「私たちは何を優先すべきなのか」を4回に渡って学びたいと思います。第一回目は、「この世よりも優先すべきこと」と題して学びたいと思います。この世というのは、「この世の関心事」と言って良いかもしれません。イエス様は「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものである」とおっしゃっています。異邦人は、本来、ユダヤ人以外の外国人という軽蔑的な意味で使われました。ここでは、まことの神を知らない人たちということです。
1.この世の関心事とは?
マタイ6:25「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。」イエス様は、神さまを知らない異邦人たちが切に求めているものを3つあげています。第一は何を食べるかです。第二は何を飲むかです。第三は何を着るかです。これらの3つを現代的に言うなら「衣食住」の問題と言えるでしょう。現代は住まいのことがとても重要な課題の1つになっています。大体テレビのCM,また新聞のチラシを見ると、「衣食住」に関することばかりです。戦前戦後は、食べれば良い、住めれば良いというものでした。当時は生き延びることが最大の課題だったからです。でも、現代は、食べ物はおいしいものを求めています。どこのお店がおいしいとか、一工夫するとおいしく食べられるというのが話題になっています。グルメレポートというのがテレビでかなり放映されています。「あなたのお昼ごはんを見せてください」という番組もありますが、余計なお世話だと言いたくなります。でも、テレビで映されると嬉しんですね。現代人は肥満になって、痩せるためのサプリメントや運動器具にお金がかかります。アルコール飲料のCMも多くて、依存症の人には誘惑になるのではないでしょうか?着るものでも、流行・ファッションに乗っからないと恥ずかしいと思っています。「いま、この色,流行っているの」「このコーディネートいけてるでしょう」とか言っています。センスがないとか、時代遅れだと言われないように、必死です。ほとんど着ないものもあり、多くはメルカリに出品しています。
Ⅰヨハネ2:16,17「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」ヨハネは「この世にあるもの」と題して説明しています。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢と3つに分けています。目の欲というのは、自分を美しく見せることだと思います。この世の人たちは、ファッションもそうですが、容姿の美しさを求めています。中国から来た旅行者は日本の化粧品を買いあさります。品質が良いからでしょう。また、韓国では美容整形がおおやはりであり、女性の42%が手術を受けたことがあると回答したそうです。日本からも毎月、シリコンを顔に注入しに行く女性がいます。ある調査によると「97%の韓国女性は美貌を維持することを重要だと考えており、61%が自身の容姿に満足していないと回答した」そうです。韓国のクリスチャン人口が20~30%だということが信じられるでしょうか?年をとっても、アンチ・エージング対策をします。ドモホルンリンクルを頼んだりします。ちなみに、ホルンはドイツ語で「角層」、wrinklesは「しわ」という意味です。アンチ・エージング、悪いことではありません。でも、心の内側から来る美しさ、神の栄光の輝きがあれば、もっと素晴らしいと思います。また、「暮らし向きの自慢」というのがあります。昔は庭付きの1戸建てが夢でしたが、現代はタワーマンションかもしれません。暮らし向きの自慢というのは、住む家だけではなく、家具や内装、調度品もあるかもしれません。こぎれいにすることは、とても良いことだと思います。だけど、ベルサイユ宮殿のように家具にこだわっている人もいないわけではありません。給与のほとんどをそういうものにつぎ込む人の気持ちがわかりません。でも、その人の自由ですから、私がとやかく言うと敵を作ることになるでしょう。私は朝と夜、2回、散歩をしています。立派な家がたくさんありますが、「あれ、どうしたんだろう」という光景をたまに見ることがあります。精神的に病んでいて、たまにしか家に帰ってこれない息子さんもいます。また、家からうめき声とか、叫び声が聞こえてくるときもあります。別に、耳を澄ませているわけではありませんが、外側は美しく見えても、家庭内の問題は見えないということです。いろんな事件がニュースで放映されていますが、「え、あの人が?よく挨拶していましたよ」というケースが多いように思います。
