信仰と夢とビジョン、これらの3つはとても似ています。共通していることは、まだ、現実のものとなっていないということです。「百聞は一見にしかず」の英語版は、seeing is believingです。直訳は、「見ることは信じることである」です。しかし、見えたなら、もう信じる必要はありません。まだ、見えていないから信じる必要があるのです。ヘブル11:1 のキング・ジェムス版“Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.”は「信仰は望んでいることの実体であり、まだ見えていないものの証拠である」と書いてあります。きょうは、信仰の父と呼ばれているアブラハムから3つのことを学びたいと思います。
1.全部分からなくても信じる
創世記12:1,2【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」ここではまだ、アブラムですが、便宜上、アブラハムと呼ばせていただきます。ヘブル11:8「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」創世記では、「父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい」と言われていますが、どこへ行くかは知らされていません。ヘブル11章でも、「どこへ行くのか知らずに出て行きました」とあります。つまり、行き先は示されていません。これは、「道すがら、教えて下さる」というニュアンスがあります。私たちは電車に乗るとき、あるいは車を運転するとき、とりあえず出発する人がいるでしょうか?家を建てるとき、何かを作る時、設計図なしに、とりあえず作る人がいるでしょうか?常識的には、行く先や地図、あるいは設計図がなければ、何も始まらないでしょう。もし、それが信仰と言うのなら、「無謀!」のひとことで相手にされないでしょう。
ヘブル人への手紙には「どこに行くのかを知らずに出て行きました」と書いてあります。The passion translationは、「彼は約束だけによってそこを去り、彼がどこに行くのか事前に知らされずに、アブラハムは信仰をもって歩み出しました。」と訳しています。おそらく、最終的なゴールは知らされていないけど、一歩、一歩、主の導きに従って行くということでしょう。これは、私たちの人生と同じではないでしょうか?みなさんの中で、神さまから「あなたはこのようなことをする人になりなさい」と具体的に示されたことがあるでしょうか?大体は、「ああ、大きくなったらこういうことをしたいなー、こういう人になりたいなー」という自分の願望からではないでしょうか?私が中学生のとき、どういう高校に進むか、適性検査みたいなものがあったような気はします。私は将来何になりたいか明確な希望がありませんでした。担任の指導によって、成績順に偏差値の高い学校から振り分けられました。普通高校か、専門学校ぐらいで、「将来このようなことをしたい」と明確な願望を持っている人はそんなにいなかったように思えます。
イエス様がペテロとアンデレを召した時はどうでしょう?マタイ4:19-20イエスは彼らに言われた。「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」では、マタイはどうでしょう?マタイ9:9イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「私について来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。弟子たちに共通して言えることですが、現代のように給料はいくらとか、社会保険や厚生面のことは一切触れられていません。もちろん、弟子ですから、丁稚奉公のように只働きで、「のれん分け」のような感じなのでしょうか?私も座間キリスト教会で8年間奉仕して、亀有に来て、牧師になりました。それと似ているでしょうか?でも、それだと牧師とか伝道者で適用としてはとても狭くなるでしょう。
「アブラハムが行き先も告げられるに、出て行った」ということが、あなたとどのような関係があるでしょう?それは、キリストの弟子たちにも共通していることです。第一は、生まれつきの古い関係を一度断ち切るということです。まず、アブラハムは住んでいた土地、親族、父の家を離れる必要がありました。アブラハムの父が住んでいたカルデア人のウルはナンナルという月の神さまを拝んでいました。紀元前7世紀に新バビニアになります。信じるためには、それまでの偶像崇拝や人間関係を一度、断ち切る必要があるということです。第二は、神さまが示す地、人生に向かうということです。でも、どこがゴールなのかは知らされていません。新約聖書ではイエス様が「私について来なさい」と言われました。ということは、イエスさまに従って行けば、いずれ分かるということではないでしょうか?アブラハムは主が告げられたとおりに出ていきました。カナンというところに着くと、主が現れ「私はあなたの子孫にこの地を与える」と言われました。アブラハムはそこに祭壇を築きました。でも、羊を飼っていたので、ベテルやネゲブ、エジプトなど行き巡っています。でも、ロトと別れたのちは「アブラハムはカナンの地に住んだ」(創世記13:12)と書かれています。つまり、出発したときはどこへ行くか分からなかったけれど、あるところへ行ったとき、「ここがそうである」と分かったということです。
