2021.6.13「キリストにある新創造 Ⅱコリント5:17」

 Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、キリスト教会ではとても有名なみことばです。ある人たちは、「このみことばによって、私は救われました」と言うかもしれません。では、なぜ、このみことばがそれほど重要なのでしょうか?きょうは、3つのポイントで学びたいと思います。

1.キリストにあるなら

 新改訳聖書は「だれでもキリストのうちにあるなら」と訳しています。口語訳は「だれでもキリストにあるなら」と訳しています。ギリシャ語のエン・クリストウは使徒パウロがよく用いていることばです。他の箇所では「キリストにある」と訳されています。新聖書注解によると、本来はこの箇所も「キリストのうちに」ではなく、「キリストにある」と訳した方が良いとのことです。一方、英語の詳訳聖書には、ingrafted in Christ となっています。Ingraft(Engraft)は、「接ぎ穂する」、「接ぎ木をする」という意味です。しかし、原文のギリシャ語は「エン」つまり、英語のinなのに、なぜ、詳訳聖書は「接ぎ木をする」とまで、訳したのか疑問です。New English Bibleはunited to Christとなっています。「キリストに結合する」です。でも、細かいことは学者たちに任せて、詳訳聖書の「接ぎ木をする」という解釈が興味深いので、こちらを選択してメッセージを進めたいと思います。

 「接ぎ木をする」という考えは、ローマ11章に記されています。ローマ11:17「もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら…」。このところの「つがれ」は、grafted 「台木に接ぎ穂をする」という意味です。他には「皮膚や肉」を移植するという意味があります。野生種のオリーブというのは、異邦人のことです。一方、栽培されたオリーブの木というのはイスラエルです。イスラエルはキリストを受け入れず、つまずいたので、ばっさり切り倒されました。しかし、それが台木になり、そこに異邦人が接ぎ木されたということです。だから、パウロは異邦人に対して、「彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」(ローマ11:20,21)と言っています簡単に言いますと、イスラエルがつまずいたので、異邦人に救いがやって来たのです。しかし、神さまは「一度選んだイスラエルを世の終わりの日に救おう」と約束しておられます。

 接ぎ木は理科で習ったかもしれません。ウェブのウィキペデアにこう書かれていました。「接ぎ木(つぎき)とは、2個以上の植物体を、人為的に作った切断面で接着して、1つの個体とすることである。このとき、上部にする植物体を穂木、下部にする植物体を台木という。」果物で良く知られているのは、リンゴや柿ではないかと思います。私たちがキリストに接ぎ木されるとは、どういう意味になるでしょう?本来、私たちはどこかの国のある地域で、親から生まれました。戸籍を見ると、そのことが分かります。それから肉体的にも精神的にも成長し、知識や経験を得ていくわけです。しかし、あるとき福音を聞いて、イエス・キリストを救い主、人生の主として受け入れ、救われました。そのとき、私たちはこれまでの人生がばっさりと切られ、キリストに接ぎ木されるのです。キリストを信じるというのは、そういうことです。自分の人生とか、生き方をそのまま持っていると、救われることはできません。一番、問題になるのは自我です。「これを捨ててしまうなら、自分がなくなってしまうのではないだろか?」と恐れます。そういう人は、ある時まで求道者として礼拝に集いますが、決断を迫られると教会を去ってしまいます。「決心」は英語で、decisionと言います。しかし、この言葉は、「一方を選んだら他方を殺す」という強い意味があるそうです。たとえば、「コカコーラを選んだら、牛乳は飲まない」ということです。「いえ、私は両方飲みたいです」とコカコーラと牛乳を混ぜて飲む人はいません。つまり、キリストを選んだなら、他の神さまだけではなく、自分の命、自分の考え、自分の存在を捨てる必要があるということです。信じるとき、そこまで深く考えなかったかもしれません。でも、あとから「イエス様が王様であるなら、自分は王様じゃないんだなー」と分かって来ます。

