2020.6.28「ヨハネの忠誠心 ルカ9:49-55」

日本では忠誠心を言うなら、「忠臣蔵」「忠犬ハチ公」でしょうか?きょう述べたい忠誠心は英語のLoyaltyという言葉が当たっていると思います。Loyalは「忠義な、忠実な、誠実な」という意味です。また、Loyalは「堅くて変わらない友情」、あるいは「人や組織に対する献身」と言えると思います。あなたにとって人生の主人はだれでしょう?私たちはどなたに、最も忠誠を尽くすべきなのでしょうか?

1.誤った忠誠心

 ヨハネは12弟子の中で、イエス様に対する忠誠心はピカイチではなかったかと思います。それゆえ、行き過ぎたところもあったようです。その裏付けとなるようなところを、ルカ9章から、2箇所取り上げたいと思います。第一はこのことです。ルカ9:49-50ヨハネが答えて言った。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、やめさせました。私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」しかしイエスは、彼に言われた。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」ヨハネはイエス様をとても愛していました。ある人たちが、イエス様の名前を使って悪霊を追い出していました。ヨハネはそれを見て、「イエスの弟子でもないのに、私の先生の名前を使うな!」とやめさせました。Loyaltyと似ていることばに、Royaltyがあります。これは、印税や特許権使用料などの意味です。「勝手に商標を使うな!」とか、「著作権の侵害だ!」というように聞いたことがあります。ダジャレではありませんが、ヨハネはイエス様に対する、Loyaltyがきわめて高かったので、「勝手にイエス様の名前を使うな。Royaltyの侵害だ」と禁止したのでしょう。「イエス様はあなたのではなく、私のイエス様なんだ!」と、一見子どもみたいです。この世の人たちは、歌手やタレントに夢中になり、アイドルになっています。「私だけの〇〇よ!」と思っています。その人が結婚でもしようものなら、がっかりして、仕事もできなくなるようです。スマップとか嵐などのメンバーが結婚しないか、あるいは遅れるのはそのためかもしれません。ヨハネはイエス様を独り占めしたかったのかもしれません。その証拠に、お母さんが「イエス様が王になったとき、ヤコブとヨハネを右と左に座らせてください」とお願いしたことがあるからです。

 愛にはそのような側面があるのかもしれません。十戒の第二番目は「偶像を作ったり、拝んだりしてはならない」です。その理由として、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神」であると書かれています。ねたみは本来、悪いものです。でも、神さまが私たちをねたむほど愛しておられるということは、「ねたみ」も愛の性質だということです。ヨハネもイエス様をとても愛していました。だから、イエス様を信じていな人たちが、イエス様の名前を勝手に使ってるのをみて、我慢できなかったのでしょう。ヨハネのそれは「ねたみ」と言えます。しかし、イエス様のヨハネに対するおことばは、叱責ではありません。「やめさせることはありません。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」不思議なことに、イエス様は「私」とはおっしゃらずに、「あなたがた」とおっしゃっています。それは、イエス様がヨハネをはじめとする弟子たちをご自分の代表者、代弁者とお認めになられているからでしょう。つまり、イエス様はヨハネのプライドを戒めたというよりも、ヨハネの忠誠心を認めてあげたのが正しいのではないでしょうか?確かにヨハネは狭い、ゆがんだ忠誠心を持っていました。でも、イエス様は「私を愛するがゆえに」ということが分かっていたのでしょう。だから、「もっと広い心を持つように」とやんわり諌めたのではないかと思います。

