箴言13:12「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木。」子どもや青年は、夢と希望に満ちています。同時に、夢と希望に向かって行く情熱があります。しかし、やがて現実の厳しさに敗れ、「まあまあ」の無難な生き方をしてしまいます。年を取ればとるほど、情熱がなくなり、惰性で生きてしまう傾向があります。きょうは旧約聖書のヤコブを取り上げながら、夢と情熱の源は何かということを共に考えたいと思います。ヤコブはアブラハムの孫であり、イスラエルの12部族はヤコブから生まれることになります。
1.生まれつきの欲望
創世記25章にヤコブが生まれた時の様子が記されています。なんと生まれる前から、彼の人生がどうなるか定められていたようです。創世記25:23-26「すると【主】は彼女に言われた。『二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。』月日が満ちて出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは、彼らを生んだとき、六十歳であった。」ヤコブの名前は、「かかと」から来ています。双子の赤ちゃんがどっちが先にうまれでるか、争って、最初に生まれた方がエサウです。なんと次に出てきた赤ちゃんはエサウのかかとをつかんでいました。「おい、待てよ。おいらが先だよ!」と言わんばかりです。イスラエルではたとえ双子であっても、先に生まれた方が、財産の3分の2を継ぐことができます。先に生まれた方が自動的に跡継ぎになります。これを「長子の権利」と言います。ヤコブは長子の権利が欲しくてたまりませんでした。一方、兄のエサウはそのことには全く無頓着な人でした。ある日、エサウが狩りから帰ると、ヤコブがレンズ豆を煮ていました。エサウは「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ」と言いました。ヤコブは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売ってくれ」と言いました。なんて調子の良いことを?そんなもので交換できるのでしょうか?でも、エサウは「見てくれ。死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言いました。聖書には「こうしてエサウは長子の権利を侮った」(創世記25:34)と書かれています。しかし、それだけではありません。創世記27章には、年老いて目が見えなくなった父イサクをだまして、祝福を得ました。英語で言うとgetです。私たちは祝福というのはことばだけで実体がないように思うかもしれませんが、そうではありません。あとで、エサウが「お父さん、私を祝福してください」と願いました。すると、イサクは「お前の弟が来て、だましたのだ。そしてお前への祝福を奪い取ってしまった」と言いました。エサウは「あいつの名がヤコブと言うのも、このためか。二度まで私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った」と言いました。つまり、祝福は有形なものであることが分かります、それを「押しのける」という意味でもあるヤコブが奪い取ったのです。
私たちの生まれつきの夢は野望と言い換えることができるかもしれません。北大前にはクラーク博士の像あり、その台座には「Boys, Be Ambitious少年よ大志を抱け」と書かれています。Ambitiousは野心とも訳せることばです。残念ながら、クラーク博士の後の生涯は、悲惨なものでした。帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を企画するが失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡。やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされる。晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。彼は帰国した後も札幌での生活を忘れることはなく、死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしい時だった」と言い残したと伝えられています。皮肉にも、クラーク博士は自分自身の野心を果たせなかったということでしょうか。でも、若い人には夢でも、野望でも、どちらでもかまわないかもしれません。修得高校のグラウンドでは、サッカーボールを蹴っている生徒がたくさんいます。多くは「俺は、プロのサッカー選手になってやる」と夢を抱いているのではないでしょうか?
