2021.11.28「私たちの父よ マタイ6:5-13」

 イエス様は弟子たちに祈るときは、「天にいます私たちの父よ」と祈りなさいと言われました。これは大変、有名な「主の祈り」の冒頭の部分です。きょうは、「主の祈り」の内容を学ぶのではなく、父なる神さまとの親しい関係を持つことの力について学びたいと思います。私たちクリスチャンは神さまの子どもであり、神さまを「お父様」と呼べる特権が与えられています。しかし、当時の宗教家たちのように形式ばった祈りによって、父なる神さまから何かを求めようとしたなら、それは間違いです。

1.父の子である特権

 イエス様は弟子たちに祈るとき、「『私たちの父よ』と呼びかけて良い」とおっしゃいました。これは当時のユダヤ教においては考えられないことでした。ユダヤ人はアブラハムを「父」と呼んでいました。なぜなら、アブラハムはイスラエルの先祖であり、信仰の父であったからです。ユダヤ人はそのことをとっても誇りに思っていました。では、神さまをどのように呼んでいたのでしょうか?旧約聖書においては「父なる神」とは、創造主である神とイスラエルとの関係を規定する概念でした。神さまは、アブラハムを異教のカルデアのウルから召し出すことによってイスラエルを創造しました。アブラハムの末裔であるイスラエル民族にとっては、神さまは「父」にほかなりませんでした。ホセヤ11:1「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した」と書いてあります。ですから、当時のユダヤ人たちは神さまを「父」と呼んでいました。それは英語で言いますと、The fatherです。しかし、そこには親しい意味はありません。人間とすべてのものを創られた父であり、私たち人間とはかけ離れた存在、超越者という意味があります。でも、イエス様は弟子たちに「『私たちの父よ』と呼んで良い」と言われました。それは英語で言いますと、Our fatherです。そんなに親しくて良いのでしょうか?これは、当時のユダヤ教徒には考えられないことでした。彼らにとって、もっと考えられないことは、イエス様が神さまを「私の父」と呼ばれたことです。ヨハネ5:17「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言われました。これを聞いてユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうと思うようになりました。なぜなら、イエス様が安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくし、神を自分の父と呼んでおられたからです。

 福音書を見て分かりますが、イエス様は常に神さまを「私の父」あるいは「父」と呼んでいました。一回だけ例外的に十字架にかかられたとき「わが神、わが神」と叫ばれました。でも、他は、いつでも神さまを父と呼び、親しく交わっておられました。本来なら、神の御子であられるイエス様だけが、「私の父」と呼ぶことがおできになります。なのに、イエス様は弟子たちに「『私たちの父』と呼んで良い」とおっしゃいました。でも、そのことは、イエス様の弟子たちにだけに与えられたのでしょうか?ヨハネ福音書1章に、このように書かれています。ヨハネ1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」これは、イエス様の弟子である、ヨハネのことばです。その名とは、イエス・キリストの名を信じるということです。そうすると、神の子どもとなる特権が与えられるということです。ヨハネは第一の手紙でも、こう述べています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」(Ⅰヨハネ3:1)。私たちは神の子どもになるために、何か一生懸命努力する必要はありません。この世においては、特別な試験を受けて合格して、初めて証明書が与えられます。何の努力もしないで得られる資格など、ありません。この世で、ただでもらえる資格があったなら、ほとんど価値のないように思われるでしょう。でも、そうではありません。イエス・キリストを神の子、救い主であると信じるなら、神の子どもとされる特権があたえられます。使徒パウロはローマ8章で、こう述べています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(ローマ8:15,16)。私たちがイエス様を信じると、神の御霊が特別な何かをしてくださいます。普通、この世では父と子の関係を言うとき、父から生まれる必要があります。正確には「父が子をもうける」と言い、英語ではbegetです。でも、父から生まれたお方はイエス・キリストお一人だけです。では、どうしたら私たちは神の子どもになれるのでしょうか?それは養子縁組です。実際、ローマ8章では、「子としてくださる御霊」はthe spirit of adoption、「養子にしてくださる霊」となっています。つまり、私たちは聖霊によって、神の養子になるということです。詳しく言うと、聖霊が私たちを霊的に生まれ変わらせて、神の養子にしてくださるということです。

