2022.1.16「自分自身との和解 マタイ22:37-40」

 自分自身との和解というと変に聞こえるかもしれません。つまり、「自分の中に分裂があり、互いに争っている」という前提があるからです。きょうの前半のメッセージは多分に心理学的なアプローチから、後半は聖書的にまとめたいと思います。イエス様は「自分を愛するように隣人を愛せよ」と言われました。と言うことは、隣人を愛する前に、正しく自分自身を愛するという前提があります。みなさんの中に自分を愛していない人、自分を嫌っている人がいるでしょうか?何か失敗したら、自分の顔や頭を叩く人がいるでしょうか?そういう人は、自分を愛していない人です。

1.無意識の世界

 ジョン・サルノという医学教授が“The divided mind”(分割した心)という本を書いています。370ページもある分厚い本で、医学用語が多くて、とても読み応えのある本です。この方は、心と体がつながっているpsychosomatic という研究をしておられる学者です。最近、考えや感情がさまざまな病気を引き起こしていることが分かり始めました。きょうは、病気のことではなく、自分という心の内部を探りたいと思います。ジョン・サルノ氏は、フロイトの無意識の世界を度々取り上げています。フロイトは正しくはSigmund Freudジークムント・フロイトであり、精神分析学の創始者として知られています。彼はオーストリア生まれのユダヤ人です。フロイトは人の心を意識と無意識に分けて考えました。比率から言うと、意識が10%未満で無意識が90%以上であります。フロイトは、心は3つの構成要素から成り立っていると定義しました。第一はイド、第二は自我(エゴ)、第三はスーパーエゴ(超自我)であります。イドは、子どもっぽい、幼稚な心です。自己中心的で、未発達な心の部分です。自我はキャプテンであり、最高経営責任者、心の意思決定者です。フロイトはスーパーエゴをモラルや責任、精神の倫理的な要素であると言います。自我とスーパーエゴは、両者とも心の意識と無意識にあります。言い換えると、私たちは自我とスーパーエゴを意識しながら、社会的な活動をしているということです。これらに比べ、イドは、子どもぽっくて、利己的で、未発達な私たちの心の部分です。イドは完全に無意識の中で活動しており、私たちは、それを直接認識しません。ジョン・サルノ氏は、フロイトが言っていることを支持しながらも、イド、自我、スーパーエゴはきちんと分けることはできないと言っています。それらは心の特性または傾向を表しますが、単一の構成部分(ユニット)として機能します。この構成部分を自己、個人と呼びます。イドは個人の生育の中心と見ることができます。一方、自我とスーパーエゴは、生存の可能性を高めるために設計された後の開発を表わします。つまり、成長の過程で外側から影響を受けつつ形成されるものです。

 イドは無意識の中で排他的に活動しており、実際に観察するのは簡単ではありません。ところが、英国の神経心理学者ポール・ブロックス博士がこのような発表をしました。17歳の少年が大事故で、脳を激しく損傷しました。彼の頭蓋骨が割れたため、大脳皮質が破壊されました。彼は怒りと恐怖で身もだえし、うなり声を上げて怒鳴っていました。叫び声を上げて泣き叫ぶか、時々、わいせつなことを連発しましたが、話すことができませんでした。これは、大脳皮質というマントルに収容された知性的、認知的、文明的精神が破壊され、脳の奥深くに原始的な残骸しか残されていない人の現象と言えます。彼は車椅子に頭を横向きにしてゆがんで座り、手足が痙攣して曲がり、唾液が口の隅から垂れ下がっていました。これは無意識の心であり、新皮質の合理的で文明化された影響によっては修正されません。この不幸な少年の行動の原因である脳の古い部分は、脳幹のすぐ上にある脳の奥深くにあります。この部分は、大脳辺縁系と呼ばれ、感情、本能を司っています。ブロックス博士は不幸な少年が母親によって訪問されたときの感動的なシーンをこう説明しました。「彼女が腕の中で彼の壊れた頭をあやしているのを私は見ました。彼女が彼と一緒にいて、そんなに長くはなかったが、彼の顔に異常な変化が起こりました。静止して、怒りとランダムな機械的なけいれんはおさまり、彼は人間性を取り戻したようです。」母親の愛情のこもった抱擁に対する少年の反応は、彼が残したすべての原始的な人間の脳にも愛とスキンシップの感情が宿っていることの証拠でした。これらの愛情は人間の無意識の中にあるが、支配的ではありません。自己中心、自己陶酔的、依存的な子どもは、穏やかな感情よりも影響力があり、多くの場合、残虐行為の能力が支配的であるようです。脳の奥底にある、原始的なものが、イドでなないかということです。

