科学者は「ことばは、私たちの口から出る音波に過ぎない」と言うでしょう。しかし、私たちはことばによって、この世界が造られたことを知っています。イエス様は権威あることばによって、嵐を静め、死人さえ生き返らせました。ヤコブ書は「舌、すなわちことば何よりも破壊的である」と言いました。私たちはことばによって、信仰を告白します。良くも悪くも、私たちが発することばは、単なる音波ではなく、この世界に対して何らかの影響を与えるということを知っています。きょうは「三つの良いことば」と題して、おもに箴言から学びたいと思います。
1.親切なことば
箴言15:1「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。」、箴言16:24「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」私は「親切なことば」について語るのが、最も相応しくないのは家族が一番知っているでしょう。どちからと言うと「乱暴なことば」について語りたいくらいです。なぜなら、私は生まれと育ちがとても悪いからです。8人兄弟の7番目に生まれたので、兄には腕力では勝てませんでした。そのため、悪口で勝負するしかありませんでした。いつの間にか、皮肉とブラック・ジョークが、身に着いてクリスチャンになってからも直りません。神学生のとき「どうか、鈴木兄弟の唇をきよめて下さい」と熱心に祈られたのも無理ありません。不思議なもので、神さまは私を説教者に召してくださいました。ヤコブは「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわきあがらせることがあるでしょうか?」(ヤコブ3:11)と言っていますが、現実にはあるのです。ですから、自らを戒めるためにも、「親切なことば」と題して学びたいと思います。箴言をみると「親切なことば」と相対するものが「乱暴なことば」ではないかと思います。15章1節の「激しい」は英語の聖書にharsh wordと書いてあります。Harshとは、「粗暴な」「乱暴な」という意味があります。同じ言い方でも、親切なことばであったり、乱暴なことばであったりすることがあります。私は家内から、「どうしてそんなに怒っているの?」と言われますが、こっちは怒っていないつもりでも、ことばが荒っぽいのでそのように聞こえてしまうのでしょう。講壇の上では、制御が効いていますが、車に乗るとタガがはずれてしまいます。一緒に乗った人は間違いなく躓いてしまうでしょう。携帯を見ながら、ゆっくり横断歩道を渡っている人がいます。「早く、渡れよ!」とつぶやいてしまいます。洋画で、彼らがよくshit, shit, shitとつぶやきますが、それと良く似ています。
では、「親切なことば」とはどのようなことばなのでしょうか?箴言12:25はヘブライ語では、いわゆる「親切」ではありません。「トーブ」という 「良い」「好ましい」という意味のことばです。英語の聖書には「励ます」「良い」「親切な」と訳されています。訳にはそう違いがないので、乱暴なことばに対して、「親切なことば」と言えるでしょう。高級なデパートに買い物に行くと(滅多にありませんが)、店員がそのように話しかけてくれます。おそらく、そのように話すように訓練されているからでしょう。たぶん、親切なことばとは、「できるだけ善意に捉える」ことではないかと思います。パウロがコリント13章で「愛は寛容であり、愛は親切です」と言いました。愛のメガネをかけて見ると、「きっとこうなのだろうな」と相手の立場で理解できるということでしょう。ジョエル・オスティーンがスーパーに買い物に行きました。その店員はとても乱暴で、客に対してブツブツ言っていました。ジョエル・オスティーンはせいいっぱいの笑顔で前に立ちました。そして、「何かあったのですか?マダム?」と聞きました。すると、「子どもが病気で、気になって仕事どころじゃないの」と答えました。一寸、先生は彼女のために祈ってあげました。すると、彼女に笑顔が戻ってきたそうです。相手が乱暴な口調だと、こっちも乱暴な口調で返したくなります。でも、こっちがその怒りを真に受けないで、柔らかい口調で答えたなら、相手は肩透かしを食らうでしょう。「柔よく剛を制す」であります。箴言15:1「柔らかな答えは憤りを静める」と書いてあるとおりです。