私たちは自分で何かを信じ、自分で何かを望み、自分で何かを夢見るところがあります。しかし、神さまが私たちよりも先に信じ、神さまが私たちよりも先に望み、神さまが私たちよりも先に夢を見るのです。そして、ある時、あなたはこれを信じなさい。あなたはこれを望みなさい。あなたはこのような夢を見なさいと言われるのです。つまり、神さまの方が主役で、私たちは脇役です。言い換えるとイエス様が人生のマスターで、私たちはイエス様の従者なのです。こう考えると、「これから先のことを全部分からなくても、従って行けば良いんだなー」ということが分かります。確かに、全部分からないのに前に進むということは怖いですし、リスクが伴います。しかし、それが信仰です。最初から全部、見えていたなら信仰は不要です。Step by step,一歩ずつ従っていくしかありません。私たちの神さまはある時、「これがあなたのゴール、これがあなたの夢です」と示してくださいます。ですから、信仰とは神さまを信頼することから始まります。
2.年なのに信じる
アブラハムがハランを出たとき、75歳でした(創世記12:4)。1章前の、創世記11章を見ますと、アブラハムの先祖たちは結構長生きしていたようです。大洪水の後、人々の寿命は短くなりました。アブラハムの父、テラは205歳まで生きました。アブラハムは175歳まで生きています。サラは127歳まで生きました。このように考えますと、当時の75歳は現代で言うと、45歳くらいになります。もし、聖書が「アブラハムがハランを出たとき、45歳でした」と書かれていたなら、そんなに説得力があるでしょうか?サラはアブラハムより10歳下でしたから、35歳になります。カナンに着いた後で、アブラハムはエジプトに下りました。そのとき、サラを自分の妹だと偽りました。エジプト人は「非常に美しいと思った」(創世記12:14)と書いてあります。つまり、サラは現代人の65歳ではなく、35歳であったと考えるなら説得力があります。このように説明してから、説教を進めていく牧師がいるかどうか分かりません。でも、私たちは「自分が年だなー」と感じるのはいつごろでしょうか?男性の厄年は42歳、女性は33歳と言われています。ジンクスは信じませんが、おそらく生理学的に体調の変化をきたすのが、この年ではないかと思います。この年を境に、体力や気力ががくっと落ちてきます。しかし、男性は働きざかりで、女性は子育てで、どうしても無理してしまいます。つまり、「厄年の頃を無理すると、長生きできないので気をつけろ」ということなのでしょう。おそらく、先人たちの知恵なのでしょう。
75歳、45歳、どっちでも良いのですが、私たちは年を取るとどうしても保守的になります。アブラハムが住み慣れた場所を離れるというのは大変です。主はアブラハムに「あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい」と言われました。私たちが生きるための資源にはどういうものがあるでしょうか?土地、財産、親、親戚、人間関係などがあります。それらを捨てて、神さまのみを資源にして従うというのはどうなんでしょうか?でも、アブラハムは100%主に従ったのでしょうか?創世記12:5「アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」このところで、私たちは「え?どういうことなの?」と躓いてはいけません。アブラハムは妻のサライはともかく、甥のロトを伴いました。ロトはやがて問題の種になります。また、「自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した」と書いてあります。その当時の財産は羊や家畜でした。「ハランで得た人たち」とは、従者や奴隷たちです。アブラハムは裸一貫ではなく、多くの家畜、多くの従者たちを従えてカナンに向かったということです。確かに主が告げられたとおにに出て行きましたが、両手にたくさんのものを持っていたということも事実です。聖歌に「すべてを捨てて従いまつらん」という賛美がありますが、信仰の父アブラハムを見ると「どうかな?」と思ってしまいます。でも、こういうことが書かれているのは、信仰的な妥協ではなく、私たちへの励ましと捉えるべきであります。