ジョン・サルノ氏はイドを「未発達な子ども」として定義し、このように述べています。成長する子どもには、暖かさ、受け入れ、模範を見せてくれること、導きが必要です。しかし、初めて子どもを持つ親には養育を与える包容力がありません。ニグレクトや子どもの尊厳を傷つけるようなことをしてしまいます。そのため、子どもは低いセルフイメージを持ち、一生涯、感情的な必要を求め続けるようになります。「未発達な子ども」は、自己愛、無責任、依存的です。暴力、わいせつさ、責任のプレッシャーに対する怒りもあります。耐えられないのは、善良であること、完全であること、他の人を気に掛けることです。長年にわたり、完璧主義者の傾向とTMSの開発との間の一貫した関係を認識していました。一部の患者は完璧主義者であることを否定しましたが、勤勉で、良心的で、責任があり、駆り立てられ、成功志向で、新しい挑戦を絶えず求め、批判に敏感で、自分自身の最も厳しい批評家であることを認めました。しかし、善への意欲は「未発達な子ども」が、同様に激怒する可能性があることに気づくまでに長い時間がかかりました。「未発達な子ども」は、私たち自身が課した完璧で善良な行いだけでなく、私たちの仕事、キャリア、家族、財政、病気、老化、死など、私たちの外の生活で起こっている多くのことから圧力を受けています。まとめると、それらは私たち全員が持っている怒りの貯蔵に大きく貢献しています。ジョン・サルノ氏は多くの患者を診て、完璧であることと善良であることが、プレッシャーの主要な因子となっていると結論付けています。

 ここからは私の意見ですが、私たちは、私たち自身の中に存在している、イド、「未発達な子ども」を養育する責任があるということです。まことに残念ですが、日本の社会は、躾と称して、子どもっぽいことを軽蔑し、叱責し、矯正しようとします。良く聞かれるのが、「わがまま!」とか「他人のことを考えよ!」であります。子どもは元来、わがままで、自己中心なのであります。黙認せよということではなく、子どもの性質を受け入れながら、正しい方向に導いてあげるべきです。親や教師が頭ごなしに否定して、良い子であることを強いるならどういう人になるでしょう?子どもは、彼らが刷り込んだスーパーエゴによって、自分を抑圧することになります。そればかりか、子どもは本音を隠して、建て前で生きるようになります。聖書では、そういう人を偽善者と呼びます。ある意味では、日本人の躾や教育は、偽善者を作っているのかもしれません。だから、陰湿ないじめがなくならないのです。いじめをする人は、表向きは正しくて品行方正なのです。でも、裏では人の尊厳を踏みにじるようなことを平気でしています。彼らの「未発達な子ども」の心に、怒りがたまって、どこかにはけ口を求めているからでしょう。その点、私は子どもっぽくて、家内からも良く注意されます。しかし、周りの人は、私に対してAとBに極端に分かれます。「地が出ていて、親しみがある」と受け入れてくれる人がいます。しかし、「品性に欠けて、牧師には相応しくない」軽蔑する人がいます。本当に不思議だなーと思います。おそらく、後者の人たちは、スーパーエゴが強く、常に「人とはこうあらねばならない」と自分を律して生きている人ではないかと思います。自分に対する物差しを、どうしても他人にも向けてしまうのではないでしょうか?とても苦しい生活をしているようであり、少し同情します。

 ジョン・サルノ氏の本をもう一度引用させていただきます。職場にはあらゆる種類のプレッシャーがあり、その多くは非常に明白ですが、見つけにくいものもあります。ビジネスに約15人を雇用した男性の場合を考えてみましょう。彼は「ナイスガイ」になる必要性が非常に高かったため、従業員が自分の仕事に十分に貢献しているかどうかを常に心配していました。これは明らかに、彼が私のクリニックに来る背中の痛みを発症する重要な要因でした。彼は彼の労働者にとって素晴らしい雇用主でしたが、彼自身にとっては非常に悪かったのです。経済的な問題や病気は生命のプレッシャーの明らかな例であり、これ以上の説明は不要です。彼らは意識的に我慢し、無意識では激怒しています。しかし、年をとって死ぬことについてはどうでしょう?私たちは合理化する傾向があります。結局のところ、死ぬことは人生の一部であり、それは避けられないことであり、人はそれを優雅に受け入れなければなりません。しかし、無意識の「未発達な子ども」には非常に異なる話です。感情的で自己愛的なこの部分は、病気、障害、そして個人の死に対する究極の屈辱に耐えなければならないという考えに激怒しています。これらの感情は、無意識ではありますが、私たちが意識しているものと同じくらいリアルです。私の患者の中には、老化への反応が症状の唯一の理由です。老化と死に対する恐怖を意識的に認識していますが、無意識の反応は認識していない可能性があり、これらが症状を引き起こすのです。前半は、心の無意識の世界、特に「未発達な子ども」に焦点を当ててみました。こういうのも勉強になると思います。

