2021.3.28「わが神、わが神 マルコ15:33-39」

聖書から、受難週にちなんだメッセージをお届けしたいと思います。この箇所は、聖書で最も不可解な箇所であり、簡単に語ることのできない、至聖所的なものであります。至聖所は罪ある人間が入ることのできないところであり、入ったら神に打たれて死んでしまいます。十字架のメッセージも至聖所的なものであり、語る側にそれ相応の覚悟と信仰が必要です。本日は「わが神、わが神」と題して、聖なる恐れと信仰をもってメッセージを取り次ぎたいと思います。

1.罪の恐ろしさ

 イエス様はこの地上に来られたことの目的を知っておられました。十字架の死による贖いこそが、ゴールであったはずです。でも、イエス様は十字架上でこのように叫ばれました。マルコ16:34「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」おそらくイエス様は、当時用いられていたアラム語で叫ばれたのだと思います。それでマルコはギリシャやローマの読者に対して「訳すと『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」と解説したのでしょう。そばに立っていた人たちは、それを理解できず、「ほら、エリヤを呼んでいる」と言ったのです。それにしても、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは不可解です。ある新興宗教の人たちは、「私たちの教祖は堂々と死んでいったのに、キリストはこの後に及んで、みじめな叫びをしているではないか?そんな弱々しい者がどうして教祖になれるのか」と馬鹿にします。確かにそのようにも受け取ることができます。でも、それは罪の贖いを知らない人たちの浅はかな考えです。マルコはいくつか語られた十字架上のこのことばから1つだけを福音書に残しました。なぜでしょう?マルコは1章の冒頭で「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と書き出しました。すると、このところは、福音の完了ということになります。そういう意味で、この箇所はマルコ福音書のクライマックスと言うことができます。

 私たちはなぜ、イエス様がこのように叫ばれたのか知ることが必要です。イエス様は父なる神さまを「神さま」と呼ばれたことはありません。いつも「父」と呼んでおられました。しかし、ここでは「わが神、わが神」と呼ばれました。これは罪人が神さまに対する呼び方です。つまり、このところでイエス様が全人類の罪を負われたゆえに、神から捨てられてしまった。それゆれに、父と呼べず、神と呼ぶしかなかったのです。つまり、イエス様は義なる神さまから私たちの代わりに断罪されたのです。新約の恵みの中で生きている私たちは、キリストを信じたら義と認められ、救われると言います。でも、それだけだと、何から救われたのかよくわかりません。私たちは罪のさばきから救われたのです。私たちはイエス様の十字架の叫びから、罪がいかに恐ろしいか知る必要があります。イエス様は神の御子であり、永遠の昔から御父と一緒でした。この地上に来られたときも一瞬たりとも離れたことがありませんでした。しかし、イエス様が罪を負ったために、御父から離され、捨てられてしまったのです。イエス様は御父から捨てられることが最も恐ろしいことでした。だから、ゲツセマネの園で「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください」(マルコ14:36)と三度も祈られたのです。イエス様の「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、罪ある人間が地獄に落とされるときの叫びであります。イエス様はまさしく、私たちの代わりに地獄にたたき落とされたのです。

 パウロはイエス様が私たちの罪を負われただけではなく、「罪そのものとなった」とⅡコリント5章に書いています。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」パウロはイエス様に罪がないと言っているのではなく、「罪を知らない方である」と言っています。罪と無縁のお方が、私たちのために罪とされました。私たちは生まれた時から罪の中に生きていますので、あんまり感じません。しかし、イエス様はそうではありませんでした。赤ちゃんの肌はとても柔らかで敏感です。大人になれば皮が厚くなりちょっとの火傷も我慢できます。もし、事故か何かで、赤ちゃんの柔肌に熱湯かかったなら、大変なことになります。それと同じように、罪を知らないお方が、全人類の罪をかぶるのですから、私たち人間は想像することができません。そういう意味で、この十字架の叫びは、奥義であり、至聖所なのです。同時にそれは、父なる神さまにも苦しい出来事でした。わが子を断罪して、捨てることになるからです。父なる神の悲しみと苦しみが3時間におよぶ「闇」で象徴されています。マルコ16:33「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」天文学者によると、「過ぎ越しの祭りのときは満月だったので、この時点において、日食はありえない」と言います。まるで、御父がご自身の顔を隠しているようであります。