 接ぎ木とは、自分のこれまでの人生とおさらばして、キリストに接ぎ木されるということです。するとどうなるのでしょう?多くの人は、「自分がいなくなる」「自分は失われてしまう」と恐れています。しかし、キリストを信じた人ならきっと理解できるでしょう。その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」ということを経験します。このことは、第二、第三のポイントで詳しくお話しします。何が変わったかと言うと、命の根源が変わったということです。これまでは、親から受け継いだ自分の命、自分の能力、自分の知性で生きていました。しかしそれらが一旦、切られて、キリストに接ぎ木されました。そうすると、こんどはキリストがあなたの命になり、力の源になるということです。あなたの人格、あなたの能力、あなたの知性が全くなくなったかというとそうではありません。一度、生まれつきものもから解放されることによって、神さまが設計した、あなた自身になるということです。

 エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」ここに、「キリスト・イエスにあって造られた」と書かれています。原文のギリシャ語は、「エン、クリストウ」ですから、Ⅱコリント5:17「キリストにある」再創造のことを言うのです。キリストに接ぎ木されると、あなたは新創造されたようになるのです。もちろん、これまでも神の作品だったかもしれません。でも、失われていました。この世の中で、生まれながらの命で生きてきました。他の人たちもそのように生きています。しかし、キリストを信じたときから、あなたはキリストに接ぎ木され、キリストの命で生きるようになったのです。言い換えると、それは神が創られた本来のあなたになり、神の作品としての人生が始まるのです。

2.古いものは過ぎ去り

 Ⅱコリント5:17「古いものは過ぎ去り」とあります。英語の詳訳聖書は、previous moral and spiritual condition has passed away.と書かれています。previous moralとは、以前の道徳という意味です。そして、spiritual conditionとは、霊的な状態という意味であり、両者が「過ぎ去ってしまった」という完了形になっています。私たちの人生は、生まれたときから、成長してきました。先ほども言いましたが、知識だけではなく能力や技術、道徳やものの価値観を身に着けてきたことでしょう。それらが古いものであって、過ぎ去るとはどういう意味でしょうか?残念ながら、過去の人生には良いものと悪いものが混在しています。まず、私たちの心の中には、人から受けた沢山の傷があります。不幸な出来事によるトラウマもあるでしょう。取り返しのつかないことをしたという後悔や失望落胆もあるでしょう。また、犯した罪や先祖からの咎もあるでしょう。肉体的にも悪い遺伝子が組み込まれているかもしれません。多くの人たちは、過去の荷物を背負いながら生きています。「結婚で一番問題なのは、後ろに背負っているバックパックだ」ということを聞いたことがあります。結婚する前は、背中のバックをほとんど開きません。しかし、結婚してから、バックを開けるといろんなものが出てきます。親から受けたもの、心の傷やトラウマが出て来て、「これは大変なことになった」とお互いが驚くのです。 

 私たちは過去を一旦、清算する必要があります。あるところでは、「人生の棚卸し」を数か月かけて行うそうです。そこまでしなくても、一旦、「過去のものは過ぎ去ったんだ」ということを信仰によって受け止める必要があります。ローマ6章を見ると、私たちの古い人が死んだと書かれています。いつ、死んだのでしょう?ローマ6:3-4「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」さらに、ローマ6:6「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」そうです。私たちがキリスト・イエスにつくバプテスマを受けたときそのことが起りました。バプテスマとは「洗礼」という意味です。動詞のバプテゾゥは「水に浸す、洗う、洗礼を施す」です。しかし、パウロはバプテスマとは、「キリストの死へ結合される洗礼」であると言っています。浸礼と滴礼という儀式はともかく、キリストの死と一体化するということです。するとどうなるかというと、「罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」ということです。さらにパウロは、死んだ者は、律法からも解放されると言っています。すべてのクリスチャンはバプテスマを受けると、キリストの死と一体化して、一時、死ぬと言うことです。もちろん、その後、キリストが復活したように新しくなります。でも、一度、死ぬということがとても重要だということです。

