2013.12.29「~神の国の民としての義務~」

<ローマ人への手紙13章1節~7節>

 

13:1

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

13:2

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

13:3

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

13:4

それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。

13:5

ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

13:6

同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

13:7

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

 

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私たちの住む世界は罪に満ちています。そしてイエス様の福音が思うように届かず、キリスト者の中には残念ながら聖書のみことばを二千年前の過去の遺物のようにしてしまっている人もいます。それはこの世と聖書の世界が、かけ離れ過ぎていると思ってしまっているからです。

 

先ほど読んだローマ人への手紙13章1-7節には、この世の権威に従うことについての戒めが書かれています。現代、この世で生きるキリスト者にとって、この戒めほど理解し難く守りにくいものはないのではないでしょうか。なぜなら、この世には不条理や不当な扱いが蔓延っているからです。

 

そこで、今も聖書のみことばが確かに働いていると確信するためにも、キリスト者はこの世の権威にどう従うべきなのか、また神の国の民としての義務を果たすためには、何をすれば良いのかについて、聖書と歴史から考えてみたいと思います。

 

◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか

①パウロの本心

 

みなさんもパウロのことはよくご存じだと思いますが、パウロはアンテオケ教会から派遣されて、3度に渡る伝道旅行をし、異邦人にもキリストの福音を広く宣べ伝え、最後にローマに渡り、そこでも大胆にイエス様の福音を語った人です。紀元64年~67年にかけてローマで殉教したとされています。

 

ローマ人への手紙は、パウロが第三回伝道旅行に出かけた時に、コリントのガイオの家で紀元57年ごろに書かれたという説が有力です。

 

パウロはこの手紙の中で、キリスト教の福音を体系的、組織的に語っており、この手紙は最初から各教会に回す手紙、回状としての公的性格を持っていたと考えられます。

 

ですからこの手紙の執筆目的は、パウロがローマのキリスト者の霊的必要に応えるためだったと考えられます。そのローマにいるキリスト者たちに対して、パウロは・・・

 

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13:1

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

13:2

したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

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と教えました。

 

「上に立つ権威」の「権威」とは、ギリシャ語原文では evxousi,a(エクスシーア)と書かれており、元々「許容」の意味を持つことばです。つまり、「訳あって主なる神が当面存在を許しておられるものである。」 という意味で、文脈から見ると、ここでは国家権力を指していると考えられます。

 

しかし考えてみれば、パウロほど国家権力を恐れず福音を伝えた使徒はいませんでした。

詳しい経緯は解りませんが、パウロは生まれつきローマ市民権を持っていたようです。それにも関わらず、同胞であるユダヤ人から迫害を受け、何度もムチ打ちや石打ちに遭って殺されそうになりました。

しかし彼は全く恐れませんでした。

 

ローマに行ってからも、幽閉されつつも大胆に福音を伝え続けたことが、使徒の働きの最後に書かれています。このようなパワフルなパウロですから、ローマの信徒たちに手紙でカツを入れて、「国家権力に逆らってでも、殉教覚悟で福音を伝えるように」と指示しそうなのですが・・・

しかしここでは反対に国家権力に従うように、従わない者は神の定めにそむいていると教えています。

 

いったいこれはどういうことでしょうか。

どうやらそこにはパウロの深い考えがあったようです。

 

皇帝アウグスト(在位:紀元前27年―紀元14年)は独裁政治(皇帝崇拝)を上手く行い、パックス・ロマーナ(ローマの平和)を強調し、地中海周辺に平和をもたらしました。経済は成長し、貴族たちは大喜びしましたが、これはローマ皇帝の福音であって、神の福音とは全く異なるものでした。

 

クラウデオ帝(在位:紀元41年-54年)の時代には、紀元49年頃にすべてのユダヤ人はローマから追い出され、キリスト者は方々に散らされていました。使徒の働きに出てくるアクラとプリスキラの夫婦もこの時ローマからコリントに逃げてきて、パウロと出会いました。(使徒18:2)

 

皇帝クラウデオが死んで後、ローマのキリスト者たちも少しずつローマに戻ってきていたようで、アクラとプリスキラもローマに戻りました。パウロがローマ人への手紙を執筆した時は、皇帝はネロ(在位:54年-68年)になっており、後にキリスト教徒は暴君ネロにより、紀元64年のローマの大火の犯人にされて迫害されますが、パウロがローマ書を執筆した時は、かろうじてパックス・ロマーナ(ローマの平和)は続いていました。

 

パウロは神の知恵を用いて、そのパックス・ロマーナによって、キリスト者がある程度国家権力から庇護されていることを利用して、福音を伝えようとしたのです。

 

つまりパウロの本心は、国家権力に従うのは、あくまで福音伝道のための知恵でした。

当然、国家権力が妥当なあり方から落ちた時には、いつでも抵抗する気概がパウロにはありました。

 

過激でパワフルなパウロも、神様からの知恵を用いました。

現代の私たちも、国家権力に対してパウロの様な知恵を持つことが必要です。

そして何より、私たちキリスト者に与えられている最大のミッションは福音伝道です。

 

パウロの本心を私たちも心の内に持ち、上に立つ権威に従っていきましょう!

