東大生でも劣等感があると聞きます。私の解決すべきテーマは劣等感でしたが、すっかり解放されたので、思い出さなければ語ることができません。そもそもの、劣等感というものは人と比べるから起こります。日本は「人と同じでなければならない」という価値観があるので、他の国の人たちよりも、陥りやすいテーマかもしれません。クリスチャンになって自己価値が回復すると自然と劣等感からも解放されます。でも、そこまで達するためには、いくつかの段階を経る必要があります。
1.劣等感とは
よく、劣等感のことをコンプレックスと言いますが、劣等感はコンプレックスの1つです。コンプレックスは心理学で、「抑圧された考え」あるいは、「記憶」です。心理学者は意識と無意識に分けますが、コンプレックスは無意識の中にあると言います。それも、上部の意識に近いところにゴムボールのように漂っています。外から何らかの刺激を受けると、意識の世界に「ばーっ」と浮き上がってきます。コンプレックスはある種の強い感情によって支配されており、それが浮き上がってくると、日常の意識活動を妨害してしまうのです。良く知られているのが「劣等感コンプレックス」です。丸屋真也師がこのような例を上げています。たとえば私が仲間とテニスをしたとします。「私は下手だから」と審判にまわったり、ただ仲間のプレーを見て楽しく過ごします。「テニスに関して劣ってはいるけど、劣等感コンプレックスはない」と言えます。しかし、あまり上手でないにも関わらず、負けるとブツブツ言い訳をする人は、劣等感コンプレックスを持っている人です。この人は、テニスに関して、何らかの感情が伴っています。仲間の一人が、自分が属しているテニスクラブの大会で「この前、優勝したんだ」とみんなの前で自慢話をしました。さきほどの人はどう反応するでしょう?突然、「テニスができても、仕事ができなければダメだ」と言って、その場を気まずい雰囲気にしてしまいます。その人は、言った後で、気まずい雰囲気を受け止めざるをえません。「なんで馬鹿なことを言ったんだろう?」と反省します。これが劣等感コンプレックスを持っている人の反応です。
自分が劣っていることを認める人は、それを自分の中に取り入れているので、心に抑圧していません。「私は、テニスは上手でない」と、自分でそれを認めているので、人の自慢話を聞いても問題ありません。それでも、人が際限なく自慢話をするとカチンと来きます。自分だって、優勝でもしたらみんなに話して、一緒に喜びたいでしょう。その人の気持ちも理解できます。自分自身の中に、「私は、テニスはダメだ」と受け入れているので、感情的になりません。優勝の話を聞いても、「良かったね」と言ってあげられます。つまり、できないということを受け入れている人は、劣等意識はあっても、劣等感コンプレックスはないのです。劣っていることを認めることのできない人はどういう人なのでしょう?できないことを受け入れると、自分の存在価値を脅かされてしまうのです。テニスだけではありません。容姿、学歴、勤めている会社、自分の家族、育ってきた家族…いろんな劣等意識を自分自身の中に取り入れられない人がいます。取り入れる(認める)と自分の存在価値がないように思えてしまうのです。そのために抑圧してしまい、認めることが難しくなります。劣等感を認める人とそうでない人の相違は何でしょう?劣等感を認めることのできる人は、それを取り入れても、自分の価値が脅かされることがありません。でも、認められない人は、それを受け入れると、自分の存在価値が脅かされてしまうのです。このメカニズムを知ることは、劣等感コンプレックスを克服するためにとても大事なことです。
このように、劣等感コンプレックスと存在価値が深く関係していることが分かります。自分よりも何か優れている人を見ると、自分の存在が脅かされるということです。なぜ、そんなことが起きたのでしょうか?やはり、育った家庭とか、学校は、劣等感コンプレックスを持つ温床になりがちです。特に日本は単純な基準で優劣を決めてしまうところがあります。親は悪気がなくても、他の兄弟と比べます。「お兄ちゃんはできたのに」とか「お姉さんはできたのに」とか言います。逆に「弟はできたのに」とか「妹はできたのに」と言われるとショックは大きいでしょう。私の両親は長女と長男を、下の兄弟たちにとてもほめていました。そのため次男、三男、四男の私は劣等感の塊でした。学校に入ると、運動神経の良い友人とか、お金持ちの家の友人に対しては劣等意識を持ってしまいます。日本の教育は五教科のペーパーテストで子どもの能力を決めてしまいます。中学の時は、成績の上位者名を廊下に張り出していました。大学に入ると、その学校が一流かどうか考えます。学歴コンプレックスがあれば、「どこの卒業です」と言えません。救われて牧師になると劣等感がないかというとそうではありません。大教会の牧師だったら胸を張っていられるでしょうが、20-30名の教会だったら、隠れていたいと思うでしょう。ある人たちは、劣等感をバネにして頑張っています。でも、動機が汚れているので、優越感と劣等感のジェットコースターに乗っている感じがするでしょう。人と比べなければ良いのですが、本能的にそうしてしまいます。車に乗っている人は、「あっちがグレードが、高いなー」と思います。スニカーでも、ニューバランスとかナイキを履いている人を見ると何か思わないでしょうか?
