「怨念晴らし」は、軽井沢の李光雨師が用いたことばです。私は過去何年も先生から教えをいただき、このテーマでみなさんに何度か分かち合ったことがあります。「またか」と言われるかもしれませんが、教会は怨念晴らしの場になりやすいからです。怨念晴らしとは、言い換えると「恨みをだれかに晴らす」ということです。教会は神の家族であり、自分が育ったところと良く似ています。父や母に似た人もいますし、兄や姉に似た人もいます。神の家族内で、未解決の恨み(怨念)を晴らしても許されるのではないかと、本人は勘違いしています。また、「そうだ、そうだ」と同調して、それを助ける脇役も登場しますので、とても厄介です。怨念晴らしと怨念晴らしがぶつかるのを「修羅場」と言い、悪魔がとても喜びます。修羅場になって、神の家族が傷つくことのないように、ワクチンを投与する意味でも怨念晴らしについてお話ししたいと思います。
1.過剰反応
過去1か月を振り返って見て、何かのことで過剰に反応したことはないでしょうか?怒ってだれかを攻撃したり、逆に攻撃されて落ち込んだりしたとか。あるいは、乗り越えられそうもない困難に直面して無気力になり、逃避したことがあったでしょうか?自分でも気づいていないかもしれませんが、そこには一定のパターンがあり、テーマがあります。怨念晴らしを学ぶためには、まず「過剰反応」について知らなければなりません。過剰反応とは常軌を逸した感情の爆発であり、火山の噴火に良く似ています。火山の下には熱いマグマがあります。マグマの圧力が一定以上高くなると、どこからか噴き出します。火山学者は、「おそらくこのところから爆発するだろう」と場所が分かるそうです。一度、吹き出すとしばらくおさまります。でも、また圧力がたまってきます。そして、また、どかんと爆発します。私たちも「こういうことが起ったなら、感情的に爆発するだろうな」という自分のパターンを知る必要があります。李光雨師は『過剰反応ダリヤリー』というのを作って、自分の過剰反応のテーマは何かを知る手助けにしています。
多くの場合、私たちは常軌を逸した感情の爆発を何とかしようとします。怒りだけではなく、落ち込みとか、パニック、鬱も過剰反応の1つですが、感情は「結果」であります。何が原因かというと、「考え」であります。認知行動療法でも、良く言われますが、ゆがんだ考えが、間違った感情を生み出すということです。その結果、逃避や依存症、がんばりなどの行いが出てきます。ですから、感情ではなく、私たちはそれが起ったとき、「私は何を考えたのか?」ということを捉えなくてはいけません。『過剰反応ダリヤリー』をつけると、感情と行いはすぐ書くことができます。むずかしいのは、その時、「私は何を考えたか?」です。その考えを特定する必要があります。ちなみに、最も多いケースは自分が理不尽な出来事に見舞われた時です。理不尽とは、筋の通っていない物事であり、それを自分が他者から要求されたときです。そのとき、自分の中に未解決の理不尽の傷や悲しみ、怒りがあります。まるで、それはマグマのように心の奥底でたまっています。ちょうどそこに、理不尽がやってきました。でも、どこでそれを爆発できるでしょう?先ほどの、火山のように弱い所、自分が爆発しても大丈夫な所で、どかんと怨念を晴らすのです。その相手とは、夫であったり、妻であったり、区役所の職員であったり、牧師であったりします。絶対、ヤクザには怨念晴らしをしません。逆にやられてしまうからです。ここだったら大丈夫、この人だったら大丈夫、と言うところで怨念晴らしをします。怨念晴らしを受けた人は、「私の何が問題だったんだろう?」と不思議に思います。でも、その人は、「あなたが私に理不尽な要求をしたからよ」と言うでしょう。そして、怨念晴らしを受けた人は、何故なんだろうと落ち込んでしまいます。過剰反応の1つが、怨念晴らしです。これは怒りの爆発と言って良いでしょう。
2.怨念晴らしのしくみ
怨念晴らしのエネルギーが怒りなので、根本的な解決をもたらしません。当人は目の前の敵をやっつけて、すかっとするかもしれませんが、またエネルギーがたまってきます。中には「何くそ、いつか見ていろ」とがんばって生きている人がいます。スポーツや政治の世界でも、負のエネルギーでがんばっている人たちがいます。この世では、むしろ賞賛されるかもしれません。でも、聖書はそうは言っていません。ヤコブ1:20「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」と書いてあるからです。歴史上の怨念晴らしの例は日本人が好きな四十七士(忠臣蔵)です。田中角栄氏に長年仕えていた早坂茂三という人が、『怨念の系譜』という本を書いています。河井継之助、山本五十六、田中角栄などの人物を上げていますが、怨念をバネにして上り詰めた人として知られています。この3人は同じところの出身(長岡を中心とした所)です。彼らは雪深い越後の県民性を背負っています。それは、雪の中で本当に苦労して、何もできない日の中で、「自分の中にある才能をどこで爆発させようか」。その1点を見つけたときに、その才能が開花していくのです。長年、彼に仕えた秘書がそう言っています。これを私たちは「成功物語」として見れば、これは良い話です。「なるほど」と思うでしょう。しかし、エネルギーの源がどこにあるかと考えるなら、それは怨念の世界です。このお話は、李光雨師の講義から得たものです。
