2021.7.25「主にあって生きる コロサイ3:18-23」

 パウロの書簡は、前半は教理的なこと、後半は倫理的なことです。言い換えると、教理的なことが基盤にあって、倫理的な生活ができるということです。おもな教理的なこととは、神の創造、キリストによる罪の贖い、父なる神さまの子どもという身分です。これら3つの基盤のある人に、「あなたはこのように生きなさいよ」と命じられているのです。コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙は姉妹関係にあります。両者とも同じことが書かれていますが、補足するために、ところどころ、エペソ人への手紙から引用させていただきます。

1.妻たちよ

 コロサイ3:18「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」エペソ人への手紙5章にも同じようなことが書かれていますが、コロサイはもっとコンパクトになっています。ということは、周辺的なことを省いて、「勘所(つぼ)」が書かれているということです。では、妻たちがもっとも守るべき命令とは何でしょう?「妻たちよ。夫に従いなさい」ということです。夫たる者は声を大にして言いたいでしょう。「妻たちよ。夫に従いなさい」。裏を返すと、妻が最も難しいことは、夫に従うことでしょう。しかし、その間に、大切なみことばが含まれていることを忘れてはいけません。「主にある者にふさわしく」となっています。順番的に、まず妻は、主から救いをいただき、主に従うということです。その次は、夫に従うということです。そうであれば、主の教えに反することを、夫が強要した場合は「ノー」と言えるということです。世の中には、アルコール中毒や暴力的な夫に仕える妻たちがいると思います。多くの場合、彼女らは共依存的な存在であり、「ノー」と言うことができません。本来なら、逃げても良さそうなものですが、それもできません。ですから、何よりも先に、主を信じて、主に従うことが必要です。その後、「ノー」という力が与えられ、あるいはその場を去ることができると信じます。「もし、殺されたら、どうしますか?」と反論するかもしれません。マタイ10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」もし、このような信仰を持っていたなら、夫は妻を恐れることでしょう。おそらく、世の中のカウンセラーは、このような解決法は言わないと思います。みことばに従うことが、最もすばらしくて、シンプルな方法であると信じます。極端な教えかもしれませんが、妻は、主にある者にふさわしく、夫に従うのです。

 

2.夫たちよ

 コロサイ3:19「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。」エペソ人への手紙には妻を愛する理由が記されています。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように。自分の妻を愛しなさい」(エペソ5:25)と命じられています。妻を愛するとは、キリストのように命を捨てるということです。妻が夫に従うのも大変ですが、夫が妻のために命を捨てることがもっと大変でしょう。夫は「妻が私に従ってくれたら、命をかけて愛するよ」と言うかもしれません。しかし、パウロは「それはそうとして、自分の妻を愛しなさい」と命じています。「それはそうとして」とは、英語の聖書はneverthelessであり、「例外なく」「たとえどうであっても」という意味です。つまり、妻を愛することが、何よりも優先すべきだということです。これは大変なことです。ルターが弟子たちに「本当にきよめられたかったなら修道院に入るか、それとも結婚へと旅立つが良い」と言ったそうです。私もきよめられています。アーメン。コロサイ人への手紙には「つらく当たってはいけません」と付け加えられています。これは、妻を愛することの具体的な例だということです。「つらく当たる」は、「槍の穂先で刺す」と意味があります。オランダに行くとたくさんの堤防があります。「千里の堤も蟻の穴から」というたとえがあるそうです。いくら頑丈に作ってある堤防でも小さな蟻の穴を放置しておくと大きな穴になって崩れ落ちてしまうということでしょう。結婚生活も同じです。普段から口で突き刺すようなことばが結婚生活をダメにするということです。私たちは結婚したての頃は、とても大変でした。私は生まれと育ちのゆえに、荒っぽいことばを使うのが常でした。急に、家内がだまりこみ、口を利かないときがありました。どうしてなのだろうか、その時はわかりませんでした。家内は男性に反論するということが慣れていなかったので、黙るしかなかったのでしょう。原因は、私のことばが雑であり、ちくっと刺していたのです。ある時から、家内が反論して来たので、「どういうことばが悪かったのか」だんだんわかってきました。愛するということは、非常に漠然としてとらえにくいかもしれません。まずは、「つらく当たらないようにする」ことが愛の具体的な示し方だと思います。Ⅰコリント13:4以降に「愛は寛容であり、愛は親切です…礼儀に反することをせず」とあります。アーメンです。