「人はそれぞれだから」と自分に言い聞かせても、気持ちは収まりません。心理学の良いところは、そういう問題があるかどうか診断ができるということです。また、心理学もある程度までは、解決がいきます。でも、究極的な解決は創造主なる神さまを知ることではないでしょうか。もし、自分の存在を正しく知るなら、人より劣っていても、脅かされることはありません。神から与えられた自分の人生を走れば良いのであり、人と比べる必要はありません。私たちはキリストにあって新しく造られたものです。でも、クリスチャンになるまでの出来事が、魂に残っています。その一つが劣等感コンプレックスです。「自分にはそういうところがあるなー」と素直に認めることが、解放への一歩です。大川牧師は「劣等感は信仰までも腐らせる」とおっしゃっていました。おそらく、大川牧師もそのテーマに対して、長年戦って、克服されたのではないかと思います。
2.創造者を知る
第一の劣等感からの解放は、創造者を知るということです。ルカ19章には取税人のザアカイが出てきます。彼が劣等感コンプレックスを持っていたと断定することはできませんが、「彼は背が低かった」と書かれています。もしかしたら、彼には身体的な劣等感があったかもしれません。ザアカイは職業柄、人から嫌われても、めげませんでした。彼は先回りして、いちじく桑の木に登って、イエス様が来るのを待ち構えていました。ザアカイは取税人のかしらでしたが、それは劣等感からの反動だったかもしれません。彼は背が低くても、知恵があり気転がきき、人の上前を撥ねるしたたかさがありました。だから、取税人のかしらにのしあがり、ある程度の富を蓄えることができたに違いありません。でも、心の中に空洞があり、イエス様がそれを満たしてくれるのではないかと期待していました。木の上からイエス様を見下ろすというのは、かなり傲慢ではありますが、手段を択ばないザアカイは何とも思いませんでした。彼が一番おどろいたのは、イエス様は自分が木の上に隠れていることを見破り、「ザアカイ」と自分の名前を呼んでくれたことです。イエス様が普通の宗教家だったら「こら!大の大人が何をしているんだ」とたしなめるはずです。でも、それだけではありません。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」とおっしゃってくれたではありません。自分は人の上前を撥ねることがモットーでした。でも、イエス様は自分のそれよりも、上を行くお方だったのです。彼は一瞬の内に、2つのことが満たされたのではないかと思います。第一は自分の名前が呼ばれたことにより存在価値が認められたということです。第二は自分の人生にイエス様が介入されたということです。もっというと、自分の人生に神さまの計画が関わっているかもしれないと考えたかもしれません。ザアカイはこれらのことによって、一瞬にして劣等感コンプレックスから解放されたのではないでしょうか?
