2020.4.12「復活のからだ ルカ24:33-43」

イースターおめでとうございます。イエス様は弟子たちの前に立って、ご自分のからがどのようなものであるか示されました。なぜなら、霊を見ていると思ったからです。「幽霊」かな、と思いましたが、「霊」と書いてありました。ただ今から、イエス様の復活のからだのいくつかの特徴を上げて見たいと思います。ルカ24:36-39これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」キリストの復活のからだとはどのようなものなのでしょうか?

1.時間と空間に左右されない

イエス様はさっきまで、エマオの二人と会っていました。彼らと夕食の席について、パンを裂いているうちに、姿が見えなくなりました。二人はエルサレムに急いで引き返して、11弟子たちと合流したところです。そこにイエス様が現れたのです。イエス様も長い道を引き返してきたのでしょうか?私は一瞬に来られたのではないかと思います。イエス様は日曜日の朝、よみがえられましたが、いろんな人の前に現れました。おそらく最初はマグダラのマリヤでしょう。マリヤは「ラボニ(先生)」と言って抱きつこうとしましたが、イエス様は「私はまだ父のところに上っていないから」だめだと言われました。第二番目、女性たちに現れました。マタイ28:8,9「そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、『おはよう』と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。」ここで、女性たちはイエス様の御足を抱いているので、イエス様は一度、父のもとに上っていたことになります。第三番目はだれでしょう?シモン・ペテロまたの名はケパです。ルカ24:34「『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された』と言っていた。」とあります。Ⅰコリント15:5「また、ケパに現れ、それから12弟子に現れた」と書いてあります。福音書に詳しいことは書かれていませんが、シモン・ペテロに単独に現れたようです。その後はどうなのでしょう?4つの福音書を見ますと、時間的にどのような順番なのか分かりません。みんながそれぞれ出会ったと言っているからです。聖書を信じない人たちは、これだけ証言がバラバラなのだから、聖書の記述が間違っているのだと結論付けます。そうではありません。Ⅰコリント15:6、7「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。」このところには「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」と書かれています。つまり、復活のイエス様は時間と空間に左右されないということです。

Dr.キャロライン・リーフの本を読んだら「量子論」について記されていました。量子論では、2つのもつれた粒子が遠く離れていても1つのように振る舞うなど、粒子のもつれを「奇妙な動作」と呼びます。物理学者はそのような振る舞いを非ローカルと呼びます。つまり、粒子の位置と運動量を同時に知ることは物理的に不可能です。言い方を変えれば、時空の次元はないということです。昔は、アトムと呼ばれる原子核が最も小さいと勉強しました。しかし、原子からクォーク、レプトン、ボソンに移行しました。クォークを構成する非常に小さな粒子として、プリオンと呼ばれるさらに小さな概念を提案しています。科学者たちは、物質の究極の構成要素は、プリオンよりもさらに小さい、振動するストリングであると言う弦理論を提案しています。ある科学者は、プリオンを時空のねじれたひもであるとさえ説明していて、現在、サイズがゼロの既知の最小の粒子であり、文字列はさらに小さくなっています。電子は、介在する空間を移動することなく、時間の経過なしに、ある軌道から別の軌道にジャンプすることが観察されています。キャロライン・リーフ師はこう述べています。これらの観察は、時間と空間を超えた世界の霊的な側面を垣間見ることもできます。イエスが復活した後、エマオへの道にいる二人の男に現れ、その夜遅くに彼らが自分が誰であるかを認識するとすぐに、彼は突然姿を消したのです(ルカ24:31)。ルカの福音書のさらにいくつかの節で、イエスは弟子たちの中に突然現れ、彼らは彼が幽霊だと思いました(ルカ24:36-46)。後に、エチオピアのバプテスマの後、ピリポは突然姿を消しました(使徒8:28-4)。これらはすべて、量子物理学が解決することを示唆する謎であり、神がこれらの謎を説明するために美しく魅力的な概念を教えてくれます。量子論によってよみがえられたイエス様が時空を超えて移動していることを証明できるようになったということです。