 私たちは地上で生まれた限りは、肉の父がおり、肉の母がおります。このことに感謝している人もいれば、あまり感謝をしていない人もいるかもしれません。でも、どちらであったとしても、あなたがこの地上に生まれるときは、地上の父と母がいたということは紛れもない事実です。人にはいろんなおいたちがあり、子どもの時どちらかが亡くなったり、離婚したりして、離ればなれになる場合もあります。幸福で財産のあるお家で生まれた場合は、幸福で豊かな生活を送れる可能性があります。反対に、貧しく機能不全の家庭で生まれた場合は、独力でがむしゃらに生きなければなりません。人を見ると、「ああ、この人はこのような境遇で育ったんだろうなー」ということが大体分かります。しかし、神さまはどのような生まれや育ちであろうとも、もう1つの人生、もう1つの運命を用意しておられます。それが「神の子どもとされる特権」です。特権は、ギリシャ語でエクスーシアであり、「権利、資格、能力、力、権力、権威」であります。英語では、rightが最も近い意味ではないかと思います。Rightは「権利」とか「正統な要求」です。簡単に言うと、イエス様を信じている人は「私は神さまの子どもです」と言える権利があるということです。本当は養子なのですが、相続人として、神さまのものを相続できるということです。相続においては、養子も嫡子(ちゃくし)と同じ権利があります。問題は、あなたが「私は神の子どもです」と与えられた権利を正しく主張しているかどうかです。「いや、私は洗礼を受けましたけど、教会にはほとんど行っておりません。クリスチャンというよりは、半クリですね」。昔は半分クリスチャンを「半クリ」と呼んだようですが、とんでもない表現だと思います。主にあっては、クリスチャンも半クリもありません。私たちはたとえ罪を犯したとしても、神の子の身分は失うことがありません。ルカ15章の放蕩息子も、父のもとを離れ、堕落していたときがありました。でも、そのときも父の子どもであったことは変わりありません。彼が悔い改めて、父のもとに帰ったら、一番良い着物と指輪と靴が与えられました。この3つは神の子が持っている具体的な特権です。着物は義の衣であり、指輪は神の子どもとしての権利、靴は悪魔を踏みつける権威です。ヨセフがエジプトの宰相になったとき、ファラオはヨセフに自分の指輪を与えました。それゆえに、ヨセフはエジプト全土を支配することができました。

 では、あなたが神さまの子どもであるという特権をどのようにたとえたら分かるのでしょうか?2019年11月アメリカの宣教団体から7名の方が来られました。日曜日の夜の集会で、一人の女性がメッセージをいたしました。最後に、イエス様を信じて神の子どもになることの例えを話していました。その例えの答えをものすごくもったいぶって、伸ばして、伸ばして、「それは冷蔵庫です」と結論付けました。私は「そんなに引っ張って、答えが冷蔵庫なの?やっぱり神学生だなー」とどん引きました。でも、年が明けて1月の末、ケビン・デドモン師の『鍵のかかっていない天』という本を読んだら、「子どもたちは冷蔵庫を襲撃できる」と書いてありました。子どもたちは召使よりも、大胆に父の家に出入りできます。ケビン師には結婚したチャドという息子がいました。ある夜、私が部屋から出ると、息子が家に来ていました。彼は電話もせず、ノックもせず、家の中を歩き回っていました。分かりますか?息子は父の家に前もって予約する必要はありません。私はいつものように冷蔵庫を開けて、ニューヨーク・ステーキ・バーベキューの残りがないか捜しました。後で、食べようかと思ってとっておいたのです。ところが、息子は私のとっておきのランチを食べてしまっていたのです。なぜ、それは、彼は私の息子だからであり、息子は父の家の冷蔵庫に自由にアクセスできます。一方、カーペット・クリーナーたちが、朝の7時に何の告知もなく、家に入って来て、カーペットを掃除したならどうなるでしょう?私は怒ります。私の怒りはおさまりません。なぜなら、彼らが冷蔵庫を勝手に開けて、ニューヨーク・ステーキ・バーベキューの残りを食べてしまっていたからです。私は彼らに「出て行ってくれ!」と言うでしょう。何故なら、彼らは私の息子ではなく、召使だからです。私はこの例え話を見て、「ああ、彼女の言いたかった冷蔵庫とはこのことだったんだなー」と分かりました。神の子の特権とは、天の父の家にいつでも入ることができるということです。召使は主の臨在のある日曜日、あるいは水曜日の祈祷会だけです。息子や娘たちは、いつでも天の父の冷蔵庫を襲撃して、欲しいものを食べることができます。神の子どもの特権とは例えるとそういうことです。