さて、彼もしくは彼女は自分の負のエネルギーをぶっつけられるターゲットを無意識に捜しています。解決されていないマイナスのエネルギーが怨念晴らしです。怨念晴らしができる一定の場所を「舞台(ステージ)」と言います。その舞台で、自分の傷を再現し、相手役にエネルギーをぶっつけるのです。たとえば、愛を受けていない心の傷を負っている人がいます。その人が、愛される場を求めます。「教会は愛を受けられる場所であるはずなのに、疎外されるとはどうことでしょう?」その人は、「教会は冷たい、愛が足りない」と叫ぶでしょう。不思議なことに、「そうだ、そうだ」とその人を助ける脇役が登場します。その人はこの際、私の怨念も晴らしてもらおうと便乗する人です。韓国では、大学の不正入学があった場合、ものすごい騒動になります。「私が大学に入れないのは、不正を許す大学が悪いんだ」と怒りを爆発しますが、その時、多くの人が同調します。実は、怨念晴らしは一人でできるものではなく、ちょうど相応しい相手役がいるものです。自分の中にある怨念と、相手の怨念が無意識のうちに、互いに引き合っているのです。たとえば、夫のアル中で翻弄している妻は、自分の怨念を展開しています。彼女は夫のアル中が治ると困ります。何故かと言うと、翻弄されることが自分に合っているからです。翻弄されていると、私は生きていると感じるのです。私も工事現場で働いている時、困難な仕事と向き合っているとき、私は生きていると感じました。あえて自分が追い詰められるような場面に身を起きました。何故でしょう?私の家庭は、父が酒乱で母や子どもたちが叩かれ、混沌としていました。私は「どうなるか分からない」という混沌としたところに追い詰められると、何とか生き延びようとする力が湧いたからです。そのため、無意識に混沌として、翻弄される場所を求めるのです。そして、何とか生き延びることによって、自分は生きているという実感を味わうのです。
李光雨師は怨念晴しをしている人にどう反応すべきか例をあげて教えています。第一は「相手の怨念の中に引きずられていく」。「何とか解決しよう。愛しながら受け入れながら行けば、なんとかなるだろう」と、自分の中にあるものが引き寄せられます。結果は自分が死にます。家族が痛む、牧師夫人がやられます。教会では牧師夫人が最も、怨念晴らしを受ける対象になりやすいということです。第二は「こっちが怒りをぶっつけていく」。「主に従え、牧師に従え!」と信徒をコントロールします。そして、怨念晴らしをしている人を、みんなの前でばっさり切り捨てます。そのときに、聖書や神学を用います。でも、この2つは自分が死ぬか、教会が修羅場になるか、どちらかです。李光雨師は他に3つの反応があると教えています。第三は「徹底的に受けていく。相手の怒りを引き受けながら、本当の解決に導いていく」。これは自分を殺して、相手を生かす道です。言い換えると、自分が死んで、自分の身を犠牲にして分からせるという道です。自己犠牲の人は、カウンセラーにいらっしゃいます。日本には我が身を殺して、相手を生かす先生がいらっしゃいます。この人は特別な賜物があります。第四は「それではとても身がもたないので、神さまのもとで直接、怒りを晴らしてもらう」。「私に直接、恨みを晴らさないでね。神さまに持って行って」と方向を示す道です。私たちは第四のキリストの十字架で怨念を晴らしてもらうようにしたいと願います。そして、第五は逃げる。逃げるという選択肢もあるということです。
怨念晴らしには、人それぞれの未解決のテーマがあります。それを『悪循環パターン明確化チャート』で発見することができます。私たちは毎日生活していて、ある「環境や状況」で危機的なことが起ります。信頼している人からそっけなくされた。会社で無能呼ばわりされた。偉そうな先生にコントロールされる状況になった。上司からできそうもないことを要求された。自分が悪くないのに悪者扱いされた。これが、「環境や状況」です。これに対して起るのが、第一のものは「考え」です。湧き上がってくる考えやイメージのことです。人から評価されないと自分の世界が壊れる。私は悪くないのに、いつも不当に扱われる。自分の力では対抗できないものが、自分の世界を混乱させている。これはゆがんだ考えなのですが、簡単に捉えることができません。