2020.8.9「御国の大使館 Ⅱコリント5:15-21」

私が若い頃、「大使館」というクラブがありました。入ったことはありませんが、「シャレた名前だなー」と思いました。大使館というのは、どの国であろうと、そこに治外法権的な自国の領域があるということです。また、大使というのは、その国を代表しており、特別な権威を持っています。クリスチャンは御国の大使であり、教会は御国の大使館ということができます。大使館に小さい、大きいは関係がありません。そういう意味で、教会も同じです。

1.キリストの大使

 Ⅱコリント5:20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」このところに、「キリストの使節」と書いてありますが、英語の聖書は、ambassadorとなっています。ambassadorは、大使、全権大使、使節、代理人という意味があります。もともとは、ギリシャ語の「年長者、長老」から来ています。簡単になれそうもない気がしますが、クリスチャンは「キリストの大使」なのです。その意味は、キリストを代表して、キリストの役割を果たすということです。でも、どんなことをするのでしょう?Ⅱコリント5:18-19これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」まず、第一に私たちが知るべきことは、神さまがキリストにあって、人類と和解されたということです。キリストが十字架ですべての罪を贖ってくださったので、もう私たちを罰しないということです。このところには「違反行為の責めを人々に負わせない」と書かれています。旧約聖書には約250の律法が記されていると聞いたことがあります。ユダヤ教は613あると言います。でも、神さまはキリストにあって、すべての罪を赦したので、あなたを咎めないというのです。第二は、神さまは和解の手を人類に差し伸べておられるということです。パウロは「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです」と言っています。あの神さまが、「お願いだから、和解を受け入れてください」と懇願しておられるのです。第三は、私たちクリスチャンが、神さまから和解を委ねられているということです。「神さまもそういっておられますから、どうか神の和解を受け入れてください」と願うのです。

 教会では「伝道」ということばを良く使います。伝道というのは、「未信者はみな神さまから離れた罪人である」という前提があります。昔、日本に来た宣教師が引用するみことばが2つあります。ローマ3:23 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」です。もう1つは、ヘブル9:27「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」です。しかし、それらの聖句は句読点なので、文章の終わりではありません。続きがあります。ローマ3:23の続き24節は、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」となっています。救いは恵みであるというすばらしいみことばです。一方、ヘブル9:27の続き、28節は「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」キリストがその罪を負われるために、一度、ご自身をささげられました。二度目は、人々の救いを完成するために世の終わり来られるということです。これも、救いが恵みであることを書いています。しかし、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」「死後にさばきを受ける」で、伝道をはじめると、とても恐ろしいものになります。そして、「罪を悔い改めて、キリストを信じなさい」と勧めます。どんな罪を悔い改めるのでしょうか?これまで犯した罪の1つ1つでしょうか?違います。私たちの罪はすべて十字架で解決済みであるということです。私たちに必要なのは、キリストにあって成し遂げられた贖いをいただくということです。では、「罪を悔い改める」とはどういう意味でしょう?「私は神さまを信じないで、自分の行いで神に近づこうとやってきました。これから、自分の行いではなく、キリストにあってなされた救いを受け入れます」ということです。簡単に言うと、「自分の的外れなことを止めて、キリストに信頼する」ということです。保守的な教会は、今まで犯した罪を「ごめんなさい」とお詫びしてから、イエス様を信じるというふうに理解しています。それは、間違いです。もちろん、「ごめんなさい」と言っても構いません。でも、罪を懺悔して、涙を流さなくても、キリストの救いを受けるだけで良いのです。

 言いかえると伝道は「罪の問題は、既に解決済み」からはじめるということです。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、ヨハネ3章16節と並んで、救いのみとばとして有名です。「私はキリストにあって新しく造られた存在なんだ。ハレルヤ!アーメン」と言うでしょう。それでも悪くはありませんが、5章17節の前後、何を言っているのか知る必要があります。「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」は、一体だれに対して語られていることばなのでしょう?Ⅱコリント5:15、16「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」パウロは、このみことばをすべての人に言っているのです。つまり、イエス様がすべての人のために、死なれたということです。ローマ3:25「その血による、信仰による、なだめの供え物」、Ⅰヨハネ2:2「私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく、世全体のためのなだめの供え物」とあります。このことは、父なる神さまとイエス様との間でなされたことであり、私たちは全く関与していません。言いかえると、これが、神さまから人類に対して差し伸べられた「神からの和解」であります。この次に重要なのは、パウロは「すべての人を、キリストを通して見ている」ということです。人間的な標準というのは、「この人は立派で救われる可能性がある」とか「この人は悪いことをしているので、救われそうもない」と見ることです。パウロはかつてそのように見ていたかもしれません。でも、パウロは「キリストがすべての人のために死なれた。だれでも、キリストにあるなら新しく造られたものである」と言っているのです。つまり、キリストを通して見るなら、「だれでも救われる候補者なんだ」ということです。候補者は英語でcandidateということばです。これは、救いの「候補者、志願者」であり、「多分…救われるかも」という意味です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」とは、自分のことではなく、自分が出会う世の中の人、全部という意味です。