私たちは肉体を持っているがゆえに、時間と空間の中に制限されています。イエス様もかつては、そうでありました。ガリラヤにいたら、エルサレムに同時にいることはできなかったのです。でも、復活したら、「キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました」と聖書の人々が証言しています。一般的には、現代は、「キリストの御霊、聖霊によって私たちのところにいらっしゃっています」というのが神学的でしょう。しかし、ある時は、よみがえられたイエス様ご自身が現れる時もあるということです。パウロがそうでした。ダマスコの途上で現れたのは、よみがえられたイエス様ご自身でした。他の使徒たちは肉眼でイエス様を見て、手でさわることが出来ました。でも、パウロは直接、イエス様とは会っていません。だからパウロは「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくだいました。私は使徒の中では最も小さい者であって…」(Ⅰコリント15:8,9)と自分のことを述べています。聖書には復活の主と出会った証言に満ちています。彼らは十字架で死なれたイエスではなく、よみがえられたイエスのことを証していたということは驚くべきことです。私たちも十字架で私の罪をあがなってくださったイエス様を信じて救われる必要があります。同時に、私のためによみがえり、今も生きておられるイエス様を信じる必要があります。なぜでしょう?目には見えなくても、世の終わりまで共におられるイエス様と歩むためです。ですから、主の臨在を常に意識して歩みましょう。

2.肉や骨がある

 ルカ24:39-43「『わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」弟子たちは、今、見ておられるお方が、霊であると思いました。つまり、イエス様は復活したけれど、霊的なものであったということです。日本人も霊の存在を信じています。先祖の霊が出たとか、だれかの霊を見たとか言います。そういう場合は、霊と幽霊の区別がありません。場合によっては悪霊を見ているのかもしれません。つまり、霊というのは、肉体をもっていない、「ふあふあしたものだ」と思ってよいでしょう。弟子たちは目の前のイエス様が閉ざした戸をすり抜けて入って来たので、そう思ったのかもしれません。それに対して、イエス様は「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」と言われました。これまで、女性たちがイエス様の御足を抱いたことでしょう。トマスはイエス様から「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇に差し入れなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。トマスが実際そうしたか分かりませんが、手の釘跡と槍で刺されたわき腹を目にしたことでしょう。イエスさまは実体として、そこにおられたことは確かです。それでも、弟子たちは信じられない様子だったので、「ここに何か食べ物はありますか」と言われました。それで、焼いた魚を取って、召しあがりました。とってもユーモラスではありませんか。焼き魚ですから、口のまわりにおこげがついたかもしれません。弟子たちはイエス様が食べる様子をまじまじと見ていたに違いありません。「ああ、飲み込んだ」とか言って、驚いたでしょう。でも、それは大きな喜びへと変わりました。

 このところから分かることは、イエス様の復活は霊だけの復活ではないということです。確かに肉と骨がありますが、もっと違う意味での肉と骨だった可能性があります。それは、栄光のからだです。これは、将来、私たちが復活したなら、今とは違う、肉と骨がある栄光のからだをいただくという保証であります。Ⅰコリント15章には、「血肉のからだと御霊のからだ」というように定義されています。パウロは「死者はどのようによみがえるのか。どのようなからだで来るのか」(Ⅰコリント15:35)と問うています。その2つを比べながら答えています。まず、血肉のからだとはどのようなものなのでしょうか?それは「地上のからだであり、弱くて、死ぬべきものである」と言っています。「地上のからだは卑しくて、御霊のからだは栄光があります」。さらに、「血肉のからだは神の国を相続できません」と書かれています。つまり、地上のからだは、地上だけのもので、弱くて死ぬべきものです。しかし、天上のからだは、朽ちることがありません。つまり、天上のからだは、永遠に生きるようになっているということです。ギリシャの人たちは、霊的なよみがえりは受け入れました。彼らは霊魂の不滅というものを昔から信じていたからです。しかし、肉体は悪いものであり、肉体に閉じ込められている霊魂を早く、解放してあげなければならないと考えていました。しかし、キリスト教では悪いはずの肉体が復活すると言うので、彼らは躓いてしまいました。でも、肉体なしで霊魂がいきるなら、物質と関わることはできません。キリスト教は、救いは霊魂だけではなく、私たちの体が贖われることで完成すると考えます。つまり、救いは、私たちの体がイエス・キリストのように栄光のからだによみがえるときに完成するのです。パウロはそのことを種にたとえています。種は地にまかれたなら一度、死にます。でも、あとから新しい存在として誕生します。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされるのです。

