<ヨハネの福音書1:14-18>
1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
<エペソ人への手紙1:5-7>
1:5
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
1:7
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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先週はクリスマス礼拝でした。皆様それぞれ、イエス様のご降誕を祝われた事と思います。
現在のキリスト教界では、12月25日をイエス様が生まれた降誕日とし、1月6日の公現日(こうげんび)までの期間をクリスマスと考えています。
公現日は、救い主キリストの栄光が全世界、異邦人にも現れたことを祝う日とされていて、マタイの福音書に記されている、東方の博士たちがキリストを礼拝した日とされています。
ですから25日のクリスマスから数えると、東方の博士たちは、イエス様が生まれてちょうど12日目に、イエス様を礼拝したと考えられています。
このクリスマスは、神であるイエス様が人となってこの地上に降りて来られた日です。
ヨハネの福音書の冒頭には、
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
と書かれています。この“ことば”とはイエス様のことです。
イエス様は“ことばなる神”と呼ばれています。ギリシャ語で“ことば”は“ロゴス”と言いますので、イエス様は“ロゴスなる神”とも呼ばれています。そして・・・
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<ヨハネ1:14-16>
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
と、書かれています。
では、「なぜ、神であるイエス様はわざわざ人となってくださって、私たちの間に住まわれたのでしょうか?」
・・・とこのように聞かれたなら、みなさんはどう答えるでしょうか?
きっと“十字架にかかって人間の罪を贖うため”とか、“父なる神との和解のため”とお答えになると思います。
その通りなのですが、完全なる神であられたイエス様が、なぜ、完全なる人となられる必要があったのかという、重大な問いかけについて、クリスマスのこの時期、もう少し深く掘り下げて考えてみたいと思います。
◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
①“父なる神の愛”を解き明かすため。
この“クール・デウス・ホモ”というのは、ラテン語で「神はなぜ人間となられたのか?」という意味になります。
これは、11世紀ごろに活躍した、イングランドのカンタベリーの大司教で“スコラ学の父”とも呼ばれるアンセルムス(1033-1109)の著作の題名です。
少し難い感じの話になってしまいますが、キリスト教を、古代、中世、近代に遡って見直してみると、いろいろな発見がありますので、今日は歴史から少しお分かちしたいと思います。
“スコラ学”というのは、11世紀-15世紀ごろに西方教会で発展した学問のスタイルです。
この頃は哲学が盛んで、神学と哲学との関係について問題になっていました。
アンセルムスたちは、キリスト教の福音をなんとか合理的なものとして提示しようとしていました。
“スコラ学”とは、簡単に言えば、“キリスト信仰を持っているがゆえに、あえて聖書のみことばを使わずに、理性によって神の存在を論理的に証明しようとした学問”です。
このアンセルムスの著作“クール・デウス・ホモ”は、アンセルムスと弟子との問答形式で書かれています。
そこにはイエス・キリストの受肉(肉体をもって人間となられたこと)について、また、贖罪(十字架に架かられて私たちの罪を贖ってくださったこと)について、そして救済について、アンセルムス独自の考えが記されています。
なぜアンセルムスがこの本を書いたのかというと、アンセルムスよりも前の時代、2世紀ごろから活躍した、教父たち(アウグスティヌスなどの初期にキリスト教を発展させた著述家)の十字架の贖いの解釈に疑問を感じたからでした。
それまでの教父たちの考えは、「サタンはこの世界の支配者であり、その権威は簡単に無視することができない。つまり、人間はサタンの奴隷にされている。イエス・キリストの十字架の贖いは神がサタンへ渡した身代金である。」と考えていたのです。この考え方を「賠償説」と言います。
みなさんはこの「賠償説」をどう思いますか?ちょっと考えればおかしいですよね。なぜ、この天地の全てを創られた創造主である神様が、被造物であるサタンに身代金を支払う必要があるのでしょうか。
でも当時の教父たちは、事実このような考えでした。
そこでアンセルムスは、著書“クール・デウス・ホモ”の中で、それまでの“イエス・キリストの十字架の贖罪は、サタンへの身代金である”という思想を打ち砕きました。イエス・キリストの贖罪は、神と、神から離れてしまった人間との和解のためであり、神と人間、そして仲保者であるイエス・キリストとの関係の中にサタンは介入できないのだとアンセルムスは証明しました。
しかし、このアンセルムスの著作の中で、少し残念な所があります。それは、この著作からは、「ひとり子をお与えになったほどに世を愛された神の愛」を感じることができないという問題点です。ここでは詳しくはお話しできませんが、そういった問題点を差し引いても、アンセルムスの贖罪論は、その後の神学の基礎となり、現代の思想にも深く影響を与えている偉大なものでした。
・・・ちょっと難い話になりましたが、クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」ということは、父なる神様の愛を抜きにしては説明できないということがポイントです!
