2020.1.5「私たちよりも高い思い イザヤ55:8-11」

これまで「思い」に関するメッセージを提供してきました。きょうはその4回目です。これまでは否定的な思いを取り除き、積極的に考えるということを学んできました。しかし、最終的にぶち当たるのが、「主の思いと比べてどうなのか?」ということです。信仰者は、私たちの小さな頭では神さまにかなわないということを知っています。でも、知っているわりには、神さま抜きで考えるということが多々あります。そして、よく失敗します。なかなか、自分が思ったとおりの結果を見ることができません。そのとき、このみことばを思い出すことができたらなんと幸いでしょう。

1.高い思いと高い道

 私たちにはいろんな思いや願いがあります。また、このようにすれば実現できるという道もあるでしょう。しかし、信仰生活を振り返ると、「決して自分が思ったとおりではなかった。かなり違っていた」ということが多いのではないでしょうか。もちろん、それで良かったということもありますが、うまくいかなかったということもあるでしょう。ニューヨーク大学リハビリ―テーション病院の壁に書かれていることばがあります。ある患者の詩です。「大事を成そうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるように健康を求めたのによりよきことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」私はこの祈りをかなり前から知っていましたが、私の神学とは合わないので否定して来ました。私は病の癒しや奇跡を信じています。また、神さまは求める者には与えてくださるお方だと信じているからです。でも、この詩の言わんとしていることは、「諦めではなく、神さまは別の方法で答えてくださるのではないだろうか?」という示唆を与えてくれるものです。私たちの人生の中で、「求めていたものとは違っていた」ということは良くあることです。しかし、それが、主が与えた最善の道であったとしたら、すごいことだと思います。

 このイザヤ書55章のみことばは、数えきれない数の聖徒たちを励ましてきたみことばではないでしょうか。でも、軽率には引用できない特別な恐れ、畏敬を与えてくれます。なぜなら、人生はそんなに単純ではないし、一口で語れないからです。仏教の禅問答ならともかく、キリスト教のメッセージは、最初に知性という関門を通過しなければなりません。その後で、「ああそうなのか?」という神からの啓示による悟りがあれば本当に幸いです。毎週の説教を懲りずにお聞きになっておられる皆様は有り難い存在です。もし、私の思想を発表する場であるなら、とっくに消滅していたでしょう。でも、この場に臨在しておられる聖霊様からの何等かの語りかけがあるのだと信じます。上からの語りかけがなければ、ここには来ないでしょう。とにかく、イザヤ書55章は人生を賭けないと語れないみことばであることは確かです。

 もう一度、みことばをお読みいたします。イザヤ55:8-9「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──主の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」まずこのところから、分かるいくつかのことを取り上げたいと思います。このところには二種類の道と二種類の思いがあります。一方は主のものであり、他方は私たちのものです。決定的な違いは、主の思いと主の道は、私たちよりも高いということです。どのくらい高いというかというと、天と地の違いがあるということです。びっくり驚きます。「そんなに高いのか?」とがっかりします。でも、思いと道がありますが、2つとも同じなのでしょうか?それとも違うことを語っているのでしょうか?英語の聖書は「思い」はthoughtsと複数形になっています。ヘブル語はマヒセブートで、「考え、意思、意向、計画、方策」という意味があります。私たちはこの小さな頭でいろんなことを考えているのです。では、何も考えないで、神さまに全部お任せしたら良いのでしょうか?神さまは私たちをロボットには造りませんでした。自分で考え、自分で決断できるように自由意志を与えてくださいました。でも、信仰者は神さまに聞く、神さまから導きをいだだく存在です。もし、間違っていたらな、喜んで訂正する、変更するということです。その次に「道」があります。英語の聖書はwaysと複数形になっています。ヘブル語はデレフで「進行ぶり、歩み、旅行、道、方法」という意味があります。「思い」あるいは「考え」とは、私たちが行くべきゴールでしょう。そして、「道」というのは、どのようにそれを達成するのか、道筋とかやり方でしょう。車にはナビゲーターがついています。最初にどこに行くか住所を設定します。すると、「高速道路で行くのか、下の道でいくのか、お金をかけるのか、かけないのか?」選択することができます。これで行くという選択をした後、スタートを押すとナビが導いてくれます。

