2022.8.28「三種類の発言 マルコ11:23」

この世では、ことばは単なる口から発する音波としか考えないかもしれません。また、「ただ、言っただけだよ」とことばを重要視しないところがあります。しかし、キリスト教会では私たちが発することばをとても重要視しています。なぜなら、私たちが発することばによって救われ、あるいはさばかれたりするからです。きょうは「言う」「告白する」「断言する」と3つのポイントで学びたいと思います。

1.言う 

「言う」とは、私たちが口から発することばです。マルコ11:23「まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」欽定訳聖書では、言うはsayとなっています。イエス様は「言え」とおっしゃり、「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになる」とおっしゃいました。単に思っているだけではなく、口で言うことが奇跡を生み出すということです。創世記1章には、神さまご自分が発したことばによって世界が創造されたことが記されています。創世記1:3「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」「仰せられた」は丁寧な表現ですが、「神は言った」ということです。ヘブル11:3「この世界が神のことばで造られた」と書かれています。私たちも信仰によって、口から発したことばが現実のものになるとしたら、ものすごい発見ではないでしょうか?日本では有言実行よりも、不言実行の方が尊ばれます。なぜなら、口で言ったのに、それをしないならば「不誠実」と思われるからです。ですから、常識ある人たちは極力、実行できそうもないことは口に出さないことにしています。ヤコブは、「舌は体全体を汚す」と言っていますが、同時に「舌には体全体を動かす力がある」とも言っています。ですから、私たちが口から発することばを正しく用いるなら創造的なことが起るということです。

 一章手前のマルコ10章には、道端で物乞いをしていた盲人のバルテマイのことが記されています。彼はイエス様を立ち止まらせようと、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と大声で叫びました。そのため、人々が彼をイエス様のところに連れてきました。イエス様は彼に「私に何をしてほしいのですか」と言われました。するとバルテマイは「先生。目が見えるようにして下さい」と言いました。そこで、イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言われました、すると、すぐに彼は目えるようになり、イエス様について行きました。イエス様は彼の願いが分かっていたはずです。でも、あえて彼の口から、「何をしてほしいのか」と聞きたかったのです。彼は、はっきりと「目が見えるようにして下さい」と言いました。彼は心の中で疑わないで、自分が言ったとおりになると信じて、そのように言ったのです。イエス様は「この人物は、私には目を開ける力があると信じてそのように求めたのだな、そうしてあげよう」と、お考えになったに違いありません。ということは、私たちもイエス様に求めるとき、口ではっきりと願う必要があるのだということがわかります。その点、日本人は遠慮深いというか、奥ゆかしくて、はっきり物事を言いません。「良いものであれば何でも」とか、言ったりします。私が座間キリスト教会で奉仕していたころ、青年会の姉妹がすくっと立ち上がって、「私は結婚したいです。どうか、相応しい男性が与えられますように祈って下さい」と言いました。礼拝だったか、祈祷会だったか忘れましたが、「はっきり言うなー」と、心臓がどきどきしました。しかし、その姉妹は、半年もたたないうちに良い人が見つかり結婚しました。そのとき、「はっきりと求めることは効果があるものだなー」と感心しました。長男の朝陽が幼稚園生のとき、クリスマス会があり、サンタさんが一人一人にクリスマスプレゼントを配りました。朝陽が袋を開けて、「願っていたものと違う!」と大声で泣き叫びました。それを見ていた、牧師夫人の道子先生は「まあ、この子は!」とあきれた顔をしていました。そのとき、子どもの純粋さに恐れを覚えました。

