昔は「らい病(ハンセン病)」とこの箇所を訳しましたが、それは英語のleperをそのまま訳したからです。新改訳聖書の「ツァラアト」は、旧約聖書のヘブル語名をそのまま日本語読みにしたものです。なぜなら、旧約聖書ではハンセン病だけではなく、家のカビまでも含まれ、広い意味があったからです。呼び名を変えれば良いとは思いませんが、聖書の時代はその人が風上にいた場合は、「私は汚れた者です」と注意を呼びかける必要がありました。実際、ハンセン病は人々から隔離され、戸籍までも取り除かれたという悲しい歴史があったことを忘れてはいけません。
1.癒しはみこころか?
マタイ8:1-3「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、『主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります』と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」新改訳聖書2017はこのように訳していますが、原文は少しニュアンスが違います。「もし、あなたが望むのであれば、あなたは私をきよめることができますが?」となります。口語訳は「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」となっています。新共同訳は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」となっています。ですから、私はあえて「みこころ」と訳したいと思います。なぜなら、その方がマタイ6章の「主の祈り」の「みこころ」と一緒に語ることができるからです。とにかく、ツァラアトに冒された人は「主よ、もし、みこころならば、私は癒されるのですが」と言ったということです。英語も原文も「もし」が入っています。ということは、この人物は、自分の病気が癒してもられるのかどうか分からないということです。言い換えると、「もしかしたら、私の病気がいやされることは主のみこころではないかもしれない」という考えがあったということです。特に、このツァラアトが、昔でいう「らい病」であれば、神さまから呪われた病気であると考えられていたからなおさらのことだったのでしょう。でも、イエス様は彼にどう答えられたでしょうか?「私の心だ」と訳していますが、英語の聖書はI’m willing.です。原語から言うと「望みますよ」ということです。つまり、病の癒しは、主のみこころであり、主が望むことだということです。
でも、どうでしょう?現代の多くの教会は「病の癒しはすべてが主のみこころではない。主が許された病もあり、その病によって、神さまの栄光を現す道もあるのだ」と言います。あるいは、「聖書が完成した現代では、そのような奇跡は不要になった。今はもう止んでしまった」と言って、医者やお薬を推奨するでしょう。このことは、次のポイントで取り上げたいと思います。このツァラアトに冒された人物のことば「主よ、もし、みこころならば、私は癒されるのですが」は、どのような信仰から来ているのかということを最初のポイントで取り上げたいと思います。おそらく、この人物はイエス様の「山上の説教」を全部ではなくても、ある程度、聞くことができたのではないかと思われます。なぜなら、マタイ8章冒頭に「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し…」と書いてあるからです。彼は群衆の中にいたのです。でも、自分はツァラアトに冒されているため、間近にイエス様のおことばを聞くことができなかったのでしょう。でも、彼はイエス様を「主」と呼び、礼拝していますので、神さまに対する信仰があったと思われます。それでも、自分の病が癒されるかどうかは分からなかったのです。「山上の説教」の主が弟子たちに教えた祈りはとても有名です。そこには「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」(マタイ6:10)という祈りがありました。マタイ8章「みこころならば」と、こちらの「みこころ」は動詞か名詞の違いだけで、もとは同じことばです。主の祈りは何と言っているでしょうか?「みこころが天で行われるように、地でも行われますように祈れ」と言っているのです。
しかし、どうでしょうか?多くの人たちは「みこころが天で行われるように」で思考が停止します。その時点で、自分の知性を未知なる神さまに委ねてしまうのです。だから、「みこころなら癒してください」と祈ってしまうのです。でも、日本語の聖書も、英語の聖書も、それで終わっていません。読点(とうてん)、英語ではカンマがついています。次のことばがあるということです。「、(読点)地でも行われますように」となっています。これは「天において行われているみこころが、この地でも行われるように」ということです。「みこころが天に行われるように、地にも行われますように」であり、単に「みこころのままに」ではないということです。天においてはどうでしょう?病気は1つもありません。精神的に病んでいる人もいません。目の見えない人、耳の聞こえない人、手足の不自由な人もいません。酔っ払いも、罪の匂いのする人もいません。この世では肉体的な障害を表現するのにとても気を使います。ほとんどが、差別用語でできたことばだからです。表現法はともかく、天においては病気も体の不自由な人もいません。足の萎えていた人は、鹿のようにとびはねています。口をきけなかった人は喜び歌っています。「そのような天において行われているみこころが、地においても行われますように」ということなのです。私たちの祈りは、「天になされていることを、この地にもなされるように」という祈りなのです。ですから、「みこころならば」と言う、言い訳じみた祈りは、全く必要はないのです。
ツァラアトに冒された人は「主よ、もし、みこころならば、私はきよめられるのですが」と問いました。イエス様は何とおっしゃったでしょうか?「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。つまり、この男性の病が癒されるのは、主のこころであったということです。英語の聖書は“I am willing”「私は望んでいる」「私はそうしたい」という意味です。イエスさまはまさしく、天でおこなわれている標準的なことを、この地にもたらしてくださったのです。イエス様は、父のみこころを行なうめにやって来られた救い主です。イエス様は「私のうちにおられる父が、ご自分のわざを行なっておられるのです」(ヨハネ14:10)とも言われました。
2.癒しは今もあるか?