 ある人たちは、「信じるだけで罪が赦されるのなら、警察はいらない」と言うかもしれません。確かに私たちはキリストを信じるだけで罪が赦されました。でも、「簡単に赦されるんだから、再び罪を犯そう」とは思いません。なぜなら、私たちの赦しの背後に、このような多大な犠牲があったということが分かるからです。しかも、私たちが望んだのではなく、父なる神さまと御子イエス様で一方的になさって下さったからです。パウロがこのように言っています。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」父なる神さまとしては、何のメリットもありません。イエス様もそうです。その証拠に、2000年前十字架で贖いを成し遂げられたのに、そんなことがなかったかのように人々は今も生きています。ほとんどの人たちが、「こっちが頼んでいないのに、勝手に十字架にかかったんでしょう?私とは関係ありません」と言うでしょう。しかし、愛というのはそういうものです。見返りを求めません。パウロは「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」と懇願しています。言い換えると、「十字架の贖いを無駄にしないで下さい。どうか、神さまと和解してください」ということです。本来、私たちが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶべきところを、イエス様が代わりに断罪され、捨てられました。それは私たちが十字架の贖いを信じて、救いを得るためです。

2.苦しみの向こうに

 内村鑑三氏などは、別の考え方を持っています。彼はイエス様は詩篇22篇を十字架の上でそらんじていたのではないかと解釈しています。不思議なことに、イエス様の叫びだけではなく、十字架上での苦しみが詩篇22篇とそっくりだからです。詩篇22:1「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」まったく同じです。その後、十字架の苦しみを連想させるようなみことばが続きます。詩篇22:12-14「多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。」詩篇22篇は「ダビデの賛歌」という題名があり、ダビデが受けた苦しみが背景にあります。福音書には十字架がどれだけ悲惨だったか分かりません。しかし、詩篇22篇を読むと、イエス様の苦しみがこの所に表現されているようです。さらに、イエス様のことだけではなく、周りの人たちのことも預言されています。詩篇22:7-8「私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。『主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。』」マタイによる福音書27章に同じあざけりの言葉が記されています。マタイ27:39,43「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。…彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」全く、そっくりです。もう一箇所、ご紹介します。詩篇22:18「彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。」このことは、ヨハネ19章にあります。ヨハネ19:24そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。

 つまり、詩篇22篇はイエス・キリストの十字架の苦しみに関する預言でもあるということです。そうすると、他にもないか調べたくなります。あります。詩篇22篇は「嘆きで始まりますが、賛美で終わる」典型的な詩篇です。あまりにもすばらしいので数節では止められません。お聴きください。詩篇22:26-31「どうか貧しい人々が食べて満ち足り主を求める人々が主を賛美しますように。──あなたがたの心がいつまでも生きるように──地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。王権は主のもの。主は国々を統べ治めておられます。地の裕福な者はみな食べてひれ伏しちりに下る者もみな主の御前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も。子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」「どうか」と願っていますので、これは祈りです。イエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。そして、想像を絶する苦しみを味わいました。もし、イエス様が詩篇22篇を十字架でそらんじていたとしたら、その結論をご存じだったはずです。「どうか、…地の果てのすべての者が思い起こし主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。」という願いがあります。「子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」これは、信仰の告白であり、確信です。イエス様ご自身の十字架の死が、主の義を全うし、人々が主のもとに帰ってくるという信仰です。つまり、イエス様の十字架のことばは、嘆きでだけではなく、信仰であり賛美であったということです。

