あなたは自分の価値をどのように決めておられるでしょうか?容姿、持ち物、学歴、何かを成し遂げたことでしょうか?あるいは、人々からの評判や名声、支持でしょうか?現代は、SNSを発信して「いいね!」をもらいたい人があふれています。あんまり、人の目を気にしていると、人の奴隷になります。また、人と比べて生きると、「劣っている」とか「優れている」という、ジェットコースターの人生になってしまいます。きょうは、どのような自己価値を持つべきなのか、聖書から学びたいと思います。
1.間違った自己価値
日本では、自己価値ということばは、あまり使わないと思います。価値は英語でvalueであり、「自分がどのくらい価値があるか」ということです。これは、自尊心とか、セルフイメージと深い関係があります。多くの人たちは、自分がどのくらい価値があるか、外側のもので決定しています。たとえば、ブランド品の衣類や時計やサングラスを身に着けていることで自分の価値を高く見せようとします。立派な自宅に住んでいるとか、高級車に乗っているとか、血統書付きの犬を飼っているなどです。私は、アウディのスポーツカーが通ると、「おお、かっこいいなー」と思ったりします。また、ある人は、人々の評価で自分の価値を決めています。もし、何か立派なことを成し遂げたら、人々が自分を評価してくれるでしょう。スポーツや芸能、音楽は、この間まで頂点をきわめていたのに、いつの間にか、だれからも話題にされなくなったりします。では、どのくらいお金をもっていたなら、自分の価値が安定するのでしょうか?どのようなことを成し遂げたら、自分の価値が高まるのでしょうか?どのような家に住み、どのような車に乗ったなら、人々から「すごい」と思われるのでしょうか?もし、そのような外側のもので、そのような人々の評価で生きるならば、自分の価値が上がったり下がったりすることでしょう。
ある人たちは、自分が何かで失敗したことによって、自分はもう価値がないように生きています。「目指していた一流大学を落ちてしまった」という人もいるでしょう。そして、「自分は二流の大学出なので、エリートコースから外れてしまった」と思っているかもしれません。大病を患ったり、破産した、あるいは離婚してしまった。そういう場合は自己価値に大きなダメージを与えるでしょうか?パラリンピックにはいろんな障害を持った人が、すごい力を発揮しています。でも、バイク事故で片足を失っても、自己価値を失わずに生きている人は、どのくらいいるのでしょうか?五体満足という言い方はどうかと思いますが、体の一部を欠損したら、自分の価値がなくなるのでしょうか?もし、外側のもので、自分の価値を決めていたなら、これほど不安定なことはありません。なぜなら、私たちは失敗することもあるし、病気になること、事故に遭うこともあるからです。人々から誤解され、大変な目に遭う人もいます。テレビでスキャンダルが面白おかしく放映されていますが、いつ自分がそうなるか分かりません。私もひき逃げ運転とか、セクハラで訴えられないように気を付けています。
私は23歳のとき、英語の仕事につく夢を見て、建設業をやめました。ところが、現実はそんなに甘くはありませんでした。とりあえず、町田のタイプスクールに通いました。そこは和文と英文のタイプを教える学校で、60人くらいの生徒が通っていました。男性は3人いなかったと思います。私は失業中でしたので、とても肩身の狭い思いをしました。百合ヶ丘のバッテングセンターでもアルバイトをしましたが、いつまで失業保険が持つのか心配でした。6か月後、小さな貿易会社に入って、天にも昇るような気持ちでした。Export division Yasuhiro Suzuki.という名刺を持って、町田に飲みに行ったことを覚えています。失業というのは、自分の価値にものすごく影響を与えるということが身に染みてわかりました。2年後、会社を辞めて、教会献身をするときも失業しました。そのときは、クリスチャンだったので、何とも思いませんでした。なぜなら、自分は神の子どもであるというアイディンティテイが勝っていたからです。
イエス様は公生涯に入る前に悪魔から誘惑を受けました。ルカ4章に書いてありますが、イエス様が40日間、断食した後、悪魔が現れてこのように言いました。「もし、あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」悪魔の誘惑は、イエス様の価値が、何ができるかというパフォーマンスに関係していました。「石をパンに変えたら、人々が経済的な問題から解決してくれるメシヤだと認めるだろう」ということです。そうしたら、神の子として価値を認めることができると言うものでした。イエス様は「人はパンだけで生きるのではない。奇跡で自分が神の子であることを証明しない」と断りました。二番目は、悪魔は「私を拝むなら、国々のいっさいの権力と栄光をあなたに差し上げましょう」と誘惑しました。