 イエス様は「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者は」とおっしゃいました。言い換えると、口で言うことと、心で思っていることが違っていてはならないということです。心の中では「きっと無理だろうな」と疑っているのに、口で「そうなるように」と言うのは、全く効果がないということです。大人になると、利口になり、心で思っていることと、口で言うことが違ってきます。ヤコブは「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです」(ヤコブ1:6-8)と言いました。「二心」は英語ではdouble mind 原文では「どっちつかずの」であります。つまり、one mind 1つ心が重要なのです。その点、子どもは父親にはっきりと求めます。子どもには駆け引きもなければ、ためらいもありません。自分の欲しいものをストレートに求めます。イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われましたが、その後、このようなことを言われました。マタイ7:9「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。…天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と言われました。この所で不思議なのが、「パンと石」、「魚と蛇」と対比されていることです。ユダヤではパンは堅くて石に似ています。また、蛇というのはガリラヤ湖に住む1メートルもあるうなぎです。ユダヤでは鱗のない魚は食べることが禁じられていました。つまり、子どもがはっきりと口で「パンを求めているのに食べられない石を与え、魚を求めているのに食べられない魚を与えて」、意地悪する父親はいないということです。ましてや天の父に、私たちが「これを下さい」と願っているのに、まがいものを与えるようなことはないということです。「神様はケチなので、聞いてくれれば、もうけものだ」みたいな求め方をしてはいけません。はっきりと、バルテマイのように自分の口から「〇〇を下さい」と告げるべきです。イエス様は「あなたの信仰のようになるように。あなたの信仰があなたを救ったのです」とそのような信仰を喜んで下さいます。

2.告白する

 「告白する」は、英語でconfessです。ローマ人への手紙10章に「告白する」という表現が出きます。ローマ10:9-10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」このみことばは、私たちが救いを受けるときによく用いられますが、いくつかの誤解もあるようです。第一の誤解は、「心に信じるだけではダメで、口で告白して救われるのだ」という考えです。しかし、これはパウロの論法であり、同じことを、表現を変えて述べているのです。つまり、人は心で信じることにより義と認められる、つまり救われるのです。このことは、ローマ3章とガラテヤ3章にも書かれている「信仰義認」のことです。しかし、パウロは「口で告白して救われるのです」とも述べています。これはどういう意味でしょう?イエス様はマタイ12章34節で「心に満ちていることを口が話すのです」と言われ、37節では「あなたは自分のことばによって義とされる」と言われました。つまり、その人が本当に心で信じているのなら、口から告白として出てくるということです。その結果、他の人たちが「ああ、この人は本当に救われている」ということが分かるのです。もう1つの誤解は、自分一人で信じるだけではダメで、公に信仰を告白しないと救われないという考えです。そのためキリスト教会では、洗礼式の時など、公に告白することを勧めます。もし、そうであるなら、独房にいる人や無人島にいる人は、告白を聞いてくれる人がいないので、救われないことになります。このみことばの意味は、人々にではなく、神さまに告白するということです。信仰の告白は神様との契約を結ぶ意味もあり、とても重要です。

 ローマ人への手紙は信仰義認がテーマであるのに、何故、この10章で口で告白しなければ救われないみたいなことが言われているのでしょうか?このところは、宣教について書かれているからです。パウロたちはユダヤ人たちを伝道しました。でも、彼らはイエス様を信じませんでした。パウロは「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にありますよ」と言いました。つまり、宣べ伝えられている信仰のことばを受け入れたなら、救われるということです。でも、どうやったらその人が救われたどうか、わかるのでしょう?それはその人が自分の口で「イエスを主」と告白したら分かるということです。つまり、福音を聞いて、その人が本当に信じたかどうかは、言ったことばで分かるということです。だから、告白の重要性をここで語っているのです。私も伝道するとき、「イエス様を信じますか?」と問いかけた後、「はい」か「いいえ」の返事をいただくことにしています。「はい」と言えば、その人が信じて救われているという証拠になるからです。でも、中には心に信じていないのに、口先だけで「信じます」と言う人がいます。牧師にお世話になっているから、あるいは信じると言っておけば、この場を逃れられるからという人間的な理由からです。でも、それはとても恐ろしいことです。十戒の9番目は「偽りの証言をしてはならない」とあるからです。私たち人間には分かりませんが、神さまには分かります。口で告白することの重要性は、それが神さまと契約を交わすことだからです。