 私は神学校の基礎科を卒業後、教会主事として働きました。その頃、座間キリスト教会には、副牧師、伝道師、それから京子さんを始め数人の姉妹の献身者がいました。後から、シンガーの井沢兄が加わり、だんだん賑やかになりました。イエス様と弟子との関係ではありませんが、「だれが大川牧師から重んじられているか」みたいなライバル心がありました。私は大川先生から何か頼まれた時は即座に従いました。しかし、副牧師はとてものんびり屋で、頼まれたことも忘れてしまうことが良くありました。私は自分が忠実であることを心の中で誇っていました。ところが、あるとき、当亀有教会から私に対する招聘が来ました。そのとき、大川牧師が「日本基督教団からお招きが来るなんて滅多にないことだから、行ってみたら?」と言われ、とってもショックを覚えました。「私は必要じゃないのか?」と悲しくなりました。私がこちらに赴任して数年後、座間キリスト教会が分裂騒ぎで、大変なことになっていました。ずっと後から、長老さんに聞いたのですが、大川牧師が辞職させられる一歩手前まで行っていたそうです。擁護派と反対派が対立して、大川牧師はとても苦しい中を過ごしておられたようです。その時に、大川牧師を支えていたのが、古くからの役員さんたちでした。社会的立場があり、能力のある人たちは、反対派に回りましたが、忠実な役員さんたちがずっと大川牧師を支えていたようです。私は自分のことしか考えていませんでしたが、「忠実な教会員こそ宝なんだなー」とつくづく思いました。私も亀有にきて30年以上たちますが、イエス様に忠誠を誓いつつ、牧師をどこまでも支えてくれる兄姉がおられることが最高の宝だと思います。たとえ、人間的に欠けがあったとしても、です。ちょっと主題がずれたような感じがしますが、良しとしてください。

誤った忠誠心を表す、もう1つの出来事があります。ルカ9:51-53「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」イエス様は北の変貌山から、南のエルサレムに向かっていました。イエス様ご自身はエルサレムで苦しみを受けることを預言しておられました。エルサレムに向かうイエス様は、きっと厳しいお顔をしておられたのではないかと思います。エルサレムへの道は、サマリヤを通過することが最短の距離です。サマリヤに入ると、人々の態度がどうも冷たかったようです。イエス様と弟子たち一行は、食事、もしくは宿泊をしたかったのかもしれませんが、それが叶わなかったのでしょうか?ルカ9:54弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」かなり乱暴に聞こえますが、似たようなことが旧約聖書にもありました。預言者のエリヤがバアルとの戦いで、天から火を呼び下したことがありました。そのときは、イスラエルがバアルという偶像崇拝をして、信仰的に低迷していました。そのとき、エリヤ一人で、450人のバアルの預言者と戦って勝利したのです。おそらく、ヤコブとヨハネは、サマリヤ人の不信仰に対して、怒りを覚えられたのでしょう。二人は、イエス様がエリヤよりも勝るお方だと思っていたからです。なぜなら、少し前、変貌山でイエス様とエリヤとモーセが話しておられることを目撃しました。その時、天から「イエスに聞け」という声があり、イエス様だけが残りました。「エリヤよりも勝るお方を、受け入れないとはどういうことか!」と二人は怒ったのでしょう。このことは、イエス様に対する忠誠心が強かったという証拠です。あまりにも忠誠心が強くて、イエス様に敵対する者たちを赦せなかったのです。

 聖書解釈者たちは、「ヨハネはきよめられていなかった」「ヨハネは肉の人であった」と非難します。しかし、これもイエス様に対する、忠誠心の現れであったと信じます。ヨハネは「愛の使徒である」ということはみんな認めます。ヨハネ第一の手紙を読んでみると「神は愛です。互いに愛し合いなさい」と何度も書かれています。ところが、ヨハネ第二の手紙を読むとびっくりするようなことが書かれています。その当時、イエス様の受肉、肉体をとってこの地上に来られたことを否定する人たちがいました。そういう異端のような人たちにヨハネはどう対応するように教えているでしょうか?Ⅱヨハネ10,11「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」「彼らも求道者なんだから、暖かく迎えて伝道しなさい」などとは書かれていません。「家に入れてはいけない。あいさつのことばをかけてはいけない」とあります。ヨハネは、ぜんぜん変わっていないように思えます。しかし、このことは、ヨハネの忠誠心から来たものであります。ヨハネは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」というイエス様のおことばを福音書に残しています。つまり、愛だからと言って、だれでも迎えるということではありません。ヨハネは「救いの道はイエス様だけであり、他はない」ということを理解していました。私たちはあることに妥協しても良いですが、信仰に関しては妥協してはいけません。イエス様に忠誠を誓うことにより、反対者や敵対者を作ることはあるのです。本当の愛とはそういうものであることをヨハネは教えていると信じます。ヨハネはだれよりもイエス様を愛していました。そして、ヨハネはだれよりもイエス様に対して忠誠心を持っていました。確かにそれが行き過ぎたところもあったでしょう。でも、イエス様はそのようなヨハネの愛と忠誠心を受け入れて下さいました。私たちに対しても同じであることを信じます。

