2020.7.12「誇りを持て Ⅰテサロニケ2:19,20」

 誇りは、英語でprideと言いますが、悪い意味と良い意味があります。悪い意味では、「高ぶり」とか「高慢」と言われ、キリスト教会では最も嫌われる罪の1つであります。クリスチャンは謙遜でなければならないと言われます。でも、正しい意味でのpride、誇りは持つべきであろうと思います。なぜなら、もし正しい誇りを持っているならば、罪を犯さないで正しい道を歩むことができるからです。私たちはキリストを信じて、神の子どもとされました。ですから、正しい誇りを持って生きることができるのです。

1.間違った誇り

 聖書から間違った誇りについて語るなら、事欠くことはないでしょう。箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」とあるからです。サタンが堕落したのは高慢からでした。イザヤ書14章にありますが、彼は心の中で「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」と言いました(イザヤ14:13,14)。そのため、サタンはよみに落とされ、穴の底に落とされたのです。サタンは私たち人間を高慢にさせて、自分が堕落した同じ道を歩ませようと絶えず誘惑しています。ネブカデネザルはユダを滅ぼしたバビロンの王様です。彼はあるとき不思議な夢を見ました。一本の木が成長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てからもそれ見ることができました。葉は美しく、実も豊かで、その木の下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿っていました。ダニエルがその夢を解き明かし、へりくだるように王様に勧めました。その時から、12か月経ちました。彼は王の宮殿を歩いていたとき、こう言いました。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」そう言ったとたん、あの時の夢が実現しました。彼は人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、その体は天の露にぬれて、ついに彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになりました。まるでディズニーの『美女と野獣』です。しかし、定めの期間、7年が終わったとき、彼に理性が戻ってきて、主をほめたたえました。その後、彼の王としての威光と輝きが戻って来ました。ネブカデネザル王は、天の王を賛美し、あががめつつ、「高ぶって歩む者をへりくだったものとされる」と告白しました。

 だれが王様にするのでしょうか?それは主なる神さまです。詩篇75:6,7「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」私たちは自分で自分を高めてはいけません。神さまがご自分の栄光のために、その人を用いたいので、権威や力を与えていると考えるべきです。だからローマ13:1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」弟子たちは「偉くなって、人の先に立ちたい」と願いました。イエス様は「偉くなりたいこと自体は、悪くはない」とおっしゃいました。でも、その動機が問題です。そこに、「高ぶり」や「高慢」が隠されている場合があるからです。偉くなったら、人々からちやほやされたり、いろんな特権が手に入ります。人々を自分の思う通りに操れるというのも魅力でしょう。典型的な例は、歴代の韓国の大統領の哀れな末路であります。日本でも、ある都知事はそのような醜態をさらしたことがありました。アメリカばかりでなく、日本の教会の大教会の牧師も、高ぶりから破滅を招いた例はたくさんあります。権威や権力は、神から与えられたものであり、人のために仕えるためにあるのです。最初はそのことを覚えていても、だんだん麻痺して、「俺だ、俺がやったんだ」と誇るようになります。

 でも、劣等感から来るプライドというものがあります。特に男性は自分を大きく見せようとする虚栄心があります。実質はたいしたことないのですが、自分を誇って、思いっきり風船をふくらませるところがあります。限界まで達すると、パーンと破れてしまいます。昔は「成り上がり」というのがありましたが、現代ではベンチャー、IT、アパレルの社長が、良いところまで行って、突然、ぺしゃんこになります。私たちはそこまでいかなくても、自分を大きく見せたいのではないでしょうか?日本の牧師たちはこのように挨拶します。「あなたの教会に日曜日、どれくらい来ていますか」と礼拝出席者数を聞きます。すると、本当は60名そこそこなのに、「70名位ですね」とか答えます。「この車いくらしたの?」と聞かれると、「ん、色々付けて、300万円」とか言います。本当は50万位値引きされているのに、です。ある家族のことをお話しします。その家では、長男と長女がずば抜けて優秀だったようです。そのため、両親が下の子ともたちに自慢しました。下の兄弟姉妹は成績があまり良くなく、上から2番目の兄が劣等感のかたまりでした。そのため、彼は長男と長女が大嫌いでした。あの当時はベビー・ブームで高校に入るのも難しかったようです。2番目の兄は、若い頃、亀有の日立工場で働いていたこともありました。工作機械で、部品を作っていたようです。長男が家を継がなかったので、2番目の兄が家に戻りました。彼の弟と妹はその兄をとても慕いました。ところが、兄はとてもプライドが高くて、長男と長女に負けたくありませんでした。仕事をしながら、県の青年団で偉くなり、プライドの塊でした。事故で亡くなる42歳まで、長男と長女を嫌っていました。