 このみことばで行くと、神さまご自身の「思い(ゴール)」と「道」があります。そして、私たち自身の「思い(ゴール)」と「道」があるわけです。問題は、神さまが持っているものと、私たちが持っているものとが一致しているかどうかです。もし、ゴールも違うし、道も違うなら、もう話になりません。良く、教会では「的外れ」や「道を踏み外すこと」を罪と言います。このまま考えると頭がいたくなります。私はこのみことばを読んで、これまでの亀有教会の歩みについて振り返ってみました。赴任早々、3年で100名礼拝を宣言しましたが、30年たっても実現しませんでした。神のみこころでなかったのか、怠けていたのかどちらかです。10年間、小牧者訓練会という弟子訓練を学びました。これで教会が大きくなると言われたからです。でも、上手く行かないので2000年にやめました。それと並行して、セルチャーチ・ネットワークを学びました。小グループによる教会成長です。関東のコーディネーターまでやりましたが、上手く行かないので2017年1月にやめました。エリヤハウスという心の癒し、李光雨師と丸屋真也師のカウンセリングも学びました。とっても良い学びでしたが、それで教会が大きくなるという訳ではありませんでした。現在は、ビル・ジョンソンが言う「神の国が来ている」ということを学んでいます。この教えのとおり、しるしと奇跡の伴うリバイバルを信じています。共通して言えることは、教会が大きくなるということがゴールでした。これは、カルバリーの大川牧師から受けた伝道牧会における価値観です。あとは、たえず学んできました。これも、26歳で直接献身したときに、大川牧師から言われたことです。大川牧師は私のことを「一番弟子」とおっしゃいますが、私は大川牧師の亡霊によって(まだ生きていらっしゃいますが)支配されているような気がします。これまでのキーワードは「教会が大きくなる、礼拝人数が増える」ということでした。しかし、これは私の思いであって、神さまの思いとは異なるのではないかと、2018年に明確に理解しました。神さまの御心は、御国が拡大することであり、教会はその手段であることが分かりました。言いかえると、教会はこの地上において、御国が拡大するため存在しているということです。御国の拡大というのは、宣教活動による魂の救い、社会的な影響、癒しのミニストリーの3つです。社会的な影響というのは、家庭、政治、ビジネス、教育、医療、芸術に御国をもたらすということです。あらゆる分野に、神の知恵と創造力と高潔さが必要とされます。

 このように考えたら、ギラギラする目標がなくなり、気力も弱まりました。これまでは、ビジョンだとか、信仰だとか、騒いできましたが、神さまの思いと違うなら、掲げてもしょうがありません。でも、神さまの思いと神さまの道は存在しています。確かにこれまで的外れなゴールと、この世の方法論でやってきましたが、全く無駄だったわけではありません。もし、亀有教会に32年間もいて、「うまくいかなかった、失敗だった」と言ったなら、皆さんにも神さまにも失礼です。私がこの長い間、分かった結論はこれです。マタイ16:18「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」です。教会はキリストのものであり、キリストご自身が建てるということです。つまり、ビジョンや方策は、そんなに重要なことではありません。イエス・キリストがこの教会の所有者であり、最終的な責任を取ってくださるということです。セルチャーチはうまくきませんでしたが、各グループが自主的に奉仕をなさっておられます。弟子訓練はうまくいきませんでしたが、それぞれがイエス様につながって、恵まれた信仰生活を歩んでおられます。とにかく、当教会は律法主義ではなく、御国の支配による、自由な雰囲気があります。毎週、賛美と感謝に満たされた礼拝を持っています。このステージを作ったとき、中野兄弟一人がギターで賛美しました。しかし、今はワーシップ・リーダー他、4人の兄姉が立って賛美をしています。我が家も、夫婦仲良く、子どもたち4人がすくすく成長しています。死人がよみがえるような奇跡はまだ起きていませんが、復活のいのちにあふれています。つまり、私たちの思いや道よりも、主の思いと道は、高くて優れているということです。私たちの思いや道にまさって、主が主権をもって教会を導いておられます。なぜなら、教会はイエス・キリストご自身の教会だからです。