2.死に至るまでの忠誠心

 福音書にはイエス様が捕えられたとき、弟子たちみんなが逃げたと記されています。そのとき、リーダー格のペテロはイエス様を知らないと三度も否みました。しかし、ヨハネ福音書を見ますと、「イエスの愛された弟子の一人」として、ヨハネが自分のことを記しています。実はヨハネだけが、イエス様の十字架の下に留まっていました。十字架上のイエス様は、ヨハネにあることを頼みました。ヨハネ19:26,27「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』」このところに「愛する弟子」とありますが、これはヨハネのことです。しかし、イエス様はどうして、ヨハネに母マリヤを任せたのでしょうか?イエス様には肉の兄弟が、何人もいたはずです。「ヤコブの手紙」を書いたヤコブ、「ユダの手紙」を書いたユダ、他にヨセ、シモンがいました(マルコ6:3)。これは、肉の兄弟よりも、愛弟子が最も、信頼がおけるということではないかと思います。使徒1章に書いてありますが、屋上の間で120の人たちが聖霊を待ち望んでいました。使徒1:14「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」と書かれています。そうです。聖霊を受けた人たちの中に、母マリヤもいたということはすばらしいことです。母マリヤも聖霊を上から受けて、初代教会のために用いられたということは確かなことでありましょう。

 ペテロをはじめ弟子たちはヨハネを除いて、すべて殉教したと言われています。なぜなら、ヨハネには成すべき使命があったからです。晩年ヨハネはパトモス島に流され、そこで栄光のイエス様と再会しました。そして、「ヨハネによる黙示録」を書いたのです。イエス様はスミルナの教会に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2:10)と言われました。英語の聖書は、Be loyalty faithful unto death.となっています。Be loyalty「忠実であれ」です。そのことばは、まさしくヨハネの人生を表していました。ヨハネは死に至るまで忠実な弟子であり、イエス様に忠誠を尽くしました。私たちも一度、イエス様を信じて、洗礼を受けたのですから、死に至るまでイエス様に忠誠を尽くしたいと願います。日本で、主人に忠誠を尽くした人と言えば、武蔵坊弁慶があげられるのではないでしょうか?源義経が奥州に逃げる際、味方は弁慶を含め10数名でした。衣河館(ころもがわのたち)というところで、弁慶が無数の矢を受けて立ったまま絶命しました。これを「弁慶の立ち往生」と言うそうです。敵500人から君主の義経を守った弁慶の最後の亡くなり方を言葉にしたものです。矢が無数に突き刺さっても最後まで身をていして君主を守り、立ったまま死んだとされています。弁慶の執念とまでも言える君主への忠誠心を持つからこそできるのかもしれません。聖書の話から、急に日本の鎌倉時代にワープするというのもなんですが、日本人も忠誠心を美徳とする国民だと思います。鎌倉時代から始まったと思いますが、「滅私奉公」が美徳とされてきました。これは、「私心を捨てて公のために尽くすこと」です。しかし、個人の権利を重んじる今は、全く言われなくなりました。イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい」(マタイ16:24)と言われました。私たちはだれに自らを捨ててまでも、忠誠を尽くすべきでしょうか?

 日本人はついこの間までは、終身雇用制でした。これは「企業が従業員の入社から定年までの長期間について雇用する制度」であります。そうしますと、会社や組織のために忠義を尽くして働くような心を持つでしょう。しかし、終身雇用制も年功序列という弊害があり、かなり前から崩壊してしまいました。その代り、「リストラ」とか、「契約社員」という用語が多くなりました。昔は正社員がやっていたことを、契約社員、パートタイマー、アルバイトがやっています。そういう人たちは、会社に対する献身の度合いが低くなり、お金のためだけに働くようになるでしょう。2019年の始め、「バイトテロ」なるものが大手外食チェーンやコンビニで起っていました。バイト店員が不適切な動画をSNSに投稿し、それが会社側にものすごい被害を与えました。その行為は、確かにひどいものですが、バイト店員は自分の仕事に対する誇りというものを持っていなかったのでしょう。昔みたいに、終身雇用の社員であったら、そういうことはしないと思います。いわゆる、滅私奉公などということばは、化石になってしまったということです。私は滅私奉公まで行かなくても、「忠誠心をもって責任を果たす」ということはどの世界でも、必要なことだと思います。もちろん、何でも背負い込む必要はありませんが、「この人だったら任せられる」みたいな信用が大事だと思います。

