2020.7.26「交わりとしての祈り 詩篇16:5-11」

一般的に「お祈り」というと、自分の願いをベラベラと神さまの前に求めると思われるかもしれません。確かに幼子はそうかもしれません。もし、自分の願いだけを言って、「はい、おしまい」であるなら、偶像の神と違いありません。私たちの神さまは父なる神さまであり、私たちと親しく交わりたいと願っておられます。ダビデは詩篇16篇で、神さまとの交わりがいかにすばらしいか告白しています。キリスト教は禁欲的だと思われがちですが、そうではありません。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」アーメン。

1.交わりの祈りとは

 聖歌254番に「楽しき祈りよ」という賛美があります。でも、お祈りが本当に楽しいのでしょうか?私は洗礼を受けてから、毎朝の早天祈祷会、水曜日の祈祷会に出席しました。声を出して、一方的にまくしたてる祈りでした。15分ぶっ続けて祈った後、「祈った」という感じがしました。聖書学院に入学すると、バウンズの『祈りによる力』とか、『ブレーナードの日記』を読まされました。そして、もっと長時間、祈らなければならないことを知りました。どこかにこもって、30分間祈ると、たくさん祈ったという感じがしました。でも、祈りが楽しいと思ったことはほとんどありませんでした。愛知県民の森で、リバイバル聖会がありました。1月の寒い朝、山の中に入って、朝5時半から1時間余り、震えながら祈りました。7時くらいになると、白々と夜が明けて来ます。その時は、祈りが格闘技のように思えました。でも、それが本当の祈りなら、「祈りは大変だな、祈りたくないなー」と思うでしょう。もし、好きな人とデートして、「あなたと1時間も一生懸命お話ししました。大したもんでしょう。」と言ったらどうなるでしょう?「私と一緒にいるのがそんなに苦痛なの?」と一発ほほを叩かれるでしょう。しかし、本当に祈りが楽しいでしょうか?「正直に手をあげてください」とは申しませんが、多くの人たちは、祈る前に、「祈るぞ!」という覚悟が必要かもしれません。もし、祈りが本当に楽しければ、そんなに気負う必要はありません。毎回、そうだったら、祈りは苦痛であって、楽しいとは言えないでしょう。では、どうしたら祈りが楽しくなるのでしょうか?

 私たちは祈りとは神さまとの「親しい交わり」であることを第一に知る必要があります。Ⅰヨハネ1:3「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。交わりは、ギリシャ語ではコイノーニアと言います。コイノーニアは「親密な関係」という意味です。英語では、intimacyです。これは異性とのねんごろな関係をも意味することばです。でも、神さまとそのような親しい交わりが可能なのでしょうか?私たちは偉い人と会うとき、前もってアポイントメントを取る必要があります。どこかの国の大統領と気軽に会って話すことは不可能です。みなさんも、誰からかしょっちゅう話しかけられたり、訪問されたらどう思うでしょう?テレビに出てくる有名人だったらともかく、好きでもない人だったら、うとましく思うでしょう。私たちが交わるお方は、天地を創られた主の主、王の王であります。そんなお方と直接、お話しできるなんてまず、ありえません。大統領は「ホットライン」というのを持っています。これは、「いつも通じている通信線」の意味で、かつては、ホワイトハウスとクレムリンの間など2ヵ国政府間の直通通信線をさしたそうです。神さまといつも通じている通信線こそ、祈りであります。しかし、この回線を持つためには条件があります。それは、イエス・キリストを救い主として信じている人だけのものです。そうでないと、罪が邪魔して、通信は不可能です。私たちクリスチャンは、キリストの血によっていつでも御座に近づくことができるのです。ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。イエス様は「私の名前によって求めなさい」(ヨハネ15:7)と言われました。呼びかけは、「天のお父様」でも良いし、「イエス様」でも構いません。最後に、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と言いますが、そう言わないときもあります。もし、ずっと会話が続いているなら、「イエス様そうですよね」で結構です。でも、本当に困った時とか、重要な案件の場合は、手を組んで祈る必要があるでしょう。普通の祈りは、目はつぶっても、明けても構いません。座っても、立っても、歩いても可能です。ユダヤ人は手をあげて祈りました。イスラム教徒のように、床にべたーっとひれ伏して祈るのは、年に一回くらいあるかないかです。椅子やベッドにひざまずくことはあります。

