2021.2.14「恐れに打ち勝つ ローマ8:21-37」

 現代は恐れに満ちています。「死因の半分が癌である」という保険会社のCMを見て、「いつか癌になるのではないか」と恐れます。どこかで地震が起ると、「ここにも大きな地震がやってくるのでは?」と恐れます。歩道を歩いていても、「どこからか車が突っ込んでくるのでは」と恐れます。子育てをしている親は「子どもが学校でいじめにあってはいないだろうか?」と恐れます。結婚している人は、「この結婚はいつまで続くだろうか?」と恐れます。ある人が「人々が恐れていることの3%しか実際は起らない」と言っていました。それなのに、私たちが常に恐れるのは何故でしょう?恐れに打ち勝つ術はあるのでしょうか?(2019.7.20新型コロナが流行前に作成)

1.恐れと信仰

 聖書に「恐れ」の根源が記されています。創世記3章でアダムとエバが食べてはならない木から食べました。すると、急に二人の目が開かれ、自分たちが裸であることが分かりました。園を歩かれる主が「あなたはどこにいるのか」と二人に声をかけました。創世記3:10「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」とアダムが答えました。つまり、二人が神に逆らって堕落した直後に、恐れが入って来たことが分かります。それ以降、私たち人類は「恐れ」という敵と戦っています。冒頭でも言いましたが、多くの人たちは「自分がいつか癌になるのではないか」と恐れています。世界中で、日本ほど生命保険に入って入る国もないようです。これだけ失業率が高いと、「自分もいつかリストラされるんじゃないだろうか」と恐れています。年頃の子どもを持つ親は、「悪い仲間と悪いことをしているのでは」とか「もしかしたら、娘が妊娠しているのでは」と恐れています。ご年配の人たちは、「年金では暮らしていけないぞ。これからどうなるんだろう」と恐れています。恐れ、恐れ、恐れがこの世界を闊歩しています。それは、人間が神さまから離れてしまったことが原因しています。

恐れと信仰は正反対の事柄ですが、両者はとても良く似ています。どちらも、まだ見ていないのに、まるで起ったかのように信じているからです。恐れはこのような否定的なことを言うでしょう。「右わき腹が痛いの?あなたのおばあちゃんもあの病気で死にました。あなたもきっと、同じようになるわよ」。しかし、信仰は積極的なことを言います。「この病気は長くは続かない。一時的なものだよ」。恐れがあなたに言います。「これだけ世の中が不景気なんだから、この先、食っていけるかどうか分からないよ」。信仰が言います。「神さまはすべての必要を与えてくださるよ、大丈夫」。恐れが言います。「あなたは一生懸命やって来たけど、幸せにはなれないよ」。信仰が言います。「最も良い日は、過去ではなく、これから先にあるよ」。このように、恐れは、あなたの思いに対して、絶え間なく、否定的なことを語っています。もし、あなたが恐れの言う「きっとそうなるかも」を、真に受けるならどうなるでしょう?あなたの恐れるものが現実となるでしょう。旧約聖書のヨブは「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ」(ヨブ3:25)と言いました。

 ジョエル・オスティーンの友人がご自分の奥さんについて話してくれました。その御夫婦は家の二階で寝ていました。寝る前に、奥さんが夫にこう言います。「一階に泥棒がいるかもしれないから見て来てちょうだい」。次の日も「一階で何か物音がしたわ。あなた、見に行ってちょうだい」。もうそれが毎晩続くので、いつしかルーティンワークのようになっていました。ある晩、「あなた起きてよ。下に泥棒がいるみたい。見に行ってちょうだい」と言いました。忍耐強い夫は「はい、はい」といつものように、下に降りて行きました。もう、それが何千回も続いていたので、軽い気持ちでチェックしました。しかし、その時です。本当の泥棒が潜んでいました。泥棒は本物の銃を彼の顔に突きつけて「静かにしろ。現金か、何か金目のものはないか?」と言いました。私の友人は彼が言うように現金と宝石類を彼に渡しました。泥棒がそれらを手にして、逃げようとしたその時です。友人は「まだ、行かないでくれ」と泥棒を呼びとめました。友人は「あなたは二階にいる私の妻と会う必要があります。なぜなら、彼女は30年間もあなたに会うことを期待していたからです」と告げたそうです。彼女の恐れていたことがやっと実現したからでしょう。

