2021.4.25「愛顧は力 箴言22:1-6」

「愛顧」とは、「ひいきにすること」「目をかけること」です。多くの場合、「ご愛顧」の形で、目をかけられる側が用います。「今後ともいっそうのご愛顧を賜りますよう」になどと言います。私が本当に言いたかったのは、英語のfavorということばです。Favorの最も良い訳が「愛顧」ではないかと思ったからです。しかし、日本語の聖書には愛顧と訳されるべきところが、愛「愛顧」とは、「ひいきにすること」「目をかけること」です。多くの場合、「ご愛顧」の形で、目をかけられる側が用います。「今後ともいっそうのご愛顧を賜りますよう」になどと言います。私が本当に言いたかったのは、英語のfavorということばです。Favorの最も良い訳が「愛顧」ではないかと思ったからです。しかし、日本語の聖書には愛顧と訳されるべきところが、愛とか恵みになっています。では、なぜ「愛顧」と訳されないのでしょうか?それは、「神さまが人々を平等に愛しておられる」という前提があるからでしょう。もし、神さまが誰かをひいきしたり、特別扱いするなら、神さまでなくなるのでしょうか?

1.聖書における愛顧

愛顧と訳されている箇所を発見しました。箴言22:1「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。」英語のfavorが「愛顧」と訳されています。でも、他はどうでしょう?箴言8:35「なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。」ここでは「恵み」と訳されています。エステル記2:15後半「エステルは、彼女を見るすべての者から好意をうけていた」。新約聖書はどうでしょう?ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」ここでは、「愛」と訳されていますが、英語の聖書はfavorです。つまり、favorは日本語の聖書では「愛顧、恵み、好意、愛」などと訳されています。私は英語に触れて良かったと思うのは、日本ではあまり使われていないことばと出会うからです。たとえば英語圏では、Destinyがよく使われますが、「運命」と訳すしかありません。実はloveもそうだったのです。日本には「好き」とか「愛おしい」という恋人同士が使うことばはあります。しかし、聖書のloveは、感情だけではなく犠牲的なものが含まれます。明治の文豪、二葉亭四迷は三日三晩I love youをどう訳すか悩んだそうです。「死んでもいいわ」と訳したという逸話があります。本題に戻りますが、favorも日本語に訳しづらいことばです。でも、このfavorを神さまからいただいていると分かるなら、信仰生活が全く違ってきます。Favorを端的に訳すと、「かわいがりを受けている」「神さまからえこひいきされている」ということです。

 創世記20章に書いてありますが、アブラハムがゲラルに滞在中、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。それで、ゲラルの王アビメレクは使いをやって、サラを召し入れました。しかし、聖書を読むとアブラハムは前にも同じ罪を犯したことがあります。今回は二度目です。アビメレクは夢の中で、神さまから「あなたは死ななければならない」と言われました。翌朝、アビメレクはアブラハムを呼び寄せ、「あなたは何ということをしてくれたのか?」と抗議しました。なぜなら、彼の王国と国民が死の危機にさらされていたからです。アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷、さらには銀千枚をアブラハムとサラに与えました。本当は、アブラハムが嘘をついて罪を犯したのに、アビメレクが「ごめんなさい。どうか、出て行ってください」と貢物を与えました。あきらかにこれは、神さまのfavorひいきではないでしょうか?

もう1つは、イスラエルの最初のサウルと二代目の王ダビデのケースです。サウルは祭司しかささげてはいけない、生贄をささげてしまいました。何故なら、サムエルが約束の日になっても来なかったからです。もう1つは、アマレクを聖絶せよ(すべて殺せ)と主から命じられていました。ところが、サウルは肥えた羊と牛を殺すのを惜しみました。しかも、アガグ王を殺さずに生け捕りにして引いてきました。この2つの罪によって、サウルは王位から退けられました。越権行為と不従順の罪のためです。でも、ダビデの場合はどうでしょう?彼はバテシバと姦淫を犯しました。子どもをみごもっていると聞いて、夫のウリヤを戦場から呼び戻しました。真面目なウリヤは主人も家来も戦場で野営しているのに、自分だけ家に帰るわけにはいきませんと拒否しました。ダビデはウリヤに軍長への手紙を持たせました。その手紙には、「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたが退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(Ⅱサムエル11:15)と書いてありました。結果的に、ウリヤは戦死しました。ダビデはその後、自分の家に迎え入れ妻にしました。数が月後、預言者ナタンから責められ、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改めました。その時、ダビデは赦されました。サウルとダビデ、どちらがより重い罪を犯したでしょう?ダビデは十戒の中の、姦淫、殺人、嘘と3つの罪を犯しています。サウルが犯した罪は十戒の中にありません。これはあきらかにひいきです。ダビデは特別に愛されたとしか思えません。