 ことばはどうでしょう?エペソ6:18「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」御霊によって祈るとは、御霊に導かれるまま祈るということです。聖公会は16世紀、「祈祷書」というものを作りました。専門家が考えたとても美しい文章の祈りです。その頃、国から「信者はこれで祈るように」というおふれが出ました。ジョン・バニヤンは「祈りは聖霊によって祈るべきだ」と反対しました。さらに、彼は勝手に礼拝を持ったため、12年間も捕えられました。現在、「祈りの手引き」みたいなのが、手に入るかもしれません。私はそういう形式ばったものが大嫌いです。だから、式文も使いません。祈りとは聖霊によって導かれるものだと信じているからです。ローマ8:26「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」「私はうまく祈れませんけど…」祈り始めると、それが祈りになります。最も簡単な祈りは、今の心の状況を報告することから初めたら良いです。感謝することがあれば感謝し、悩み事があれば、悩みを話します。美辞麗句を並べた宗教的な祈りにならないということです。イエス様は福音書で、パリサイ人の祈りをあげています。彼は「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:11,12)と祈りました。彼の祈りは、自慢話であって、祈りではありません。自分を卑下しなくても結構ですが、ありのままをお話しすることです。「ありのまま」これが祈りを始める上で最も重要なことです。なぜなら、私たちはイエス様によってどんな罪をも赦され、神さまに受け入れられているからです。泥んこのまま飛び込んでも、良いのです。どんな罪でも、キリストの血と聖霊のきよい水によってきよめられるからです。お祈りは私たちを愛しておられる神さまと会話をすることです。祈りで最も重要なことは、イエス様の贖いによって、いつでも神さまとの会話ができるという特権です。問題は私たちがこの世のことで思いわずらっていることです。向こうの回線はいつでも開いているのですが、こっちはbusyなのです。現代人はテレビやスマホなどに注意が向いています。静まって、神さまの御声に耳を傾け、祈るということをまずしません。人間の情報はいわば水平ですが、神さまからの情報は垂直です。この世にはない情報を与えてくださいます。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」私たちと神さまとの回線はいつもオープンです。天地を創られた崇高なる神さまが私たちと交わってくださると言われるのですから、このような特権を無駄にしてはいけません。

 

2.交わりの祈りの効果

 交わりの祈りというのは、こちらから一方的にことばをまくしたてる祈りではありません。詩篇には「セラ」ということばがよく出てきます。セラは「小休止」英語では、pauseです。Pauseは「休止する」の他に、「…について思案する」という意味もあります。つまり、祈りの途中、少し休んで、神さまが何とおしゃっておられるか時間を与えるということです。祈りが、公の祈りであるなら、間断なく祈る必要があるでしょう。でも、個人の交わりとしての祈りなら、途中、「神さまどうでしょうか?」とお聞きしても構いません。むしろ、そちらの方が、人格と人格を交わるゆえで当たり前だと思います。もし、友人が一方的に自分のことだけを話して、こちらに話す時間を与えないのなら、「なんだ、こいつ?」と思うでしょう。一般の会話でも、ことばのキャッチボールをします。同じように、神さまが私たちに語りかけてくださるのを、期待すべきでありましょう。ただ、どういう声で聞こえるかが問題です。神さまの声が肉声のようにはっきり聞こえるのは滅多にありません。私もこれまで2,3回、そのような経験がありました。でも、普通は思いの中に聞こえてきます。私たちの思いは、ラジオのチューナのようなものです。中学生の頃、夜中、受験勉強の合間にラジオ聞きました。すると、中国かソ連か分かりませんが、変な放送が海を越えてやってきました。それと同じ原理です。私たちは霊的存在なので、自分の声、人の声、悪魔の声、そして神さまの声が聞こえてきます。そのため、私たちはどれが本当に神さまからの声なのか周波数を合わせて聞く必要があります。ヨハネ10章には、イエス様が良い羊飼いであると書かれています。ヨハネ10:3-5「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」ですから、普段からイエス様と交わって、これがイエス様の声だと慣れ親しんでおく必要があります。そうすると、イエス様の声がわかるようになります。