私たちはこの地上に、種のように朽ちる存在として誕生しました。種はほうっておかれると芽が出ることはありせん。地面に蒔かれて、一度、死ぬ必要があります。イエス様はヨハネ12章でこのように言われました。ヨハネ12:24,25「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」つまり、私たちは一度、死ぬ必要があるということです。しかし、このまま死んでしまったなら、元も子もありません。キリストと結ばれて一度死ぬということです。それは、うまれつきの人間にとっては耐えられないことです。なぜなら、私たちの魂は死にたくないからです。言い換えると、神さまに自分の地位を明け渡したくないのです。だから、多くの人たちは、クリスチャンになりたがらないのです。私たちもかつではそうでした。「もし、キリストを信じたなら、私自身はどうなるのだろうか?自分の意思がなくなり、操り人形になるの、あるいは奴隷のようにマインドコントロールされるんじゃないだろうか?」と恐れたんじゃないでしょうか?だから、キリスト信じるというのは、いちかばちかの賭けと同じであります。すると何の葛藤もなく信じたのはご利益信仰的で危ないです。つまり、本当に信じていないということです。でも、信じるということは自分の存在をかけることです。もしかしたら、気が狂って、別人になるかもしれません。私を導いた先輩は、「鈴木君、ダメでもともじゃないか?信じないで、このままいくのも1つだけど、信じてみて何か得したらその方がいいんじゃないの?」と勧めてくれました。それで、清水の舞台から飛び降りるつもりで、信じたのです。そうしたら、古きは過ぎ去り、すべてが新しくなりました。つまり、こういうことです。イエス様を信じるということは、キリストと一緒に死んで、キリストと一緒によみがえるということです。これをバプテスマ(洗礼式)が象徴していることです。信じた時から、あなたは古い自分におさらばし、復活の人生を送ることができるのです。もう、復活の世界に片足をつっこんでいるので、たとえ肉体的に死んでも怖くありません。なぜなら、クリスチャンは一度、死んだ存在だからです。死は勝利にのまれるのです(Ⅰコリント15:54)。

3.信仰による先取り

 これまでの復活のからだとは、すべての将来のことであります。やがてこの世が終わり、イエス様が来られます。その時、死んだ体はイエス様のように栄光のからだによみがえります。私たちはこのような希望をもって生きるべきであります。でも、現在の私たちのからだはどうでしょう。日々、衰えていきます。怪我をすればどこかを損傷し、病気になれば機能を失うことになります。できれば、天に召されるまで健康で生活したいものです。病と闘いながら、なんとか生き延びるというのは、本当のクリスチャン生活でないような気がします。イザヤ書40章後半には有名なみことばがあります。イザヤ40:30,31「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」ある資料で見ましたが、鷲の寿命には2段階あるそうです。最初の寿命は35歳です。最初の寿命の時に半分の鷲は死んでしまいます。35歳を乗り越えた鷲は70歳まで生きます。35歳の時にくちばしと爪が弱くなります。自然界において動物が獲物をとらなければならない時に、くちばしと爪が衰えることは致命的です。もうひとつ、羽も限界が来ます。飛べなくなるということです。鳥が飛べなくなると生きていけません。生き残る鷲は35歳の時に、今まで自分が棲んでいたよりもはるかに高い山に登ります。そこには木々がないくらいです。木が生えているところでないと捕食する動物がいません。そこに行ってまずやることは、石にぶつけながら自分の爪を全部折ります。その次に、くちばしで羽を全部抜きます。今度は石にくちばしをぶつけて折ります。この映像を実際に見ると、修行僧のようです。いったん自分の古い爪、羽、くちばしを自分で取り除くことによって、新しい爪、羽、くちばしが生えてきます。この間、餌はとれません。痩せ細りますが、一種の生まれ変わりの状態になります。たとえ餌がとれないところでも、高い山に登っておかないと自分が敵に狙われます。鷲といっても、動物界の捕食関係の最高峰にいるわけではありません。天敵もいます。天敵に見つからないように高い山に登って、自分の武器である爪、くちばし、羽をみずからいったん全部捨てることによって再生の時期を待ちます。 新しい爪、羽、くちばしが生えてきた鷲は、再び下界におりて70歳まで生きるのです。