使徒パウロはⅠテモテ6章でこのように述べています。「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。」(Ⅰテモテ6:6-9)。そうです。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、そしてどこに住むか?」それらのことを得るためにはお金が必要です。人々は自分の欲望を満たすため、たくさんのお金を得ようと頑張るでしょう。時には不正な富を得て、そうするかもしれません。でも、人間の欲には際限がありません。昔、井上陽水が「限りなきもの、それが欲望」という歌を歌いました。白い靴を買うと、今度は青い靴が欲しくなります。ある芸能人は、100足以上の靴を持っていました。知恵のある人は、「適当なところで満足することが必要だ」と助言するでしょう。それも必要ですが、私たちはこの世に住んでいることを忘れてはいけません。この世のものはすべて罪ではありません。問題なのは、この世のものは人々を占有して、神の国から離してしまう力があるということです。イエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」(マタイ16:26)と言われました。つまり、この世のものを欲しがっていると、今、あるものに満足することを忘れてしまうということです。私たちはこの世でいつまでも生きていられるのではなく、やがて永遠の御国に入る者であることを忘れてはいけません。だから、イエス様は「自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」と言われたのです。
2.その結果どうなるか?
時代が変わっても、物質的に豊かになっても、人々は思い煩っています。イエス様は「思いわずらい」の原因はこれであるとおっしゃっています。マタイ6:31,32「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」「心配する」のギリシャ語はメリムナオウです。日本語では「心配する、気づかう、思いわずらう」です。しかし、メリムナオウのもとのことばは、メリゾウであり「心が分散する、分裂する」です。英語はanxiousです。多くの人はいろんなことを心配して、まるで「心が引き裂れている」状態ではないでしょうか?異邦人の心配事は、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」です。私も家では家事もこなしていますが、自分一人であれば、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、全く心配しません。しかし、子どもがいると、肉とか、栄養のあるものでなければなりません。また、だれかを招待する場合は、ある程度のメニューでなければ恥ずかしいですね。そういう気を使いたくないので、滅多に、お家には招待しません。次男が結婚してお嫁さんが来るときは、やっぱり気を使います。シャケとか野菜いためでは無理でしょう。川崎の『家の教会』では、1週に一度、だれかの家に料理を持ち寄って食事会をするそうです。1月に1度でも大変なのに、気がしれません。教会では日曜日、礼拝に行きます。華美になってはいけませんが、ある程度、身なりも整える必要があるでしょう。でも、礼拝があるのでお化粧したり、身なりも整えるのも変化があって良いかもしれません。でも、「クリスチャンは内面が大切だよ」と言われているので、外面を飾るための心配は無用です。ここで言われているのは、神さまを信じていない人たちのことです。彼らと言って良いか分かりませんが、何を着て、何を持ち、どんな生活をしているのか話題にもなるし、ゴシップにもなるかもしれません。彼らは「人にどう思われるだろうか?」ということがとても気になります。低く見られてもいけないし、かといって高ぶっているとも思われてもいけないし…と心配が絶えないでしょう。
もう一つ、言われているのが、明日の事に対する心配です。マタイ6:34「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」多くの人たちは、明日の事、将来のことを心配して暮らしています。日本では、高齢化問題もあり、年金だけで暮らしていけるだろうか?と心配しています。数年前、老後を過ごすために経済産業省の試算では2,000万円の貯蓄が必要だといわれました。特養とか、介護保険とか、私もだんだん気にするようになりました。この間、郵便局に行ったらがん保険加入のポスターがありました。今は二人に一人が癌で死ぬと言われています。他にもいろんな病気があるので、心配ではないでしょうか?また、日本は地震大国なので、いつ大地震が襲ってくるか分かりません。子育てのときは、子どもの将来について心配します。今度は、自分のことが心配です。イエス様は「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と言われました。これはどういう意味でしょう?「明日のことは心配しないで、一日、一日、生きろ」ということでしょう。内村鑑三が「一日を一生のごとく生きよ」と言いました。