 さて、一方的に祈る祈りと比べ、交わりとしての祈りはどのような効果を私たちにもたらすのでしょうか?第一は、イエス様の思いを知ることができます。もし、祈りがこちらから一方的なものであったら、神さまのみこころを知ることはできません。でも、向こうから話しかけてくれたらどうでしょう。ヨハネ16:14-15「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」聖霊は、交わりの霊ですから、イエス様や父なる神のみこころを私たちに知らせてくださいます。それが隠された知恵であったり、未来のことであったりします。しかし、多くの場合は、「それで良い」という是認です。でも、ある場合は「そうでなくて、こうだよ」という修正や訂正であるときもあります。でも、頭ごなしに「この馬鹿、何やっているんだ!」と怒ることはありません。私はさんざん、そういうことばを浴びせかけられて育ったので、神さまはとても厳めしい方だと思っていました。でも、そうではありません。三位一体の神さまは、善であり、愛であり、とても寛容なお方です。私たちが神さまと交わるなら、神さまご自身のみこころを知ることができます。もちろん、私たちは聖書を読む必要があります。みことばは書かれた神のことばだからです。でも、神さまと交わると、聖書のことばを含めて、今、私に必要なことを教えてくださいます。

 第二は、私たちが何を願えば良いか、祈りを正してくださいます。私の祈りはへたな鉄砲数打てば当たる式の祈りでした。なぜなら、こちらの要求をただまくしたてる祈りだったからです。昔は、チョーヨンギ牧師の『三拍子の祝福』『第四次元』とか、信仰の原理を用いて祈りました。つまり、このように祈ればかなえられる式のやり方で一生懸命祈りました。そのやり方で祈ったのに、どうして答えられなかったのか不思議でした。つまり、原理原則にのっとって祈っていたので、神さまのみこころはお構いなしでした。ただ、こちらの要求を押し付けたという祈りでした。もし、神さまの方から、「あなたはこれを求めなさい。かなえてあげるから」と教えてくれたら、空虚な祈りをする必要はありません。Ⅰヨハネ5:14「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」インドネシアの話です。ある少年は学校まで、2時間も歩かなければなりませんでした。お父さんは子どもに「何か欲しいものあるか?買ってあげるから」と言いました。子どもは「新しいゲーム機買って」と言いました。お父さんは、「そうかもしれないけど、もっと必要なものがあるだろう」と言いました。あれやこれや話しているうちに、子どもは「自転車」と言いました。お父さんは「そうだろう」と喜んで答えました。実は、すでにマウンティンバイクを購入して、納屋に隠してあったのです。お父さんは信仰を与えるために、「三日後、買ってあげるから待っていろ」と言いました。父なる神さまも私たちの願いを聞きながら、もっと良いものを与えたいので「これを求めなさい」とおっしゃっているのです。私たちが交わりの祈りをしていくうちに、「これを求めなさい」と私たちの祈りを修正してくださるのです。

 第三は、私たちが神さまと交わると私たち自身が変えられていきます。Ⅱコリント3:17-18「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」モーセが祈るために、主の山に登りました。モーセが帰ってくると、顔の皮膚が輝いていました。しかし、時間がたつと、輝きが消えて行きました。そのため、モーセは消えゆく様を人々に見せないために、顔におおいをかけました。再び、主の山に登って祈って戻ると顔の皮膚が輝きました。まもなく、栄光が陰るので、おおいをかけました。モーセは、そのことを繰り返したのです。私たちはそうではありません。逆戻りすることなく、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行くのです。なぜなら、モーセの場合は外側から変えられたものであり一時的なものでした。ところが、私たちは内に住んでおられる御霊が、内側から私たちを変えてくださるので永続的なのです。重要なことは主と交わるということです。私はこれまで聖霊の賜物が与えられること、主のみわざが起ること、人々が集まり教会が大きくなることを願い求めてきました。しかし、主ご自身を、あまり求めてきませんでした。たくさんの贈り物を求めてきたけれど、贈り物をくださるお方を求めてきませんでした。あるとき、お父さんが長い出張から帰ってきました。子どもたちが「お父さんお帰り」と玄関まで出迎えました。お父さんが「ごめん、今回はおみやげ買う時間なかったんだ」と言いました。子どもたちは「なあんだ」とがっかりして、部屋に戻りました。そうじゃないでしょう。お父さんが無事に帰って来たことが何よりもうれしいことではないでしょうか?私たちも同じように、神さまの御手ばかり求めて、神さまの御顔を求めて来ないならまことに残念です。神さまの御顔とは、神さまの臨在であり、これがあれば何でもかないます。病気もいやされ、奇跡も起こり、大勢の人々が救われます。何よりも、私たちが主の栄光を運ぶ器になることを神さまは望んでおられるからです。