 ある家族のことを話したのは、劣等感がプライドに化けやすいことを言うためです。「何クソっ」とがんばって、会社の社長や政治家になります。あるいは、何かの指導者になります。劣等感をバネにして、ある程度のところまでは行くことができるでしょう。しかし、内なる人(実像)が外なる人よりも、はるかに矮小なのです。自分の本体と外見の差があるのに、虚栄を張ってごまかしているのです。箴言30:21-23「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となり、しれ者がパンに飽き、きらわれた女が夫を得、女奴隷が女主人の代わりとなることによって」とあります。たとえば、一人の人が必死にがんばって、社長や指導者になったとします。しかし、その人の内部は奴隷のままです。身分は偉くなったとしても、奴隷のときの考えや口調がそのまま残っています。人をこき下ろしたり、人を全く信用しません。そのため、せっかく自分が建てたものを、自分で壊してしまうのです。このように、相応しくない人が社長や指導者になることがあるのです。そうすると下の者たちは悲惨です。クリス・バロトン師が「お前こそが王となった奴隷なのだ」と言われたことがあるそうです。私もそのような牧師だったので、役員さんや教会員に皮肉を言って傷つけてきました。「ブラック企業」というのがありますが、おそらく、社長はそういう人なのだと思います。内なる人(実像)が外なる人よりも、はるかに矮小なのです。虚栄心で生きているのです。私たちは間違った誇りを持ってはいけません。偉くなくても良いのです。大切なのは、神さまが自分をどのような立場に置くかであります。私たちは人から重要なもの、偉い人として見られたいと思うかもしれません。そうではなく、神さまの御目の高さに合ったものであれば良いのです。ひょっとしたら、神さまの標準よりも、自分を低く見積もっているかもしれません。神さまはあなたをもっと大きな者として見ておられますが、自分を低く見積もっているかもしれません。

パウロはコリントの教会から「お前は、本当に使徒なのか?偉そうに」と馬鹿にされました。パウロはこう答えています。Ⅱコリント10:13「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。」パウロは、神さまの制限内いっぱいまで宣教活動をしました。小アジア、ギリシャ、そしてローマまで行きました。でも、イスパニヤまでは行けなかったと思います。彼はローマの牢獄で生活し、最後は殉教しました。人が何と言おうとパウロは異邦人教会の使徒でありました。他の使徒たちはイエス様の十字架と復活を目撃しましたが、パウロはそうでありませんでした。パウロは自分を「月足らずで生まれた者」(Ⅰコリント15:8)と言っていますが、13の手紙を書いた偉大な使徒です。パウロは劣等感からがんばったのではありません。キリストの召命がそうさせたのです。パウロは第三の天に昇り、キリストから直接、啓示を受けました。だから他の弟子たちには書けなかった、教会の土台となる神学を書くことができました。パウロは「私は特別に選ばれた弟子だ」と高慢になることもできました。しかし、どうでしょう?Ⅱコリント12:7「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」私たちは、そのとげが何なのかわかりません。分かるのは、「パウロが高ぶらないように」というリミッターなのかもしれません。車やバイクのエンジンには、リミッターというものがついています。それ以上にスピードが出ないように、制限する装置です。私たちは自分で自分を制御できない場合があります。それを神さまがしてくださるということです。私たちが高慢になって滅びないためです。前半のポイントでは、悪い意味の誇りについて話しました。最後にこのみことばを引用して終えたいと思います。Ⅰペテロ5:5,6「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」アーメン。