2.自分自身との和解

 聖書には自分自身に語りかけている箇所がたくさんあります。Ⅰサムエル30章に記されていますが、ダビデとその部下が戦いに出ている間、アマレク人が隠れ家を攻撃して、火で焼き払いました。そして、そこにいた女性や子ども、大人もみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れ去りました。Ⅰサムエル30:6「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」この箇所を、英語の詳訳聖書は「しかし、ダビデは彼自身を励ます、強めた」と書かれています。私たちも自分自身を励ましたりするときがあるのでしょう。詩篇42と43篇は、自分の魂に語りかけている箇所として、とても典型的です。詩篇42:5「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」これは、神さまに対する祈りや告白ではありません。気落ちしている自分に語りかけ、最後は「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」と決意しているのです。つまり、意気消沈している自分に「そうじゃない。神を待ち望め」と自分自身に訴えている自分があるということです。私たちは心理学者から言われなくても、私たちの心の中で、たえず対話をしているのではないでしょうか?子どもは、おままごとでもわかりますが、独り言をストレートに口に出します。しかし、大人になると変に思われなくないので、心の中で自分自身と会話をします。

 少し私の証をお聞きください。私は子どもの時から非常に落ち着きがなくて、今で言うなら「多動性なんとか」と診断されるでしょう。たとえば算数を計算するとき、混乱があって時間がかかります。どういう訳か時間内にテストを終えることができません。作文も絵も家に持ち帰ることが度々ありました。たとえると車のアクセルとブレーキを一緒に踏んでいるような状態でした。父は酒乱で家庭を正しく治めていませんでした。そのため、家では父母、親子、兄弟同士の争いが絶えませんでした。私は父や兄たちからたびたび批判されました。学校でも先生から一番、叱られました。原因は良く分かりませんが、おそらく授業を妨害するほどうるさかったのでしょう。親や先生が自分を受け入れてくれなかったので、自分自身を受け入れることができなかったのでしょう。「自分はだめだ」「自分は良くない」「標準以下だ」みたいな声がありました。だから、それにあらがうように、一生懸命頑張ったのだと思います。私のエネルギーは「ちくしょう!ちくしょう!」という悔しさと怒りではなかったと思います。空回りが多くて、1つのことを成し遂げるためには、倍のエネルギーが必要でした。しかし、こんな私に転機が訪れました。それは、イエス様を信じて数年後、高円寺の新井宏二牧師が月1回インナーヒーリングの講義に来られました。そのとき、度々、開かれたみことばが、イザヤ43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」でした。講義の内容は良く覚えていませんが、「私は人々の評価で生きて来ていたんだなー」と気が付きました。父、母、兄や姉、友達、学校の先生、会社の人たちです。一番上の兄から、よくお説教されました。中学、高校の先生も私を犯罪人のような目で叱りつけました。もう、劣等感のかたまりのように、「何くそ」と生きてきました。でも、そういう人々ではなく主なる神さまが「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃるのです。高価というのは、価値があることです。尊いというのは、ほめられるほど立派ということです。ありのままの私を神さまは「わたしの目には、あなたは高価で尊い」しかも、「わたしはあなたを愛している」とおっしゃるのです。その時に、神さまが私を愛しているのだから、自分を愛して良いということがはっきりと分かりました。それまでは「何やってんだー」と叱咤激励して自分を打ち叩いていました。フロイトが言うスーパーエゴです。もう一人は、「ちくしょう!ちくしょう!」と泣いているイドがいました。ありのままの自我に価値があり、愛されていることを知ったので、これまで分裂していた自分が1つになりました。スーパーエゴ、イド、自我と言えるか分かりませんが、3つがfusion融合して1つになりました。あるいはintegration統合と言って良いのかもしれません。とにかく、頭から混沌が去り、平和が訪れ、集中力ががぜんついて作業も早くなりました。作文はダメでしたが、説教は1年半先までできています。