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<エペソ1:5 >
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
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神様は、最愛の御子であるイエス様を犠牲にしてまでも、「神に背いた人間を救わずにはおられない」と決意されました。それは人間が無価値なものではなく、御子のいのちに代えても救いたいと思われるほど価値があり、神の目に尊い存在であるからです。このエペソ1:5に書かれているように、神様は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
そして、イエス様は目でみることが出来ない神様を解き明かすために、人となってくださいました。
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<ヨハネ1:17-18>
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
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イエス様は、私たちのために、直接目で見て、触れて、声を聞くことができる肉体を持った人となってくださり、私たちにはっきりと解るように“父なる神の愛”を解き明かしてくださいました。
イエス様が人となられたのは、“父なる神の愛”を解き明かしてくださるためなのです。
◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
②罪の赦しをくださるため。
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<エペソ1:7>
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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人となられたイエス様は、神様ですから罪を犯されませんでしたが、私たち人間は罪の性質の中にいます。神様はそのような私たち人間の罪を赦そうとしてくださっています。
神様の罪の赦しとは、人間同士の罪の赦しとは全く違います。人間は、罪を赦すことはできても、忘れることはできません。神の赦しとは、忘れてくださることです。
忘れられない世界は赦しが無い世界です。恵みが無い世界です。
”Forgive, but not forget.” 「赦そう。しかし忘れまい。」
皆さんはイスラエル初代首相ベングリオンのこの有名な言葉をご存知でしょうか。
ベングリオンはホロコースト、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺についてこう語ったそうです。
・・・この言葉は、どこかのホロコースト関連の石碑にも刻まれているとも聞いたことがあります。
「罪を赦すことは出来るが、忘れることはできない。いや、忘れまい!忘れてはならない!」
・・・人間にできる罪の赦しは、これが精一杯なのかもしれません。本当に、すべて忘れてしまう事など人間にはできないのです。過去の辛い思い出は、すっかり忘れ去ってしまったつもりでも、何かの拍子で思い出されたりするものです。
しかし、”Forgive, but not forget.”「赦そう。しかし忘れまい。」という言葉は故意に忘れまいとしている言葉です。ホロコーストの当事者だった人たちは、思い出したくもない恐ろしい出来事に対して、はらわたが煮えくりかえるような激しい怒りを抑えてやっとの思いで”赦しの心”を持ったことでしょう。そして、二度とこのような事を繰り返さないために、「忘れまい」と言っているのだと思います。
しかし、当事者ではない子孫がこの言葉を聞いたり、石碑に刻まれたこの言葉を読んだ時に、この言葉に本来秘められた“深い深い赦しの心”ではなく、“深い深い恨みや憎しみの心”だけを受け取って、引き継いでしまう・・・ということになってしまわないでしょうか。
人間はそもそも罪深い存在です。ホロコーストの事だけではなく、歴史を顧みても、現代に残る戦争の傷跡は、国家と国家の間、国と個人との間、個人同士の間で、私利私欲も加わって、ねじ曲がって伝えられ、恨みや憎しみとなって増大しています。
しかし、神様の罪の赦しは全く違います。神様は私たちの罪を赦してくださるだけではなく、すっかりと記憶から消し去ってくださるのです。黙示録に書かれている最後の審判で神が「いのちの書」を開く時、私たちの罪は赦されて記録されていないのです。神様の赦しは、全てなかったことにしてくださる完全なる赦しです。
ではなぜ、神様は私たちの罪を完全に赦して、忘れてくださるのでしょうか。
それは、イエス様が人となってくださって完全な贖いを成し遂げてくださったからです。
イエス様と、私たち人間の決定的な違いは・・・
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<ヘブル4:15 >
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
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とヘブル書に書かれている通り、大祭司であるイエス様は”完全なる人”となられ、私たちと同じように”試みに会われ”ましたが、私たちとの違いは、イエス様は“罪は犯されなかった”という事です。
イエス様は人となってくださって、罪を犯されず、完全な「なだめの供え物」となって、十字架に架かってくださいました。
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<エペソ1:7>