 新約聖書では弟子たちと群衆に対するイエス様の取り扱いがあります。マタイ13章を見るとわかりますが、イエス様が種まきのたとえを話されたあと、弟子たちにこのように言われました。マタイ13:10,11すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。これって、あきらかに差別ではないでしょうか?イエス様は群衆にたとえで話されました。群衆だけではなく、弟子たちもたとえの意味がわかりませんでした。マタイ13章後半には、弟子たちにだけ、たとえの意味を解き明かしておられます。なぜなら、弟子たちには天の御国の奥義を知ることが許されているという理由からでした。これも弟子たちへのfavor「ひいき」「かわいがり」ではないでしょうか?

もっと極端なのがローマ9章に書かれています。ローマ9:13-15「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。これを「ひどい」と言ってはいけません。ここには神の選び、神の主権があるからです。これまで、聖書からいくつか取り上げましたが、神さまは誰に対しても平等ではないということがお分かりいただけたでしょうか?聖書に啓示されている神さまは明らかに、favor「ひいき、かわいがり、愛顧」があるということです。でも、私たちは神さまのfavor「愛顧」には、目的や責任もあることを知らなければなりません。パウロは「神の恵みをむだに受けないようにしてください」(Ⅱコリント6:1)と言いました。

2.愛顧は力

 ビル・ジョンソンが“Face to face 365日のディボーション”という本で、「favorとは何なのか」解説しています。信仰的に成長するため、最初にfavorとは何か知らなければなりません。私たちは一般にfavorとは「誰かに対する、特別扱い」と考えるでしょう。Favorは、「受容」「是認」「喜び」を意味します。聖書におけるギリシャ語とヘブライ語では、このように定義されます。ギリシャ語ではカリスですが、新約聖書のほとんどの箇所では「恵み」と訳されています。「恵み」とは本質的に「贈り物」のことです。「あなたの人生で、神の贈り物としてのfavorを受けたことはないでしょうか?」ビル・ジョンソンは読者に質問しています。下の段に、書き込み蘭がありましたので、私は「永遠の命、赦し、妻と子供たち、教会のメンバー、牧師、良い賜物と能力」と書きました。私は高校の土木科を卒業して、5年間、現場で働いていました。給与は5日間でなくなり、いつも2万円、前借りしていました。なぜなら、給与をもらうとネオン街に繰り出すからです。現場は食事と寝泊まりが保証されているので、お金がなくても生活できました。私は23歳で転職し、貿易会社を経て、33歳で牧師になりました。こうやってお美しい姉妹方に囲まれていますが、土木現場ではありえません。水商売の方々としか会えなかったでしょう。私がこのように清められるまでには時間がかかりましたが、あきらかに神さまの恵みであり、favor(かわりがり)であろうと思います。

 ビル・ジョンソンはさらにこう述べています。favor愛顧は力です。すべてのクリスチャンは神さまから愛顧をいただいています。しかし、私たちの多くは、それが神さまからの特別な恵みであることを認識していません。神さまの恵みは、神さまの性質であり、いつでも使える神の力です。神さまはあなたがキリストのようになるために、恵みによって力を与えておられます。神さまの恵みには2つの側面があり、「接近と力」です。そのことを理解することは、神さまから愛顧をいただいて成長することにかかっています。愛顧をいただいて成長するためには、2つの側面があります。第一は、神さまを追い求めることであり、キリストが可能にしてくれた、新しい生ける道を通して、神さまの前に出るという接近です(ヘブル10:20)。第二は、神さまの臨在の中で、御子の姿に変えてくださる神さまの力を受けることです。ビル・ジョンソンの本は日本語に大変訳しづらい英文になっています。なぜなら、関係代名詞をたくさん使っているために、文章が長いからです。第一の接近とはアクセス、神さまに近づくということです。私たちはキリストがなされたみわざによって、神さまに近づくことができます。第二の力とは、empowerであり、可能にさせる力とか能力です。つまり、神さまの願いは、私たちが御子の似姿に成長することであり、そのために能力を付与してくださるということです。そのためには、神さまの臨在をいつも覚える必要があります。私たちは何かを求めるために神さまに近づくでしょう。「お願いがあります。これを叶えてください」とか祈ります。でも、神さまの一番の願いは、ご自身から愛顧をいただいて、私たちがキリストの御姿に成長することです。