これは、持ち物による価値です。つまり、自分は何を持っているかによって、自分の価値が決まるという考えです。しかし、イエス様は「持ち物によって、自分の価値は決まらない。私の価値は、ただ主に仕えることである」と断りました。三番目は、悪魔は「神殿の頂から飛び降りたなら、御使いがあなたを支えるでしょう。それを見た人々が、あなたをメシヤだと認めるでしょう」と誘惑しました。しかし、イエス様は「主を試みてはならない。大衆受けすることが自分の価値を決めるものではない」と断りました。イエス様は、パフォーマンス、持ち物、大衆受けするものが、自分の価値を決定するものではないということを身をもって教えて下さいました。
悪魔がイエス様にしたように、今も、私たちに間違った自己価値を求めさせようと、誘惑しています。神さまを知らない世の人たちは、より優れたパフォーマンス、価値ある持ち物、より大衆受けするものを求めています。そういうことによって、自分の価値が高められ、幸せで安心した暮らしができると思っています。本当はそうでありません。そのような中で生きている人は、絶え間のない葛藤とフラストレーションに悩まされるでしょう。彼らはいつも、人々を意識して、いつも無理をして頑張らなければならないからです。だれかと競争し、だれかに証明し、だれかに印象を与える生活をたとえる生き方があります。それは、ランニングマシンに乗っている人です。いくら走っても前に進むことはありません。それに、どこにも進むことができないからです。
2.正しい自己価値
現代は、ブランド名がとても強調されている時代です。私たちはまあまあの靴をはき、まあまあの衣類を着て、まあまあの財布を持ち、まあまあの車に乗り、まあまあのスマホを持ちます。名の知れた一流のものを持っていれば、クールだと思われます。私たちは外側のラベルによって、ブランド品かどうか判断します。材質がどうのではなく、有名ブランドのラベルがついていることが大切なのです。たとえば、Nと書かれたニューバランスのスニーカーは値段が高いですね。ノーブランド品とどのくらい品質の差があるのでしょうか?私などは、安いスニーカーを買って、Nというイニシャルをつけたくなります。前に、有悟が通っていた高校のワイシャツがとても高かったのを覚えています。白のワイシャツに、科学技術高校のSTを刺繍してあげたことがあります。ポケットのところに輪っかを2つかぶせて、刺繍糸で巧みに縫ってあげました。本物と微妙に違うので、有悟は着て行きませんでした。何故、世の中の人は、このようにブランドにこだわるのでしょう?おじさんは無印でも良いのではないかと思います。ひょっとしたら無印もブランドかもしれません。
ところで、私たちが立派なブランド品であることをご存じでしょうか?創世記1章には、「神は人をご自身のかたちとして創造された」と書かれています。英語の聖書は、imageです。ヘブライ語のツレムは、像、彫像、似姿です。簡単に言うと、人を見るとどこか神さまと似たところがあり、神さまを表しているということです。聖書の神さまは別名、The Creatorです。あなたは神さまからcreate創られたのです。この世では、「親が子どもを作る」と言います。あるいは、「母親があなたを生んだ」と言うでしょう。正確には、「神さまがあなたを創り、母親を通して、この世に誕生させた」のです。創ったのは神さまで、生んだのは母親です。そうすると、私たちのルーツは、天地を創られた神さまということになります。詩篇139篇はもっとすごいことが書かれています。139:13,14「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」日本語聖書は「奇しいことをなさって恐ろしいほど」とありますが、英語の聖書はfor I am fearfully and wonderfully made直訳すれば、「あなたは私を、ひどく驚くほど、すばらしく作られた」ということです。ある人たちは、鏡を見ながら、「もっと鼻が高かったら良いのに」「もっと目がぱっちり大きかったら良いのに」と文句を言います。あるいは、「もっと身長が高かったら良いのに」「別の国民に生まれたかった」という人もいるでしょう。そうではありません。神さまはあなたにちょうど良いように、創られたのです。もし、神さまがもっと背が高くと願っていたなら、もっと背を高く創られたでしょう。「我慢しなさい」ではなく、「私は、ひどく驚くほど、すばらしく作られた」と認めるべきです。私たちは一人ひとりMade in God, Made in Creatorなのです。