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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ですから、◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
という問いに対して、それは、イエス様の血による贖いにより、②罪の赦しをくださるため。に人となられる必要があったからと答えることが出来ます。これは、まさに神の豊かな恵みによることです。
◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
③癒しと回復を与えてくださるため
私たち人間は創世記1:26、27に書かれているように、神のかたちに似せて創られました。
しかし、アダムとエバが犯した罪によって、私たちは“回復が必要な神のかたち”になってしまったのです。
おもに福音派で使われる神学用語ですが、義化、聖化、栄化という言葉があります。
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1.義化
イエス・キリストを信じて人は義とされます。それを神学用語で義化と言います。
2.聖化
義化されたのち、キリストに似たものとされるために、継続的に聖くされて行くことを言います。
3.栄化
イエス・キリストの再臨に際して、信仰者がキリストの復活のからだに似た、栄光あるからだによみがえることにより、あるいは、変えられることにより、完成に至ることを言います。
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私たちは、今”聖化”されている段階にあります。私たちには“聖化”されて、キリストを表す使命があります。
しかし、先ほども申しましたが、私たちはまだまだ不完全で、”回復が必要な神のかたち”なのです。
私たち人間は、思い出したくない過去に蓋をします。忘れてしまおうと努力します。それはいつまでもそこに留まっていたくないからです。でも、本当に忘れているかというと、私たちは先ほどもお話ししたように、実は忘れていないのです。でも、そこから解放されたい、立ち直りたい、回復したいと、もがき苦しんでいます。
神様はそのような私たちに、驚くべき方法で癒しと回復を下さいます。
神様は、私たちが加害者として、過去に犯してしまった過ちや、逆に被害者として、過去に受けた傷などについて、まるでそれらを再現させるかのような出来事を通して癒しと回復をくださることがあります。
実際は思い出したくもないのに、思い出してしまうような出来事を通してです。
例えば、神様は、過去に大切な人を裏切ってしまった人に対して、今度はその人が大切な人から裏切られるという、かなり手痛い出来事をお与えになり、自分の犯した過ちに目を向けて、悔い改めて回復するチャンスを下さることがあります。
また、何か過去に起こった出来事によって、トラウマを抱えてしまった人・・・
例えば、親子関係で傷を負ってしまった人は、自分が新しく築いた親子関係や人間関係によって、愛と癒しをたくさんいただくことにより、回復させて下さることがあります。
また、過去に金銭面で苦労したことによって、どこかお金にこだわってしまうようになってしまった人に対して、神様は相変わらず繰り返し金銭面で苦労させてしまうことがあります。しかしそれは、神様がその人を同じところに戻して、お金よりも大切な価値を見出すためにそうなさっているのかもしれません。
そうやって神様は私たちが知らず知らず、過去に背負ってしまった傷を覚えていてくださり、必要に応じて、癒しと回復を与えてくださっているのです。
仏教で言う因果応報ではありません。
神様は私たちに、人生のやり直しをさせてくださっているのです。立ち直るチャンスをくださっているのです。
神様は、過去の罪や傷や恨みを忘れることが出来ない私たち人間を、その過去に連れ戻してくださり、その記憶を新たな神の恵みへと塗り変えてくださるのです。
愛なる神様は、私たちが過去の問題から目をそらして逃げても、何度でもやり直しのチャンスを下さいます。
私たちが神様の与えてくださった機会に気付き、神様と共にその問題に立ち向かい、目の前にある高い山を乗り越えるならば、神様は私たちを新しくしてくださり、癒しと回復を与えてくださるのです。
その究極の形がイエス・キリストの十字架の贖いです。
アダムとエバという”人間”が犯した罪だからこそ、イエス様は人間となる必要がありました。まことの神様であられるイエス様が、人となってくださって、人間が過去に犯した罪に戻ってくださって、罪を償ってくださり、私たちを新しくしてくださったのです。
・・・こんな神様が他におられるでしょうか!!
私たちは”回復が必要な不完全な神のかたち”です。
イエス様はこのような私たちの罪を赦し、忘れてくださり、回復を与えて下さるために、人となってくださり、父なる神様の愛を解き明かしてくださいました。
イエス様は、誰よりも憐れみ深く、誰よりもへりくだり、誰よりも私たちを愛して下さる御方です。
◆クール・デウス・ホモ「神はなぜ人間となられたのか?」
イエス様は、完全なる人となってくださり、私たちに・・・
①“父なる神の愛”を解き明かすため。
②罪の赦しをくださるため。
③癒しと回復を与えてくださるため
この地上に降りて来て下さいました。
この年の瀬に、この一年、いえ、今まで生きてきた自分の足跡を振り返り、父なる神様の愛、罪の赦しについて考えてみましょう。また、神様が与えてくださった癒しと回復について、これから神様が与えて下さろうとしている癒しと回復について考えてみましょう。その恵みを覚えて祈るなら、感謝することが見つかるはずですし、逆に、神様の働きかけに応えていない事も見つかるはずです。
私たちの思い出したくない過去をすっかりと新しく塗り変えてくださり、日々聖化させてくださっている偉大な救い主、癒し主、贖い主、全能の神であられるイエス様に感謝し、キリストのかおりを放つ者となりましょう。