 キリスト教会で救いのときに最も強調されるのが「罪の悔い改め」です。確かにイエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とおっしゃいました。でも、よく見ると「罪を悔い改めなさい」とはおっしゃっていません。さらに、悪いことに、「今まで行った罪を告白して、お詫びしなさい。悔い改めるとは、ごめんなさいと言うことです」とまでおっしゃる牧師がおられます。しかし、聖書のギリシャ語はメタノイヤーで「方向を変える」「考え方を変える」という意味です。残念ながら、英語のrepentには「悔いる、懺悔する」という意味があるので、メタノイヤーとは違います。むしろ、change of mindの方が良いのです。何を言いたいかというと、人に「罪を悔い改めなさい」と言うなら、その人の内側にあるイド、「未発達な子ども」が反応してしまいます。「未発達な子ども」を刺激すると、とってもややこしくなります。なぜなら、これまでさんざん、正され、説教されてきたからです。「未発達な子ども」は「私は悪くない」と防御するでしょう。それを、「あなたには罪があるので悔い改めなさい」と迫るなら、全力ではむかうでしょう。「未発達な子ども」には、「神さまはありのままのあなたを愛していますよ。あなたは高価で尊い存在ですよ」と諭せば良いのです。むしろ、キリストにある赦しを強調するなら、自分の方から「私はずいぶん我が儘だった、自己中心的だった」と悔い改めるのです。イソップ童話に「北風と太陽」というのがありますが、太陽とは神さまの愛と赦しと受け入れです。愛と赦しと受け入れで、「未発達な子ども」は、自己防衛の上着を脱いで、素直な子どもになります。素直な子どもは神さまの無条件の愛によって、息を吹き返し、恵みの中ですくすく成長していくのです。やがて、立派な神の息子、娘になります。

 スーパーエゴという概念は聖書にあるのでしょうか?ユダヤ人には律法が与えられていますが、異邦人はそうではありません。ローマ2:15「彼ら(異邦人)はこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」つまり、異邦人にとってそれは良心だということです。でも、良心は律法ほど絶対的ではありません。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」おそらく「邪悪な良心」とは、私たちを訴えるスーパーエゴいうニュアンスがあります。私たちには生まれつきの良心もありますし、親や学校の教師に教えられた道徳倫理があります。あるいは、生まれ育った環境による価値観もあるでしょう。「こうしなければならない」「こうであってはならない」というのが、理屈なく心の中に染みついています。私は、ご飯に箸を立てて、家内から叱られますが、どこにそんな戒めがあるのでしょう。コロサイ人への手紙には、「食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません」とあります。宗教や因習、文化などもスーパーエゴになる可能性があります。私たちは本体であるキリストを信じると、私たちを訴えるスーパーエゴから解放されます。

 では自我はどうなのでしょうか?キリスト教会では「自我に死ね。自我を十字架につけろ」と言われます。それは本当に聖書的なのでしょうか?ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」とありますが、自我とは書かれていません。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ギリシャ語の聖書は、「エゴゥはもはや生きていない、しかし、エモィの中にキリストが生きている」と書かれています。分かりやすく言うと、「かつて自我が自分の王様だったけれど、今は、キリストが私の王様です」ということでしょう。つまり、自我がキリストに服従する小さな自我になったということです。キリスト教会では「自我が砕かれた」とか「自我が砕かれていない」とか言います。これもどれくらい聖書的か分かりません。創世記32章に書いてありますが、御使いと夜明けまで格闘しました。その結果、人を押しのけるヤコブは、イスラエルになりました。でも、彼はもものつがいが打たれて、足を引きずるようになりました。この箇所は、ヤコブの自我が砕かれた「ペヌエルの経験」として有名です。でも、その後、ヤコブになったり、イスラエルになったり、何度か名前が入れ替わっています。個人の経験を神学にしてはいけませんが、自我がひっくり返り、キリストが王様になるということは重要なことだと思います。ピリピ2章に、「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえるためです」とあります。それは、スーパーエゴもエゴもイドも、私たちの人格の全部がキリストに従うということです。イエス・キリストを主と仰ぐときに、私たちの人格は一体となるのです。たとえ、心が分裂していても、マグネットに鉄屑がびしっとくっつくように一体になります。私たちがキリストから離れたなら、心もばらばらになります。ですから、私たちは王なるキリストを仰いで従い続けるとき、まことのいのち、まことの自分でいられるのです。