私もそうでありますが、社交辞令ではなく、家族に対してそれが重要なのではないかと思います。私たちは公なとき、あるいは仕事のときは、丁寧なことばを使います。気を使う必要があるからです。でも、気が緩むのが、家に帰ってからです。お互い遠慮会釈がないので、だれかが失敗などをすると「馬鹿じゃない」と言ってしまいます。全く、気を使っていないストレートな表現です。私などは思ったことをすぐ口に出すので、家内から良く注意されます。詩篇141:3「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください」と書かれています。口語訳は「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください」となっています。門守(かどもり)とは、「門番」「見張り」であります。ジョエル・オスティーンは「何か言いたいけど、それが言ってはいけない時は、どうすべきか?ジップをしなさい」と言います。口にチャックをしなさいということです。今、「皮肉を言いたい」「馬鹿と言いたい」、チャックをするということです。それで、ジョエル・オスティーンは夫婦仲が守られていると言っていました。使徒パウロは何と言っているでしょう?エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」「いっさい口に出すな」というのは、厳しいですね。その代り、「人の徳を養うのに役立つことばを話しなさい」と命じています。そういえば、イエス様はどんな身分の人に対しても「人の徳を養うのに役立つことば」を話しておられます。取税人ザアカイには「この人もアブラハムの子なのですから」と言われました。人から嫌われていたザアカイは、よっぽどうれしかったに違いありません。長血を患った女性には、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と言われました。宗教的にも呪われていたような病気の持ち主でしたから、きっと晴れ晴れとした気持ちになったでしょう。イザヤ43章に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という神さまからの語りかけがありますが、このことばを聞いた人は、劣等感から解放され、自分の本当の価値を見いだすことができるでしょう。私たちは神さまから親切なことばを語られたのですから、私たちもそのようになりたいと思います。
2.真理のことば
箴言22:20,21「私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。」、箴言23:23「真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。」第二番目は、真理のことばです。おそらく、日本人は「真理」とか「真理のことば」がそんなに重要だとは思っていないでしょう。なぜなら、日本人は真理よりも、人間関係を重要視する傾向があるからです。そこへ行くと海外では、人間関係よりも、真理を重要視します。なぜなら、国境を越えて、他国民が出入りするので、契約関係が基本にあります。海外では、「嘘つき」と呼ばれることがものすごく、恥になるそうです。そこへ行くと、日本の政治家や高官は、言っていることが二転、三転したりして、「真実はどこにあるのか?」と疑ってしまいます。「真理のことば」と聞くと、厳しくて、とても堅いようなイメージがありますが、どうなのでしょうか?新約聖書には「真理」とか「真理のことば」が数多く出てきます。真理の反対にあたるのが、偽りとか虚偽です。イエス様はパリサイ人たちにこう言っています。ヨハネ8:44「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」このところからも、真理は神さまから来たものであり、偽りは悪魔から来たものと言えます。
では、なぜ「真理のことば」がそれほど重要なのでしょうか?私たちは普段、いろんな場所で生活しています。その時、私たちは何かを約束したり、何かを誓ったりはしないでしょうか?書面で交わすことは滅多にありませんが、自分が言ったことばは、守らなければなりません。もし、言ったことばを守らないならどうなるでしょうか?たとえば、「明日の午後3時に会いましょう」と言ったとします。しかし、私がその場所に行かないなら、どうなるでしょう?「つい、うっかり」、忘れるというときもあります。でも、それが何度も重なったら、時間にルーズな人と思われるでしょう。あるいは、私が子どもに、いつ何を買ってあげるよと言ったとします。しかし、その日になって、何もあげないなら、子どもから「嘘つき」と言われるでしょう。仕事の打ち合わせで、来月まで、私があることをすることが決まりました。私が「はい、わかりました」と言ったとします。ところが、その時が来たのに、全く、やってなかったとしたらどうなるでしょう?そうです。信用がなくなります。つまり、私たちが言ったことを守り行うとき、信用あるいは信頼関係が生まれます。もし、自分が言ったことに責任を取れないようであるなら、だれからも相手にされなくなるでしょう。「あいつは、信用できない」と烙印を押されてしまいます。