 

3.子どもたちよ

 コロサイ3:20「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」これも、エペソ人への手紙よりもコンパクトになっています。エペソ5章には「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え』これは第一の戒めで、幸せになり、地上で長生きする」と書かれています。しかし、コロサイは、「すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。」となっています。「すべてのこと」と言っても、「何でも」ということではありません。エペソ5章には「主にあって」と限定的になっています。ですから、親が「泥棒して来い」と言っても、従う必要はないということです。『万引き家族』は聖書的ではありません。でも、なぜ、子どもは、すべてのことについて、両親に従うべきなのでしょうか?子どもにも、言い分があるはずです。はっきり言えることは、両親が主を信じているという前提があるからでしょう。しかし、子どもは無垢ではありません。だれが教えてくれなくても、嘘はつくし、自己中心的です。アダム以来の種がちゃんと宿っています。ですから親はエペソ5章に言われているように「主の教育と訓戒によって育てる」必要があります。でも、子どもが最も学ぶべきことは何でしょう?それは権威に従うということです。親は神から権威が与えられており、いわば権威の象徴です。子どもが小さい時から、親の権威に従うということを学ぶなら、幸せになるでしょう。逆に、親に反逆したために、反抗心を持って大きくなったならどうでしょう?先生に逆らい、上司に逆らい、警察に逆らい、牧師に逆らうでしょう。なぜなら、権威に従うということを学んでいないからです。パウロはローマ13章で「権威は全て、神によって立てられたものです。従って、権威に逆らっている人は、神のさだめにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」と言っています。その人が権威に服するならば、権威によって守られるということです。ジョン・ビビアと言う人がunder coverという本を書いています。伝道師が主任牧師から、理不尽なことを言われますが、それに従ったら祝福されたという本です。ですから、子どもは両親に従うことを学ぶなら、将来、大きくなっても、権威に対して不必要な戦いを挑むことがなくなるということです。しかし、これも「主にあって」ですから、盲目的に従うことではありません。でも、子どもが両親に従うなら、主に喜ばれ、祝福を受けるのです。

 

4.父たちよ

 コロサイ3:21「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」エペソ人への手紙よりも、やはり短くまとめています。ですから、このところでは、父親が最も子どもにしてはいけないことは何かを教えています。「おこらせる」は、ギリシャ語では「刺戟する」「激昂させる」という意味です。英語の聖書ではprovoke「挑発する」であり、動物などをわざと怒らせるという意味があります。子どもの頃、動物園に行ったとき、わざとお猿さんを怒らせることをしたことはないでしょうか?子どもはとても単純で、一度、怒り出すと、何で自分が怒っているのかも忘れてしまいます。その時に叱って、叩いても火に油をそそぐようなものです。お母さんも同じことをしがちですが、子どもと対等に戦ってはいけません。子どもにも意地がありますので、「絶対に負けない」と向かってきます。でも、親は知恵を働かせて、気持ちをそらせると、ふっと止むことがあります。ごまかしではありませんが、子どもの感情を鎮めることが重要です。現代は「境界性パーソナリティ障害」の人がとても増えています。血液でいうと、血小板が足りない人です。この人は、一度、感情が爆発したら、止まらないのです。おそらく、子どもの頃に、激しく泣き続けたことがあったのでしょう。いくら泣いても、放置されていたのかもしれません。そういう子どもは、感情を制御できない大人になります。ですから、親はそうならないために、爆発した感情を一刻も早くなだめてあげる必要があります。親は「きまり」や「約束」を振り回して、意地を張って譲らないところがあります。教えも大事ですが、子どもの感情が壊れないようにすることがもっと大事だと思います。落ち着いてから、「こうなんだよね」と教えてあげれば良いのです。もう、とっくに子育てが終わった人は、子子孫孫にお伝えください。

