記されている順番」について学びたいと思います。マタイ18:15-17「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」このところには、あきらかに順番が記されています。なぜならそれは、「小さい者につまずきを与えてはならない。小さい者を大切にしなさい」というスピリットが背後にあるからです。最初の段階は「行って二人だけのところで指摘しなさい」ですから、当人同士の話し合いが最初になされるべきです。だれが行くかというと、罪を受けた人が、罪を犯した人のところへ行くということです。これはとても勇気がいることです。多くの場合、第三者の所へいきなり行って助けを求めたり、公の機関に訴えたりします。そうすると、罪が複雑化してしまって、後で和解するのが困難になります。「兄弟、あなたのことば(行い)で、私は傷つました。私の思い過ごしでしょうか?あのようなこことば(行い)の真意はどのようなものでしょうか?」と二人だけのところで指摘するのです。英語でwhy「何故、何で」と聞くのは詰問になりますので、what「何が」と聞いた方が角が立たないようです。後から、勇気を出して行って良かったということが多々あります。なぜなら、真意を聞いて、自分の受け取り方がゆがんでいたという事が良くあるからです。

第二段階は「もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。」やっと、一人か二人一緒に連れて行くことになりました。これは、一人で行ったとき、相手が聞き入れてくれなかったからです。この人は「私だけ我慢すれば良いんだ」と泣き寝入りしませんでした。「なんとか、兄弟を得たい、兄弟と和解したい」と願ったからです。なぜ、他の人を連れて行くかということが旧約聖書に記されています。申命記19:15「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」自分だけなら偏見があるかもしれません。二人または三人になるなら、その証言が立証されます。イエス様が変貌の山に登られたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて行きました。ゲツセマネの祈りのときも、同じ3人でした。一人だと見間違えがありますが、二人、三人だとその証言が立証されるからです。そのとき、その人が悔い改めたら、もう二度とそれを持ち出さないからです。

第三段階は、「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」ということです。最終段階がやっときました。教会というのは、現在でいう役員会とか教会総会でありましょう。教団というところもあるかもしれません。昔のことですが、牧師の問題をいきなり教団に訴えたというケースを聞いたことがあります。つまり、役員の一人が「他の牧師に替えてくれ」とお願いしたのです。もし、順番を飛ばして「教会」や「教団」に訴え出るなら、和解できるはずのものも和解できなくなります。なぜなら、その人の自尊心が傷つけられるからです。よく「感情的にならないように」と言われますが、感情は何かの決断するときは、知性よりも、大きな役割をすることを忘れてはいけません。第一、第二、そして、最終的に教会に伝えるのです。そして、それでも聞き入れないなら、異邦人、信仰を持っていない人と同じように扱うということです。これは、再び、伝道し直すという意味にも取れます。イエス様が「破門」や「除名」ということばを使っていないことを理解すべきです。

「教会の福音書」の締めくくりのことばです。マタイ18:19,20「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」この聖句には、インマヌエルの神さまが示されています。また、二人か三人がわたしの名において集まっているところにイエス様がおられるというのですから、教会の最小単位と言うことも可能です。この箇所は、心を一つにして祈ることの力についても教えてくれています。「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」とあるように、兄弟姉妹が、夫婦が、親子が心を合わせて祈る祈りは「天下の宝刀」を抜くようなものです。なぜなら、どんなことでも、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださるからです。これは文脈的には、罪を犯した人の罪の赦しと和解です。また、どんなことでも、なのですから、経済、健康、家庭や子どものこと、仕事や将来のこと、人々の救い、どんなことでも聞かれるのです。