これは、このことを聞いて奇異に思われるでしょうか?近年、キリスト教会は病の癒しを行なわなくなりました。聖書における時代区分が強調され、「聖書が完成した現代では、そのような奇跡は不要になった。今はもう止んでしまった」という説が生まれました。現代においても、聖書の記述内容をそのまま信じているのに、「使徒たちが去った今の時代にはない」と主張する教会がたくさんあります。ランディ・クラーク師がAuthority of heal『癒しに対する権威』という本でこのように述べておられます。
教会における神の癒しの流れを阻害する主な要因は、cessationism(停止論)の教義にあります(cessationは「休止、中止、停止という意味」。停止論(停止主義)とは、聖書に出てくる癒しや奇跡はすべて歴史的なものであるという考え方です。神は御子イエスや初期の弟子たちを通して奇跡や癒しを行われたが、それは使徒たちの著作を通して正しい教義を確立するためであり、それがやがて聖書となったと信じています。正しい教義が確立されると、癒しや奇跡、異言、異言の解釈、預言は必要なくなったので、それらはなくなりました。預言の賜物を説教と再解釈する人もいました。さらに停止主義では、もし奇跡や癒しがまだ可能であるならば、聖書の正典は閉じていないはずで、もっと多くの聖書があってもよいとしています。しかし、聖書の正典は閉じられており、奇跡や癒しはメッセージやメッセンジャーを認証するためのものだったので、癒しの賜物はもはや存在しないのです。神が執り成しの祈りに応じて介入することはほとんどなく、介入は規範として期待されるのではなく、規範に対する稀な例外として期待されることになります。この500年間、自由主義者や停止論者のプロテスタントの牧師たちは、北米やヨーロッパの教会に対して、癒しの賜物や奇跡の働きが教会に存在することを信じず、期待しないように教えてきました。彼らは、義認以外の力のない福音を伝えてきました。そのため、20世紀から21世紀にかけて、レイキ、セラピューティック・タッチ、ヒーリング・タッチなどのエネルギー・ヒーリングに目を向ける人が多くなりましたが、これらはキリスト教的な世界観ではありません。
私は今から150年前の伝道者、John G. Lakeの癒しの本を読み終えたばかりです(2021.5.13)。彼は「癒しは止んでいない、続いている」という証拠を教会の歴史をたどって述べています。コンスタンティヌスがキリスト教を国教としたことで、教会に異教の洪水が押し寄せ、救い主であり癒し主であるキリストへの信仰の活力が失われました。大勢の不信心な人々が、キリストについての知識をほとんど持たずに教会に入ってきて、多くの異教の風習や習慣を持ち込み、そのうちのいくつかはすぐに教会で優勢になりました。その中には、体の癒し手であるキリストではなく、人間への信頼がありました。孤立した神の聖徒やクリスチャンのグループが、神をひたすら信頼し、神が癒し手であることを証明したことは、あらゆる世紀の教会の経験に見られます。近代では、フランスのユグノー(Huguenots)と呼ばれる人々が神への信仰に優れていました。彼らの多くは意識的に聖霊のバプテスマを受け、聖霊の力によって異言を語る者が多かったと歴史に記録されています。病人は、イエス・キリストへの信仰と按手によって癒されました。多くの人が聖霊によって預言しました。これらの点で、ユグノーは新約聖書の原型となる教会を再現していたのです。
ワルドー派の人々は、キリストを癒し主として知り、素晴らしい癒しの事例を数多く記録しています。プロテスタントが登場し、現代の大教会が設立されると、癒し主としてのキリストについての知識はほとんどなくなってしまいました。プロテスタントは、マルティン・ルターの啓示と、彼の合言葉でありスローガンである「公正な者は信仰によって生きる」という一つの大きな原則に基づいて設立されました。それは懺悔の行いによるものではなく、生きて復活し、栄光を受けた神の子を信じる信仰によるものでした。ルター、ジョン・ノックス、カルヴァン、ツヴィングリなどの改革派の人々には、個別の癒しの事例が記録されています。ジョン・ウェスレーによるメソジストの誕生により、イエスへの信仰による癒しの教えに新たな推進力が与えられました。ウェスレーは、病人が見事に癒されたこと、悪霊が追い出されたこと、祈りに目覚ましい答えがあったことなどを日記に記録しています。癒しは信仰の可能性であるとウェスレーは認識していました。しかし、彼は明らかに、主であり救い主であるイエス・キリストの贖罪にそれらのことが含まれており、共通の救いの一部であるとしています。
