2021.1.17「本当の悔い改め Ⅰヨハネ1:9-2:2」

キリスト教会では「悔い改め」という表現を度々使います。しかし、「悔い改める」のギリシャ語はメタノイエオーであり、「考え直す」「心を変える」という意味です。しかし、英語のrepentは、日本語と同じで、罪を悔いて悲しむという意味があります。そうすると、本来の意味からずれてしまいます。もちろん、悔いて悲しむことが伴うこともあるでしょうが、肝心なのは「心の向きを変える」ということです。きょうは、キリスト教会で良く言われる「悔い改め」について考えたいと思います。  

1.救いに至る悔い改め

 小学生のバイブルキャンプのとき、カウンセラーが救いのみことばを与えることがあります。そのとき、しばしばⅠヨハネ1:9のみことばが用いられます。そのところに、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら」と書いてあるので、子どもが信じるときに、罪を告白してお詫びします。つまり、これまで自分が犯した罪をごめんなさいと謝ってから、イエス様を信じるということです。しかし、これはバイブルキャンプだけではありません。ジョエル・オスティーンの教会では礼拝後、必ず入信の告白のチャンスを与えます。そのとき、forgive my sinsと「私の複数の罪を赦してください」と祈っています。日本の教会ではどうでしょう?おそらく、罪の悔い改めと信仰の2つがセットになっているのではないでしょうか?つまり、信じるだけではダメで、罪を悔い改める必要があるということです。しかし、ヨハネ第一の手紙はノンクリスチャンではなく、既にキリストを信じた人たちに宛てられた手紙です。なぜなら、ヨハネが「私の子どもたち」と呼んでいるからです。あきらかに神の子どもたちに書き送られた手紙です。すなわち、Ⅰヨハネ1:9のみことばは信じていない人ではなく、すでにイエス様を信じて神の子どもとなった人たちが対象だということです。つまり、罪を悔い改めるのはすでに救われたクリスチャンであるということです。もし、救われるために、罪を告白しなければならないなら、それは信仰義認ではなく、行ないの伴った救いになります。まだキリストを信じていない、新生していない人が、罪が何なのか分かるでしょうか?霊的にまだ死んでいるのですから、罪が何か分かる筈がありません。キリストを信じて新生したあとに、罪が何かはじめてわかるのです。

 高木慶太著の『信じるだけで救われるか』から引用いたします。ある著者が救いのためにこのように言っています。「本当の悔い改めとは、罪を離れる決心をして背を向けることです。ここが一番たいせつなところです。この点をおろそかにしてはっきりさせないために、実に多くの人が罪の赦しを受けないでいます。あなたは罪を悔い改めたでしょうか?すなわち、あなたは罪を憎み、あなたの知っている限りの罪をさっぱり捨てたでしょうか?」これに対し高木慶太師は、もし、未信者に「罪を離れ、罪を捨てなければ救われない」と言ったとしても、未信者ができるでしょうか?もし、個々の罪に背を向け、罪を犯す習慣をやめることが救いの条件の一部なら、信仰義認と反するのではないでしょうか?新約聖書の中では、150以上の箇所に「信じる」という動詞が救いの条件として記されており、35以上「信仰」という名詞が救いの条件として示されています。さらに、ヨハネの福音書の中に「悔い改め」ということばが一度も出てこないことも注目すべき事実です。新約聖書で「悔い改め」ということばは基本的には「考えを変える」ことを意味します。問題になってくるのは何について考えを変えるのか、その内容です。救いの方法に対してはどうでしょう?それまでは宗教的な儀式や戒律を守ることが救いに必要だと考えていました。悔い改めとは、間違った概念を捨て、罪の代価を払ってくださったキリストを信じるということです。キリストに関してはどうでしょう?イエスを、ナザレの単なる大工の息子、西洋の宗教家ではなく、まことの救い主として信じることです。この悔い改めは、キリストに関する考え方を変えるということです。神に関する悔い改めとは何でしょう?偶像が神であると信じていたけど、世界を創造した唯一の神であり、私たちを愛しておられる神であるというように考えを変えることです。自分に関してはどうでしょう?多くの人は「罪」とは「犯罪」や「特別あからさまな悪行」を言い、自分たちはそのような恥ずかしいことをしていないと考えています。しかし、神は表面に出た「行いの罪」だけでなく、心の中の「思いの罪」をも見られるお方です。したがって人は、「自分は救いを必要としている罪人である」ということに気付く必要があります。最後に、人は「悔い改め」ということばを聞くと、自動的に、「罪を悔い改める」と考えがちですが、必ずしもそうではありません。実際、聖書の中に「罪を悔い改める」という表現は一度も出て来ないのです。アーメンです。