ヤコブは父と兄のところから逃げるように、叔父のラバンのもとに向かいました。途中、日が暮れて石を枕にして寝ました。創世記28:12-14「すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。」そこは、ベテルでした。アブラハムが最初に祭壇を築いた場所です。しかも、アブラハムに与えた同じ約束をヤコブがいただきました。これはどういう意味でしょう?ヤコブは父と兄をだまして、長男の権利を奪い取りました。ヤコブ自身、「俺はなんてやつだ」と自己嫌悪や負い目があったかもしれません。でも、そんなヤコブを主が認めて下さり、祖父のアブラハムに与えた約束を受け継ぐ者であることが分かったのです。多くの人たちは、若い頃、野望を抱いて無茶なことをしたことでしょう。両親や回りの人たちは、「やめなさい。無理だから」と冷や水をかけたでしょう。でも、その夢や希望は自分から出た空虚なものではなかったのです。たとえ未信者の時であっても、創造者なる神さまが心に種をまき、大いなる御手で導いておられたのだと思います。私も23歳の時、英語の職業に就きたいと土木の現場監督を辞めました。専門の大学も行っていないのに、不可能です。でも、厚木の小さな貿易会社が私を入れてくれて、そこで、キリスト教信仰を持つことになりました。会社の先輩と英語の聖書が私に信仰を与えてくれました。最初に抱いていた夢と希望どおりにならないかもしれませんが、神さまがそれらを用いて下さることは確かです。
2.葛藤の日々
ヤコブは叔父のラバンのところで世話を受けることになりました。しかし、ラバンはヤコブ以上に欺く者でした。ヤコブは欺きの大関であるなら、ラバンは横綱でありました。ヤコブはすぐ、ラバンの娘、ラケルに一目ぼれしました。ヤコブは「ラケルのために、7年間お仕えします」と約束しました。「ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた(創世記29:20)と書いてあります。これこそ情熱の力です。あっという間に7年が過ぎ、結婚に持ち込むことができました。しかし、朝、起きると、そばに寝ていたのはラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブが「なぜだましたのですか?」と聞くと、ラバンは「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせることはしないのだ」と答えました。それで、ヤコブはラケルと結婚するために、もう7年ラバンに仕えることになりました。しかし、問題が起りました。ラケルは不妊の女でした。一方、レアは何人も子どもを産みました。ラケルは姉に嫉妬し、女奴隷をヤコブに与え、子どもを産ませました。レアは自分が子どもを産めなくなると女奴隷をヤコブに与え、子どもを産ませました。この世では、「妻が二人もいたら男はきっと幸せだろう」と羨ましく思うかもしれません。とんでもありません。ヤコブは二人の妻の嫉妬の狭間で、身も細るような思いで暮らしたことでしょう。やっと、ラケル自身に子どもが身ごもり、「神は私の汚名を取り除いてくださった」と言いました。これで、合計11人です。イスラエルの12部族がこのような醜い背景で誕生したとだれが想像できたでしょう?
もう1つ問題がありました。ヤコブは14年もラバンのもとで羊飼いをしていましたが、自分の家畜も家もありませんでした。逆にラバンはヤコブのゆえに豊かな財産を持つようになりました。ヤコブは「ぶち毛とまだら毛の羊あるいはヤギが生まれたら、自分のものにしてください」とラバンに提案しました。ヤコブはどうしたでしょう?木の若枝をまだら模様に皮をむいて、水溜めに置きました。それを見た、羊やヤギが、ぶち毛とまだら毛の子どもを産みました。そうこうしている内に、ヤコブの家畜の方が多くなりました。これを見た、ラバンは腹が立ち、報酬を何度も変えました。しかし、主はヤコブの夢の中で「今度は、こうしなさい」と指示を与えてくれました。20年たって、すっかり豊かになり、ヤコブは家畜と財産、子どもたちを連れて、生まれた国に帰ろうとしました。でも、ヤコブはラバンに内緒で帰ろうとしたので、ひと悶着が起りました。でも、20年間の恨み辛みをラバンに告げると、彼は何も言えませんでした。ヤコブはヒドイ境遇にありながらも、家畜と財産を築きあげ豊かになりました。しかし、12番目のベニヤミンが生まれたとき、最愛のラケルを失うことになりました。でも、それだけではありません。晩年には11番目のヨセフが殺されたことを知り、「私は嘆き悲しみながら、陰府に下って行きたい」と悲しみました。しかし、ヨセフはエジプトで生きており、13年後に再会することになります。ヤコブの人生は困難に満ちていました。このところから分かることは、夢や希望が死んでしまうことがあるということです。