 みなさんは、一度、古い自分が死んだと言うことを認めておられるでしょうか?そうでないと、古い人生を引きずりながら、過去のバックパックを背負いながら生きる人生になります。ヘブルの記者は「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(ヘブル12:1)と言っています。パウロもピリピ人への手紙で「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ3:13)と言っています。多くのクリスチャンは、せっかく救われたのに、過去のものをひきずりながら生きています。私も人のことを言えません。生まれと育ちがどれほど、信仰生活に影響を与えているか、嫌というほど知らされました。罪責感はわりかし早く消えました。しかし、自分が受けた心の傷は時間がかかりました。そして、一番、厄介なのは受けたトラウマです。これがしょうこりもなく、ひょこっと浮かんできては自分を苦しめます。バスに乗り遅れた夢、自分の教室が分からない夢を何度見たことでしょう。でも、励ましになったのは、「キリストにあって、古いものは過ぎ去った」というみことばです。このみことばは単なる約束ではなく、事実です。古いものは過ぎ去ったのです。私も古い人に一度死んで、この世界も一度、死んだのです。パウロは「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」(ガラテヤ6:14)と言いました。アーメン。

 でも、私たちには記憶があります。機械やコンピューターだったら、消せるかもしれませんが、生身の人間はそうはいきません。ちゃんと覚えています。しかし、新しく造られるとは、接ぎ木されることですから、自分の性格や記憶も残っているのは不思議ではありません。でも、アダムから来ている古いエネルギー、罪の性質が一度、断ち切られたことは間違いありません。受けた心の傷も、トラウマの記憶もないわけではありませんが、そこに死のバプテスマを受けたので、根っこがなくなり、あとは枯れるだけです。問題は私たちの意思と信仰です。パウロのように、「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む」のが信仰生活です。イエス様がある人に「私について来なさい」と言われました。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ6:61,62)これは、イエスさまの弟子になるとはどういうことかを教えている箇所です。クリスチャンとは、イエス様に弟子として従う者です。従うと言いながら、生まれた家や過去を振り返るならどうなるでしょう?「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」当時は牛に鋤を負わせ、自分が手綱を引きながら、耕していきます。本来なら、ずっと前を見て作業すべきです。でも、農夫が後ろを見たらどうなるでしょう。手綱がぶれて、畑の畝が曲がってしまうでしょう。私たちも同じで、イエス様に召されたなら、この世とお別れし、神の国へと前進しているのです。私たちは古い自分、生まれや家族、自分の能力や考えに一度死ぬ必要があります。自分で死ぬのではなく、キリストと共に十字架につけられ死んだということを認めるのです。この世界も私に対して十字架につけられ死んだのです。

3.新しくなりました

 「死んだ」で終わると悲しいです。キリストは三日目に死からよみがえりました。私たちも一度は死にましたが、キリストと共によみがえった存在です。ローマ6:5「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」アーメン。イエス様は一度、死なれました。でも、父なる神さまがよみがえらせてくださいました。私たちも死んだら、自分では生き返ることができません。よみがえりは、全く神さまの働きと言えます。私たちも古い人に一度死んで、新しくなるのは神さまの一方的な恵みです。一般的にキリスト教は、救われることを新生、「霊的に新しく生まれる」と言います。新生の根拠は、ヨハネ3章にあります。ヨハネ3:5 「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」ある人は、「水」とは洗礼のことであると言います。しかし、ユダヤ人は「水」とは、お母さんの「羊水」のことであり、肉体的に生まれることだとすぐ分かるそうです。そうです。神の国に入るためにはまず、肉体的に生まれる必要があります。しかし、それだけではだめで、霊的にも生まれる必要があるということです。これは、「私たちの霊が生まれ変わるのであり、魂や肉体ではない」というのが大方の解釈です。確かに、私たちの魂(心)はローマ12章にあるように、変革させられる必要があります。私たちは生まれ変わるのは、霊だけであって、魂や肉体ではないとしたらどうなるでしょう?部分的な救いになってしまいます。