 第四は、神さまは私たちに責任を与えてくださいます。責任とは、「あなたはこのために祈りなさい」という任務みたいなものです。これを私たちは「とりなしの祈り」と呼んでいます。重要なのはとりなしの祈りは、交わりの祈りの後に来るものだということです。真面目なクリスチャンは、「自分のことよりも、まず他者の必要のために祈らなければならない」と言います。そして、祈りの課題をあげて、一生懸命、声を出して祈ります。しばらくすると、その人自身が気づくはずです。「結構大変だなー、エネルギー消耗するなー」と思います。そうすると、祈りがだんだん辛くなります。どこかの宗教のようにお題目を並べるような祈りになります。ちっとも楽しくありません。「いや、祈りは、元来、楽しくないものなんだ」と言うかもしれません。私はそういう祈りをしなくなりました。そのため、祈りの時間は他の先生方よりも、少ないかもしれません。でも、私は日中も祈っています。歩きながら祈っています。反省点は、「もっと、とりなしの祈りをすべきだ」と言うことは分かっています。でも、私が発見したのは、まず、自分のために祈ることが重要だと言うことです。自分が満たされたら、今度は他者のために祈れるということを発見しました。おそらく、神さまと交わりの祈りをしていたなら、神さまの方から「あなたはこのことのために祈れ」とおっしゃってくださるに違いありません。とりなしの祈りで有名の箇所は、創世記18章でしょう。主はロトが住んでいるソドムとゴモラを火で焼き滅ぼしたくありませんでした。それで、御使いたちと一緒に、アブラハムのところを訪れました。かつて主は、アブラハムを通して、国々を祝福すると約束されました。だから、主はソドムとゴモラのことをお話ししました。すると、アブラハムは「もしや、その町に50人の正しい者がいるかもしれません」と主に談判しました。アブラハムは心配になり、「40人いたら、30人いたら、20人いたら、最後に10人いたら滅ぼさないでください」とお願いしました。主はアブラハムにとりなしてほしかったのです。だから、神の友である、アブラハムに前もって告げたのです。このように主から信頼され、「このために祈りなさい」と任務を与えられたら幸いです。

 きょうは交わりの祈りについて学びました。ある人が、「祈りは呼吸のようなものであり、やめると霊的に窒息してしまう」と言いました。私たちはこの世で生きているので、いろんな問題や悩みに出くわします。それは生きている証拠かもしれません。しかし、私たちクリスチャンには上からの解決が常に与えられています。ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」パウロは「何も思い煩わないで」と言っていますが、誰でも思いわずらうことがあるということです。神さまはあらゆることをご存じです。その全知全能の神さまが私たちに願っていることがあります。「感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と言われています。父なる神さまは、あえて、あなたから願い事を話していただきたいのです。それは、まるで子どもが両親に願い事を伝えるのと同じです。私たちが思い煩っていると、心と思いがダメになります。そのために、神さまの導きや知恵を得られないのです。昔は風呂敷というのがありましたが、問題や悩みを風呂敷ごと、神さまの前に投げ出してはいけません。1つ1つこうですと、祈りと願いをもって神さまに知っていただくのです。しかも、「感謝をもって」と言われています。問題が解決する前から感謝するのですからこれは信仰の祈りです。思い煩いは「心が引き裂かれる」という意味がありますが、何よりも心が大切です。祈った後どうなるでしょう?「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」そうなれば、神さまの働きをよりはっきりとキャッチすることができ、信仰によって歩むことが可能になります。