2.正しい誇り

 お待たせしました。後半は、正しい誇りについて学びたいと思います。Ⅰペテロ5:6「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」とありました。このみことばからも分かるように、私たちは、ずっと下ではないということです。神さまが私たちを高くしてくださる状態があるということです。これこそが、正しい誇りをもって生きている状態であります。でも、正しい誇りというものが聖書的なのでしょうか?まず、第一に私たちは神のかたちに似せて造られたゆえに正しい誇りを持つことができます。詩篇8:5,6「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」つまり人は、生まれた時から、栄光と誉れの冠がかぶせられているということです。神さまの代わりに、万物を支配するように、人間には権威と様々な能力が与えられています。すごいですね。人は、だれであっても冠をかぶって生まれたのです。ところが、学校では人間はサルから進化したと教えるので、何ができるかということで人の価値が決められます。そうではなく、神のかたちに似せて造られたゆえに、存在そのものに価値があるのです。エペソ2:10「私たちは神の作品(傑作品)であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と書いてあります。私たちは神さまの手作りであり、製品ではありません。顔かたちや、性格、能力もそれぞれ違い、違って良いのです。それを、学校や会社は、社会に適合するように鋳型にはめようとします。五教科を教える義務教育は産業革命以降に行われました。工場ですぐ戦力になるような人を作ろうとしたのです。日本では、他の人と同じでなければならないという考えがあります。そうではありません。私たちは神の作品であり、ひとり一人が固有な存在なのです。人から笑われようと、固有な神の計画があり、それを全うすればよいのです。神から造られた「神の傑作品である」というプライドを持ちましょう。

 第二は、神の子どもであることのゆえにプライドを持つことができます。キリストを信じると、霊的に生まれ変わり、神の子どもになります。そして、王なる神さまを「アバ父よ」と呼べるようになります。神さまが王様であるなら、子どもたちは何と呼ばれるでしょうか?神の息子は王子です。そして、神の娘は王女です。「これでも私は王子です」とプライドを持ちましょう。「これでも」は不要ですね。「私は王女です」とプライドを持ちましょう。この世では、「働かざる者、食うべからず」みたいに言われています。自分の職業が自分の身分になっています。「無職」となると、何の身分もなくて、肩身が狭く感じるでしょうか?リタイヤして社会的な身分もなくなると、寂しいでしょうか?マタイ17章にこのような物語があります。 ある人たちがペテロの所に来て、「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか」と言いました。ペテロは即座に「納めます」と言いました。そのやりとりを聞いていたイエス様は「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか」と聞きました。マタイ17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。」これはどういう意味でしょう?王様はだれから税や貢を取るかというと、国民からです。自分の子どもたち、つまり王子や王女からは取りません。私たちは神さまを信じると、王子もしくは王女となり、本来は働かなくても良いし、税金も納める必要もないのです。中世の頃、働くのは国民であり、奴隷でした。貴族や王家の人たちは彼らが納める物資をありがたく頂戴して生きていたのです。「働かざる者、食うべからず」は彼らには当てはまらなかったということです。しかし、私たちがこのことを主張しても、全く、受け入れられないでしょう。私たちは、今、この地上で生きているので、生活するために働き、税も納める必要があります。でも、これはこの地上のことだけであります。何を言いたいか?自分の仕事や職業が、自分の身分ではないということです。神の子どもこそが、永遠の身分だということです。

 私たちはこの地上でいろんな身分を持ち、いろんな仕事をしています。でも、本来は王子であり、王女なのです。私たちの姿は仮の姿なのです。私たちはそれぞれ、見えない冠をかぶって生きている王家の者たちなのです。自分がだれかということを知っていると、それにふさわしい生き方が、おのずとできてくるでしょう。ルイ17世は、ルイ16世とマリー・アントワネットの息子です。フランス革命後、ルイ17世は家族と引き離され、王室に反対する監視の下に置かれました。カトリックや王室の家族を否定し冒涜する言葉、わいせつな言葉を教え込ませました。やがて教育は虐待が加わり、具合が悪くなるまで無理やり酒を飲ませたり、「ギロチンにかけて殺す」とまで脅す有様でした。その後、タンプル塔に幽閉され、その環境は劣悪で、ほとんど光の入らない鉄格子の部屋でした。彼を貶(おとし)めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれませんでした。これまで看守たちは、彼が天国に入れないように、悪事を教えたり、神を呪う言葉を言わせようとしました。その度に、彼は「僕は、王子なのでそんなことはしない」と拒絶しました。ルイ17世は、くる病と栄養失調で衰弱し10歳で亡くなりました。彼は大変可哀そうな死に方をしましたが、彼は自分が王子であることを最後まで自覚していました。当時のフランス社会では、王政が否定されましたが、ルイ17世から学ぶところがあると思います。私たちは自分がだれかということを正しく知るならば、罪や誘惑に打ち勝つことができるでしょう。