 Ⅱコリント5:17は「新創造」を語っている聖書箇所です。「見よ。すべてが新しくなりました」は、behold all things new.となっています。ここには、「霊だけではなく、すべてが新しくなった」と言っているからです。簡単に言いますと、ヨハネ3章の「新生」だけで、救いを語ろうとすると限界があるということです。なぜなら、霊の生まれ変わりしか、言わないからです。でも、救いは霊だけではありません。肉体も魂も、世界に対しても新しくなるということです。もちろん、私たちを取り囲んでいる世界や人々は変わりません。変わるのは、私たちの過去、古い考え、古いエネルギー、古い道徳観です。さらには、私たちの生まれや育ち、罪責感、失望落胆、受けた心の傷、トラウマ、病気、咎、呪い…がキリストと共に死んで、新しく生まれるということです。もちろん、そういうものが完全に癒され、回復するというのは天国に行ってからでしょう。でも、キリストと共に死を通過して、新しくよみがえるということはとても重要です。これを神学的には、「不連続の連続」と言います。一度、断ち切られ、そしてキリストにあってよみがえるということです。私たちが一般に飲んでいる牛乳も一度、死んでいるのです。現在最も、用いられている牛乳の殺菌方法は、「超高温瞬間殺菌」だそうです。牛乳が120~150℃で数秒間殺菌され、その後急速に冷却される方法です。時間は1~3秒です。私たちはキリストと共に数秒死んで、キリストと共によみがえらされた存在です。その時、アダム以来の罪(原罪)が除去されたと考えるべきです。残っているのは、原罪の記憶、肉です。原罪はありませんが、肉はあります。

 私たちは霊的に生まれ変わっただけではありません。肉体も魂も死から命に移っていると考えるべきです。これまでのキリスト教は、「救いとは霊が生まれ変わること」という新生を強調してきました。だから、霊のことがすべてであり、肉体とか魂をおろそかにしてきたところがあります。今も、「霊性」と言って、御霊に満たされ、御霊の実を結ぶ信仰生活を強調しています。私もそれに対してはアーメンであり、反対しません。でも、私たちの救いを「霊」だけにとどめてはならないということです。「肉体、魂、生きる世界も違っているんだ」ということを明記すべきです。なぜなら、私たちは霊だけでは生きていないからです。もちろん、霊は神さまと直結する、至聖所です。でも、霊は魂を必要とします。なぜなら、魂の一部である、「思い」に霊が語るからです。その次にはそれを実行する肉体が必要です。魂と肉体の境目には、肉があります。これに打ち勝って、肉体を正しい方向に動かしていくのです。そして、世界です。私たちは自分が生まれた世界で生きているのではありません。私たちは御国の市民であり、私たちのところに神の国が臨んでいます。私たちはこの世で生きてはいますが、半分は、神の国の中で生きているのです。イエス様が「御国がこの地に来るように祈れ」と言われました。私たちのゴールは天国に行くだけではなく、この地に御国が来るように働くことです。そのためには霊だけではなく、魂も肉体も必要です。もちろん、魂の中には、思い、感情、意思があります。愛し、喜び、感謝するという感情が必要です。また、主のみこころを行なうという意思が必要です。

 私は年を取ったせいか、子ども時代や学校、過去のことを良く思い浮かべます。同時に、聖書を読んで祈っているので、これから行くべき御国、新天新地にあこがれています。その時、思うのが、「ああ、私はあの時、ああいうことがあって救われたんだ」と感謝します。25歳でイエス様を信じて洗礼を受けました。秋田の田舎で生まれ、ひどい生き方をして、学校でも先生から叱られました。建設会社をやめて、貿易会社に入って、先輩から信仰に導かれました。親友と彼女は去って行きました。でも、その代り、教会の兄弟姉妹と現在の家内が与えられました。主がアブラムに「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地に行きなさい」(創世記12:1)と言われたごとくです。私たちは天の故郷、天のエルサレムを目指して旅しています。私は、学校の先生から数えきれないくらい怒られ、「先生アレルギー」です。その私が教会で「先生」と呼ばれています。イエス様は「先生と呼んではならない」と言うのに、伝統的に先生です。「しかし、あれだけ先生に叱られた私が、先生と呼ばれるなんて」。本当に奇跡だなーと思います。皆さんは、私ほどひどい生き方をしていないかもしれません。でも、共通して言えることは、キリストにあって「古いものは過ぎ去った」ということです。確かに記憶はあります。この手も足も、顔も以前と同じかもしれません。でも、違うんです。私の全存在がキリストと共に十字架につけられて死んだのです。その後、私たちはキリストとともによみがえらされました。生きているのは古い私ではなく、キリストを信じる新しい私が生きているのです。昔の辛いトラウマを思い出すかもしれません。でも、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」