 1から4までは家庭における聖書の教えについて学びました。オンヌリ教会では『父の学校』とか『母の学校』というのがあります。日本では、なかなか学べるところがありません。みなさんが、ぶっつけ本番です。数年前、天に召されましたが、広島の植竹牧師が「卵よりも鶏が先」というお話しをされました。「夫婦が先で子供があとだ。だから、夫婦の人間関係が一番で、そこからいっさいの人間関係が始まると、私は言いたい。夫婦の関係がまずければ、親子の関係もまずくなる。親子ばかりか人間のあらゆる関係は、夫婦の関係に左右される。夫婦の関係がうまくないと、子供を正しく愛することができない。妻の欲求不満はイライラとなり、子供に当たりちらしたり、代償的に溺愛になる。だからいくらかわいがってもノーマルでない。夫婦が正しく愛しあっていれば、子供はそれだけで満足する。ほうっておいても正しく育つ。夫婦の愛は風呂桶いっぱいも必要だが、子供への愛は小さなグラスで十分だ。夫婦に愛が満ちていれば、子供はおこぼれでも満ちるのだ。」非常に快活で分かりやすい教えです。妻あるいは夫よりも、子どもを愛したらなら、子どもはその愛を受け止めることができません。子どもらしくない「大人びた子ども」になるでしょう。エリアハウスで「親子逆転」というのを学びました。夫が仕事で家庭を留守しがち、あるいは離婚か死んでいない。それで妻ひとりで子育てをする場合です。妻、つまりお母さんは本来なら、夫に相談すべきことを子どもにしてしまいます。子どもは「そうしたら良いんじゃないの」とカウンセラーになります。親子逆転の子どもが大きくなったらどうなるでしょう?父なる神さまを信頼することが難しくなります。子どものとき守られた経験がないので、心の奥底に不安と恐れがあります。やがて家庭を持つなら、妻や夫、もしくは子どもを支配するようになるでしょう。世話のし過ぎて、自分が疲れるだけではなく、家族からも感謝もされません。なぜなら、家族を支配するからです。日本は父親不在の家庭が多いので、子どもにも悪影響を与えていることを忘れてはいけません。妻は夫に従う、夫は妻を愛する、子どもは親に従う、親は子どもを怒らせない…非常にシンプルですが、これこそ聖書の原則であることを覚えたいと思います。さらに、子どもたちにも伝授していきたいと思います。

 

5.奴隷たちよ

 コロサイ3:22-25「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行う者は、自分が行った不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。」当時のローマは人口の4割が奴隷であったと言われています。奴隷と言っても、農業や家事をする者から、商売をしたり、学問を教える者もいました。なぜなら、戦争に負けた人たち、たとえばギリシャ人が奴隷になったりするからです。もちろん、奴隷ですから売買されたり、ひどい場合は、家畜のように「使い捨て」のようにされました。使徒パウロは「奴隷解放」をして、社会を改革しなければならないとは教えていません。社会の奴隷制度を認めつつも、それを乗り越える「愛の倫理」を教えています。「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。」これは、妻が夫に対する教えと似ています。さらに、「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」。これは、現代の雇用社会に適用するとは思えないでしょうか?ある東大の教授が「古代ローマの奴隷に関していえば今のサラリーマンとそんなに変わらない」と言っています。雇用主が「主人」で、従業員が「奴隷」と置き換えてみると完全に適用できます。従業員は、人に対してではなく、主に仕えるように、心からするのです。そうすれば、主から報いを受けます。あなたがたはキリストに仕えているのです。