 話が戻りますが、私たちは御国の大使であります。正確には全権大使という意味であり、御国の代表であり、御国の権威を帯びているということです。あなたは伝道者や牧師を連れてこなくても良いのです。あなたが遣わされた家庭、あなたが遣わされた会社、学校、地域社会、どこでもあなたが御国の大使なのです。あなたは特別なメガネをかけています。キリストの贖いを通して、人を見るメガネです。今までは、身なりが立派だとか、行ないや職歴学歴で見て来たかもしれません。自分が正しいと思って、自分を誇っている人ほど、神の国から遠いことを知るべきです。イエス様は「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われました。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者こそが、神の国に近いのです。イエス様は取税人のザアカイに「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と呼びかけました。人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやきました。私たちは町の有力者、影響力のある人、能力や賜物が豊富で、すぐにでも役立ちそうな人を捜しがちです。でも、意外に、そういう人は福音に見向きもしません。「私には罪などありません。なんでキリストが私のために死なれたのか分かりません」と言うのです。イエス様は「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい」(ルカ14:21)と言われました。なぜなら、予め招待されていた人たちが来なかったからです。私たちはこの世の尺度を捨てなければ、御国の大使になることはできません。「立派だとか、立派でない」「この人は正しい、この人は罪がある」「この人は能力がある、この人はどうでもない」という尺度を捨てましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなった」のです。私も「この世の取るに足りない者や見下されている者」でありました。しかし、神さまは「有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれた」のです(Ⅰコリント1:28)。救いは神からの恵みです。だれも、誇ることのないためです。あの神さまが、頭を下げて、「あなたも救われてください」と懇願しておられます。私たちも御国の大使として、「あなたも救われてください」と懇願するのです。

2.御国の大使館

 聖書に大使館ということばがあるのでしょうか?正確にはありませんが、そのことを示唆する聖書箇所はあります。マタイ16:18,19「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」このところに、「教会」「ハデスの門」「天の御国のかぎ」と3つのことばが出てきます。私は教会こそが、「御国の大使館」にあたるのではないかと思います。クリスチャンは個人個人でこの世に派遣されている存在ではありません。ある国の大使が、ある国の大使館に属しているように、私たちも御国の大使館に属している必要があります。教会こそが、御国の大使館であります。大使館がその国の権威を持っているように、教会も御国の権威を帯びて、この地上に配置されているはずです。ここには「天の御国のかぎ」と書かれていますが、このかぎは私たちがよく見るかぎとは違います。当時のかぎは、鎖状のものであり、「つないだり、解いたり」したようです。「つなぐ」は、bindですが、ギリシャ語は「ディオゥ」であり、「鎖につなぐ」「縛る」「禁じる」という意味があります。また、「解く」は、looseですが、ギリシャ語は「リューオゥ」であり、「ほどく」「解き放つ」「釈放する」という意味があります。まさしく、そこには法的な権威がゆだねられているということです。それに対して、「ハデスの門」も打ち勝てないということです。同じようなことばが、マタイ18章にもありました。マタイ18:18「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

 ということは、教会は私たちが考えている以上に、神からの権威が与えられているということです。でも、日本の教会は建物も小さくて、集まっている人数も数十名です。日本の教会の礼拝平均は40名と言われていますので、弱小と言わざるをえません。海外は千名以上の教会がたくさんありますが、日本だと肩身の狭い思いをしてしまいます。端的に言いますと、日本における御国の大使館は小さくて、みすぼらしいということでしょうか?日本にある大使館を見ますと、アメリカ大使館は超一等地にあります。かなり前に、インドネシアの大使館に行ったことがありますが、こじんまりしていました。テレビでイスラエルの大使館が放映されていましたが、結構、広い敷地を有しています。いろんな調度品もあつらえており、「それなりに豊かだなー」と思いました。大使館は外交使節が外交のために使う施設です。いわゆる治外法権とか、外交官特権が適用されます。領事館というのもありますが、相手先の国内に居る自国民の保護や通商関係の援助、査証(ビザ)の発行のための事務所で、これは外交のためでなくあくまでも自国民のための機関です。戦時中、杉原千畝という人が、ユダヤ人のために6,000人のビザを発給してあげました。天国ビザではありませんが、キリストの教会は信じる人にバプテスマ(洗礼)を授けます。私は大川牧師の真似をして「子よ、あなたの罪は赦されました。見よ、私は世の終わりまで共にいます」と宣言します。しかし、人の罪をそんなに簡単に赦して良いのでしょうか?でも、それは聖書の約束に従って、宣言していることであり、私が勝手にやっているわけではありません。マタイ16章の「つなりだり、解く」というのは、そういう権威を表していると思います。このような権威は、区役所でも国でも持っていません。キリストの教会だけが持っている権威です。ハレルヤ!中世の頃は「破門」というのがありました。一国の国王でも、教会から破門されると、大変なことになります。破門されたなら、天国に入れないのですから一大事です。でも、フランスのある国王は、開き直って、「そんなの無効だ」と他の教皇を立てたときもありました。恥ずかしながら、歴史の中で行き過ぎたときも多々ありました。しかし、イエス・キリストが教会に権威を与えていることは確かです。マタイ2818,19「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」とイエス様がおっしゃったからです。つまり、教会は人間の集まりでありながらも、単なる人間の集まりではないということです。