さて、ここからがメッセージであります。私たちは「年だな」と感じて、がっかりしたことはないでしょうか?数年前、亀有ゴスペルクワイヤの20周年のクリスマスコンサートがありました。リードしている方が、「20年経つとみんな年を取りましたねー」と言っていました。つまり、かつては20~30代であったのに、今は、40から50代であるということです。私もあの当時は、40歳前後でしたが、今は70歳に手が届きます。確かにあの頃、体の変調をきたしておりました。教会は受洗者もたくさん与えられ、大変祝されましたが、いろんな所に無理がいったのかもしれません。皮膚病になったり、腰がやたら痛かったなーと記憶しております。あの頃は、セルチャーチにのめりこんでいましたが、だんだん、思ったほど成果が上がっていないということを認めた頃でもあります。だれかの歌ではありませんが、「あの頃は、若かった。はっ!」と言いたくなります。年を取るというのは、気力、体力、〇〇力…いろんなところにガタがきます。アブラハムは「子孫が与えられる」と言う約束を得ました。しかし、サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった(創世記11:30)と書かれています。10年だっても、子どもが生まれる様子はありませんでした。アブラハムが86歳のとき、ハガルを通して、イシュマエルが生まれました。しかし、この子どもは約束の子どもではなく、人間的な考えで生まれたものです。それから、13年の沈黙があり、99歳になったとき、御使いたちが現れ、「来年、あなたの妻サラには男の子が生まれています」と言いました。サラは心の中で笑って「年老いてしまたこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで」と言いました(創世記18:12)。
あきらかにアブラハムもサラも不信仰であることが分かります。でも、神さまは真実であり、アブラハムが100歳、サラが90歳のとき、イサクが生まれました。そのことをローマ人への手紙はどう解釈しているでしょうか?ローマ4:19-21「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」どう見ても、ひいき目であります。しかし、これが新約聖書の恵みであります。ヘブル11:11「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」この2箇所からも分かることですが、信仰というのは私たち100%信じなければならないということではありません。途中、疑ったり、躓いたりすることがあるかもしれません。でも、神さまは真実なるお方です。つまり、神さまには約束したことを実行する力があると信じることであり、私たちの信仰ではないということです。私たちは年を取ると体力がなくなり、気力がなくなり、信仰もなくなると勘違いしているかもしれません。はっきり言えることは、年齢と信仰は別だということです。使徒2:17「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」のです。アーメン。
3.何度失敗しても信じる
アブラハムは信仰の父と呼ばれ、大変、敬われています。ヘブル書11章には、信仰者の列伝が記されていますが、アブラハムは何度も引用されています。また、ローマ人への手紙でも、パウロが信仰義認を述べるとき、アブラハムのことを引用しています。イスラエルでもそうでありましたが、新約時代の教会においても、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれています。ところが、聖書を良く読んでいくとそうでもないことが分かります。先ほど読んだ、創世記12:10以降には、アブラハムがエジプトに下ったとき、自分の身を守るため、妻のサラを「妹だ」と偽りました。しかし、このことは一回ではありません。創世記20章にも記されていますが、ゲラルの王、アビメレクに対しても同じ嘘をつきました。エジプトの時もそうですが、被害をこうむったのは、騙された王様とその国の人達です。本来なら、アブラハムが裁かれるべきなのに、何と言うことでしょう。これは、神さまのひいき、偏愛としか取られません。まさしく、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:3)の成就であります。