信仰の告白と同時に、罪の告白も新約聖書の中に書かれています。Ⅰヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」このところに「罪を告白する」とありますが、これはイエス様を信じたクリスチャンに対する勧めであり、保証です。前にも言いましたが、イエス様を信じるとき、これまで犯した具体的な罪を1つ1つ、告白する必要はありません。自分が罪人であることを認め、イエス様を信じるという告白をすれば良いのです。これはクリスチャンになってから犯した罪であり、また、罪の性質です。イエス様を信じて、洗礼を受けたクリスチャンはすべての罪が赦されたはずです。なのに、自分の罪を告白すべきなのでしょうか?どういう意味かというと、私たちの行いの罪、複数形の罪は十字架の血潮によって赦されました。もう一度言いますが、クリスチャンになってから罪を犯すこともあります。また、私たちの肉の中に染み込んでいる、習慣化した罪があります。この罪を神様の前に告白して、罪を捨て去る必要があります。そうすれば、神さまが罪を赦すだけではなく、すべての不義からきよめてくださいます。これは懺悔しなさいという意味ではありません。懺悔の中には「罪を悲しむ、残念に思う」意味が含まれています。しかし、「告白する」のギリシャ語はホモロゲオウであり、「同じことを言う」という意味です。他に「白状する、承認する」という意味があります。「もうしませんから」とか「心から悔やんでいます」という意味は含まれていません。また、「お詫びのしるしに〇〇します」という償いをする必要もありません。なぜなら、イエス・キリストの十字架によって過去、現在、将来の罪もすでに赦されているからです。私たちの一生分の罪の代価が既に支払われているからです。

クリスチャンになるときは、丸ごと包みに入れた罪を神様の前に差し出して、罪の赦しをいただきました。しかし、クリスチャンになった後、信仰生活に影響を及ぼしている過去の罪があるならば、それを神様の前に告白する必要があります。そうすれば、これまで自分を縛っていた罪の性質や罪の力から解放されるということです。エペソの町は、女神アルテミスを拝む偶像の町でした。また、多くの人たちは魔術を行なっていました。彼らが解放を受けるためにどのようにしたのでしょうか?使徒19:18-20「そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは力強く広まり、勢いを得ていった。」エペソの人たちは自分たちの行為を告白し、魔術の書物を皆の前で焼き捨てました。そうすることによって、罪や悪霊から解放されたのです。私たちも自分が悪習慣や悪霊にどこかを捕えられているなら、その罪を告白し、解放をいただく必要があります。この罪の告白はクリスチャンになるためのものではなく、クリスチャンになってからのものです。ヨハネは黙示録3章で「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい(3:19)」と勧めています。

3.断言する

 「断言する」affirmは、自分の信仰を口に出してはっきり言うということです。告白よりももっと強い表現であり、宣言と言っても良いかもしれません。ある企業では社員教育のため、アファメーションをさせます。たとえば、「私には偉大な能力がある」「今月の売り上げは必ず伸びる」と大声で言わせます。おそらく、彼らにとって、アファメーションとは「積極宣言」のことだと思います。啓発セミナーでも、アファメーションの力というものを教えるかもしれません。しかし、心で本当に思っていないことを、口で宣言するというのは、脳にも体にも良くありません。自分が思っていることと違うことを言ったり、行動するのは脳に良くないと言われています。脳が混乱し、最終的には病気になってしまいます。聖書的には、自分で本当に思っていることを断言するということです。でも、そのようなことをする根拠が聖書のどこに書いてあるのでしょうか?詩篇を読むと、ダビデが、主がどういうお方であるか、また主にあって自分がどういう存在なのかをはっきりと断言している箇所がたくさんあります。