私の家はとても貧しかったです。なぜなら、8人も兄弟がいて、父があまり働かなかったからです。長男や長女が家計を良く助けてくれました。長女と私とは18も違います。長女の結婚相手、つまり「おじ」がいました。おじは、私たち家族に「あれ買ってあげる」「これ買ってあげる」と度々、言いました。ところが実現したことがほとんどありませんでした。私たちは貧しかったので、心から喜んで待っていました。しかし、それは単なる「ことば」だったのです。私たち家族は陰で彼を「うそつき」と言って、信用しませんでした。私が建設会社を辞めたあと、小さな貿易会社に入りました。上司がクリスチャンで、度々、伝道をされました。海外と貿易していましたが、社長が度々、口を挟みました。既に契約を交わしているのに、新しい買手が高い値をつけてくると、「売り切れた」と言って、新しい買手にそれを売れというのです。そんなことが度々あって、上司と私は「私たちはクリスチャンなので、そういうことはできない」と談判しました。ところが、社長は「何で、お前たちに商売を教えなければならないんだ。商売とはこういうものだ!」とかんかんに怒りました。その後、上司は私に詩篇15篇「損になっても、立てた誓いは変えない」というみことばを見せてくれました。結局、私たち二人は会社を辞めることになりました。そういう訳で、私は言ったことは、できるだけ実行しようと心がけています。韓国のチョー・ヨンギ牧師は、「たとえ、約束を守らない人でも二回までは、はい、はいと聞きます。しかし、三度目は、ただ笑っているだけです」とおっしゃっていました。「仏の顔も三度まで」と言いますが、あなたは何度まででしょう?
イエス様はご自分が真理だとおっしゃいました。イエス様は少なくとも3回、「エルサレムで、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」とおっしゃいました。もし、イエス様がよみがえられなかったら、大嘘つきになり、神ではありません。イエス様はとても深い教えを語っています。でも、イエス様がよみがえられなかったら、それらの教えも信じるに値しなくなるでしょう。そういう意味で、イエス様の復活はイエス様が真実であることの最も大きな証拠となります。パウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。(Ⅰコリント15:14,15)と言いました。私たちクリスチャンは、霊的に生まれ変わった存在であり、父なる神さまのDNAが流れています。だから、真実なことばを語り、それを行うことが可能なのです。ローマ10章は私たちが救われるために、必要なことが記されています。ローマ10:10「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」。このみことばをそのまま読むと「私たちは心に信じるだけでは救われない、口で告白しなければダメだんだ」と思ってしまいます。ある教会では、みんなの前で信仰を告白するように強要します。しかし、これはそういう意味ではありません。イエス様が「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)と言われました。つまり、人は心に信じて義と認められる、つまり救われるのです。でも、その人が本当に信じているなら、口からも告白として出てくるということです。両者はともに救いのことを語っており、告白は救われている結果であり、証拠だということです。私たちは聖書という真実なことばをいただいています。だから、真実なことばを語るのです。
3.健全なことば
箴言8:13 「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」、箴言15:23「良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。」箴言の1つの特徴は、知恵と愚かさ、正しい者と悪者と、比較して書かれていることです。8章の「ねじれたことば」は、健全でないことばです。そして、15章の「時宜にかなったことば」は、健全なことばと言えるでしょう。そういう意味で、第三番目は「健全なことば」ということにしました。新約聖書には「健全なことば」が何か所か出ています。Ⅰテモテ6:3「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え」、Ⅱテモテ1:13「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」、テトス2:8「非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。」「健全なことば」は英語の聖書では、sound wordsとなっています。Soundというのは、「身体・精神など、健全な病気でない」という意味です。あるいは「頑丈な、安定した、しかりした」という意味もあります。ことばでも、健全なものとそうでないものとが、あるのでしょうか?もう少し、聖書から調べてみたいと思います。