ジョエル・オスティーンは中学のとき、クラスで背が最も低くて「ピーナッツ」とあだ名で呼ばれたそうです。それでも、彼はバスケットボール部に入っていました。コーチが彼の俊敏性を認めて、レギュラーに加えてくれました。彼は高校生に入ったら、野球部に入りました。彼は二塁ベースを守っていましたが、試合の時はレギュラーに入れませんでした。その時、コーチが「お前は背が低いから」と言いました。彼は高校生の最後からグーンと背が伸びて、170センチくらいになりました。彼は背の問題で、レギュラーから外されたことを根に持っていたのでしょう。なぜなら、彼が牧師になりニューヨーク・ヤンキーズのスタジアムを借り切って、説教する時がありました。彼は最初に何をしたでしょう?グラウンドに降りて、二塁ベースにのっかって、主の御名をたたえました。ジョエル・オスティーンがある本で“Wonderfully Made”ということを書いていました。NIVの詩篇139:14の直訳です。「私はあなたをたたえます。なぜなら、私を驚くほど、すばらしく造られたからです。あなたの御わざが、すばらしいことを、私は良く知っています。」彼は続けてこのように述べています。神さまがあなたを造られたとき、2つの面で、ご自分が欲する規格通りに造られました。あなたの性格は偶然でできたのではありません。あなたの身長も、外見も、賜物もそうです。あなたが自分の目的を果たせるように、神さまがデザインされたのです。あなたは運命を全うするための必要を持っています。もし、あなたが他の道を全うするのであれば、神さまはそのようにあなたを造られていたでしょう。あなたは神さまがあなたがそうなるように、あなたを造られたことに確信を持たなければなりません。神さまがあなたを造られたとき、神さまは「うんー」と眺め、「Made in全能の神」とスタンプを押して、あなたを認めてくれたのです。あなたは一日中、あなたの心に「私は価値がある。私は傑作品だ。私は最も高き神さまの子どもだ」とレコードのように聴かせる必要があります。あなたを尻込みさせるものがありますか?あなたのものは否定的なレコードですか?レコードを取り替えてください。あなた自身を神さまが造られた傑作品として見始めてください。アーメン。
ジョエル・オスティーンは、あなたの外見も性格も能力も、神さまが造られたと言っています。それは、あなたが持っている独自の運命を果たすことができるように、神さまがすべてを備えられたということです。もし、そのことがはっきりと分かるなら、他の人と比べて、劣等感を持つ必要はありません。あなたには、あなた自身が走るべきレースがあるからです。あるオリンピック大会で、ウサイン・ボルトが負けた時がありました。ゴールの瞬間、隣の人を見ていました。それが原因だとは思いませんが、王者らしくないと思いました。よく相撲でも、「自分の相撲を取れ」と言います。もちろん、相手もそのように思っていますので、どこかに矛盾があります。私は相手を研究しつつも、自分の相撲を取ることが肝要だと思います。大切なことは、自分の得意分野を伸ばして、それを最大限に生かすことでしょう。自分よりも能力が勝る人を見ると、畏縮してしまって、自分の持ち味を出すことができないということがあり得ます。神さまが私を傑作品として造られた。しかも、私の固有の運命を果たすために、必要なものが既に備えられていると考えるならどうでしょう。体が大きかろうと、小さかろうと問題ではありません。数学や物理が苦手でも、文科系や芸術系が勝るかもしれません。指の指紋や目の虹彩、あるいは声門は、他に全く同じ人はいないと言われています。それなのに、自分の固有さを忘れ、人と比べて劣等感を持つというのは愚かなことです。
あなたは神さまに文句を言ってはいないでしょうか?「神さま、どうして私の目を大きく造ってくれなかったのですか?」「神さま、どうして私の足は短いのでしょう?あと10センチ長かったら、人生が変わっていたでしょう」。「神さま、どうして頭を良くしてくれなかったのですか?」「神さま、どうしてあんな家に生まれたのでしょう?」確かに、「こうだったら、もっと良かったのに」というものがあるかもしれません。もし、ザアカイが、背が高かったら、いちじく桑の木に登ることもなかったでしょうし、イエス様を信じることもなかったでしょう。ダビデが8番目でなくて、長男だったら、選ばれていなかったかもしれません。神さまはちょうど良いサイズにあなたを造られたのです。もし、もっと別なサイズが良かったのであれば、そのように神さまはあなたを造られていたでしょう。あなたの存在そのものに自信を持ってください。
3.自分の弱さを受け入れる
第二の劣等感からの解放は、自分の弱さを受け入れると言うことです。このことは、最初に引用した、丸屋真也師もおっしゃっていました。自分が劣っていることを認める人は、それを自分の中に取り入れているので、心に抑圧していません。つまり、できないということを受け入れている人は、劣等意識はあっても、劣等感コンプレックスはないのです。最初に申しあげましたが、コンプレックスというのは、抑圧された考え、あるいは記憶のことです。劣等感は、「自分が劣っている、自分は人と比べてダメな存在だ」という思いを認めないで、無意識の世界に押し込めているということです。1個だけならともかく、4個も5個も、ある種のコンプレックスを押し込めていたらどうでしょう?ゴムボールを無理やり水中に沈めておいたならどうでしょう?何かの拍子にポコンと浮き上がってくるでしょう。私たちは、人と比べて、劣っているとか優れているという価値観の文化に囲まれています。その中で生きていると、隠された劣等感が刺激されることが多々あるでしょう。ある時は優越感にひたり、ある時は劣等感のために落ち込むということになります。他者から認められ、是認されることを生きる目的にしている人はなおさらです。常に弱さを隠して生きることは辛いことであり、エネルギーの浪費となります。「自然体」ということばがありますが、弱さを認めて、神さまに与えられた自分の人生を歩めるならなんと幸いなことでしょう。そのためには、人と比べないで、自分の弱さを受け入れる必要があります。それは、弱さを隠して、自分の強さでカバーするという意味ではありません。弱さは弱さとして認める、それを受け入れるならば、劣等感コンプレックスから解放されます。