 最近、日本では教会員が減ったために、教会を閉鎖するところも増えてきました。地方では、牧師も信徒も高齢化して、きびしくなっている教会もたくさんあります。そのため、一人の牧師が午前中はこちらの教会、午後はあちらの教会と、いくつかの教会を兼牧しているようです。そうなるとますます、「御国の大使館」という教会のイメージが低くなります。その町や市に教会がないと、教会に行きたくても行かれません。そうなると、救われる人も減って来ます。今から40,50年前から、「日本教会成長研修所」というスローガンで、がんばってきました。しかし、最近は英語の呼び名をやめて、JCGIみたいに頭文字だけにしています。これはアメリカから来たもので、リサーチ、戦略、ビジョン、方策、マネージメント、ネットワーク…企業を経営するように、教会を運営していこうというイメージがありました。はっきり言って、アメリカの教会の方法論を直輸入したところがあります。「海外で成功したから、日本にも当てはまるはずだ」とがんばってきました。私もアメリカ、韓国、シンガポール、インドネシア、アルゼンチン…いろいろ学んできました。しかし、今、振り返ってみると、「聖書が言っていないことを大真面目にやってきたなー」と反省しています。はっきり言って、聖書は教会が成長することを言っていません。教会は御国における手段であり、教会自体が大きくなることではありません。教会はこの地上において、キリストの働きを継続し、御国を拡大するために存在していると信じます。まさしく、マタイ6章の「御名があがめられ、 御国がこの地に来るように」に働くためにあるのです。たとえ人数が多くても、自己充足的であり、教会の役目を果たしていないなら問題です。極端に言うと、小さくても、御国の大使館、あるいは領事館としてその務めを果たしていれば良いのです。

 私は教会がなくても良いと言っているのではありません。教会は御国の大使である私たちが集まる大使館です。時代が変わろうと、聖書が何と言っているか神からの指針を示す必要があります。教会はこの世の暗闇を照らす、一筋の光、灯台であります。牧師は「灯台守り」です。私は自分を「教会守り」と思っていましたが、「灯台守り」です。この世の倫理、道徳は変わります。ひどい場合は、キリストによる救いすらゆがめられることもあるでしょう。教会は多数決ではありません。みんなが「その教理を信じるからそうだ」という訳にはいきません。聖書が何と言っているか、真理のみことばをゆがめてはいけません。パウロは「教会は真理の柱また土台です」(Ⅰテモテ3:15)と言いました。また、テモテに対しては「真理のみことばをまっすぐ解き明かす、恥じることのない働き人として、自分をささげるように励みなさい」(Ⅱテモテ2:15)と命じました。教会の主な使命とは何でしょうか?それは第一ポイントでもあげましたように、キリストにある和解をもたらすように働くことです。私たちには和解の福音がゆだねられています。この和解は、キリストによって既に完成したものであり、人はただ受け取れば良い状態になっているのです。なぜなら、神はキリストにあって違反行為の責めを負わせないとおっしゃっているからです。もう、既に、神からの和解の手は地上に向けられているのです。私たちは神からの和解を受け取れば良いのです。何か良い行いをせよとか、犯した罪を悔い改めよとは言われていません。教会は信仰義認と口では言いながら、奉仕や献金、正しい信仰生活を言ってきました。しかし、それらは信じた人がキリストに留まるときに、自然に与えられる実なのです。キリストの完全な和解に何かを付け足してはいけません。教会が、クリスチャンが第一になすべきことは「私たちは、キリストに変わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れてください」と願うことです。

 パウロは私たちがただ受け取るだけで救われる根拠をこのように述べています。Ⅱコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」アーメン。パウロは、このところでキリストが私たちの罪を負われたとは言っていません。なんと、キリストが私たちの代わりに罪そのものとなったと言っています。それは、私たちがキリストにあって神の義となるためです。このことばは、私たちの救われるための努力や行いを一切無効にします。私たちが何かを加えるなら、キリストの完全な救いを侮辱することになります。パウロはさらに私たちにお願いしています。Ⅱコリント6:1-2「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』」パウロは、キリストの十字架が無駄にならないようにと願っています。父なる神さまは、「キリストの十字架以外に救いの手立てはない。これが唯一、他にはない」とおっしゃっています。一度、神さまの和解の手は地上に向けられました。キリストが世の終わりに来るそのときまで、和解の手は差し伸べられたままです。一人でも多くの人たちが、教会という大使館に入って御国の籍をただきますように。教会に来られない人たちのために、全権大使である私たちがあらゆるところに遣わされていることを忘れてはいけません。