 「悔い改め」そのものは厳密に言えば「信仰」と同義語ではありません。でも、人がキリストを信じるときに、その人の中に考えの変化というものが必然的に起こるのではないでしょうか?つまり、人がそれまで信頼していたすべてのものから、キリストに信頼を移すそのプロセスの中に「悔い改め」が含まれています。ヨハネの福音書は、「信じて、イエスの御名によって命を得るために」(ヨハネ20:31)書かれたものです。たとえば、ヨハネ3章16節も「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」と書かれています。そこには「悔い改め」ということばが出て来ません。それは悔い改めが、救いの信仰の中に含まれているからです。ですから、伝道においては悔い改めについて何も言う必要がありません。しかし、ある「信仰の手引き書」にはこのように書かれていました。「悔い改めとは、自己中心の罪を認め、神さまに『ごめんなさい』と謝ること、罪を悔いることです。」何度も言いますが、これは「悔い改め」という日本語訳から来た弊害であります。もちろん、自然に出てきたら、神さまに「ごめんなさい」と言っても構いません。でも、罪の悔い改めが救いの条件になってはいけません。なぜなら、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8,9)と書いてあるからです。人は、罪を悔い改めなければ救われないというのは間違っています。人が救われるのはただ恵みであり、キリストを信じる信仰だからです。

2.罪の悔い改め

 第一のポイントでは救われるためには、罪の悔い改めは必要ではないと申し上げました。そして、悔い改めるとは考えを変えるのであり、キリストを信じることの中に含まれるということでした。しかし、人が聖霊によって新しく生まれ変わると、霊的にめざめ、何が罪かわかってきます。それまでは、人の悪口を言っても、何かこっそりせしめても、問題を感じませんでした。ところが、嘘をつくと気持ちが悪くなるのです。高慢になり人を馬鹿にした後も後味が悪いです。「一体、どうしたんだ」と頭を抱えてしまいます。洗礼を受けた直後は天にも昇るような喜びでした。しかし、1か月くらいたってから、ものすごく憂鬱になったりします。なぜでしょう?自分がいかに罪深いか分かってくるからです。私は小さな貿易会社で働いている時、先輩に導かれて洗礼を受けました。祈祷会とか礼拝に出ると、教会の人たちがこの世の人たちとは思えません。みんなニコニコして、「感謝します」とか言っているのです。礼拝後、お昼ごはんに誘われましたが、怖くて2か月くらいは拒否していました。しかし、あんまり姉妹方がしつこいので、2階に上がりました。でも、元、現場監督なので、女性とほとんど口をきいたことがありません。あっても、スナックやキャバレーの女性たちです。慣れてくると、粗野なことばが出てきます。自分がこれまで犯した罪の自慢話をしたりします。救われる前は、どれだけ悪かったかを言うと、みんなの顔がひきつっていました。だんだん、自己嫌悪に陥ってしまったという記憶があります。しかし、その当時はたくさんの聖会があり、説教のあと恵みの座に出て行って、これまでの罪を悔い改め、講師から按手の祈りをしてもらいました。最初の神学校では、罪がきよめられる祈りをたくさんしました。いや、させられました。きよめを受けるためには、罪を告白しなければならないと教えられたからです。「まだ罪はないか」と、まるでもぐらたたきのようでした。