2.父との親しい交わり

 「主の祈り」の背景は、マタイ6章ではわかりませんが、ルカ11章には、このように書かれています。ルカ11:1さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」弟子のひとりは、イエス様がどのように祈っておられるのか、知りたいと思いました。それで、自分もイエス様から祈りの仕方を教えてもらいたいと願ったのです。でも、弟子たちはユダヤ教の信仰が前からあったので、祈り方を教えてもらいたいとはどういうことでしょう?彼らも幼い時から、神さまに祈っていたに違いありません。それなのに、なぜ、祈りを教えてくださいと願ったのでしょうか?マタイ6章には当時の宗教家たちの祈りが記されています。マタイ6:5「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」偽善者たちとは、律法学者やパリサイ人のことですが、人の前で声を出して、これみよがしに長い祈りをしていたようです。それに対して、イエス様は「祈る時には自分の奥まった部屋に入って祈りなさいよ」と教えました。では、異邦人はどのような祈り方をしていたのでしょうか?マタイ6:7「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。」同じことばを繰り返すというのは、祈祷文を唱えるということです。たとえば仏教などでは、経文やお題目を何度も唱えます。巻物やお札にぎっしりと、経文が書かれており、それを繰り返し唱えます。では、ユダヤ教はそうではなかったのかというと、似た物がありました。申命記6章にシェマーという、祈祷文が記されています。それを「経札」と言いますが、左腕に巻いたり、額の真中に結び付けていました。なぜなら、申命記に「そのようにせよ」と書かれているからです。でも、イエス様はそのような祈りは本当の祈りではないと言われ、以下の「主の祈り」を教えてくださいました。でも、これも定式文となり、礼拝のときなど、繰り返して唱えます。ルターは、主の祈りを「キリスト教史上最大の殉教者」と呼び、「唱えられることはあっても祈られることがない」と悲しみました。

 「主の祈り」すらも、心がこもっていない、形式的な祈祷文になってしまうということです。ですから、私たちは「主の祈り」を一字一句間違えないで唱える祈りをイエス様は求めていないということです。その中に網羅されている内容を自分のことばで祈れば良いのです。では、なぜ、弟子たちが自分にも祈りを教えて下さいと願ったのでしょうか?それは、イエス様の祈りが良く聞かれるからです。イエス様は朝早く、あるいは山で一人でよく祈っておられました。イエス様は町中でも、奥まった部屋を見つけて、父なる神と祈っておられたに違いありません。その結果、どうでしょう?盲人の目が開かれ、足のなえた人が歩き、あらゆる病気が癒されました。悪霊たちも声をあげて出て行きました。イエス様がガリラヤ湖の嵐を静めたとき「いったいこの方はどういう方なのだろう?」と大きな恐怖に包まれました。そういう力あるイエス様を見て、弟子たちは私たちに祈りを教えてくださいと願ったのです。力のもとになった祈りの秘訣とは何でしょう?それは「主の祈り」を何度も繰り返すという祈りではありません。あるいは、異邦人のように同じことばをくどくどと唱えることでもありません。重要な鍵は「神さまをお父様」と呼んで、親しく交わるということです。祈りにはいろいろな種類があります。求める祈り、とりなしの祈り、感謝の祈り、公の祈り…でも、祈りの基本は父なる神さまとの交わりです。私たちが聖霊によって生まれ変わると、霊が目覚め、霊なる神さまと交わることが可能になります。イエス・キリストの血潮によってすべての罪が贖われているので、恵みの御座にいつでも行くことが可能です。さきほどの冷蔵庫の例えのように、神さまが持っているものを襲撃できる特権が与えられています。マタイ7:11「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」アーメン。私たちは神さまの子どもとして、何でも求めて良いのです。父なる神さまは私たちに最善のものを与えたくてうずうずしているのです。