 イエス様はかつて群衆と弟子たちにこのように言われたことがあります。マルコ8:34,35「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」「自分のいのち」というのは、この世のでいのちのことです。もし、キリストのために、自分を捨て、それを失うなら逆に得るということです。イエスさまは私たちと同じ肉体を持っておられたので、死にたくなかったと思います。自分が何も悪いことをしていないのに、十字架にかかって辱めを受けつつ死ぬということは理屈に合わないことです。でも、イエス様は御父のみこころに従い、自分のいのちを捨てました。イエス様はご自分が言われたことを実行したのです。そして、イエス様は、もし自分のいのちを捨てたら、豊かな報いがあるということを信じていたのです。イエス様は罪の贖いのために、ご自分のいのちも、神の子としてのプライドも捨てました。十字架という極刑を受け、人々からあざけられ、そして御父からも捨てられました。でも、その向こうにある人々の救いを信じていたのです。ヘブル人への手紙は、「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをもものともせずに十字架を忍び」(ヘブル12:2)と言っています。ある伝道者が、「イエス様は十字架の苦しみの向こうに、救いを得る一人一人の顔が見えたのではないだろうか。その中には、あなたの顔、あなたの顔もあったのです」とメッセージしていました。イエス様は十字架の苦しみ以上に、この後、救われる人々が起るということを喜び、期待していたのではないかということです。

 このように考えると、イエス様の十字架に感謝せずにはおられません。私たちプロテスタント教会は受難週は1週間です。ところが、ローマ・カトリック教会はレントを守ります。レントというのは、40日間にわったて行われる信徒たちがキリストの苦難と死を思って自らの罪を悔い改め、心身を清めていく神聖なる祈りの期間のことを意味するそうです。レントには反対しません。でも、たとえ十字架の苦しみを偲んだとしても、私たち人間にはとうてい分からないことです。形だけ苦しい顔をするよりも、「私たちのために耐え忍んでくださりありがとうございます」と感謝をささげた方が良いと思います。そして、そのことを、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従うことで現して行けばよいのではないでしょうか。福音のゆえに馬鹿にされ、迫害を受けることがあったら、イエス様のお苦しみを少しでも理解することができるでしょう。

3.贖いの結果

 マルコ15:37-39「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』」このところに、イエス様が死なれた直後のことが記されています。この神殿の幕というのは、聖所と至聖所を分ける隔ての幕のことです。幕の向こう側、つまり至聖所には年に一度、大祭司しか入ることができませんでした。ところが、その隔ての幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。人間が裂くなら下からしかできません。「上から裂けた」というのは、神さまの超自然的なわざとしか考えられません。これは「しるし」です。新聖書注解には「その幕が裂けたということは、イエスの贖罪の死によって、神と人とを隔てていた幕が永遠に取りされたことを意味する」と書かれていました。ヘブル人への手紙の9章と10章に、聖所と至聖所のことが詳しく書かれています。「大祭司なるイエス・キリストが、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」と繰り返し書かれています。そして、今日の箇所にあたるのがこれです。ヘブル10:19,20「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」十字架の贖いによって、隔ての幕が裂け、神さまへの道が開かれました。今日、私たちはイエス様の血によって、イエス様を通して、神さまのところに大胆に近づけるということです。