 ところで、ヨハネの手紙は、キリスト信じて神の子どもになった人たちへの手紙です。私たちは聖霊によって生まれ変わると、わざと罪を犯さなくなります。それでも、昔の性質が残っているので、つい怒って粗暴なことをしてしまいます。この世では罪でなくても、聖書から見ると罪であったりします。つまり、救われても罪を犯すことがあるということです。では、その罪をどうしたら良いのか、ヨハネの手紙が書いているのです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」このところに、「罪を言い表す」とありますが、「罪を告白する」という訳もあります。ギリシャ語はホモ・ロゲオゥです。これは「同じことを言う」という意味です。つまり、「これこれしかじかなことをしました」と神さまの前で告白するということです。もしかしたら、その後に「どうかお赦しください」という言葉が続くかもしれません。ダビデが大きな罪を犯して隠していました。預言者ナタンから責められたとき「私は主に対して罪を犯した」と言いました。同じことが、詩篇32篇に記されています。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたはわたしの咎を赦されました。」このところにもありますように、重要なのは、罪というものは神の前で犯したことなので、神さまの前で告白するということです。日本人は「だれかに迷惑をかけた、悪いことをした」と人に謝ります。たとえ相手が人であったとしても、まず、神さまに罪を告白することが重要なのです。その後、必要があれば、人にお詫びをしたり、弁償します。日本人は義であり、絶対者なる神観がないので、神さまに告白するということが分かりません。申し上げますが、私たちクリスチャンはすべての罪から赦されています。罪を犯しても神の子である身分は失いません。しかし、罪は神さまとの親しい関係を留めてしまいます。だから、罪を告白して、交わりを回復する必要があります。そのため、ヨハネは「私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」と言っているのです。

ローマカトリックでは、告解という秘跡があります。あるホームページにこのような解説がありました。告解とは、洗礼以後に犯した罪を教会の司祭をとおしてゆるす秘跡です。人は洗礼を受けたとき、それまでのすべての罪とその罰をゆるされますが、洗礼は一度しか受けられませんから、洗礼後の罪をゆるすためにキリストは別の方法をお定めになりました。これが告解の秘跡です。イエズス・キリストは、ご復活なさったのち、使徒たちに「あなたたちが罪をゆるす人には、その罪がゆるされるであろう」(ヨハネ20:23)とおっしゃって、彼らとその跡継ぎの司教や司祭たちに罪をゆるす権利をお与えになり、この秘跡をお定めになったのであります。カトリック信者は告解の秘跡を受けるとき、まず、前の告解後にどんな罪を犯したかを思い出すことが必要です。そして、罪を痛悔し、再び犯さないことを決心して司祭に告白します。告白後は、司祭に命じられた償いをできるだけ早く果たさなければなりません。この秘跡を受けるときに大切なことは、罪を痛悔することです。痛悔するというのは信仰に基づく動機で、心から犯した罪を忌みきらうことです。この信仰に基づく動機には、神への愛とおそれによるものがあります。神を愛する心から犯した罪を悔やみ、忌みきらうことを「完全な痛悔」と言い、神への愛のためよりも罪の醜さを恥じたり、神の罰を恐れて罪を忌みきらうことを「不完全な痛悔」と言います。

私はこういうことを信じません。私たちの罪が赦されるのは、キリストが流された血潮であり、罪を痛悔したり、再び罪を犯さないと誓うことではありません。彼らが言う「償い」も不要です。なぜなら、Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です」と書かれているからです。ヘブル9章と10章の「キリストがただ一度で永遠の贖いを成し遂げられた」という意味は、私たちの過去、現在、将来、犯すであろう罪までも、赦されているという意味です。だから、罪の告白だけで良いのです。それでも、私たちは罪を犯すときがあります。そんなときはどうしたら良いのでしょう?Ⅰヨハネ2:1「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」アーメン。司教や司祭ではなく、私たちの罪のいけにえとなられた大祭司イエス様が、「私に免じて赦してやってください」と神のみ前で弁護してくださるのです。

3.罪を捨て去る

 体や魂に染み込んでいて常習的に犯してしまう罪に対してはどうしたら良いでしょうか?「罪を捨て去る」は、罪を放棄するとも言います。英語では、renounceと言います。コロサイ3:5「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」「殺してしまいなさい」とは、ものすごい強い表現です。原文も「死なせる、殺す」という意味のことばです。おそらくこのことは、主体的に十字架につけるということではないかと思います。さらに、コロサイ3:8「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」とあります。「捨ててしまいなさい」は、原文では「取り去る、脱ぐ」という意味のことばです。まるで、罪がべったりついていて、それを告白して、取り去るというようなイメージがあります。私たちはこれらを「肉だからしょうがない」と片付けてはいけません。なぜなら、これらを常習的に行っている人は、神の御国に入ることができないかもしれないからです。罪であるならば、憎まなければなりません。なぜなら、神さまは罪を憎まれるからです。

