律法からの解放はガラテヤ人への手紙の中心的なテーマです。また、今、お読みいただいた箇所は、ローマ人への手紙6章、7章、8章にも書かれています。つまり、ガラテヤ2章の後半は、それらのローマ人への手紙の内容をコンパクトにしたものと考えられます。もし、ガラテヤ2章の後半だけを読むならば、別のテーマになってしまうでしょう。この箇所は「自我の死とかきよめ」について書かれているのではありません。律法からの解放について書かれているのです。
1.律法の目的
律法とは何でしょう?十戒をはじめとする、神さまがイスラエルに与えた戒めです。詩篇119篇は、神の律法を賛美している書物です。119篇には「みおしえ」「さとし」「さばき」「おきて」「仰せ」「戒め」「定め」などと訳されています。本来、律法は私たち異邦人にではなく、イスラエルに与えられた戒めであり、契約していない私たちは守る必要がなかったのです。だから、パウロはケファ(ペテロ)に対して「どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか」(ガラテヤ2:14)と言っています。ユダヤ人はモーセの律法を守り、割礼を受けていました。ガラテヤの人たちは、パウロの福音を信じて救われましたが、ユダヤ人たちは「いや、モーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われないのだ」と主張しました。このことの決着は、使徒15章の「エルサレム会議」でなされることになります。その時、ペテロは「イスラエルが負いきれなかったくびきを異邦人に負わせるな。私たちは主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです」と言いました。ペテロはあのような告白をしながら、ユダヤ人を恐れ、妥協して混乱させるようなことをしていました。だから、パウロは皆の面前で、注意したのです。ガラテヤ人への手紙は、「せっかく恵みで救われたのに、律法主義に逆戻りするな」ということを教えている書物です。私たち日本人はユダヤ人ではなく、異邦人です。律法の知識なくして救われました。ただ、自分は神の前に罪人であり、キリストが十字架でなされた贖いを信じて救われたのです。ところが、信仰生活を20年、30年やっているとだんだん真面目になり、律法主義的になってしまいます。聖書の戒めを守っていない人たちをさばきます。人を切った刀が自分にも返ってきて、自分をもさばいてしまいます。ガラテヤの教会の人たちは、短時間で、ユダヤ教の律法にはまっていきました。残念ですが、私たち日本人は長い時間をかけて、ユダヤ教の律法にはまってしまう傾向があります。いわゆるパリサイ人や律法学者のような冷たいクリスチャンになってしまうのです。ある教会に行くと、水が凍るほど冷たい教会があるそうです。神の戒めを守ることは良いことですが、恵みを忘れたクリスチャンになってはいけません。
私たちは、そもそも「律法が何のために与えられたのか」その目的を知る必要があります。律法はアダムに与えられたのではありません。エジプトから贖われたイスラエルに与えられたものです。出エジプト20:2「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。…」と十戒が記されています。律法は出エジプト記だけではなく、レビ記、申命記、民数記にも記されています。神さまとの関係のもの、社会的なもの、宗教的なものがあり、今日の刑法や民法と重なるものもあります。バビロン捕囚から帰って来たユダヤ人は、律法を集めて、それらをどのように守るべきか書物まで作りました。ところが、聖書で言っていない言い伝えまで作ったので、イエス様はそのことを批判しました。つまり、律法の本当の目的からそれていたのです。彼らは律法を守り行うことによって、神から受け入れてもらえると考えたのです。パウロはそのことを「神から義と認められること」と解釈しました。義と言う表現は、法的なものであり、私たち異邦人にはなかなか分かりません。クリスチャンになってはじめて、「神の義」ということを学ぶわけです。ちなみにヨハネ福音書には「義とされる」と言う表現はありません。「信じて救われる」「信じて永遠のいのちを得る」と書いています。しかし、パウロの書簡を見ると、「神の義」をいうユダヤ人的な救いの表現がたくさん出てきます。では、私たちのような異邦人クリスチャンが、律法とか、義とされることを学ばなくても良いか、というとそんなことはありません。なぜなら、義の教えは固い食物(Ⅰコリント3:2)だからです。もし、「信仰によって義とされる」という意味の救いを本当に理解するなら、サタンに訴えられても信仰が揺るぐことがないかです。
