2022.9.18「成就するために マタイ5:17-20」

マタイによる福音書の鍵のことばはマタイ5章17節と言われています。「だれが決めたのか?」と言われても分かりません。とにかくこのみことばは、イエス様がこの世に来られた目的をマタイなりに言い当てているとしか思えません。マタイはイエス様の12人の弟子の一人であり、ユダヤ人でした。ですから、マタイのこだわりは、「イエス様が旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来たのだ」ということをこの福音書で言いたかったことは確かです。きょうは、そのことを示すいくつかのみことばを引用しながらご説明したいと思います。

1.預言の成就

マタイ2章はイエス様が誕生してから幼少までを記しています。イエス様はユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。しかし、そのことは預言者によってこのように書かれていました。マタイ2:6「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。」ルカによる福音書と照らし合わせて見ると、ヨセフとマリヤは住民登録をするために、一時的にナザレからダビデの町にやってきました。そのとき、イエス様が生まれてしまいました。イエス様がベツレヘムでお生まれになったことはほとんどの人は知りませんでした。ヨハネ7章にユダヤ人たちの会話が記されています。ヨハネ7:41-42「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」また、弟子の一人ナタナエルも「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」(ヨハネ1:46)と言っています。そのために、マタイはイエス様の誕生のいきさつを記す必要があったと思われます。しかも、メシアの誕生は、旧約聖書のミカ書で預言されていたということです。マタイ2章15節と23節には、幼子イエスが一時的にエジプトに逃れて、またナザレに戻ったのは、旧約聖書の「預言の成就であった」ということです。さらに、マタイ4章14節にも同じことばありますが、これは宣教開始がゼブルンとナフタリの境、ガリラヤであったということです。他にもたくさんありますが、これらすべては、旧約聖書の預言が成就されたということです。つまり、イエス・キリストの誕生とその活動は、生まれる前から、預言されていたということです。

歴史上で自分はメシアだと言う人が数えきれないほど出てきました。しかし、何百年も前からどこで生まれるか、どのような活動をするか、あるいはどのような死に方をするか、預言されていた人がいるでしょうか?しかも、その預言がことごとく成就した人はイエス・キリストしかおりません。19世紀、ヘンリーという学者が「イエスにおいて成就したメシア預言」が332あると言いました。しかし、別の人が実際に数えたら、75だったそうです。75個の異なった預言が全て成就する確率を計算しました。その確率は、377垓(がい)7893京(けい)1862兆9571億6170万だということです。このような低すぎる確率を考えると,数字の上では該当者など一人も存在するはずがないとしか思えませんが、実際には一人、該当者が存在するのです。 実に驚くべきことです。バプテスマのヨハネが牢獄に捕えられました。その時、弟子たちを通して「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」とイエス様に言い送りました。イエス様は「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」(マタイ11:5)と言われました。これはイザヤ35章のメシア預言です。つまり、イザヤはやがてメシアが現れたならこのようなことが起るでしょうと預言していたのです。残念ながら、バプテスマのヨハネは、別の人を待つべきなのか疑ってしまったようです。ユダヤ人は今もなお、イエス・キリストとは別のメシアを待っています。皮肉ではありますが、彼らが会うのは、世の終わり再び来られるメシアです。イエス様は裁判の席で、「あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」(マタイ26:64)と言われました。これは旧約聖書ダニエル書の預言であり、これから成就する預言です。先ほどの人が、75個と言いましたが、これから先に成就する預言がかなりあるということです。イエス様ご自身が「私は死んで三日目によみがえる」と弟子たちに預言し、そのようになりました。そして、世の終わり再び来ると預言しました。聖書の最後のページ、ヨハネ黙示録22章には「来てください」と御霊が言っています。そして、「『しかり、私はすぐに来る。』アーメン。『主イエスよ、来てください』」で終わっています。マタイによる福音書もそうですが、聖書の特殊性は預言とその成就です。イエス・キリスト以外に、メシアはいない、この方以外に救いはないということになります。私たちはこの方を信じていて良いのです。アーメン。

 

2.律法の成就(特に安息日問題)