現代の癒しの教えは、ドイツのある地方の工場で働いていたドロータ・トルーデルによって、新たな推進力を得ました。彼女の働きかけで多くの人が癒されたので、最終的にはドイツ政府がベネンドルフにある彼女の癒しの施設を認め、許可を出さざるを得なくなったのです。今世紀に入ってからも、多くの人が癒しの働きを教え、実践しています。キリスト教会でよく知られている癒しをテーマにした作家には、A.J.ゴードン、キリスト教宣教同盟のA.B.シンプソン博士、南アフリカのアンドリュー・マレー牧師などがいます。…John G. Lakeの引用はここまでですが、ランディ・クラーク師の『癒しに対する権威』には、その後のことも書かれています。1948年の癒しのリバイバルの後には、1960年代初頭に始まったカリスマ運動が起こりました。多くのカトリック教徒や英国国教会がカリスマ運動に参加することになりました。この流れは、すべての聖霊の賜物は今も存在し、その働きは稀ではなく、規範的であるべきだと考えていました。20世紀の最後には、アフリカにおけるラインハルト・ボンケ、アメリカにおけるベニー・ヒンのような癒しの伝道者が知られるようになりました。同じ頃、アルゼンチンではオマル・カブレラやカルロス・アナコンディアが癒しのミニストリーを通して知られるようになりました。私は知りませんが、アフリカやアジアでも強力なミニストリーを展開している人たちがいます。近年、神は、北米において、ビル・ジョンソン、ジョン・アーノット、チェ・アン、私ランディ・クラークといったリバイバルのリーダーたちを育てられました。結論を申し上げますと、福音書と使徒の働きで起ったことは、今も起っているということです。マルコ16:20「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」とあるとおりです。
3.癒しの証言
John G. Lakeは1870年5月カナダで生まれ、その後、アメリカに移りました。21歳でメソジスト教会のミニスターになりますが、同時に新聞、不動産、生命保険で成功し億万長者になりました。1898年(28歳)のとき、転機が訪れました。彼の妻の長期に渡る病気が癒しのミストリーで完全に癒されたからです。1907年(37歳)、会社をたたみすべての財産を寄付して、神さまのみに頼る奉仕を始めました。最初は南アフリカに行き、あの後はアメリカのワシントン州スポーケンを中心に、説教と癒しの働きをしました。スポーケンにあるLake Healing Roomsにおいて、5年間で、10万人の人たちが癒されたという記録がありまので、いくつかご紹介したいと思います。
オレゴン州ポートランドの9番街10番地に住むO・G・ブレイクは、糖尿病性壊疽(えそ)のため医師に見捨てられました。治療法も見つからず、専門医は「これ以上、私にできることはありません」と言いました。糖尿病の状態が全身に及んでいたので、切断手術は役に立ちませんでした。彼は、ポートランドの教会のジョン・G・レイク牧師に電話をかけました。聖職者の一人がこの瀕死の男のために派遣されました。彼は完全に癒され、科学ではできないことを神が成し遂げたのです。彼の外反母趾は腐ってしまいました。彼はそれをアルコールの瓶に入れています。あなたはそれを見ることができます。新しい肉と骨が生えてきました。彼は街を歩いていて、オレゴン州のヨーマン協会の長の一人として再び地位を得ています。
ポートランドのセントジョンズに住むアダム・ストレイトさんは、数年前から両目が見えなくなっていました。ポートランドの教会のミニストリーによって、3回にわたって祈りと按手が行われました。今では完全に癒され、数日前にポートランドの教会(129 4th Street)で癒されたことを公に証しました。