律法は何のために与えられたのでしょう?パウロはローマ7章において、「むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう」と言っています。つまり、「隣人のものを欲しがってはならない」と言っているので、「ああ、これはむさぼりの罪だな」と分かるのです。パウロはガラテヤ3章で、「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」と言っています。つまり、どんなに正しい人であっても神の律法に照らし合されたら、「あなたには罪がありますよ。あなたは罪人ですよ」と認めざるを得なくなるのです。その次に、キリストの十字架の贖いを語るなら、「ああ、私はキリストが必要です」と願うようになります。私はこれまで、「キリストを信じるだけで永遠のいのちが与えられるのですよ」と勧めてきました。しかし、それだけでは、人は信じません。たとえ、信じても本当の救いになりません。なぜなら、「自分には罪があって、このままでは神の前に立つことが出来ない」ということが分かっていないからです。何のためにイエス様が十字架にかかられたのか?それは私たちが、罪あるままでは、滅びに行き、最後にはさばかれるからです。イエス様が私たちの罪を負い、代わりに神からさばかれたので、私たちは救われるようになったのです。そのことを理解してもらうために、神の規準である律法を語って罪を示し、行ないではなく、信仰によって救われる道を説くしかないのです。「あなたには罪があるので、このままでは救われない」と言うと躓くかもしれません。しかし、律法によって罪を示さない限りは、罪の赦しと罪の贖いである十字架を理解できません。医者がはっきり病名を知らせてから治療するように、人が、自分が罪人であることを認めて、救いを求めなければ、本当の救いは得られません。律法はキリストに導く養育係だからです。
2.律法からの解放
ガラテヤ2:19-20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」きよめ派の教会では、自我の死、きよめの経験の箇所として度々、引用されます。もちろん、そのように適用しても悪いことはありません。でも、19,20節のことばは、律法からの解放について語られています。なぜなら、それがガラテヤ人へ手紙のテーマだからです。パウロは私たちが「どうしたら、律法から解放され、そして、律法を守ることができるのか」ということを教えているのです。この箇所はローマ人への手紙6章、7章、8章と照らし合わせて読まなければ、本当の意味を悟ることができません。なぜなら、このたった2節は、ローマ人への手紙のそれらの箇所を非常にコンパクトに要約しているからです。そもそも、なぜ、私たちは律法から解放される必要があるのでしょう?前のポイントでは、律法は私たちに罪を示し、キリストに導く養育係であると申し上げました。パウロはイエス様を信じた後も、この律法が「あなたには罪がありますよ。まだ、あなたは神の前に義とされていません」と主張するからです。そのことをパウロはローマ7章で悩みながら告白しています。ローマ7:9「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。」この後、パウロは「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫んでいます。どういうことかと言うと、律法は良いものであることを知っていますが、自分の肉が律法に反応して逆らって罪を犯させ、最後には死んでしまうということです。つまり、クリスチャンは信じた後、肉があるために、律法を守りきれず、律法が「まだ、あなたには罪があります」と訴えて来るということです。「せっかく、救われたのに、こんなに苦しむなんて聞いてないよ!」と言いたくなります。
ガラテヤ2:19-20のみことばは、むしろ、キリストを信じて救われた人が、「ああ、そういうことなんだ」と再発見する箇所なのです。これらは信じたときから与えられていた真理なのですが、経験して自分のものとするためには後になってしまうということです。ガラテヤ教会の人たちはパウロの福音を信じてから数か月、あるいは数年後でした。しかし、私たち異邦人は鈍いので、数十年後になるのです。下手をすると、ユダヤ人のような律法主義になる場合もあります。そういう訳で、私たちは自分たちがどのようにして律法から解放されたのか、改めて知る必要があるということです。私たちが律法から解放されるために必要なことは何でしょうか?第一は、「私は律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」という事実を認めることです。本来、律法は死にません。イエス様は「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません」(マタイ5:18)と言われた通りです。律法は、永遠であり、不滅です。