恐れに対して免疫力のある人はだれもいません。私は小、中、高と先生から度々、罪に定められてきました。ですから、私が一番、恐れるものは、人からのaccuse非難、告発です。これは体に染みついているので、クリスチャンなって、また牧師になってからも弱点になっています。敵はそのことを知っているので、様々な機会、色んな人を用いて、非難してきます。そのときは、体が硬直して、弁明したり、立ち向かうこともできなくなります。しかし、その第一原因が分かりました。黙示録12:10「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」悪魔こそが、私たちの罪を告発し、訴える者だということです。その裁判が天の法廷でなされていることが分かりました。だったら、人に訴えるのではなく、天におられる父なる神さまに訴えるのが一番です。しかも、神の右の座には弁護士なるイエス・キリストがおられます。恐れに対しては、神への信仰によって勝利できます。私たちは恐れを捨てて、常に信仰を選び取るべきです。私たちは人々の間で生きているので、恐れる機会がたくさんやってきます。人々は経済について、健康について、子育てについて恐れを抱いています。私たちは心配事にエネルギーを費やさないで、信じることにエネルギーを費やすべきです。だれかが、「私はリストラされる」と告げたとします。「私もそうなるかもしれない」と思うかもしれません。しかし、悪くなることを思い続けて、期待するようになってはいけません。もし、あなたが恐れの中に住み続けるなら、いずれそうなるでしょう。逆に信仰を働かせるのです。「神さま、私の人生はあなたの御手の中にあります。あなたが私の歩みを導いてくれます。私は敗北を期待しません。私は祝福された年月を期待しています。このように信仰に留まるとき、一方の扉が閉められても、神さまは新しい扉を開けて下さいます。たとえリストラされても、神さまはあなたにより良い仕事を与えて、もっと良い収入を与えてくださいます。あなたのエネルギーを心配事ではなく、信じる方に、神さまに期待する方に費やしてください。

2.恐れの破壊力

クリス・ヴァロトン師は「恐れは悪霊たちの核兵器である」と言っています。彼の著書“Spirit Wars”を直訳したものを引用します。「恐れは、教会の中で、おおっぴらに受け入れられている罪です。恐れは、連続殺人犯で、地球上のすべての疾病よりも多くの殺人を犯した第一容疑者です。恐れは、それがいかなる形であろうと、心臓病や癌、自己免疫疾患、精神病、そのほかのあらゆる病気に影響しています。恐れは、悪霊の活動を人生にお迎えする玄関マットのようなものです。預言者イザヤは次のように記しました。『あなたは虐げから遠ざかる。なぜなら、あなたは恐れることがないからだ』(イザヤ54:14)。恐れを拒否するなら、私たちは平安の内を歩むことができます。しかし恐れが生活に忍び寄るのを許すなら、やがて虐げられ、苦しめられ、拷問にかけられるでしょう。」ヴァロトン師は、ネヘミヤが敵から受けた攻撃ついて書いていますが、それは恐れでした。ネヘミヤはエルサレムの城壁の補修を手掛けた人です。彼の工事は敵の脅しにより、何度もくじけそうになりました。ネヘミヤは、イスラエルの人たちに、片手には道具、片手には武器を持たせて、工事をさせました。サンバラテ、トビア、偽預言者たちが、共謀してネヘミヤを妨害しました。それでも、予定した工期より2か月も早く完成したので、敵は大いに面目を失いました。ネヘミヤの成功した理由は何でしょう?敵の誘いに耳を傾けなかったことです。彼は「私は大事な工事をしているので、あなたがたのところへ下って行けない」と断りました。ネヘミヤは恐れを征服することを学び、彼の使命destinyを捨てさせる誘惑を拒絶しました。それが彼の成功の秘訣です。

私たちもそれぞれ、特別な場所や働きを神さまから任されています。私たちはすぐれているものもあれば、弱いところもあります。悪魔は私たちの弱いところを攻撃してきます。使徒パウロはこのように言っています。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:36)。「限度」とはギリシャ語でメトロンと言いますが、「影響力が及ぶ領域、あるいは権威が働く範囲」という意味です。私たちは自分が持っている確信によって、自分のメトロンの大きさを判断することができます。別の誰かのメトロンを引き引き受けたなら、自分を見失ったり、失望落胆の海で溺れてしまうでしょう。しかし自分のメトロンの内側に留まっているとき、自分の召命を果せるという信仰があります。トイレ掃除であれ、国家の指導者であれ、神さまのためにそれをするなら、自分の人生を価値あるものとする「大事な工事」を行なっているのです。ヴァロトン師はこのように述べています。「この自己価値の実感は、地獄の軍団に対する強力な武器です。自己価値は、主にある自信を防御する見えざる力です。それはたましいを守る盾なのです。自分の働きが神にとって意義あるものであることを忘れてしまうなら、無防備な状態で敵の攻撃にさらされながら、心の門を出て行くことになるのです。」アーメン。