 クリスチャンは一度、古い自分に死んで、新しく生まれ変わった存在です。多くの場合、それは霊的に生まれ変わったのであり、肉体はそうではないというのが大方の考えであります。しかし、Ⅱコリント5:17はどうでしょう?「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」このみことばは、霊的なものだけではなくて、「すべてが新しくなりました」と言っています。すべてというのは、心や霊だけではなくて、肉体も入っていると考えるべきではないでしょうか?しかし、現実は、外なる人は滅びていきます。「落ちれば割れる土の器です」という賛美もあるくらいです。福音書を見ると、イエス様は「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された」と書かれています。つまり、健康が回復したということです。癌だけではなく、骨粗しょう症も癒されたのではないでしょうか。もちろん、生まれつき傷害を持った人たちも完全に癒されました。でも、それは世の終わり、将来起る出来事です。イザヤ書35章には「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:5,6)。改めて申し上げますが、これは御国が完成したときの預言です。これは、世の終わり、将来起る出来事です。でも、イエス様は将来のこととして、とっておかないで、ご自身が来られた時、そのことを実現させたのです。だから、イエス様はもんもんとしている、バプテスマのヨハネにこう言わせました。「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(ルカ7:22)と伝えるように言いました。これはヨハネが理解したかどうか分かりません。でも、メシヤとして先にくるであろう回復を、今、もって来たということです。イエス様はもったいぶっていないで、今、困っている人に先取りしてプレゼントしてくださったのです。しかし、このことはイエス様が召天された教会の時代にも可能なことなのです。

 ケビン・デドモンと言う人が“unlocking Heaven”『鍵がかかっていない天国』という本を書いています。彼がメキシコのテピックというところで集会の奉仕をしていました。そこに、昨晩、車の事故にあって怪我した若い女性が来ていました。彼女の顎の骨は、ひどく壊れ、粉々になったので、お医者さんはそれらを取り除いた状態でした。彼女はほほえむことも、リンゴをかじる力もありませんでした。顎の骨がないので、彼女の顔は片側にひきつっていました。私が彼女のために祈った時、私は「よろしい、私が新しい顎を天国からひったくる」と思いました。私は霊において、「スペア・パーツ」がある神さまの倉庫に手を伸ばしました。そこから、新しい顎をひっぱり出して、彼女の口の中に入れました。しかしながら、彼女は熱く感じ、ちくちく痛む感覚がありましたが、何かが起っているようには見えませんでした。次の年、私は前の場所に戻りました。そうすると、ほほえみを浮かべた若い女性がまっすぐ近づいてきました。そして、私に「あなたが祈ってくれた去年から、リンゴを食べて続けているよ」と告げました。彼女がそのときに起った全ストーリを話してくれました。あなたが祈ってくれたあと家に向かいましたが、その途中、骨が成長しているのを感じました。そして、次の朝には、新しい骨になっていました。彼女は医者のところに行きましたが、レントゲン写真を見た医者は、完全になっていることが信じられませんでした。医者は「私は無神論者だ。でも、これは奇跡だ」と宣言しました。ルカ12:32「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」私たちの身分の重要性を理解し、確信をもって近づき、私たちの父の家にある入手可能なものを手を伸ばして取りましょう。アーメン。天国、父の家(倉庫)には私たちの肉体の新しいパーツがあります。顎の骨だけではなく、腕も足も、心臓も、内臓も、目も耳も口もあります。やがて来る御国に用意されているものを、信仰によって、今この時、先取りしましょう。