私たちは工場の生産ラインで作られたのではありません。製品は大量生産であり、1つ1つがほぼ完璧であり、同じ形をしています。しかし、人間はひとり一人違います。指の指紋、目の虹彩、声の質、そして顔、全く同じ人はいません。似ている人はいますが、完全に同じではありません。だから、指紋や声紋がセキュリティで用いられるのです。人と違って良いのです。私たちは一人ひとりユニークな存在であることを感謝すべきです。もし、私たちが人と比べたなら、自分の価値がぐっと下がってしまうでしょう。人にあこがれることは悪くはありません。「あの人のようになりたい」と真似たり、技術を盗むようなことはあるでしょう。しかし、あるところまで行くと、「その人とは違うなー」と分かってきます。あなたはあの人の模造品になってはいけません。あなたはだれかのコーピーではなく、オリジナルであるべきです。神さまは大量生産ではなく、唯一無二である手作りの作品としてこの世に与えたのです。
私たちは他の人からの評価を求めたり、認められたいと努力するかもしれません。多くの人から支持されたら、自分の価値が上がるのでしょうか?SNSで「いいね!」をたくさんいただくために、生きている人もいます。イエス様がエルサレムに小さなロバに乗って入城しました。多くの人たちが棕櫚の葉を取り、「ホザナ、ホザナ!」と叫んで、歓迎しました。ところが、1週間もたたないうちに、「十字架につけろ、十字架につけろ!」と叫びました。群衆というのは、そういうものです。大勢の人が支持してくれたら良いという訳ではありません。そのように変わり易い人々に自分の価値を置くことは愚かなことでしょう。イエス様は人々の是認には期待しませんでした。弟子たちに祈ってくれと願いましたが、みな寝てしまいました。群衆が棍棒を持ってイエス様を捕えに来たときは、弟子たちはみな逃げ去りました。イエス様は父なる神さまから是認をいただいて使命を全うしました。十字架にかかる前も、「私は栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう」(ヨハネ12:28)という天からの声がありました。もし、私たちが人からの評判や是認を期待して、生きるなら、不安に襲われるでしょう。なぜなら、私たちは人々から、一定した変わらない是認を受けることは不可能だからです。それは、あなたの両親や家族とて、同じです。今でも、彼らはあなたを認めず、祝ってくれないかもしれません。これが真実なのです。だれかに認められるために生きて、無駄な人生を送らないでください。自己価値はあなた自身がどう思うかであって、他人ではないからです。人々はあなたに価値を与えるということは間違いです。もし、あなたがすばらしい成功をおさめても、全ての人が喜んでくれるわけではありません。何割かの人たちはあなたに嫉妬して、「失敗すれば良い」と願うかもしれません。人とはそういうものなのです。ある日、サムエルが次の王にするために、エッサイの息子に油を注ぎにやってきました。しかし、ダビデは小さくて能力もないので、呼ばれてもいませんでした。彼は一人で羊の番をさせられていたのです。詩篇27:10「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」アーメン。最も親しい人でさえも、あなたを見捨てることがあるかもしれません。でも、あなたを創られた神さまはあなたを見捨てません。なぜなら、あなたは神さまの子どもだからです。ご自身のイメージが刻まれているからです。
3.自己価値の回復
生まれたときから、誕生を喜ばれ、あふれるばかりの愛を注がれたなら、自分の価値を見いだすことは容易でしょう。そういう人は自信をもって自分らしい生活を送ることができるでしょう。ところが、そういう人はそんなにいないと思います。一般的な親は、良かれと思って、その子を他のきょうだいと比べます。劣っているとか優れているとか、早いとか遅いとか叱咤激励をするでしょう。子どもは自然とパフォーマンス指向になり、ありのままでは良くないんだと思うでしょう。もっと、ひどいのは虐待やニグレクトです。こうなると、自己価値ではなく、自己嫌悪に陥ります。自分は生きる価値がないんだと自分の人生を呪うようになります。そうなると、他の人に対しても、冷酷で不親切なふるまいをするようになります。聖書は「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と命じています。自分を愛していない人が、どうして他の人を愛せるでしょう?自分の価値を認められない人が、どうして他の人の価値を認めることができるでしょう?人をけなしたり、批判する人は、自己価値が育まれたことのない人です。自分に価値がないので、他の人の価値を下げたくなるのです。そういう意味でも、私たちは正しい自己価値を持つ必要があります。