ヨブがすべての財産と10人の子どもたちを一遍でなくしました。その時、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って、神さまに愚痴をこぼしませんでした。一方、ヨブの妻はどうだったでしょうか?「それでも、あなたは自分の誠実を尽くすのですか。神をのろって死になさい」と言いました。ヨブは彼女に「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている」とたしなめました。ヨブのことばは健全でしたが、ヨブの妻のはそうではありませんでした。ダビデがサウル王から追われていたときです。以前、ダビデはナバルと彼の持ち物を守ったことがあります。ダビデは若者を遣わして「何かあなたの手もとにある物を与えてください」と願いました。ところが、「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。…どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」と答えました。ダビデはそれを聞いて、彼を殺そうと思い、家来に剣を身に着けさせました。そのとき、ナバルの妻アビガイルがとりなしました。「今まで、大変お世話になっていたのに、私の主人がののしってしまい、大変申し訳ありませんでした」と言い、たくさんのパンと肉とぶどう酒を差し上げました。アビガイルは「ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です」(Ⅰサムエル25:25)と言いました。このところからもはっきりしますが、ナバルは愚かなことばを発しました。それに比べ、アビガエルは気転をきかした「健全なことば」を発しました。それで、ダビデの怒りは収まりました。
健全なことばとは何でしょう?言いかえるなら、神さまにぐちをこぼすのではなく、ほめたたえ、感謝することでしょう。イエスさまに癒された人たちは、信仰のことばを口にしました。12年間長血をわずらっていた女性は「イエス様のお着物に触りさえすれば、きっと癒される」と口ずさんで近づきました。盲人のバルテマイは「目が見えることです」と言いました。健全なことばは、建設的で、生産的なことばと言えるでしょう。神さまがそのようなことばを聞かれて、豊かに働いてくださることは間違いありません。また、健全なことばとは、人々を励ましたり、徳を高めることばではないかと思います。逆に愚かなことばとは、人々をこきおろすような、さばきのことばと言えるでしょう。同じ言葉でも、怒りをかうような、刺々しいことばというものがあります。ウィリアム・グラッサー博士が『選択理論』という本を書いています。「幸せな人間関係を築く秘訣は何か?」ということを教えています。それは簡単に言うと、「外的コントロールをやめて、その人自身に選択させよ」ということです。また、彼は『結婚の謎』という本も書いていますが、結婚生活で最も重要なことは、一緒に楽しむことであると述べています。そして、楽しみの障害になるのが、「批判する」「責める」「文句を言う」「ガミガミ言う」以上に大きなものはない、これこそ外的コントロールであると言っています。「基本的に私たちが自分の思い通りにできるのは、自分自身だけである。他人を変えようとしてはなりません。あなたが外的コントロールを取り除けば、ほとんどの場合、パートナーは変わります」と述べています。まだ博士の本を部分的にしか読んでいませんが、支配的なことばではなく、支持したり、励ましたり、尊敬するようなことばが良いということでしょう。とても、耳が痛いです。
箴言25:11,12「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。」とあります。私の家内は人の悪口を言ったり、下品なことばも言いません。それに比べると私はテレビに向かっても「馬鹿!」とか言ったりします。家内はことば数が少ないので、情報不足のため誤解を与えてしまいます。一方、私はことば数が多いので、余計なことばでしゃべって、かえっておかしくなります。箴言は「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」と言っています。その時に必要なことばというのがあるということです。なぜなら、ことばには人を救ったり、建て上げたりすることができるからです。箴言は、「叱る」ということも重要だと述べています。ただし、「知恵のある叱責」となっています。箴言27:5「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」と書いてあります。人から注意を受けると、そのときは面白くないかもしれません。へりくだって聞くならば、「聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ」というのです。時には嫌なことを言われるときもありますが、結構、第三者の言うことは当たっていることが多いのです。こちらが有り難く頂戴するなら、間違いを正すことができ、より成長するということでしょう。最後にこのとばをもって、メッセージを閉じたいと思います。エペソ4:15「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」真理だけなら、刃物で切ってしまう場合があるでしょう。愛をもって真理を語るなら、聞いた人は成長することができるのです。