州都セーラムにある州産業保険委員会の帳簿係長ロイ・ファーガソン氏が骨の結核にかかりました。脊椎を侵すこの病気は、石膏のギプスで固められ、1年以上ベッドに閉じ込められていました。病気の進行を防ぐために、片足を腰の下で切断しましたが、効果はありませんでした。主治医に見放された彼は、ポートランドの専門医に診てもらいましたが、手の施しようがないと言われました。彼はヒーリングルームに連れてこられ、祈られ、神が即座に彼を癒し、彼は元気になりました。彼は罪から救われ、聖霊のバプテスマを受け、今ではこの神の力を他の人々に伝えており、オレゴン州セーラムにある私たちの働きの代表者の一人です。
オレゴン州コーバリスに住むメアリー・エバンスさんは、20年前から耳が聞こえませんでした。彼女は友人から癒しの話を聞き、ヒーリングルームを訪れるためにポートランドを訪れました。彼女はレイク博士に電話で連絡して、マルトノマ・ホテルのパーラーに来てもらい、その場に居合わせた友人たちや市内の人たちが見守る中で、ミニストリーを受けたところ、たちまち癒され、友人やレイク博士と自由に会話をしたと言います。彼女は今日、長距離電話で、癒しは完璧だったと報告し、近いうちにポートランドに来て、ポートランドの教会で公に証し、神を賛美すると言っています。
ポートランドのカウンシルクレストに住むI.S.夫人は、美しく、文化的でハイクラスな女性でしたが、何人もの医師や機関が医学的援助による回復の可能性がないと断言するほどの病(ハンセン病)に冒されてしまいました。その病気は進行し、彼女は骸骨のようになり、病気のために喉がひどく傷つき、話す力もほとんどなくなり、心も病んでしまいました。彼女はヒーリングルームに連れてこられ、奉仕を受け、祈りが捧げられ、手が置かれると、神の力が力強く彼女の上に臨み、病気は破壊されました。その瞬間から、徐々に体全体が再構築されていきました。今、彼女は完全な健康と健全な心を持ち、顔には健全で健康な女性の花が咲き、魂には神の喜びがあり、心には神の平和があり、人生には神の勝利があります。彼女は聖霊のバプテスマを受け、今度は同じ祝福された聖霊を他の命に奉仕するようになりました。
オレゴン州ポートランドに住むW.E.ストートン夫人は、二重の肺炎にかかり、一度に470cc以上の出血をしました。私たちが祈っている間にも、彼女の心臓は止まり、呼吸も止まって、彼女は明らかに死に向かっていました。私たちは祈り続けましたが、息を吹き返しても、再び止まるということが繰り返されました。午前2時30分、神の栄光が彼女の魂からあふれ出し、神の喜びと臨在で彼女を満たしました。彼女は完全に癒され、ベッドから立ち上がり、神を讃える井戸端会議の女性となりました。
John G. Lake師はこのように述べています。さて、ここに病人がいて、そこに牧師がやってきました。彼に近づいていくと、彼がかなり悪い状態であることを見ます。彼は困っています。もし彼のために祈って癒されなかったら、人々は私が神をあまり信じていないと思うだろう。そこで、彼は曲芸師のようなトリックを使って、「あなたが癒されることは、神のみこころではないかもしれません」と言います。イエス様は何人の人たちを癒したでしょう?イエス様は「いや、あなたを癒すことは神のみこころではありません」と追い返したことがあるでしょうか?イエス様はすべての人たちを癒したことで、病気に関する神のみこころを永遠に確定されたのです。
20年位前、ある牧師夫人が「私は病の癒しのためには祈りません。もし、癒されない場合、その人に信仰が足りないと思わせてしまうからです」と言われました。私はそのとき、内側から義憤が湧き上がりました。私たちが福音を伝えるとき、すべての人が信じて救われるでしょうか?信じる人と信じない人が起ります。同じように、私たちが病の癒しの祈りをしても、癒される人と癒されない人が起ります。たとい信じない人が出ても、福音を宣べ伝えるでしょう。同じように、癒されない人が出ても、主の命令なので病の癒しの祈りをすべきなのです。なぜなら、祈るのは私たちの責任であり、癒すのは神さまの責任だからです。賜物による癒しもありますが、だれでもできる祈りによる癒しがあります。ヤコブ5:14,15「あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。」