もう1つの失敗と言うか、罪はサラに子どもが与えられないので、女奴隷のハガルに子どもを産ませたということです。このことを提案したのは、実はサラであり、承諾したのがアブラハムです。生まれたイシュマエルは約束の子どもではありませんでした。彼はアラブの子孫になり、イスラエルと非常に仲が悪いのが今も続いています。このことは家庭に不和をもたらしただけではなく、長年にわたる歴史に遺恨を残すことになりました。ハガルがアブラハムにイシュマエルを生んだとき、アブラハムは86歳でした。何と、それから13年間の沈黙があり、アブラハムが99歳になった時、来年の春に男の子が生まれると言う約束が与えられました。第一のポイントは「全部分からなくても信じる」でした。第二のポイントは「年なのに信じる」でした。そして、第三は「何度失敗しても信じる」です。アブラハムは生まれ故郷を出るとき、「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」(創世記12:2)という約束を受けました。つまり、それは子どもが生まれないと実現されることはないということです。アブラハムはカナンの地こそが将来、自分の子孫が受け継ぐ地であることを知りました。ところが、肝心の子どもが生まれなかったのです。自分も高齢だし、妻のサラもそうです。そのために、主の約束を待つことが出来ず、人間的な手段でそれを実現させようとして失敗しました。「神さまお一人では、何もできないので、人間がお手伝いするしかない」という考えです。それが、大きな失敗を招きました。
私はこれまでいろんなプログラムを学んでは、当教会の伝道牧会に取り入れてきました。弟子訓練、セルチャーチ、いろんなカウンセリングです。でも、あるとき「どれもうまくいかなかったなー、失敗したなー」と失望落胆してしまいました。クリスマスの子どもの賛美で「うまくいかくってもー」と歌ったとき、涙が出てしまいました。それでも、失敗を肯定的に受け止め、新たにチャレンジできないものかと模索していました。これまでの、すべての活動をストップして、英語の信仰書を読みあさりました。やがて、キャロライン・リーフ師の脳神経学に出会いました。彼女の“Think Learn Succeed”『成功を学ぶことを考える』からの引用です。エジソンは、「私はたくさんの結果を得ました。私は何千ものうまくいかないことを知っています!」と言いました。 エジソンは先入観をもって、彼の可能性をある成功の概念に限定しませんでした。彼は目標を持ち、途中の試行回数に関係なく、それが達成されるまでやり続けました。 彼は自分の試みを失敗とは考えませんでした。彼はむしろ、自分の試みの結果としてそれを見ました。彼は価値のある知識を得ましたが、それは学習過程でした。エジソンは、機能しないものは機能するものと同じくらい価値があると考えたのです。これは、患者さんと一緒に多くの作業を行うことで、患者さんの進歩に大きな違いをもたらしました。…可能性を感じ取れるような考え方を開発することを選択すると、愛情に満ちた脳の設計が活性化されて反応し、試みは失敗ではなく可能性となります。この選択は成功の大きな予測因子です。私はこれが南アフリカで私の患者や学生たちと何度も何度も起こっていることを発見しました。そこで私は30年近く働きました。彼らが可能性のある考え方を採用することを選択したとき、彼らは絶望的な状況を乗り越えて目標を達成することができました。彼らの状況は彼らの成功を妨げませんでした。
エジソンのことばではありませんが、それは失敗ではなく、「うまくいかなかったことを1つ発見した」ということです。それは、うまく行く方法に一歩近づいたということです。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれているのは、失敗しても、前に進み続けたということでしょう。私はアブラハムにくっついて行ったおいロトと似ています。彼は、成功しているアブラハムと一緒に行けば、自分も成功するのではないかと思ったに違いありません。私はこれまで、成功している大教会の牧師に近づき、彼らから学ぼうと努めてきました。彼らの祝福にあやかりたいと思ったからです。あやかるというのですから、おこぼれを頂戴するみたいで、独自性が全くありません。高校生のとき『俺には俺の生き方がある』という加藤諦三氏の本を読んで大変感動したことがあります。もし、それを今、解釈し直すなら「自分の世界を完成する」あるいは「神さまが与えてくれたレースを走り抜く」ということでしょう。アブラハムは自分のレースを走り抜いた人です。ヘブル11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」アブラハムのゴールは地上のカナンではなく、天のエルサレムでした。そこに神さまの確かな報いがあるからです。
神さまが私たちを救われたのは、神さまと共に夢を実現することではないでしょうか?神さまが私たちに果たしてもらいたい夢を私たちに与えて下さいます。それを私たちは信仰をもって、まだ見えていないものを見えているかのように歩むのです。しかし、そのときも神さまが傍らにいて、道を示してくださいます。全部の行程は示されていませんが、後ろのものを忘れ、前のものに向かって、キリスト様が下さる賞をいただくために、目標をめざして走りましょう。