では、どうしたら良いのでしょう?私たちが律法に死ぬしかありません。ローマ6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」アーメン。キリストが十字架で死なれたとき、私たちも一緒に死んだのです。死んだ人に対して、律法は何もできません。だって、死んでいるのですから、訴えることはできません。つまり、私たちはキリストのともに死んだので、律法の訴えからは解放されているのです。そして、キリストと共によみがえり、今度は、律法ではなく、キリストと結びつけられたのです。パウロは「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです」(ローマ6:14)と言っています。また、パウロはそのことをローマ7章で結婚のたとえを用いて教えています。夫は律法であり、妻は私たちのことです。生きている限り、夫である律法は細かなことを口うるさく要求し、罪をあばきます。この律法はとっても丈夫で、死にそうもありません。別れて、他の男のものとなれば、姦淫の女性と呼ばれてしまいます。どうしたら良いでしょう?自分が死ねばよいのです。でも、死んでしまったらおしまいです。幸いに、キリストが十字架で死んだとき、私も死んだのです。私たちはそのことを認めれば良いのです(ローマ6:11)。そして、キリストと共によみがえりました。あなたの新しい夫は、恵み深いイエス・キリスト様です。
平野耕一牧師が『これだけは知ってもらいたい』という本で述べています。「あなたは新しいパラダイムの中で生活し始めたのです。あなたの新しい夫は、復活されたイエス・キリストです。今まで律法と生活をしてきて、律法が絶えず私たちの過ちや失敗を指摘してきたのですが、今は律法に死んでしまったので、キリストと共に生きているのです。新しい夫は心優しくで、忍耐深いのです。…残念なことがあります。多くのクリスチャンは、意識の上で未だ二重結婚の状態にあります。律法との離婚が成立したことをまだ知らないからです。せっかく新しい夫であるキリストとの生活を楽しめずはずのあなたは、古い夫である律法と共同生活をしているのです。甘い二人だけの夕食のテーブルに、邪魔な律法がずうずうしく座り込んでいます。そうなると、楽しいはずの食事も台無しになってしまいます。」非常にショッキングな描写です。実は、このようなクリスチャン、特に真面目なクリスチャンに多いのです。律法に対して一度、死んだにも関わらず、律法に助けを求め、律法がなければ正しい信仰生活は送れないと思っています。しかし、律法は「これで良い」とは決して言ってくれません。「まだ、足りない。もっとできるはずだ」と要求してきます。律法は100点満点の100点を求め、ダメ出しの専門家です。一方、恵みはどうでしょう?「あなたはできる。私が一緒にいるから」と言ってくれます。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」多くの教会は、「私は死んだ」と言う19節しか言いません。そうではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
3.律法と恵み
マルチン・ルターは「キリストを信じて救われた後は、律法は不要である」と言いました。一方、ジョン・カルヴァンは「聖徒の訓練のため必要である」と言いました。その証拠に、カルヴァンが設立した教会はいろんな戒律がたくさんあります。ルターは「律法と福音」を対立させて、信仰義認を主張しました。でも、本来は「律法と恵み」が対立するものとして、取り上げられるべきではないかと思います。では、どうして私たちは救われたのに、律法を守ることができないのでしょうか?「いや、律法は守る必要はない」と言うことも可能かもしれません。でも、そうでしょうか?律法とは、詩篇119篇にあるように、主の「みおしえ」「さとし」「さばき」「おきて」「仰せ」「戒め」「定め」であります。イエス様はたくさんある律法を、主を愛することと、隣人を愛するという2つにまとめました。「愛する」ということも律法であります。そのように考えるなら、律法は旧約聖書だけではなく、新約聖書にもあります。ヨハネは「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(Ⅰヨハネ5:3)と言いました。口語訳聖書は「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」と訳しています。つまり、新約聖書の私たちの時代にも、神からの命令、戒めがあるということです。つまり、律法は相変わらず生きているということです。問題は、私たちの中にはそれを守り行う力がないということです。パウロは自分に肉があるので、律法が来たら自分が死んでしまうとローマ7章で言いました。しかし、ローマ8章では「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。…それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」と言っています。突然、御霊のことが書かれていますが、これはガラテヤ書で言う「私のうちに生きておられるキリスト」のことなのです。御霊とは、私たちの内におられるキリストの御霊のことです。もし、私たちは生まれつきの力、つまり肉でやろうとすると必ず失敗します。そうではなく、私の内に生きておられるキリストと一緒にやるとキリストが成功させてくださるのです。