もう一度、恐れがどのような破壊力があるか考えてみましょう。恐れは人に伝染します。もし、あなたが信仰に留まりたいなら、読むもの、聞くもの、だれと話すかに注意しなければなりません。もし、あなたがいつも不平不満を漏らしている人々の中にいたらどうなるでしょう。もし、あなたが失望落胆している否定的な人々の中にいたらどうなるでしょう。彼らの低い霊性があなたを引き降ろすでしょう。研究者たちは、「恐れている人たちを見ているだけで、自分たちが不安になる」と言います。同じ研究者は、私たちが風邪を引くように、他の人の良い感情、もしくは他の人の悪い感情から影響を受けると言っています。ハーバード大学の研究者は、5000人の人たちを20年以上調査しました。ハッピーな人たちは自分たちが意識していないのに、他の人に与える影響が良い意味で長続きすることがわかりました。逆に不幸な人たちが他の人を感染する度合いは低く、長続きしないことがわかりました。同じ研究者は、ハッピーな人たちは良い影響を与えるので、給与も彼らと比べて5,000$高いと言いました。ジョエル・オスティーンはある本でこのように述べています。「あなたの友人が常に不平を言って、なぜうまくいかないか自分の不幸を嘆いているとします。もし、そうだったら、新しい友人を捜してください。悪いニュースを背負わないでください。彼らの心配、彼らの恐れ、彼らの失望落胆があなたを汚染するからです。それでも、あなたが彼らと一緒にいるなら、彼らが持っているものがあなたのものになります。」アーメン。セルチャーチで一緒だったある教会の牧師が、ある牧師のコーチングをしていました。何と、夜中に3時間も電話をしていたそうです。私はコーディネーターだったので、「そんなの、やめなさい」と注意をしたことがあります。カウンセリングをしている先生は、よっぽど注意しないと、自分の魂がおかしくなります。アメリカのカウンセラーの自殺率は、若者の自殺率よりも高いそうです。彼らは否定的なことを共感して聞くので、いつかおかしくなるのです。

私たちは自分の魂を守る必要があります。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」私たちはテレビ・ニュースを見ますが、その多くは否定的なものです。災害、事故、殺人、詐欺、テロ、離婚、争い、不正…良いニュースはほとんどありません。ですから、この世のニュースはほどほどにしなければなりません。サスペンスやドラマもそうです。そこには裏切り、危険、恐怖、不条理が織り込まれています。1つの刑事ドラマで一体、何人が殺されるでしょう?1人や2人じゃないですね。寝る前にそういうものを見たなら、潜在意識の中に恐れが入ってくるのは当然です。ある先生は寝る前にメールは開かないそうです。もし、問題や苦情、悩み事があるなら、安眠することができないからです。ジョエル・オスティーンも言っていますが、私たちは友達を選ばなければなりません。「そんなことを言ったら、お昼一人で食事をしなければなりません」と言うかもしれません。なぜ、否定的な同僚にぶらさがっていなければならないのでしょう?神さまが新しい友人を与えてくださいます。私たちは聖書を読み、神さまと常に交わる必要があります。弟子たちはいろんな問題に遭遇しましたが、マスターであるイエス様と一緒だったので、恐れる必要がありませんでした。私たちも同じです。