 ジョエル・オスティーンの本に書いてありました。ある人は会社に5分遅刻します。社長が見ていないときは、インターネットを見ています。電話や事務用品を私物として使っています。会社が終わる10分前には、帰り支度をしています。そのような人が「神さま、どうして私を祝福してくださらないのですか?」と言っても、主が答えてくれるでしょうか?integrityということばがあります。Integrityは、「正直、高潔」というふうに訳されています。高潔な人は、会社に10分前に出勤します。社長がいるときもいないときも、主を前にして仕事をします。定刻より10分後に退社します。ビル・ジョンソンが自らをアピールしてpromotion昇級する人と、だれかから自然に昇級される人との違いについておっしゃっていました。自らをアピールして昇級する人は、人に見せるためのパフォーマンスに明け暮れています。常にがんばって、結果を出して、人から認めてもらう生き方をしています。せっかく昇級しても、後輩に取られないようにやっきになっています。一方、他者から昇級される人はどうでしょう?別に人が私をどう見ようと関係ありません。主の前に正直に生きていれば良いのです。幸いに昇級したなら、これは「私の努力で得たものではなく、主が与えてくれたものである」と安心して生きています。自分の身分や立場に関しても、「向こうが私を立てたのだから、責任は向こうにある」と失うことへの恐れがありません。テレビ番組に『相棒』というのがあります。主人公は「特命係」というところで仕事をしています。窓際族なのですが、警察組織や官僚におもねることがなく、のびのびと捜査をしています。手柄に固執せず、捜査一課に譲ります。クリスチャンも「特命係」と似ているところがあります。出世する、しないは関係ありません。たとえどのような組織の中にあっても、「私は主に仕えている、主から報いを受ける」という考えは真理だと思います。

 最後は、主人に対する教えです。コロサイ4:1「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。」文脈的に言うと、3章に入るべきことがらですが、何故、4章にしたのかわかりません。エペソ人への手紙6章からも引用したいと思います。「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」(エペソ6:9)。コロサイは、「正義と公平」ということばがあり、エペソには「主は差別されることがない」と書かれています。つまり、奴隷は本来的には神のみこころではないということでしょう。このところに記されている主人が知るべきこととは何でしょうか?主は自分に対しても主ですが、奴隷たちも同じ主を仰いでいるということです。確かに地上での身分は違うかもしれません。しかし、同じ主を拝しているのですから、人間として差別するべきではないということです。日本にザビエルがやってきて、多くの大名がキリシタンになりました。高山右近のことがあるウェブに書かれていました。「右近は、神の前には領主も家来もなく、信徒たちは喜びも悲しみも分け合う兄弟姉妹なのだと説き、ある貧しい信徒の葬式の際には、自らそのひつぎを担ぎ、墓掘りまでしたといいます。墓掘りは賤民の仕事とされていた時代のことです。右近の姿は人々の心に衝撃を与え、彼の領地である高槻の当時の人口2万5千人のうち1万8千人が信者になりました。」その後、豊臣秀吉と徳川家康は、それでは封建制度が崩壊するので、キリシタンを撲滅しようとしました。

 プロテスタントから資本主義が生まれたと言われています。でも、教会史からも学びましたが、資本家と労働者の格差が生じ、反動として社会主義が誕生しました。使徒の働き4章に社会主義と似ている記事があります。使徒4:34,34「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」このところには、麗しい初代教会の様子が記されています。しかし、社会主義・共産主義は金持ちに対する、妬みから生まれました。でも、資本主義が反省すべき点があったので、社会主義・共産主義が生まれたのは確かです。コロサイ人の手紙で教えられているように「主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷(従業員)に対して正義と公平を示しなさい」ということが大事なのです。この世では「ブラック企業」というのがたくさんあるようです。資本家、経営者が権力を振り回して、従業員をこき使ってはいけません。自分たちにも主がおられると同様に、彼らの上にも主がおられるという信仰が必要です。海外でも、日本でも少数ながら、クリスチャンの企業があります。トップダウン的ではなく、社員からの意見や要望を聞いて、伸びている会社があるのは嬉しいことです。この世は偽善に満ちていますが、神をおそれ、神の御前で経営し、仕事をするならば何と幸いでしょう。きょうは「主にあって生きる」と題して学びましたが、これは家庭や会社や仕事場においても適用可能な真理と言えます。アーメン。