パウロがガラテヤ2章後半で「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私は神の恵みを無にはしません。」と言っていますが、これが律法ではなく、恵みによって生きるということなのです。つまり、私たちが救われたのも神の恵みですが、救われた後も、神の恵みによって歩むのです。律法によって歩むなら、「あなたにはここが足りない。まだ不十分だ」と指摘します。でも、恵みによって歩むなら「もう十分だ。すごい」と言ってくれます。図解して言うなら、律法はマイナスから、プラスへと向かう生き方です。一方、恵みはプラスから、プラスへと向かう生き方です。なぜなら、キリストにあってすでに義と認められているので、これ以上、神さまから義と認められる必要はないからです。律法はあなたが既に義とされていることを偽っているのです。律法は、「あなたが、神に受け入れられるためには、こうしなければならない」と要求します。それは嘘です。あなたはキリストを信じたときに義とされ、その時、神さまは満足されました。そのため、あなたはこれ以上、神さまを喜ばせるために何かをしなくて良いのです。パウロはローマ8章15節で「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。」と言いました。アーメン。奴隷は主人を恐れて生きています。「何か実行不可能なことを言い付けはしないだろうか?」とビクビクしています。一方、神の子どもは、「アバ、父」と呼んで、親しく交わることができます。なぜなら、神の子は、父なる神さまを無理して喜ばれる必要がないことを知っているからです。私には4人のこどもがいますが、「パパを喜ばせてあげよう」と緊張している姿を一度も見たことがありません。たまには、喜ばせてくると有り難いのですが、ぶっきらぼうに何でも要求してきます。「パパ、申し訳ありませんが、これをこうしていただけないでしょうか」と言ったら、「おい、大丈夫か?熱でもあるんじゃないのか?」と首をかしげるでしょう。親孝行の「コ」の字もありません。なぜなら、父親は子どもたちの存在そのものを喜んでいるからです。
ガラテヤ5:1「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」英語の詳訳聖書には「この自由の中で、キリストは私たちを自由にし、完全に解放してくださいました。」と書いています。単に自由にしただけではなくて、completely liberated us.完全に自由にするということです。「くまのみ(ニモ)」というかわいらしい魚がいます。本来なら、小魚にとってイソギンチャクは恐ろしい存在です。その触手によって捕えられ、餌となってしまうからです。でも、くまのみは、触手の刺に順応する能力を身に着けています。しかも、捕食者に脅かされると、イソギンチャクの中に一時的に逃げ込み、姿をくらまします。そして、敵がいなくなると、またイソギンチャクの近くを泳ぎ始めるのです。私たちにとって、律法は無害なものとなりました。なぜでしょう?ガラテヤ3:13「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。」本来、呪いの象徴である十字架が、私たちにとっては律法から解放される恵みの手段となったということです。私たちは異邦人であり律法のないところから信仰によってのみ救われました。ところが、聖書を学んでいくうちに律法と出会いました。律法は、「あなたには罪がある」「あなたはまだ足りない」と指摘してくれます。そのような気づきは良いことですが、ユダヤ人のように律法を守って、神からの好意を得ようと行いに走ります。しかし、律法は「これで良い」とは言ってくれませんでした。キリストの十字架は信じて義とされるためだけではなく、信じてからも有効でした。キリストと共に死んで、キリストと共によみがえった存在であることを知りました。一度、死んだことによって、律法から解放され、今度はキリストと結ばれました。生きているのは古い私ではなく、キリストを信じる新しい私です。新しい私はキリストと一緒に生活します。内におられるキリストの御霊が律法を守らせてくださるのです。