韓国のチョー・ヨンギ牧師は、特別地区であるヨイド島に教会堂を建設できることになりました。ところが、教会堂建築が始まってからしばらしくして、ドルの暴落が起り、そのため建設会社が契約を破棄してしまいました。そして、追い打ちを喰らうように今度はオイル・ショックが襲いかかり、銀行という銀行が一時閉鎖される始末でした。教会の各スタッフの給料を払うことができなくなり、牧師給ももらえなくなりました。教会に行くと、請求書に次ぐ請求書です。電気会社、木材会社、建設会社が告訴ののろしをあげました。会堂建築のため家を売り払っていたので、家族を未完成の総合施設アパートに連れて行き、そこの7階の部屋に住むことになりました。部屋には水道も、ガスもなく、暖房もありませんでした。私は自分に言い聞かせました。「そうだ。あれは間違いだった、大失敗だった。ああいう軽はずみな気持ちで神を信じるべきではなかったのだ。普通の型にはまったやり方に従って物事を考えるべきだったんだ」。チョー先生は真夜中の工事現場に行きました。錆びた鉄骨が頭上に高々と見えます。「自殺したら、地獄に行ってしまうので、どうかこの鉄骨が全部、私の上に落ちて来て、合法的に死ぬようにしてください」と祈りました。その時、主の御声がありました。「お前は弱虫だ。お前は身投げをするという、人の笑い者になろうとしているのだ。卑怯者のままでも構わないと思っているのか。お前は本当は信仰の人でなかったのか」。…教会の牧師が陥っている危機を耳にするや、信者たちの信仰は否応なしに覚醒され、信仰が復興されました。口では言えない歳月を5年も過ごしました。
チョー先生のそのとき、「死の体験」というメッセージをされました。私たちが見た夢や希望は自分が見たものなのか、あるいは神さまから来たものなのか分かりません。そのときは、「絶対、神さまからのものだ」と信仰によって立っていたかもしれません。しかし、大きな夢には大きな試練、小さな夢には小さな試練が必ずやって来ます。どんな夢でも一度、死を通過する必要があるのです。「生きるしても、死ぬにしてもあなたのみこころがなるように!」とゆだねたとき、復活がやってくるということです。かつての私も大口をたたいていた頃があります。「350名礼拝、4つの枝教会、4人の牧師」と総会の目標に上げていたときがあります。100名礼拝もなっていないのに、です。週報の裏面にも印刷していましたが、一部の反対があり、取り下げました。取り下げたとたん、「やはり、不可能な夢だったのか?」としょんぼりとしました。しかし、しばらくたつと「リバイバルが起ったら、千名、二千名の教会があちこちにできて当たり前ではないだろうか!」という思いがやってきました。最後に残った夢は、礼拝人数ではなく、もっと大きな日本のリバイバルです。35年位前、ソウルに行ったことがありますが、夕方でしたが飛行機の窓からたくさんの赤い十字架を見ることができました。韓国の教会は「日本のパチンコ屋さんが教会になるように」と祈っているそうです。私も大きな教会を建てたいという夢は一度、死にました。でも、最後まで消えない夢は、「主よ、日本のリバイバルのため私を用いてください。この目が黒いうちにリバイバルを見せてください」です。どうぞ、みなさん神さまからの夢であったなら、試練や障害があっても消えることはありません。
3.神からの情熱
ヤコブの人生において最大の試練がやってきました。それは、兄のエサウが400人の従者たちと一緒に出迎えると聞いたときです。ヤコブは非常に恐れ、策を立てました。ヤコブは一緒にいる人々や、羊や牛らくだを2つの宿営に分けました。1つ打たれてももう1つの宿営は逃れられるだろうと考えたからです。さらに今度は、兄エサウへの贈り物にする家畜を選びだしました。その群れを3つに分けて、それぞれの距離を置かせました。最後には、二人の妻と二人の女奴隷、11人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡らせました。創世記32章に奇妙なことが書かれています。「ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」と書かれています。「ある人」ってだれでしょう?この記事を書いた聖画を見たことがありますが、翼のはえた天使でありました。「それは受肉前のキリストであろう」という神学者もいます。ヤコブの名前は「押しのける」という意味がありますが、その力は天使をも打ち負かすほどでした。天使は、これは敗けてしまうと、ヤコブのももの関節を打ったので、関節がはずれてしまいました。創世記32:26-28「すると、その人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』ヤコブは言った。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』その人は言った。『あなたの名は何というのか。』彼は言った。『ヤコブです。』その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。』」この出来事は、ヤコブのペニエルの経験として知られています。なぜなら、ペヌエルは「神の御顔」という意味であり、ヤコブが「神を顔と顔を合わせて見たのに、死なないで救われた」からです。ヤコブはももの関節を打たれたので、それ以来、足を引きずって歩くようになりました。しかし、それが幸いしました。兄のエサウが彼の歩く姿を見て、哀れに思ったからです。エサウの怒りはすでにおさまっており、「私には十分にある。弟よ、贈り物はおまえがとっておけ」とまで言いました。