 詩篇18:1-3「彼は言った。わが力なる主よ。私はあなたを慕います。主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。」ダビデは主がどんなお方であるかを断言しながら、ほめたたえています。そして、自分を敵から救って下さると言っています。これは自分の信仰をはっきりと主の前で述べているということです。少し飛んで、18:30-33「神その道は完全。主のことばは純粋。主はすべて主に身を避ける者の盾。主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いてだれが岩でしょうか。神は私に力を帯びさせ私の道を全きものとされます。主は私の足を雌鹿のようにし高い所に立たせてくださいます。」ダビデはサウル王から妬みをかって、命を狙われます。そのため、13年間も荒野や洞窟を逃げ回ることになります。ダビデは戦略家であり、また勇者だったので、サウル王を殺すこともできました。しかし、「主に油注がれた者に手を下すことはできない」と、チャンスが何度もあったのにしませんでした。ダビデは自分の胸のうちを主に告白し、救いを求めました。そして、時にはこのように、主がどのようなお方であるか、また、自分は主にあってどのような存在かを断言しています。私たちが逆境の中で苦しんでいるとき、ダビデのことばから多くの励ましを受けることができます。

 私たちは多くの場合、悩みの中にあるときうなだれてしまい、祈りの声も小さくなりがちです。祈っているのか、うめいているのか分からないときもあります。主の前に心を注ぎ出していると、急に、信仰が湧いてきます。暗闇に一筋の光が見えてきます。その時、顔をあげて「主よ、私はあなたを信じます。あなたは私の救い主、王の王、主の主です。人にはできないが、神にはできます。アーメン」と、知らずに声を出して祈っている時があるのではないでしょうか?これこそが、聖霊からやってくる、信仰の告白であり、また断言です。悪魔はそのような断言を聞くことが大嫌いです。私たちが泣きわめき、「もうだめだ」と言っているなら、「ああ、そのとおりだ」と悪魔は喜んでいます。しかし、私たちが顔をあげて、主の力と勝利を断言すると、「なんだ、こいつは?急に勇者になって!」と震え出します。私たちが追いつめられるときは、主が私たちに働いて下さるときでもあります。何でもないときは、感じなかったのですが、逆境に立たされると神さまの力と臨在を覚えることができるのは不思議です。これまでは信仰に立つと言いながら、目に見えるものや、自分の知恵や力に頼って来たかもしれません。ところが、そういうものがあてにならなくなると、本当に頼るべきものは何かが見えてくるものです。まるで、雲の合間から光が差してきたようです。その時に主の名を呼ぶのです。ハバクク3:17-19「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」ハバククはユダ王国が滅びるときに活躍した預言者ですが、人々は主に逆らい、状況は最悪へと進んでしまいました。でも、彼はこのように信仰の告白、断言をしました。彼が言ったことば「義人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)は新約聖書に何か所も引用されています。

 心にないことを断言するのは、偽り者であって、全く力がありません。むしろ、それでは病気になります。私たちは心にあることを断言するのです。でも、最初はあまりにもかすかであって、確信がないかもしれません。でも、内におられる聖霊が私たちの霊に語りかけてくださいます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」(ローマ8:31)と。すると、自分の霊が魂に訴えます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」と。すると、自分の思いが確信に満たされ、口が断言します。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」と。すると、それを耳で聞いている自分自身が、アーメン。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」と、まるでこだまするように、自分の中に確信がやってきます。しかし、その断言を聞いているのは自分だけではありません。敵である悪魔も聞いています。また、私たちを助けている御使いたちも聞いています。さらには、御座におられるイエス様も父なる神さまを聞いておられます。ですから、神さまから与えられた信仰のことばを口に出し、断言することは自分だけではなく、やがては環境すらも変える力があるのです。

きょうは、ことばは単なる音波ではないことを学びました。言うこと、告白すること、断言すること…だんだんと力の度合いと、声の音量が増すような感じがします。いつも断言していると、人からも神様からも「うるさい」と言われるでしょう。ですから、口で言ったり、告白することも必要です。ヤコブは「舌は不義であり、火のようです」と言いました。しかし、舌を正しく用いるならば、からだ全体を思いどおり動かし、強風を受ける人生であっても、思い通りのところに行くことができます。もし、主にあって思い通りの人生を生きたいならば、信仰的なことを言い、信仰的なことを告白し、信仰的なことを断言することが何よりも肝心なことだと思います。