2.主が語れることばの力

 イザヤ55:10,11「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」10節と11節は、神さまの口から出た言葉は、必ず成し遂げられるということが言われています。そして、このことを自然界の出来事にたとえています。天から雨や雪が降りますが、それは決して天に戻らず、地を潤します。そうするとどうなるか、物を生えさせ、芽を出させ、種を与え、それがパンになるということです。それと同じように、主が発したことばは、決して主のところには帰らず、主が望むことを成し遂げるということです。私たちはことばというのは、単なる音の響きであると思っています。しかし、主が発することばは単なる音波ではありません。創世記1章を見ますと分かりますが、神が「光があれ」と言われると、光が出現しました。神が「種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」と言ったら、そのようになりました。主のことばは、無から有を生み出す力があるということです。

 重要な表現は、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させる」ということです。すぐ前の9節には「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と書いてありました。私たちはこのみことばを読むと、「主の思いと私たちの思いとは、天と地の違いがあるのか、がっかりだなー」と失望します。そして、「神さまの思いと私たちの思いは、あまりにも隔てがあり、全く、及ばないものだ」とがっかりします。しかし、10節と11節のことばは、決してそうではないということを教えています。天から雨や雪が降って、それが地を潤して、生命がはぐくまれます。同じように、天から主のみことばが、地の私たちに発せられます。そのことによって、主が望んでおられることが、この地において成し遂げられるということです。天と地を結ぶものは主から発せられることばです。確かに主の思いと私たちの思いとは、天と地の違いがあります。到底、及ばないものです。しかし、主が天からことばを発するなら、そのギャップは埋められ、何かが起こるということではないでしょうか?私たちはそれを啓示とか、いのちのことば、奇跡をもたらすみことばと呼んでいます。ここにすばらしい希望があります。

 この世の人たちの多くは、神さまの存在は信じています。そのような宗教的な人はたくさんいます。ところが、その神さまは、私たちが住んでいる地上のことには全く関与なさらない神さまです。遠くにおられて、見守っておられる神さまです。ある時は奇跡を起こしてくださるかもしれませんが、それは滅多にない事です。そのため私たちは自分で努力し、自分でがんばるしかありません。本当にできないときに、神さまに助けを求めます。でも、その祈りは答えられるかどうかわかりません。本当に1%未満の望みです。でも、聖書に書かれている神さまはそのようなお方ではありません。天を割って、この地上にお越しくださいます。そのことが実際に起ったのは御子キリストです。2000年前、歴史的に「ことばなるイエス様」がこの地上に来られました。そして、ご自分が発したことばによって、嵐を静め、病を癒し、死んだ人をよみがえらせました。まさしく、イエス様はことばが人となられたお方でした。しかし、イエス様はよみがえられた後、天にお帰りになられました。今はこの地上におられません。でも、マタイ28章でこのように言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って…」つまり、イエス様が持っておられたみことばに関する権威があたられているということです。マルコ11:22イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」これは何でもかんでも言えばそうなるということではありません。言う前に、神の信仰を持つということです。つまり、神さまが「これを言いなさい」ということばを前もってくださるということです。神さまが与えてくださった、ことばを私たちは発するのです。そうすると、天で起ることが、この地でもなされるということです。地上よりもはるかに高い、天の思いが、神がかたられることばによって、この地上に実現されるということです。鍵は、神がかたられることばを信仰によっていただいて、それを私たちが発すると言うことです。そのとばは空しくならず、必ず、主が望む事を成し遂げ、事を成功させるということです。