ゆがんだ考えから、第二の気分や感情が影響されます。怒り、憤り、無力感、落ち込み、諦め、絶望感、不安、恐れが出てきます。第二の気分や感情は、容易に書くことができます。第三は身体反応です。茫然となり、自分の世界に入り込む。パニック発作、不眠などです。第四は行動です。フリーズする(かたまってしまう)。関係を遮断する。問題と向き合わないで回避する。悪循環パターンというのは、ある特定の出来事が起こると、その人の考え→感情→身体反応→行動がサイクルのように回って動くということです。私たちは環境や状況をゆがんだ考えで受け止め、怨念晴らしの奴隷になってはいないでしょうか?多くの場合、無意識で行われていますが、その原因は、第一番目の考えであります。考えがゆがんでいるために、感情、身体反応、行動が間違った方向に行ってしまうのです。私たちは自分の考えがどのようにゆがんでいるのか、そのところをちゃんと理解する必要があります。
3.埋め合わせ対処行動とサポート資源
私のゆがんだ考えは、「不当な扱いを受けると私の世界は壊れる」でした。私の父親が家庭をちゃんと治めてくれなかったので、私は父だけではなく、兄たちからも不当な扱いを受けました。その後、小学校、中学校、高校に行っても、不当な扱いを受ける経験は止みませんでした。どういう訳か私が一番、学校の先生から叱られました。確かに私は落ち着きがなく、騒がしい存在でした。先生は私を叱ることによって、他の生徒をだまらせていたのではないかと思います。エリヤ・ハウスで学んでいたときです。講義の後に、小グループに分かれて祈りのミニストリーを行いました。その後、各グループのリーダーが集まって、報告会がありました。一人5,6分位で報告するはずでしたが、私はまだ3分しかしゃべっていないのに「長いので短くまとめて」と宣教師から注意されました。「私はなぜだろう?8分もしゃべっている人がいるじゃないか?」と憮然としました。後から、「どうして私を注意したのですか?」と聞きました。宣教師は「あなたの顔が『私を注意してください』と見えるからよ」と言われました。「俺のせいかよ!」エリヤ・ハウスではこれを「苦い根の期待」と言うようです。それにしても、ひどい、私は不当な扱いをされていると思いました。私は怨念晴らしの世界でも、受けているようで、実は逆に怨念晴らしをしているのです。つまり、私は無意識のうちに、不当に取り扱われる場に引き寄せられていくということです。気がつくと、私のことを不当に扱ってくれる場に立っています。「私のことを不当に取り扱う」と喜んで相手役をやっているのです。つまり、不当に取り扱われるのは、自分の世界であるからです。ですから、相手役の私も共依存であり、お互いに怨念晴らしをしていることになります。
では、埋め合わせ対処行動とは何でしょう?本当の解決は、考え方を変えなければなりません。ゆがんだ考えから、間違った気分や感情、間違った行動が続いて起こるからです。それが、ぐるぐると回る悪循環パターンになっているのです。ところが、ゆがんだ考えを改めるのではなく、なんとかその場を乗り切るための考えがあります。たとえば、ある人が一生懸命やったのに、正しく評価されなかった。その人のゆがんだ考えは、「人から評価されないと自分の世界は壊れる」です。そのように考えるので、落ち込み、ストレスがたまります。しかし、考えを変えるのではなく、「自分を修練してもっとうまくやろう」と考えて行動します。ある人は、自分がないがしろにされた、ちゃんと評価されませんでした。それで怒って、家族に怨念晴らしをしてしまいました。本来なら、「自分は人から正しく評価されなくても大丈夫である」と考えを変えなければならないのに家族に八つ当たりをしたのです。また、その人は「肯定的・積極的思考」を身につけようと本を読みます。また、乱暴した家族においしいものを買ってきたりします。プレゼントもそうですが、これらすべてが埋め合わせ対処行動です。次にサポート資源とは何でしょう?サポート資源とは、埋め合わせ対処行動をささえる資源です。神さまに祈る。そして、「神さまが自分を守ってくださる」「神さまがいるから乗り越えられる」と考える。信仰、祈り、牧師、友人、教会の兄弟姉妹がサポート資源になりえます。つまり、この2つは考えを変えるのではなく、悪循環パターンを回し続けているということです。神さまをそのために使うとは、どういうことでしょう?それらは、一時しのぎであり、怨念晴らしのパターンから脱出することは不可能です。