私たちは生きているのではなく、神さまから生かされているという考えが必要です。また、寿命というのは神さまが定めていると考えるべきです。マタイ6:27「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。とイエス様がおっしゃいました。もちろん、私たちは健康管理する必要がありますが、いのちの長さは、神さまにゆだねるしかありません。詩篇90:10「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」と書かれています。これは裏返すと、私たちの地上の平均寿命は、70年から80年だということです。現代は医療が発達して、90歳くらいまで伸びましたが、健康寿命はどうでしょうか?とにかく、ちゃんと体を管理していれば、70年から80年は生きるということです。それ以上、生かされるなら、もうけもの、いや、神さまの恵みだと思わなければなりません。クリスチャンはこの地上のいのちだけではなく、永遠のいのちも既に賜っていますので、ある程度の年になったら、「もう十分」と感謝すべきでしょう。行先がはっきりしているので、余計な心配をする必要がありません。この世の人たちは、心配し過ぎで、寿命を縮めています。恐れ、心配、不安、憎しみ、怒り…これらは私たちの健康を損ねる最も悪いものです。心と体が繋がっていることは、聖書が言っている真理です。この世の医学も、やっとそのことが分かり始めて来たようです。過去のことは忘れ、明日のことは主にゆだね、今日与えられた日と精一杯生きるのです。
イエス様はそのことを空の鳥や野の花から学べと言われました。私は昔、猫を3匹かっていました。正確には子どもと家内が拾ってきて、私が世話をしたということです。何を食べさせるかなんと思い煩ったことでしょう?猫から学んだことは、彼らは明日のことを心配しないで生きているということです。餌を食べた後、ゆっくり寝ます。日向ぼっこをしながらゆっくり寝ます。食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活です。飼い主がその分、心配しています。猫が寝ている姿を見て、「明日のことは心配するな」と教えられました。私たちは神さまの御目のもとで暮らしているのです。「すべてのことは主の御手にある」と賛美にもあります。ですから、よけいな心配はしないようにしましょう。心配するということは、主を信頼していない証拠なのかもしれません。それでもこの世で生きている限りは心配が尽きません。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」「神にゆだねなさい」は英語の聖書は、casting all your care upon Him「神さまに放りなさい」と訳されています。飼い主は猫のことを心配していますが、それ以上に、神さまが私たちのことを心配しておられます。イエス様は「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(マタイ6:30)と言われました。私たちは心配事を神さまにゆだねつつ、「きょう一日」「また、きょう一日」を主と共に感謝して生きるのです。
3.何を優先すべきか?
異邦人は、何を食べる、何を飲むか、何を着るか、衣食住のことで心配しています。彼らの関心事は、この世のことであります。私たちもこの世に生きているので、そちらの方にひっぱられて思い煩う時があるでしょう。イエス様は、ただ「心配するな」とおっしゃっているのではありません。このことを第一に求めるならば、それらの心配から解放され、さらには必要も満たされるとおっしゃっています。このことがすべての必要が満たされる鍵であります。私たちは神の祝福を第一に求めるのではありません。このことを第一に求めるなら、結果的に祝福がやってくるのです。マタイ6:32,33「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」日本人ほど、真面目で勤勉な国民はいないと言われています。朝早くから夜遅くまで働いているのに、生活は楽になりません。現在、一人当たりのGDPは、日本が26位だそうです。日本人は天地を創られた神さまを知りません。そのため、一生懸命働いて、貯金しても不安なのです。詩篇127:1、2「【主】が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。」私たちを養っておられる神さまがおられることを知るなら、ゆっくり休むことができます。イエス様は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」(マタイ6:26)と言われました。