 私は32年間、この講壇からみことばを取り次いできました。ほとんどは聖書のみことばの意味とかどう信仰生活に適用するのかという解説とか教えです。ある人たちは説教で語られることばはほとんど記憶に残らない。「残っても3%ぐらいだろう」と説教の効果を下げてくれます。それよりも、自分たちで聖書を研究し、学んだ方がぐっと記憶に残ると言います。ですから、セルチャーチでは小グループで、聖書を輪読し、しばらく瞑想し、それを分かちあうという礼拝もあります。専門的な聖書知識を持っている牧師がいなくても、自分たちで礼拝できる。かえって、その方が恵まれ、みことばが自分のものになると言います。私もアーメンです。一週間一回の聖書のみことばで一週間分の霊的食事ができると思ったら大間違いでしょう。どうか、平日、個人であるいは小グループで聖書読んで、霊的食物をいただいてください。私も「ああ、説教はその程度のものなのか」と半分失望しながら奉仕をしていました。ところが、そうではないということがわかりました。私はいろいろやってもうまく行きませんでしたが、preacher説教者としては成功していると自負しています。説教は神さまが私にくださった賜物の1つだと信じています。なんという傲慢な発言でしょうか。でも、大丈夫です。確かにみなさんの記憶に残るのは3%かもしれません。しかし、3%であっても、この場所において偉大なことがなされています。それは、聖書のみことばが語られることにより、みなさんに信仰が与えられているということです。私は神さまから受けた啓示のことばを宣言しています。みなさんの心は地面です。すると、どうなるでしょう。「必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える」ということです。パンというのは肉体的な食物と霊的な食物です。でも、それだけではありません。「必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」のです。つまり、みなさんの中に「できる、必ずなる」という信仰が与えられるということです。それは何なのか、私には具体的にわかりません。でも、聞いておられるみなさんは、「あのことだ」と適用することができます。「あのことができる、あのことは必ずなる」という信仰が与えられます。それは、小グループの分かち合いで、あるいは聖書の勉強会では、なかなか与えられないものです。なぜなら、それは知的なものではなく、霊的なものだからです。イエス様がこのようにおっしゃいました。ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」アーメン。たとえ3%でも良いのです。「主が私にこう仰せられた」「主が私にこう語られた」アーメン。と掴めばよいのです。昔のホーリネス系の教会は、「みことばを握る」と良く言っていました。それは、「主が今、私に語られたことば(レーマ)を握って離さない。そうすれば主のみわざが起こる」ということでしょう。

 それぞれの信仰生活を振り返ると、私のように「ああ、うまくいかなかった。主の思いと主の道とはかけなれていたようだった」とがっかりしている方もおられるでしょう。確かに自分が思うとおりにいかなかったことが多いかもしれません。でも、天からの雨や雪のように、神さまが私たちに発して下さったことばが各所、各所にあります。ところどころに、芽が出て、実がなったということも事実です。全く、不作だったということではありません。そこには感謝があり、喜びがあり、満足があったはずです。こうやって生かされていることは何よりもすばらしいことではありませんか。最後にむしかえすようで申し訳ありませんが、神さまはこのようなメッセージ以外にも語られます。もちろん、聖書のみことばを通しても語られます。しかし、だかれかのことばやテレビ、あるいは本を通しても語られます。あるいは、直接、主があなたに語られるときもあります。何故なら、主は今も生きておられ、私たちの思いや道とは異なるからです。私は今から10年前、他の牧師たちと一緒に万座温泉で露天風呂に入っていました。その時、北茨城から来た石井さんというお米屋さんが一緒でした。私が一番最後に出たのですが、帰り際に石井さんが「あんた指揮者だろう」と言いました。私が音楽家と勘違いしたのでしょうか?でも、あとから、指揮者には司令官とか指導者と言う意味があることがわかりました。旧約聖書のヨセフは奴隷から、エジプトの指揮者になりました。私は8人兄弟の7番目に生まれたので、「いつでも下っ端」のイメージがありました。でも、私は「ヨセフだ、指揮者だ」と言う信仰が与えられました。かつて、ロバを通して語られた主が、石井さんを通して語られたんだと思いました。主はいろんな方法で、あなたに語ってくれます。その時、あなたに新しいことや奇跡が起ります。この新しい年、主が語られることばに耳を傾けましょう。なぜなら、神からの信仰のことばになるからです。