私は不当な扱いを受けることに慣れていました。心の中で「なんで私なんだ」と叫んでいました。クリスチャンになり、やがて牧師になりました。でも、考えがゆがんだままでしたので、どうしても、不当な扱いを受ける場面に遭遇しました。その度ごとに、神さまのところへ行き、慰めと保護を求めました。また、不当な扱いや非難に対して起る憤りを神さまに持って行きました。そして、「彼らをどうぞさばいてください。あなたが復讐してください」と祈りました。牧師ですから、私を傷つけた人をぶんなぐる訳にはいきません。後でやっと気が付きましたが、「ああ、私は神さまを自分のサポート資源にし、埋め合わせ対処行動をしていたんだ」と悟りました。
4.癒しと解放
怨念晴らしというのは代償行為です。本当の相手は、自分の父であったり、母であったり、あるいはひどいことをしたアイツです。しかし、今は大人になって、目の前の当事者であったり、第三者に怒りをぶつけているということなのです。たとえば、子どものときに理不尽なことをされて、怒りがたまっている人がいます。大人になって、目の前に理不尽なことをする社長や上司がいます。社長や上司にぶつけられないので、妻や子どもに、あるいは教会の牧師にぶつけます。彼らは「何をするんだ」と反抗してこないからです。安全な場所で、怨念晴らしをします。怨念晴らしは世代間連鎖をします。かつての被害者が今度は加害者になります。被害を受けたその子どもが大きくなって加害者になります。李光雨師は私たち10数名の牧師たちに、2年くらい講義をしてくださいました。ある牧師は婦人会から怨念晴らしを受けていました。彼女らの心の叫びは「ちゃんとしろ」でした。「指導者がいい加減であると、自分の世界が壊れる」という姉妹たちがいたのです。そいう場合は、彼女らの父親がいい加減で、責任をちゃんと果たしていなかったのです。彼女らは、牧師を攻撃していますが、実は、自分の父親が真の当事者だったのです。でも、それができないので、目の前の牧師に怨念晴らしをしていたのです。牧師は「自分の努力が足りないからだろうな」と落ち込みます。しかし、それではいつまでも解決することができません。また、同じような状況に追い込まれると、相手を変えて怨念晴らしをしてしまうからです。
李光雨師が提案している標語をご紹介します。「怨念晴らし、しない、させない。十字架へ」。怨念晴らしは最終的には十字架で晴らすしかありません。まず、最初に自分に危害を加えた人たちを赦すということです。その人が父や母、あるいは兄弟かもしれません。おじさんやおばさん。学校の級友、先生、他のだれかかもしれません。彼らが本当の当事者です。もう死んで生きていないかもしれません。でも、私たちは彼らを赦す必要があります。赦すとは私たちの復讐の権利を放棄することです。もし、被害者であるなら、埋めてもらう権利があります。神さまから、私たちが受けた被害を満たしてもらう、償ってもらうことができます。代価をもらって、示談金、償いをもらって権利を放棄するのです。その代価とは、キリストの十字架です。十字架は私たちのためのものだけではなく、相手のためものでもあるのです。神さまは「この十字架で赦してはもらえないだろうか。あなたのさばく権利を放棄してはもらえないか」と懇願しておられます。Ⅱコリント5:18,20「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。…ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」懇願とはどういう意味でしょう?神さまが「これで赦してはもらえないだろうか?」と、低い姿勢でお願いしておられるのです。「これで」とは、「キリストがその人のために十字架にかかって死んで下さった代価で」ということです。神さまは「これで赦してもらえないだろうか」とお願いしているのです。赦すということは、選択であり、感情の問題ではありません。神さまの謝罪の声を聞いて、復讐の権利を放棄することです。
このような神さまとの出会いがあると、その人は新しい考えを持つ力が与えられます。ゆがんだ考えを正しい聖書的な考えに置き換えます。不条理なことを強いられていると思ったら、「神さまは不条理の上におられるので、私の世界は壊れない。」です。何をやってもダメだと存在を否定されたら、「その部分は足りなかったかもしれないが、他のことはできる。私は高価で尊い存在だから」。自分が悪くないのに不当な扱いを受けたら、「そう思われることもあるだろう。でも、キリストが私の弁護者であり、神さまがちゃんとさばいてくださる。」です。「お前はいい加減だ、ちゃんとやれ」と言われたら、「この人は批判して人を変えようとしている。私はコントロールにはめげない。私はやしの木のようにたわんで乗り越えられる」です。「あなたは愛がない」と言われたら、「そのとおり、私には愛はない。神さまが私に必要な愛をくださる。あなたも神さまから愛をもらって」。このように神さまをサポート資源に使うのではなく、最初の「考え」を直すときに使うのです。そうすれば、感情も、身体反応も、行動も正しい方向に向かいます。