パウロはコロサイ人への手紙でこのように教えています。コロサイ3:22-24「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」奴隷制度には反対ですが、当時の社会には奴隷がいました。私たちは奴隷ではありませんが、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」は、「忠誠心」の適用と言えると思います。たとえ、契約社員やバイトであっても、奴隷よりはマシでしょう。彼らは給料どころか、満足な休みも与えられなかったからです。パウロの教えは、現代に合わないところがあるかもしれませんが、忠誠心を持つべきことを教えています。パウロは「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と言いました。この教えは、まず主に仕えているということが前提です。何よりも前に、イエス様への献身、イエス様への忠誠心を持っているということです。その次に、地上の主人がいます。現代的には雇用主、社長とか経営者であります。彼らは利己的で、社員のことは考えていないかもしれません。こっちが一所懸命働いているのに、目が節穴かもしれません。でも、良いのです。自分は目に見える主人ではなく、主イエス様に仕えているからです。マタイ6章には「父なる神さまは隠れた所から見ておられ、報いてくださる」と書いてあります。つまり、神さまの御前で、誠実に全力で働くのです。

 ジョエル・オスティーンの本に「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)と書いてありました。妻が料理を出すときも、不平不満からではなく、心から行うことが、神さまをあがめるということです。夫が芝生を刈る時も、いやいやするのではなく、心からするのです。情熱をもって、神から与えられたミッションのようにやるのです。やる気のない気持ちで料理を作るのではなく、心から、最善を尽くすのです。何年か前、一人のお巡りさんが、混雑するヒューストンの交差点で、交通整理をしていました。彼はただ交通整理していたのではありません。彼はダンスをしながら交通整理をしていました。彼は軍楽隊長のように笛を吹きつつ、首と両手をリズムに合わせて動かしていました。彼は、あちらこちらとステップを踏みつつ、ムーンウォークもやっていました。運転手たちは、車の窓を下げて、じっと眺めていました。彼はとても情熱的でした。私たちはそのようにすべきです。だらだらと一日を過ごしてはいけません。あなたは何をするにも、心をこめてすべきです。あなたの足元にバネを付けなさい。あなたの顔に笑顔を着せなさい。あなたがそれをする時、心からすることによって、あなたの神をあがめなさい。…このように書かれていました。

 コロサイ3章の教えは、奴隷が主人に対してだけに書かれているのではありません。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」コロサイ3:18-21)。これらは家庭内ことですが、すべて主にあってなされることです。つまり、だれであっても、まず第一に、主イエス様に仕え、主イエス様に忠誠を尽くすということです。その次に、家族ひとり一人に、そして職場や地域社会に適用されていくのです。でも、重要なのは誰に対しても、主に仕えるように、心からそれを行うということです。もし、この世の人たちのように、主イエス様に対する忠誠心をはぶくなら、めんどうくさくなり、いい加減になるでしょう。なぜなら、この世においては正当に報いられることが少ないからです。一生懸命やったのに、文句を言われたり、ダメ出しされたら、まもなく熱意もさめてくるでしょう。だから、主に仕えるように、目の前の人に仕えるのです。そうすれば、隠れたところで見ておられる父なる神が豊かに報いてくださり、さらなる喜びが与えられると信じます。もし、人から報われなければ、その分、父なる神さまが豊かに報いてくださるのです。もし、全部、地上で報われたならば、天国における報いは少なくなるでしょう。でも、何故、イエス様に忠誠を尽くす必要があるのでしょうか?イエス様は神の栄光を捨てて、地上に下ってこられ、私たちの罪を負って死なれました。まさしく、イエス様は私たちのしもべとなり、罪に汚れた足を洗ってくださったのです。イエス様が私たちを愛し、私たちのために命を捨てて下さいました。私たちは救われるためにすべきことは何一つありません。救われた感謝から、イエス様を主人として忠誠を尽くし仕えたいのです。