 エリヤハウスというインナーヒーリング(内なる癒し)を行うグループがあります。私も以前はそこに属していて、たくさんの学びをしました。実際に、癒しを受けました。心の癒しのために5つのステップがあります。①認識②悔い改め③赦し④十字架につけて死なす⑤新しい命が与えられるように祈ります。きょうのテーマと関係があるのは、悔い改めと十字架につけて死なすです。エリヤハウスは樹木のイラストを使います。実とは悪い実です。でもその原因は、根にあります。どんな悪い根があるか、実とたどって、さがします。多くの場合、幼いときに両親を怒ってさばいたというものが苦い根になっています。そのことを悔い改め、両親を赦します。その次に、木の幹という構造的な罪を取扱います。その人の習慣、性格になっています。それらの古い構造を捨てて、新しい構造と入れ替えていきます。自分の罪を認めて、それを悔い改めるとは、とてもしんどい作業です。でも、そうしないと人は変わりません。多くの人たちは、「何も問題ありません」と否認しています。怒りや恐れ、拒絶などの悪い実がたくさん見えるのに、認めようとしません。まるで難攻不落の要塞のように守っています。そうではなく、心を開いて、神さまに点検していただく必要があります。詩篇139:23,24「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」アーメン。私も2019年に2回、頭の手術しましたが、CTスキャンを何度も撮りました。その後、手術台にのって、治療してもらいました。手術はいたいですが、そのことによって完全に癒されます。自分を点検し、癒しを受ける時を持ちましょう。

 第二と第三のポイントはクリスチャンになってからのことです。これを神学的には、聖化、きよめられると言います。完全にきよめられるのは、天国に行ってからですが、この地上でも「栄光から栄光へと主の御姿に変えられて行く」のです。イエス様を信じたのに、未信者のときと全く変わらないということはありえません。そうであるなら、霊的に新しく生まれたという説得力がありません。そのためには、「罪の悔い改め」や「罪を捨て去る」ということが嫌であっても、必要だということです。でも、律法主義的になるとかえって逆効果になります。せっかく、恵みによって救われたのに、私たちのがんばり、すなわち肉で仕上げることになるからです。肉でも良い肉があります。それは、神さまにたよらないで、自分の力や努力でやることです。そうなると、イエス様の時代の律法学者やパリサイ人のようになります。彼らは、外側はきよくて正しい人でありました。しかし、その内側は貪欲や汚れたものでいっぱいでした。私たちはきよさを目指しても、彼らのように外側だけのきよさ、つまり偽善者になってはいけません。「きよめられる」と言うように、自分できよめるのではありません。これは受身形であり、聖霊によって、恵みによってきよめられるということです。ただし、私たちが行う面もあるということです。一番のネックは自分に問題があることを認めない、否認することです。自分に罪や汚れがあると、崩壊してしまう恐れがあるので、多くの人は問題があってもそれを隠したがります。一番重要なことは、神さまの前にオープンになることです。神さまの前にそれらを差し出すなら、神さまご自身がそれらをきよめてくださるからです。

 エペソ5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」2000年当初は、石原師による「解放のキャンプ」が2泊3日くらいで開かれました。亀有ゴスペルクワイアで救われた人たちも多数、出席しました。最初はとても効果が現れましたが、途中から、キャンプに出たことによる弊害が出てきました。なぜなら、短期間で内側の問題をさらけ出すので、キャンプが終わっても、傷口が開きぱなしで帰って来ます。手術で言うなら、切り開いたのは良いのですが、ちゃんと縫っていない状態です。そのため、今はあまり、集中コース的なものをやっていません。どちらかと言うと、漢方薬みたいで、じわりじわりと効いて来るようになっています。でも、「鉄は熱いうちに打て」とあるように、洗礼を受けたのちは、その人を縛っている罪を告白して、軽やかな信仰生活を送ってもらいたいものです。イエス様を信じて洗礼を受けることは確かに恵みです。個々の罪を告白する必要は全くありません。でも、救われて新しく生まれ変わってから、ゾンビのように古い人がつきまとうなら問題です。標準的なクリスチャンとは、古い人に死んでいることを認め、さらには肉からも解放されることです。そのためには、どうしても自分の中に残っている罪を告白し、その罪を捨て去るということが必要です。その後、聖霊に満たされ、みことばに満たされて健全なクリスチャンとして成長するのです。悔い改めた後の、健全な信仰者のスタイルとはどんな姿なのでしょう?それは「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について、感謝する(Ⅰテサロニケ5:16-18)」生活です。