 ルカ2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」と書いてあります。日本語の聖書はイエス様が知恵と身体の2つが成長したように書かれています。しかし、原文はイエス様が3つの面で成長したことがわかります。知恵と背丈と神と人からの愛顧です。イエス様は健全に成長するために、神と人のfavorが必要であったということです。私たち人間も3歳までは、特に母親の愛顧が必要です。赤ちゃんや幼児は「かわりがり」が必要なのです。お父さんやお母さんは、「あなたを世界で一番、愛しているよ」と言って良いのです。残念ながら、保育園や幼稚園ではそういう訳にいきません。先生は、平等に愛さなければならないからです。しかし、親が子どもに愛する愛は、特別でなければなりません。特別な愛とは、愛顧であり、かわいがりです。幼いときに「かわりがり」が足りないと、いろんなパーソナリティ障害が起ると言われています。私たちが大人になり、イエス様を信じます。イザヤ書43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と書いてあります。このところから、「神さまは、私を世界で一番愛している」と理解しても全く問題がありません。たとえて言うなら、あなたが太平洋の広い海辺に立って、「この海は私のものだ」と言っても、全く問題がありません。太平洋は、独り占めしても、独り占めできないくらい広いからです。神さまも同じです。「私の神さま」、「私のイエス様」と言っても、むこうは「そうだよ」と受け止めてくださいます。神さまの愛はそれだけ、広くて、深くて、無尽蔵なのです。

 「愛顧は力です」というのは、言い過ぎでしょうか?幼い時に両親からの愛を十分に受けたという人はあまりいないかもしれません。両親は愛したつもりでも、受け取る私たちに問題がある場合もあります。とにかく、私たちはクリスチャンなってから、神さまの愛顧を十分いただく必要があります。幼い子どもは両親の愛を受けると、安心して外に出て行くことができます。学校はいじめがあり、差別があり、競争があり、大変な世界です。就学前に、子どもが十分愛されて、自分に価値があることを知る必要があります。それでも、生きているうちにいろいろあります。両親がいつも共にいるわけではありません。やはり、キリストに出会い、父なる神さまを知る必要があります。「神さまは愛である」と教会では言います。でも、心の奥底は、それだけでは満足しません。父なる神さまはあなたを特別に愛しておられるという、神のfavorをいただく必要があります。世の中で、「お前にはそんな資格があるのか」とか「お前には適切な能力がない」と言われることもあるでしょう。そのたびごとに、私たちは父なる神さまの懐に逃げ込む必要があります。父なる神さまは「お前には十分資格がある。お前には能力が既に備わっている。なぜなら、私がお前を造ったからだ」とおっしゃるでしょう。私たちには逃げ込む場所があります。ビル・ジョンソンが愛顧には「接近と力」の二つ側面があると言いました。私たちはキリストによって、いつでも父なる神さまに近づくことができます。そうすると、父なる神さまは私たちに力を与えてくださいます。イエス様がそうであったように、この世にあってこの世に負けず、逆にこの世に神さまの性質を現すことができるように力を注いでくださいます。

3.愛顧の責任

 ある時、ジョエル・オスティーンが家族と車で買い物にでかけました。しかし、ショッピングモールの駐車場で、駐車スペースがありません。そのため、10台もの車がぐるぐる回っています。でも、ジョエルは家族のみんなに、「神さまのfavorを期待しよう」と言います。すると、目の前の車が買い物を終えて出るところです。その開いたスペースに駐車できました。「神さまのfavorを感謝します」とみんなで言いました。ある時、ジョエルが飛行機に乗るために、並んでいました。すると、「〇〇の搭乗者番号の方はいらっしゃいますか?」というアナウンスがありました。「はい、私です」と手を上げると、係員がつかつかと近づいてきて、「こちらへどうぞ」と案内されました。「どこへ行くんですか?」と聞くと、「ファースト・クラスへどうぞ」と言うのです。「どうしてですか?」と聞くと、エコノミーがいっぱいで、座席が必要になりました。ファースト・クラスにだれか移動することになり、コンピューターがあなたをランダムに選びました」ということでした。ジョエルは「ああ、神さまのfavorを感謝します」と言いました。次に飛行機に乗る機会がありました。とても長い列ができていて、時間がかかりそうです。神さまからのfavorを期待して、列からはみ出していました。すると、係員がつかつと近づいて来ました。「お客さん、列からはみ出さないで、ちゃんと並んでください」と注意を受けました。笑い話ですが、いつも、そのようなうまい話はないということです。ジョエル・オスティーンはこのように述べています。「私たちが何者か、何をしているかによって神のfavorを受けるのではありません。私たちが特別であるとか、功績があるからとか、そのような取り扱いを受ける価値があるからでもありません。私たちが他の人たちよりも良いからという訳でもありません。いいえ、あなたがしばしば、優先的な取り扱いを受けるのは、ただ、あなたの父が王の王であり、神さまの栄光と誉があなたにこぼれる落ちるからです。偶然とも思えるかもしれませんが、それでも神さまのfavorを期待して生きるなら、他の人がどうしてか分からないことが、あなたに起るでしょう。」私もジョエル・オスティーンの本を読むと、「そんなうまい話があるのかな?」ということが良く書かれています。善なる神さまのfavorを期待して生きるなら、そういうことが度々起るということです。