 私たち人間は、悪い意味では高慢、良い意味では自尊心というプライド持っています。クリスチャンであろうとなかろうと、プライドを持って生きています。プライドは私たちの人生をささえる土台であり、また城壁と言えます。もし、幼少のころ、プライドが壊されてしまったら、どうなるでしょう?その人が大人になったらどうでしょう?城壁が壊されているため、人の悪口や非難がその人の内側に簡単に入ってしまいます。つまり、他の人たちよりも傷つきやすいと言うことです。もし、健全なプライドを持っていたなら、多少の非難は、蛙が水を浴びたように何とも思わないでしょう。日本では犯罪を犯した人が、再び罪を犯すという再犯率がとても高いようです。なぜでしょう?彼らは刑務所では番号で呼ばれ、非人格的な扱いを受けます。なぜなら、そこは更生施設ではなく、むしろ罰を与えるところだからです。出所後は前科者と言われ、恥がべったりと付いているので、社会復帰が難しいのです。たとえ犯罪は犯したとしても、重要なのは、その人の人格とは分けなければなりません。彼らはプライド、自尊心を傷つけられたままなので、正しい生活を送ることが困難なのです。私たちはプライドを傷つけられるととっても傷つきます。ですから、お互い、いろんな事があったとしても、相手のプライドを傷つけることのないよう配慮が必要です。イエス様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とお命じになられました。それは、自分がプライドを大切にしているように、隣人のプライドをも大切にしなさいということなのです。ちょっとしたトラブルから殺人に至る場合があります。多くの場合、その人の存在、その人のプライドが汚されたことからくる復讐心からではないかと思います。

 D.カーネギーという人がベスト・セラー『人を動かす』という本を書いています。彼は「盗人にも五分の理を認める」ということを言っています。アメリカの偉大な実業家ジョン・ワナメーカーが40年たってやっとわかったことです。「他人のあら探しは、何の役にも立たない。相手は、すぐさま防御体制をしいて、何とか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心を起こすことになり、まことに危険である」。また、「誤りを指摘しない」という箇所ではこう言っています。目つき、口ぶり、身振りなどでも、相手の間違いを指摘することができるが、これは、あからさまに相手を罵倒するのと何ら変わりない。そもそも、相手の間違いを、何のために指摘するのだ―相手の同意を得るために?とんでもない!相手は、自分の知能、判断、誇り、自尊心に平手打ちを食わせられているのだ。当然、打ち返してくる。考えを変えようなどとまず思うわけがない。傷つけられたのは、論理ではなく、感情なのだから。このように、D.カーネギーから学ぶことは、人が持っている自尊心を認めるところからスタートすべきであるということです。

 イエス様はルカ15章で「失われた銀貨」のたとえをお話しされました。10枚の銀貨は単なる銀貨ではなく、10枚で1セットの家宝でした。「失われた銀貨」は、あなたの自尊心ではないでしょうか?イエス・キリストは失われたあなたをご自身の血で買い戻してくださいました。そして、あなたを王家の一人、royal familyの一員にしてくださったのです。なぜなら、父なる神さまが王であるなら、息子であるあなたはprince,娘であるあなたはprincess に決まっています。この世では美貌や能力、学歴がものを言うでしょう。でも、王室のあなたの方が上なのです。エリザベツ女王が晩餐会を催しました。そこには美しい女優、ノーベル賞受賞者、首相、財界の大物たちが招待されるでしょう。エリザベツ女王は、彼らと比べて顔もスタイルも良くなくて、頭も良くないかもしれません。でも、エリザベツ女王が入って来たら、みんなおじぎをするでしょう。なぜなら、彼女は女王だからです。私たちは主にあって、王族の一人であり、冠やティアラをいただいていることを忘れてはいけません。私たちはこの地上では、仮の姿で生活しています。しかし、本来はprinceであり、princessなのです。謙遜と自尊心の両者を持ちましょう。