さらに、33節において、私たちが第一に求めるべきものが何か教えてくださいました。それは、「神の国と神の義とを第一に求めよ」ということです。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。神の国とは何でしょう?神の国とはギリシャ語でバシレイアですが、その意味は神の支配です。神さまが王であり、私たちがその国の民です。ですから、私たちが王である神さまに従うことは当然の義務です。そうすれば、その保証として神さまが私たちを守り、必要を与えてくださるのです。そして、その義とは「神の義」であります。神の義とは、神さまが正しいとされることです。旧約聖書ではそのことが律法として書かれています。でも、私たち人間は律法を守る力がありません。ですから、「自分の力で神の義を第一に求めよ」と命令されても不可能なのです。でも、どうして不可能なことをイエス様はおっしゃっているのでしょう?マタイ5章から7章までは、すべて神の国の律法です。旧約聖書よりも厳しい律法です。ここだけ読むならば、律法の呪いの中に落ち込むでしょう。ですから、マタイ6章33節の命令すらも、キリストの贖いを通して読むのです。すると、「神の国と神の義とを第一に求めよ」というのは、イエス・キリストを信じて、神さまと和解することが大事だということがわかります。そうすると、私たちの心が生まれ変わり、そこに聖霊が与えられます。その結果、神さまのご支配とか、神さまの義が何か分かり、そのことを第一に求めたくなるのです。クリスチャンであっても、マタイ6章33節が律法としての神の命令であることを理解していない人がいます。そして、「神の国とその義とを第一に求めよ。そうすれば、すべてが与えられるんだ」と方式化してしまいます。信仰熱心な親は、子どもたちに「神の国とその義とを第一に求めなければならない」と強制するでしょう。また、祝福されていない人と見ると「神の国と神の義とを第一に求めないからだ」とさばくかもしれません。私は一代目のクリスチャンなので、マタイ6章33節が最も重要な命令の1つであると心から信じています。でも、子どもたちが同じように理解してくれるかどうかは疑問です。確かに、マタイ6章33節は大切な戒めですが、律法ではなく、恵みとしていただく必要があります。Message Bibleというのがありますが、33節を直訳したいと思います。「あなたの人生を夢中にせよ。神の現実、神の先導、神の備えとに」。
この世のものは、私たちを神の国と神の義からそらせる力があります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか…衣食住のことを心配します。でも、それらすべてを与えてくださるのは父なる神さまです。もし、神の国と神の義を最優先事項として定めるならば、第二番目のことにそんなに時間やエネルギーをさかなくても良いでしょう。この世の人たち、異邦人は、第二番目のことに心を奪われて、時間やエネルギーを浪費しています。この世の背後にはサタンがいて、私たちを神の国とその義からそらせるためにやっきになっています。時々、生活が混乱している人たちを見ますが、その主な原因は優先順位を守っていないからです。大事なことを脇に置いて、どうでも良いことを優先しているからです。もし、平安で豊かな人生を送りたいなら、余計なことを切り捨てて、優先順位を守ることが必須です。船に乗って航海する人は、羅針盤がとても重要です。羅針盤を持っていなかった時代は、北極星に合わせたそうです。私たちの人生にとっての羅針盤、北極星は「神の国と神の義」を第一に求めることです。私たちは毎週、主の祈りを賛美します。イエス様は、「御名があがめられ、御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように祈れ」とおっしゃいました。まさしくそのことは、「神の国と神の義」を第一に求めるということです。自分の人生においてそのことが来るように、そして、そのことが私たちのまわりに起るようにと願うのです。神の国と神の義は、この地上に来たなら、何と幸いでしょう。この世はイスラエルの死海のようにいのちがありません。しかし、エゼキエル47章には神殿の敷居の下からいのちの水が流れ、それが川になると書いてあります。やがて、それがアラバに下り、海に入ります。「この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生きる」(エゼキエル47:9)のです。「しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる」(エゼキエル47:11)とあります。この世が全部、神の国になるのは、御国が完成する時まで待つしかありません。最初に取り組む範囲は、私たちの人生とその周り、私たちが住んでいるところからです。私たちのところに御国が来て、みこころがなされるように願い、そのように生きるのです。神さまはそのための力と必要を与えてくださいます。