さて、このところでの中心ポイントは、ヤコブの名前がイスラエルに改名させられることです。しかも奇妙なのは、天使とヤコブが組み合っているとき、天使が「あなたの名は何というのか」と果たして聞くでしょうか?それに対して、ヤコブは「ヤコブです」と答えました。すると、天使は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言うのです。一体、何がどうなっているのでしょう?重要なのは、ヤコブが自分のことを「ヤコブです」と認めたことです。何度も申し上げましたが、ヤコブの名前の意味は「押しのける、欺く」という意味でした。これまでの人生、その名前のごとく生きてきました。天使と格闘している時も「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と主張しました。これだけ押しの強いヤコブには、天使も奥の手を使い、ももの関節を打ってはずすしかありませんでした。もっと奇妙なのは、天使が「ヤコブが神と戦って、勝ったから、お前はイスラエルだ」と言ったことです。キリスト教会では、このところを「ヤコブは強烈な自我が砕かれてイスラエルになったんだ」と解釈します。逆にヤコブは勝っています。
ダッチ・シーツと言う人がDreamという本で、この時のヤコブのことを書いています。ヤコブはヤボクの渡しに居ましたが、ヤボクは「浄化する、きよめる」という意味です。ヤコブが自分のことをヤコブと言ったのは、彼の本性の告白でした。彼は自分のことを「押しのける者、策士、詐欺師」と認めています。そして、その性質に忠実に、新たな祝福を求めています。しかし、神さまがヤコブの方を求めていました。神さまはヤコブを殺すことはできましたが、ヤコブを征服したいと思っていました。しかし、ヤコブが本当の状態を認めた瞬間に終わりました。瞬間、神さまは詐欺師を王子に変えました。つまり、神さまはヤコブの夢に対する心を変えたのです。これまでのヤコブは自分の夢や希望を叶えるために手段を選びませんでした。人を押しのけ、だまして欲しい物を手にいれました。しかし、そんなヤコブを神さまは愛していました。ここからは私の解釈です。ヘブル11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあります。でも、問題なのはヤコブが、神さまからではなく、自分で勝ち取らなければならないと人を押しのけてでも生きてきたことです。英語で「得る」ということばにいくつかあります。最もよくつかわれるのはgetです。しかし、obtainという言葉は、「獲得する、勝ち取る」という意味です。stealは、「奪い取る、盗む」という意味です。ヤコブの人生は、get,obtain,stealでありました。しかし、もう1つすばらし言葉があります。それは、grantです。grantは「賜る、授ける」という意味です。つまり、自分で何とか奪い取るのではなく、神さまが与えて下さるということです。何とか奪い取るというのは、乞食根性です。でも、神さまが必ず与えて下さると考えるのは王子の生き方です。私たちの方ではこの夢や希望をなんとか叶えなけばと必死に生きています。しかし、神さまはあなたと夢をともに持ちたいのです。ここは、ダッチ・シーツの本からの引用です。神さまはヤコブに言いました。「イスラエル。夢はあなたのためだけではなく、私のためでもあります。 何世代にもわたって従うべきだ。わたしのやり方と心を世界に示すことができる国、そしてメシアをもたらすことができる国が必要だ。あなたがその国をわたしのために誕生させるのだ」。
私は8人兄弟の7番目で育ち、家ではヤコブではなく、「ヤシ」と呼ばれました。ぼうっとしていると食卓のおかずがなくなってしまいます。「人の上前をはねてでも、抜け目なく生きる」というのが私の人生論でした。品物を買う時、価格コムのグラフを見ながら、チャンスは二度と来ないと思ってるので、待たないで買ったりして、あとから失敗したと思います。車の運転も、できるだけ近道、できるだけ早く、しかも高速代が安く到着できるルートを捜します。これが信仰にも影響しており、奪い取る信仰でこれまで生きてきました。マタイ11章に「天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と書かれているからです。でも、それは取税人や遊女、罪人たちのことでした。確かに、必死に求めて来る人たちを、神さまは喜ばれるでしょう。でも、救われた後は、自分が神の王子になったということを知るべきです。つまり、そんなにガツガツ求めなくても、王なる神さまがgrant授けて下さるということです。神さまは「私と同じ夢と希望を持とう。必要なものは授けるから」と言われます。