使徒パウロは何等かの弱さを身にまとっていたようです。聖書には「肉体のとげ」とかれていますが、精神的なものなのか、肉体的なものなのか、あるいはことごとく妨害するユダヤ人のことなのかはっきり記されていません。だから、そのことを私たちは色んな面に適用できるのかもしれません。1つのことに限定すると、適用する範囲が少なくなります。はっきりしていないから良いのです。でも、それはパウロの働きを制限する、やっかいなものであったことは間違いありません。だから、パウロは「これを去らせてください」と三度も主に願いました。主はなんとおっしゃったでしょう?Ⅱコリント12:9「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」「弱さ」はギリシャ語で「アッセネア」で「無力」「弱さ」「病気」「貧弱さ」という意味があります。英語ではweaknessであり、「ウィーク・ポイント」はもはや日本語になっています。もし、弱さや欠点を隠して生きるなら、いつか劣等感コンプレックスとなるでしょう。でも、それを認めて、主の御手にゆだねるなら、主の恵みがそのところに現れる機会となるということです。これは世の中で言う「塞翁が馬」でなくて、主の摂理のみわざです。パウロが何らかの弱さを持ちながら、大使徒として用いられたのは、主の恵みが大いに現れた証拠であると言えます。
イエス様の弟子たちも、それぞれに弱さや他の人よりも劣るものがありました。ヨハネは愛の人ですが、生身の人間は「怒りっぽい人」でした。自分には愛がないので、ひたすら主に愛を求めたに違いありません。ペテロはどうでしょう?彼はイエス様のスポークスマン(代弁者)みたいな人でした。だから、何でもしゃしゃり出るので、ある時はほめられ、ある時は注意を受けました。最後にはイエス様を三度も知らないと大失敗を犯してしまいました。でも、それが最後ではなく、ペンテコステの日に聖霊が注がれると、初代教会のリーダーとして用いられました。他にもトマス、ピリポ、ヤコブにも他の人よりも劣るものあったと思われます。でも、イエス様はあえて欠点のある、不完全な人たちをご自分の弟子として選ばれました。たとえ弱さがあったとしても、主の恵みがそこに現れ、その人独特のミックスされたパーソナリティがありました。ゴルフ・ボールの表面がつるつるした球体だと、打っても遠くに飛ばないそうです。ゴルフ・ボールは良く見ると、たくさんのくぼみ、デンプルがあります。くぼみは空気の流れを混ぜ合わせ、後流を素早く壊す働きがあります。それは、ボールをより遠く、速く飛ぶようにさせるのということです。よく分かりませんが、空気力学です。神さまが用いやすい人は、自分の弱さを認め、その分、神さまに頼る人ではないかと思います。自分は何でもできると思っている人は、神さまに頼りません。その結果、自分ができる範囲のことしかできないのです。パウロは「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と言っています。一見、開き直りとも思えますが、これこそ信仰の極致と言えましょう。
ジェムス・ドブソンという人が『劣等感からの解放』という本を書いています。先生は、私たちが子どものときに劣等感を受ける分野を教えておられます。女の子の場合は美しさ、男の子の場合は頭の良さだそうです。また、「テレビや映画が劣等感を助長するのでほどほどに」と言っています。若者たちは、テレビに出てくる歌手やタレントや映画スターに最高の価値観を置いてしまうからです。ジェムス・ドブソンは「自尊心を育てるための方策」も書いています。「子どもは誰でも、傲慢という意味ではなく、自信と安心のゆえに、堂々と胸を張って生きていく資格があります。これこそ、創造主なる神が意図された人間の価値です。神のかたちに造られていながら、自分の価値を疑うとは何と愚かなことでしょう。美しさを崇める人間の愚かさに対する神の見解は、三千年以上も前に、サムエルがイスラエルのために一人の王を求めたとき明らかにされています。サムエルは、当然のように、エッサイの子どもの中から最も背の高い、ハンサムな子を選びました。しかし「人はうわべる見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と言われました。また、ジェムス・ドブソンは、「補償(埋め合わせ)」と呼ばれる、自分の長所を利用して、短所とバランスを取ることを勧めています。親が子どもに何かを勧めます。チェス、ダンス、楽器、文章、スポーツ…何でも良いそうです。補償は劣等感に対する最大の武器だということです。イザヤ64:8「私たちは粘土で、あなたは陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」。私たちは工場の製品ではなく、神さまの手作りであることに誇りを持ちましょう。