 第一のポイントで引用した、ケビン・デドモン師の『鍵のかかっていない天』という本にこのようなことが書かれていました。私がメキシコのテピックでミニストリーをしていた最後の夜、車の事故に遭ったことのある若い女性が訪れました。彼女の顎の骨はひどく壊れていて、たくさんの金具がはめこまれていました。お医者さんが、顎の骨がないので、そのようにしていたのです。力がなかったので、彼女はほほえむことも、噛み合わせることもできませんでした。なぜなら、骨がないので、彼女の顔は片方に垂れ下がっていました。私は彼女のためにこう祈りました。「分かりました。私は天から新しい顎をひったくります。私は神さまの『予備部品』倉庫に行き、新しい顎の骨をひっつかみ、彼女の口に投下します。」彼女の顔が熱く感じて、ちくちく痛かったようですが、外からは何も起っていないように見えました。次の年、メキシコの同じ場所に行ったとき、若い女性がほほえみながら近づいてきました。あのとき、私が祈った後、彼女は家に帰りました。寝ている間に骨が元に成長し、次の朝には新しい顎の骨ができていたそうです。彼女は医者の所に行って、レントゲンを撮ってもらいました。医者は前のレントゲン写真と比べてこう叫びました。「私は無神論者だけど、これは奇跡だ!」。彼女はあのときから、リンゴを1年間食べていると告げたそうです。ケビン師はさらにこう述べています。ルカ12章32節にあるようにイエス様は「あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになる」とおっしゃいました。もし、私たちが私たちの重要な身分を知るなら、確信をもって父のもとに近づき、父の家から必要なものを取り出すことができるのです。アーメンです。

 「主の祈り」の中に「御国が来ますように」というくだりがあります。このことばは、私たちの週報にも印刷されています。この訳が悪いわけではありませんが、本当は、let it come the kingdom of thee.「あなたの御国を来たらせたまえ」という命令形になっています。このところを丁寧に訳すと「天で行われていることと同じことが、この地でも行われるように、あなたの御国を来たらせたまえ」であります。ビル・ジョンソンは『天が地に侵略する』という本を書いています。彼の解釈によると、「天でなされていることが、この地でもなされるように、私たちを神の器として用いてください」という意味になります。この模範として生きられたのが、イエス・キリスト様です。イエス様は父なる神さまと親しく交わり、この地上を歩まれました。イエス様のことばです。ヨハネ5:19「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」つまり、イエス様は父なる神さまと親しく交わることによって、御国の力が与えられ、行くところどこにおいても、御国の力が現れました。イエス様に染み込んでいた力が、したたり落ちたと言っても良いでしょう。だから、長血を患った女性が、後ろから、イエス様の衣のすそに触っただけで、自分に力が流れて、癒されました。イエス様が全く意識していなかったのに、勝手にその女性が力を奪い取ったのです。まるで、電気泥棒です。イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです」(ルカ8:48)と言われました。

主の祈りは、神さまを「私たちの父」と呼んで良いというところから始まります。イエス様は人々の前ではなく、部屋の扉を閉じて、隠れたところで祈りなさいと言われました。さらには、決まりきった祈祷文ではなく、聖霊が導く、祈りによって心から祈りなさいと言われました。するとどのようなことが起るのでしょう?あなたもイエス様のような御国の力に満たされるということです。あなたが祈りの場から立ち上がり、道を歩くとき、買い物に行く時、だれかと会うとき、何らかの必要があるかもしれません。私たちは父に聞きながら、「あなたは私を通して何かなさりたいことがあるのでしょうか?」と聞きます。突然、「あの人の足のために祈りなさい」と言われるかもしれません。「はい、わかりました」。「どうなされたのですか?」。「はい、事故でアキレス健が損傷してうまく歩けないです」。「お祈りさせてください」。そのとき、このように祈るのです。「天のお父様、私はあなたのもとに伺います。あなたの『予備部品』の中にこの人のための新しいアキレス健があるはずです。それを今、私にください。」そして、その人の足首に手をあて、「新しいアキレス健を与えます。元通りに歩けるようになるように。アーメン。」あなたはイメージの中で天の御倉から、新しいアキレス健を掴みとり、それをその人の足に組み入れるということです。まるで、車の部品を交換するかのように、アキレス健を交換すれば良いのです。私たちは神さまの子どもなので、冷蔵庫のように勝手にドアをあけて、欲しいものを襲撃できるのです。父なる神さまは、私たちが御国の勇者として、ご自分が持っている御国の倉を勝手に開けて、欲しいものを持ち出してもらいたいのです。なぜなら、主の祈りで「あなたの御国を、この地に来たらせたまえ」と祈っているからです。どうぞ、父なる神さまと親しく交わり、神さまの力で満たされ、私たちが行くどこにおいても、御国をもたらす器として用いられましょう。