もう1つはイエス様は旧約聖書の律法を成就されました。マタイによる福音書の鍵のことばをもう一度お読みします。マタイ5:17-18「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」一点一画という言い方は、ヘブル語の文字からきています。「一点」はギリシャ語ではイオタですが、ヘブル語文字の最小の鍵型をしたヨードのことをさします。このことによって、イエス様はどんなに些細な律法も無視しないで成就するとおっしゃっているのです。今日では、「旧約聖書の律法は守るべきだ」という教会と、「律法は守らなくても良い」という教会があります。ところで、イエス様が最も訴えられたのは安息日のことです。マタイ12章にそのことが記されています。まず、弟子たちは安息日に麦の穂を摘んで食べたときです。パリサイ人たちは「安息日にしてはならないことをしている」と訴えました。しかし、イエス様はダビデが宮のパンを食べたことを引き合いに出して、「ここに宮よりも大きな者がいる、人の子は安息日の主です」と言われました。ご自分が安息日を定めたので、真の意味を知っているというように聞こえます。その後、会堂に入ったら、片手の萎えた人がいました。イエス様を訴えようとしていた人たちに、「羊が安息日に穴に落ちたら引き上げてやらないでしょうか」と言いました。さらに、「安息日に良いことをすることは、正しいのです」と言われ、その人の手を伸ばしてあげました。その他にもイエス様は癒しを行なわれていますが、あえて安息日に人々を癒されたので、ますますユダヤ人から反感を買いました。今日的に安息日はどうなのでしょうか?安息日の律法は出エジプト記20章と申命記5章に記されています。重要なのは、この律法がだれに向けて語られているかということです。十戒は、「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である」(出エジプト20:2、申命記5:6)という書き出しで始まります。良く考えると私たちはイエス様によって贖われましたが、エジプトの地、奴隷の家からは導き出されたことはありません。もちろん、霊的にはそうでありますが、直接的には私たちには語られていません。イスラエルのためでした。律法からの解放についてはパウロが語っていますが、私たちは律法を成就されたイエス・キリストを通して解釈するということが重要だということです。

私たち教会は「安息日を日曜日である」と解釈しています。私は「日曜日の礼拝は、主日礼拝であり、何が何でも守るように」と教えられました。大川牧師は「恵みの律法である」と教えてくださいました。私は洗礼を受ける前から、その教えをずっと守っております。幸い、牧師になりましたので病気や怪我以外はメッセージをしなければならないので、そのようにできました。しかし、これを一般の信徒に律法のように命じて良いのか心の奥底では疑問があります。でも、キリスト教会は2000年以上、そのようにしてきたのでそうしています。これは律法ではなく、イエス様が日曜日の朝、復活したので、人々は日曜日集まるようになったようです。これは定説になっていますが、紀元4世紀、コンタンティヌス帝が作為的に日曜日にしました。なぜなら、当時、ヨーロッパ地方では太陽信仰が盛んだったからです。異教徒たちにとっては、日曜が特別な日でした。だからキリスト教拡大のためにそれを利用したのです。つまり、土着信仰とミックスしたのです。このようなことを言うと、「なあんだ、日曜日には教会に行かなくて良いのか?」となります。極端なことを言えば、新約時代の私たちは、日曜日でなくても、共に集まって神さまを礼拝しても良いということです。よく、教会の案内に「日曜日は教会へ」と書いてあります。もし、日曜日に教会に行く人がクリスチャンであるとしたなら、どうなるでしょう?その人の月曜日から土曜日の生活はどうなるのでしょうか?実際、カトリックの国では、平日、いっぱい罪を犯して、日曜日のミサで懺悔すれば良いと考えている人がたくさんいるそうです。私たちもひょっとしたら、日曜日に仮面をかぶって、「ハレルヤ!感謝します」とか言って、教会の礼拝に来るかもしれません。新約時代は、毎日が礼拝なのです。使徒2章には、「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」と書いてあります。また、香港のベンウォン師は、「教会に行くのは間違っている。なぜなら、私たちが教会だから」と言っていました。そうです。教会は建物ではなく、私たちが教会だからです。結論的にはどうなのでしょうか?「本来なら、毎日集まって主を礼拝すべきなのですが、日曜日の礼拝で勘弁してあげる」というのが本当なのです。

 もし、私が「日曜日は礼拝を必ずしも守らなくても良い」と言うなら、大変なことになるかもしれません。そうではなく、「日曜日も礼拝を守ります」と言えば良いのです。さきほどの、コンタンティヌス帝ではありませんが、日曜日を礼拝をささげる特別な日としたので、良いこともありました。なぜなら、カレンダーが太陽暦であり、しかも、日曜日が週のはじめで、お休みするようになっているからです。歴史的には、国民が教会の礼拝に行くために、日曜日をお休みにしたのです。かつての日本はどうでしょう?藪入りというのがあり、年に二日しか休むことができませんでした。旧暦1月16日と7月16日に、商家などで住み込みの奉公人、結婚した女性が子どもと一緒に実家に帰省することを「藪入り」と言うそうです。つまり、昔は奉公人に定休日などはなく、女性は結婚すると実家の門をくぐることを許されませんでした。年に二日、藪入りだけは実家に帰ることができたのです。しかし、明治9年(1876年)から、日曜日を休日にするということが決まったそうです。一番最初の休みは、明治9年3月12日です。本来、日曜日が休みと言うのは、キリスト教から来ているのです。かつて年に二日しか休めなかったのに、少なくとも週一回は休みになったということは感謝しなければなりません。

創世記1章によると、神さまは七日目に休まれ、その日を祝福し、この日を聖であるとされました。そのことから、私たち人間は「6日間働いたら、1日休むように」と命じられたのです。聖ということですから、肉体の休みことはもちろん、神さまを礼拝して魂の休息も得るということです。バッテリーは休ませると放電してしまいます。しかし、電気の源に繋がって入れば自然と充電されます。私たちも週に一日休み、創造主なる神さまを覚え、キリストの復活のいのちに与かるということが重要です。天国に行ったら、永遠に賛美と礼拝が続きます。この地上での礼拝は天国の先取りであり、祝福であることを覚えたいと思います。