 十字架の贖いの結果、神殿の隔ての幕が裂けました。そのことによって、どのようなことが起きたのでしょうか?第一は、犠牲・儀式の成就であり、新しい恵みの時代が始まったということです。ヘブル人への手紙を見ると、地上の幕屋や神殿は来るべきものの模型であると書かれています。イエス・キリストこそが大祭司であり、永遠の贖いをご自分の血によって成し遂げられました。ですから、旧約時代の犠牲や儀式が不要になったということです。ところが、ローマ・カトリック教会や聖公会は犠牲の継続を意味するミサが行われています。そればかりか、神に近づくために複雑な儀式があり、人々の間に司祭が立っています。では、プロテスタント教会はどうでしょうか?礼拝堂をサンクチャリー(聖所)と呼んでいる教会もあります。また、ルター派やメソジスト派には、ローマ・カトリックのなごりがあります。たとえば、聖餐を受けるときに、人々が前に出て行って跪き、牧師からパンをいただきます。礼拝の司次第も複雑でその順番が神学的であるかのように考えています。でも、重要なことをないがしろにしています。私たちが神さまに近づくことのできるのは、キリストの血のみです。賛美もありますが、賛美は携えていくものであり、キリストの血のみこそが神さまに近づくことができる道なのです。私たちは万人祭司であり、神さまと私たちの間には、唯一の仲介者、キリストのみがいらっしゃいます。

 第二は、罪人も神さまの御前に近づくことができるのです。当たり前のことですが、敬虔な人たちは、罪を悔い改めていなければならないとか、洗礼を受けて教会の信者にならなければならないと主張する人がいます。ゴスペルでどこかの教会に奉仕に行ったとき、「未信者は講壇に上ってはいけません。間違いがあるといけないので、下で歌ってください」と言われたことがあります。教会では二種類に人を分けたがります。未信者と洗礼を受けているクリスチャンです。未信者は神さまに受け入れられていない、罪に汚れているという考えです。確かに、言いたいことはわります。では、すべてのクリスチャンは大胆に神の前に近づいているのでしょうか?「未信者は講壇に上ってはいけない」と考える人は、おそらく自分に罪があったら神さまには近づけないと思っているでしょう。ちなみに「何かの罪を犯した人は、聖餐式もしばらく受けてはならない」と定めている教会もあります。私たちの罪如何によって神さまに近づけたり、近づけなかったりするのでしょうか?それは、旧約時代の考えです。新約の私たちは罪あるまま、汚れたまま神さまの前に近づことができ、キリストの血潮によってきよめられるのです。ある人は、私は罪を犯しているので神さまが遠く感じて祈れないと思っているかもしれません。神さまは私たちの罪や信仰によって近かったり、遠かったりするのでしょうか?ヘブル10:19,22「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。…心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」キリストの血が、私たちが犯した罪ばかりか、罪責感をもきよめてくださるのです。その結果、私たちは罪を悔い改め、新しい道を歩む力が与えられるのです。ありのまま神に近づくのが先です。そうすればきよめられ、犯した罪を悔い改めることがきるのです。

第三は、何の行ないなしで神さまの御前に近づくことができます。奇妙に聞こえるかもしれません。これは「もうしませんから」とか「このような償いをしますから」「苦しみを受けますから」赦してくださいと神さまと取引きすることです。ローマ・カトリックでは悔い改めるだけではダメであり、何らかの償いが課せられます。さっきのレントという受難の苦しみを少しでも味わう4週間がありました。これも同じで、苦しみを受けてはじめて神さまに近づくことができるという考えです。言い換えると、私たちにも何らかの犠牲や、難行苦行が必要だということです。これこそ、最も神さまを馬鹿にする行為といえましょう。「神さま、あなたから1万タラント(6000億円)を許してもらいましたが、申し訳ないので100万円お返しします」と言っているようなものです。途方もない額を一方的に赦されているのに、私たちの小さな善行や償いでお茶を濁すのでしょうか?マルコ福音書には「イエスは大声をあげて、息を引き取られた」としか書かれていませんが、その叫びとは何だったのでしょうか?ヨハネ19章には「完了した」と書かれています。ギリシャ語ではテテレスタイという商業用語で、「すべてを支払った、完済された」という意味です。でも、ギリシャ語の動詞はアオリスト形であり、「過去の一回の出来事が現在に及んでいる」という意味です。つまり、十字架の贖いは完成しており、繰り返される必要はないということです。私たちは罪が完済された恵みの時代に生きているということです。だから、いつ、どんなときでも、どんな状態でも、キリストの血によって神さまに大胆に近づくことができるのです。