 マタイ25章にはタラントのたとえが書かれています。主人は「おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた」と書いてあります。当時のタラントはお金であり、量ることができました。5タラント預かったしもべと2タラント預かったのしもべは、すぐに行って、商売して儲けました。忠実というのは、主人のお金を増やすということです。しかし、1タラント預かったしもべは、地を掘って隠して、運用しませんでした。神さまから受けるカリスつまり、favorはひとり一人違うということです。神さまは私たちを平等に愛しておられますが、favorはひとり一人違うと言ったら言い過ぎになるでしょうか?私たちの神さまはローマ9章に書かれているように、崇高な権威があり、ご自身の御心によって治めるお方です。神さまは私たちを創られ、私たちを平等に愛しておられます。しかし、ご自身の量りにしたがって、私たちに対するfavorの量が異なります。それを「神さまはひどいお方だ」と考えるのは馬鹿げています。神さまは私たちを造られたとき、それぞれ違ったfavorを与えてくださいました。重要なのは「おのおのその能力に応じて」与えて下さったということです。能力とは、与えられたfavorを運用する力です。少ないからと言って、腐ってはいけません。なぜなら、多く与えられた者は、多く求められるからです。

 聖書でかわいがりを受けた人といえば、ヨセフでしょう。ヤコブは11番目の子どもヨセフに長服を着せ、だれよりも彼を愛しました。兄たちは彼を憎み、穏やかに話すことができませんでした。あるときヨセフは自分が見た夢を兄たちに話しました。なんと、兄弟たちがヨセフにお辞儀をする夢でした。結局、ヨセフは兄弟たちからエジプトの奴隷として売られました。しかし、ヨセフは主からとても愛され、主人の家を治める人になりました。ところが、主人の奥さんから濡れ衣を着せられ、監獄に入れられました。監獄の長はヨセフをかわいがり、すべての囚人を彼の手にゆだねました。最後にどうなったでしょう?ヨセフはパロの夢を解き明かし、やがてくる飢饉に備えさせました。そのためヨセフは、奴隷から総理大臣になりました。飢饉はヤコブの家族にも及びました。兄弟たちが穀物を買いにエジプトにやってきました。彼らはその権力者がヨセフは知らず、彼を伏し拝みました。ヨセフは、そのfavorをどうしたでしょうか?復讐に用いても良かったのですが、神さまの摂理の御手を認め、兄弟たちを赦し、家族ごと救ってあげました。まさしく、ヨセフは神さまや人々からのfavorを有効に使った人物と言えるでしょう。

 もう一人はユダヤ人のエステルです。エステルはみなしごであり、おじのモルデカイから育てられました。その当時、ユダヤ人は流浪の民であり、ペルシャにおいて肩身の狭い生活をしていました。ある時、ペルシャの王妃が王様に恥をかかせたため、退けられました。家来たちは、王の憤りがおさまると「王のために容姿の美しい未婚の娘を捜しましょう」と提案しました。だれが王様のお心になかったでしょう?まず、エステルは監督官たちから好意を得ました。そして、王様は他のどの女たちよりもエステルを愛しました。favorを受けたのです。でも、そのあと事件が起こりました。ナンバー2のハマンがユダヤ人を根絶やしにする法令を作りました。そのとき、おじのモルデカイはエステルに何と言ったでしょう?エステル4:14「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」エステルは知らんぷりして、王妃として生活できました。エステルがfavorを受けたのは、ユダヤ人を救うこの時のためだったのです。エステルは命がけで王様に進言したので、その法令が取り消され、敵たちも滅ぼされました。ヨセフとエステルは5タラントのしもべと同じです。自分が与えられたfavorを正しく管理しました。私たちもひとり一人favorを受けています。「少ない」と地面に隠さないで、豊かに用いましょう。そうすれば、神さまはもっと、あなたにfavorを与えてくださいます。だれでも持っている者は、与えて豊かになるからです。