 

3.律法全体の成就

 マタイ5章から7章までは「山上の説教」と呼ばれています。その箇所には、イエス様が旧約聖書の律法を取り上げ、それらを再解釈しておられます。多くの人たちは山上の説教を見て、「これは素晴らしい、崇高な道徳の教えである」と言うかもしれません。でも、良く見ると、生身の人間には実行不可能であり、道徳をはるかに超えています。「ばか者」と言っただけで、地獄の火で焼かれます。情欲を抱いて女を見る者は、姦淫をしているとさばかれます。人を呪っただけでも「殺人」と呼ばれるのですから、私などは何十人殺したか分かりません。でも、なぜ、イエス様は実行不可能なことを教えられたのでしょうか?この箇所を良く見ると、イエス様は旧約聖書の律法を否定しているのではなく、当時の律法解釈を否定しているのが分かります。律法学者とパリサイ人たちは、律法の解説書ミシュナを持っていました。さらにはゲマラという言い伝えも守っていました。イエス様の時代は膨大な数に上っていました。しかし、良く見ると実行不可能な律法を言い逃れができるような解釈をしているのがわかります。マタイ23章に書いてありますが、誓いにおいて、神以外のもの、たとえば神殿や祭壇をさして誓ったなら果たさなくても良いと言いました。最も悪質なのは、自分たちが実行できないことを人々に要求しました。マタイ23:3,4「ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」福音書に「罪人たち」という表現が度々出てきますが、それは律法に無頓着な人たちのことをそのように呼んだのです。また、キリスト教会で良く引用されるみことばはマタイ11章28節でしょう。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」このみことばを当時の世界で解釈するなら、どうでしょう?重荷とは何でしょう?一般民衆は守ることのできない律法を負わせられているということです。これに対して、イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」とおっしゃいました。イエス様は律法のくびきから私たちを解放するために来られたのです。でも、「律法を無視せよ」と言われたのではなく、「私から学びなさい。私のくびきを負いなさい」と言われたのです。つまり、イエス様に従っていくならば、自然に律法から解放されるということです。これは、パウロが言う、御霊によって歩むなら律法に捕えられることはないということです。

 山上の説教を見ても分かりますが、イエス様は神の律法を水増ししたのではありません。イエスは度々このように言われました。マタイ5:21-22「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。…」、マタイ5:27-28「『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。…」、マタイ5:33-34「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」、マタイ5:38-39「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」前半は当時、人々に行きわたっていた律法です。後半はイエス様が律法を再解釈しています。しかも、実行不可能と思われるような困難なものになっています。「一体どうなっているのだろうか?」まともに読んだ人は、音を上げるでしょう。でも、これらは律法の精神であり、律法の神髄です。この後、群衆はその教えに驚きました。マタイ7:29「イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」なぜ、イエス様にこのような権威があったのでしょう?それは、イスラエルに律法を授けた三位一体のお一人だったからです。律法学者やパリサイ人たちは、律法が与えられた意味と目的がわかりませんでした。彼らは律法を守り行うことによって、神に受け入れられると思っていたからです。でも、律法は人間が守るために与えられたのではありません。極端に言うと、自分たちには律法を守れないということを教えるためです。もっというと、律法がなければ罪が何なのか分かりません。律法が与えられたのは、人間には罪があることを悟らせるためです。

 使徒パウロがこのことを詳しく述べています。ガラテヤ3:22-24「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」そうです。律法は「あなたには罪があります。そのままでは、神の前に義とされません」と教えてくれます。人はイエス・キリストを信じるなら、その信仰によって義と認められるのです。律法はあなたをイエス様の救いに導くための、養育係りだったのです。アーメン。今のはガラテヤ書からの引用でしたが、ローマ3章から7章まで、律法の役割がどのようなものなのか長々と書かれています。でも、イエス様はこの律法の要求を成就し、人々が信仰によって救われるという道を設けなければなりませんでした。そのためにイエス様は2つのことをされました。第一は人類の代表として、罪のない生き方をされました。ヘブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」第二は罪を犯した人類の身代わりとなって十字架に死んで、律法を終わらせました。ローマ10:4「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(新改訳三)。キング・ジェームス訳はFor Christ is the end of the law for righteousness to everyone who believes.となっています。律法の反対は何でしょう?それは恵みです。私たちは律法の行いではなく、恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。イエス様があなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)と言われましたが、これはキリストを信じることによって与えられる神の義です。

 では、山上の説教のイエス様の教えはすべて実行不可能なものなのでしょうか?そうではありません。父なる神さまはキリストを信じる者に聖霊を与え、新しく生まれ変わらせてくださいます。それはまさしく、エゼキエルが預言した「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」(エゼキエル11:19)の成就なのです。私たちが聖霊に満たされて歩むとき、実行不可能だと思えるような山上の説教の命令が実行できるようになるのです。本来この命令は、神の御国が完成したときのものであり、御国の律法です。でも、聖霊の導きと助けによって、私たちはこの命令を守りつつ、御国に向かって生きることが可能なのです。アーメン。