私たちはクリスチャンになると創造主なる神さまを、天のお父様と呼べるようになります。自分が無条件に愛されており、存在そのものに価値があることを知るようになります。でも、多くの場合、そこまでに達するためには心の癒しが必要です。イザヤ書61章には3種類の人に対する癒しと解放があります。イザヤ61:1「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。第一は心の傷ついた者を癒すとあります。心は肉体と同じで、傷つき、血を流します。そのまま放っておくと、ばい菌が入り、膿んでしまいます。しかし、人々はその上から包帯を巻いて、「私には問題ありません」と心の傷を隠して生きています。しかし、何かあると、傷がうずいて平常な生活が送れなくなります。イエス様が十字架に付いたのは、罪の赦しのためです。罪は自分が悪いことをしたという加害者的なものです。しかし、被害者の部分もあります。十字架はもう1つあり、私たちの心の傷を癒してくれます。イエス様は私たちの代わりに、人々からのけ者にされ、顔をそむけられ、さげすまれました。イエス様は私たちの悲しみを負い、痛みを担ってくださったのです。第二は、捕らわれ人には解放を与えてくださいました。これは、他者によって一方的に捕らわれた人です。虐待などを意味します。過去のトラウマに捕えられている人がたくさんいます。そこに、悪霊が働いているかもしれません。第三は、自分が犯した罪によって囚人になっている人です。ある意味で、罪責感に囚われている人です。「私はそのため幸せにはなれない、罰を受ける必要がある」と思っている人です。第一、第二、第三の人物も、自分の価値を認めることのできない気の毒な人たちです。ある人は被害者であり、ある人は加害者です。そのどちらなのか分からない人もいます。
しかし、イエス・キリストはその人たちを解放し、自由と価値を与えるためにこの世に来られました。そのためには、傷を癒し、汚れを洗い、鎖を断ち切る必要があります。背後で働いて、苦しめていた悪霊を追い出す必要もあります。しかし、その人自身がすべきことがあります。それは自分に危害を加えた人を赦すということです。赦しにまさる癒しはありません。たとえ、100%向こうが悪くても、たとえ向こうが謝ってくれなくても、こちらが赦してあげるのです。そうしないと、なかなか解放されることはありません。一度、離れて行った悪霊が戻ってくるのは、こっちが恨みを手放していないからです。赦すことは意思であり、感情ではありません。赦したいという感情を待っていたなら、一生かかってもできないでしょう。感情ではなく、赦すことを選び取るのです。私も偉そうに思っていますが、赦しの問題で苦しんだことがあります。また、現にそうできないで葛藤する時もあります。マタイ18章には恐ろしいことが書かれています。とうてい返すことのできない負債を赦されたしもべが、友人の借金を赦すことができませんでした。マタイ18:34「こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した」とあります。獄吏は英語で、torturers「拷問に掛ける者たち」という意味です。まさしく、悪魔の使いです。私たちが赦さないと、法的にそのような苦しみがやってくるということです。しかし、このような脅し半分で人を赦すというのは、どうかと思います。私は李光雨師ご夫妻から数年間、カウンセリングの講義を受けました。その時、李光雨師は「イエス様が十字架の上から、私に免じて赦してやってはもらえないだろうか」と懇願しておられるとおっしゃいました。イエス様が願っておられるのだったら、聞かない訳にはいかないでしょう。
イザヤ書43章のことばは多くの人たちを癒してきました。1節「あなたを形造った方、主はこう仰せられる。」3節「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」このところには、私たちが価値ある理由が少なくとも3つ示されています。第一は神さまが私たちを造られたからです。第二は私たちを贖って下さったからです。第三は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と主がおっしゃっているからです。人が何と言おうと、私の目には、あなたは高価で尊い、価値があるとおっしゃっているのです。なんとすばらしいことでしょう。イエス様は私たちの価値を買い戻すために、十字架で血を流し、代価を払ってくださいました。私たちは、イエス様のいのちと同等の価値があるということです。言い換えると、私たちに買い戻す価値があったので、イエス様が十字架にかかられたということです。多くの人たちは、この箇所を罪の中にいる私たちを無価値であると解釈します。そうではありません。私たちが罪の中で失われているにもかかわらず、イエス様は十字架で血を流し、私たちを贖って下さったのです。私たちが自分の価値を認める理由がここにあります。私たちが何かできるとか、何かを持っているとか、人々が評価するとか関係ありません。創造者なる神さまと贖い主であるイエス様のゆえなのです。