3.恐れに打ち勝つ

 アダムが堕落してから、恐れが人類に入り込むようになりました。私たちが地上で生きている限り、恐れは常にやってきます。私は数えたことがありませんが、聖書全体に「恐れるな」と365回書かれているそうです。ということは、一日に一回分、「恐れるな」と神さまが語っておられるということです。私たちは、恐れに打ち勝つ基本的なことを知る必要があります。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」このみことばから、神さまの全き愛を受け入れるならどうでしょう?恐れが出て行くということです。「神さまは光である」と言われています。私たちの心の中を明るくするためにはどうしたら良いでしょう?電気を付ければ良いのです。同じように、光なる神さまを受け入れるなら、闇が追い出されます。恐れも同じで、神さまの全き愛を受け入れるなら、恐れは締め出されるのです。アーメン。弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭遇したことがあります。その時、イエス様は舟のともの方でぐっすり寝ておられました。弟子たちのほとんどが漁師だったのですから、よっぽどの嵐だったのでしょう。「先生、私たちが溺れて死にそうでも、何とも思われないのですか」と寝ているイエス様を起こしました。イエス様は起き上がって、風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。すると風はやみ、大なぎりなりました。イエス様は何とおっしゃったでしょう?「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40)。イエス様は父なる神を信頼してぐっすり眠っておられました。それだったら、弟子たちもそうすべきでありました。でも、漁師という経験と知識があったので、これくらいの嵐だったら沈没すると考えました。私たちも常識や知識があるので、病気になったとき、「これでは助からない」とか判断を下します。もう、信仰がどこかに行っています。そうではなく、大いなるお方が私と共におられるということを信じる必要があります。クリスチャンは死んでも天国ですから、神さまが与えておられる寿命をまっとうできると信じることができます。そうすると恐れが消え去り、「主よ。たとえ死んでもあなたがご一緒です。アーメン。」と安らぐことができるのです。

 私たちは人を恐れます。人から批判されたり、誹謗中傷されることがあるかもしれません。韓国では、インターネットの書き込みで自殺するタレントさんもいるそうです。前のポイントでも言いましたが、私は人からの非難にとても弱いです。なぜなら、小・中・高と学校の先生から叱られてきたからです。英語にintimidateということばがあります。これは、「暴力的な脅しによって怖がらせる。脅す。おびえさせる」という意味です。これが、be intimidatedと受身になると、「脅されて、怖がる」と言う意味になります。ヤクザから脅されるということは、あまりないかもしれません。しかし、何かのことで非難されたり、訴えられたりすることはあるかもしれません。テレビ・ニュースを見ると、脅しの手紙がポストに入っていたり、窓ガラスが割られるようないやがらせを受ける人がいるようです。自分としてはそのような覚えがないのに、そういう脅しを受けると神経がまいってしまいます。恐れは私たちをダメにします。でも、聖書は何と書いてあるでしょう?マタイ10:28-31「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」アーメン。たとえ、人が私を殺してもせいぜい肉体までです。たましいを殺すことはできません。たましいを殺せるのは神さまだけです。言い換えると、私たちのたましいは神さまの御手の中で守られています。だから、肉体しか殺せない人を恐れる必要はないのです。イエス様は「一羽のすずめも父のお許しなしには地に落ちない。あなたの頭の毛さえも、みな数えられている。だから恐れることはない」とおっしゃいました。アーメン。

 エペソ人への手紙6章には「悪い者が火矢を放っている」と書かれています。悪魔は、疑いの火矢、恐れの火矢をたえず放って来ます。パウロは「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪しき霊との戦いである」と言っています。血肉とは人間のことです。つまり、私たちの戦いは、人間とではなく、彼らの背後にいる悪霊だということです。この原理を知ることはとても重要です。人々を悪魔が背後で操っているということです。パウロがあげている武具で正義の胸当てがありますが、心臓を守るためにとても重要です。「正義の胸当て」はある聖書には、approval breast plate「是認の胸当て」と訳しています。つまり、「私は神さまから義と認められている」と言うことです。いくら、人々から非難されても「私は神さまから義と認められている」という信仰であります。もう1つは「救いのかぶと」です。英語の聖書はHelmet of salvationです。頭はとても大切ですね。頭はいろいろ考えるところです。疑いや恐れが入って来ます。しかし、「私はキリストによって救われている」とみことばを掲げることです。自分の知識や知恵ではなく、みことばに頼ることです。最後に、信仰の大盾を取ります。これによって、悪い者が放つ火矢をみな消すことができるからです。おそらく、パウロはローマ兵が持っていた、四角い大きな盾を言っているのだと思います。彼らが円陣を組むときは、四方だけではなく、上にも盾をかざして、落ちてくる火矢から身を守るのです。この信仰は私たちが一生懸命信じるという意味ではありません。信仰とは神さまがくださるものです。言い換えると、「私は弱いかもしれないが、神さまは強い。神が私たちの味方である」という信仰です。ローマ8:31-34「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」