 

◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか

②イエス様が語られた終末への警告を忘れない

 

ところが、この13章の1,2節のパウロの戒めの解釈を誤り、悲劇を生んだ歴史があります。

例えば16世紀~17世紀のイギリスやフランスの絶対王朝などは、「王は神から授かった主権であるから、絶対に服従せよ」という王権神授説を生み出しました。

 

結果、独裁政治となり民衆を苦しめました。

 

また逆に、ユダヤ教徒たちは、上に立つ者の権威を「神の権威」のみとし、国家権力に従わず悲劇を生んだ歴史もあります。

 

パウロがこのローマ書を書いてからわずか12年後に、「エルサレムの悲劇」が起こりました。

紀元66年、ローマ帝国と、ローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で戦争が起こり、ローマ軍はエルサレムに進軍し、紀元70年、エルサレム神殿は全焼しました。住民の大半は餓死するか虐殺されました。

 

これは「ユダヤ戦争」と呼ばれる、よく知られている戦争です。

 

このときキリスト教徒の多くも、この戦争に巻き込まれる危険を伴っていましたが、キリスト教徒たちは、

<マルコ13:14>でイエス様が語られた「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」という終末の警告に従い、ペレヤ(ギリシャ地方)などに移住して難を逃れました。

 

一方ユダヤ教徒たちは、上に立つ者の権威を「神の権威」のみとし、国家権力に従わず、967人のユダヤ熱心党の兵士たちがマサダに籠城し、3年間戦い、最期は集団自決をしました。生き残ったのは、たまたま水汲みに出ていた女性2人と子ども5人だけだったそうです。

 

マサダとは「要塞」という意味を持つ名前で、紀元前120年に要塞が建設され、その後ヘロデ大王が改修し

て難攻不落だと言われた標高400メートルの岩山です。

このようにユダの荒野の中に巨大な切り株のようにそびえ立っています。

 

現在このマサダは、2001年にユネスコの世界遺産となり、イスラエルではエルサレムに次ぐ人気の観光地となっています。私もイスラエルに行った時に登りましたが、よくこんな岩山の上で3年も籠城できたもんだと感心しました。

そのマサダの要塞を指揮したヤイルの子エレアザルの最後の演説はこうでした。

 

「わが忠実な戦士諸君、われわれはかつて、ローマ人には仕えまい、神以外の何者にも仕えまいと決心した。今こそ、そのわれわれの決意を行動で証する時がきた。」

 

このような勇ましいマサダの籠城の話を伝え聞いて、いのちをかけてローマ人と戦うぞと立ち上がりかねない若者がキリスト教徒の中にもいたかもしれません。しかし、イエス様の終末預言も、パウロの勧めも、それとはまったく逆でした。イエス様は「山へ逃げなさい」と言われ、パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と言ったのです。パウロは来るべき迫害のときに、ローマの信徒たちが、このような神の知恵を用いず、極端な過激な信仰を持つことを先だって憂えていたのではないでしょうか。

 

当時のローマ国家は「すべての道はローマに通ず」と言われたほど、陸路も水路も整えられており、少数の反抗者が多少騒いだとしても、国家には実際何の影響もありませんでした。

 

ユダヤ教徒はこの後故郷を追われ、戦争を繰り返し、厳しい民族的弾圧を受け、1948年のイスラエル国の再建まで、約2千年近くの長きに渡って国を失う結果となりました。

 

イエス様は言われました。<マタイ10:16> いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。

 

私たちは、この歴史を教訓にして、もっと深い部分で神様に信頼を置く必要があります。イエス様が言われたように、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなお」でなければなりません。たとえ一時、屈辱的に服従させられたとしても、神様に信頼して忍耐をすることが必要な場合もあるのではないでしょうか。

 

◆キリスト者はこの世の権威にどう従うべきか

③神の国の民としての義務を果たす

私たちは、地上の民主国家の主権者として、また神の国の民として、与えられた義務を果たさなければなりません。まず、地上の主権者としての義務とは何でしょうか。

 

今の日本の政治を考えてみましょう。

東日本大震災が起こってから、原発問題など、無関心ではいられない出来事がたくさん起こっています。

最近では特定秘密保護法案のことで議論が交わされていました。

 

キリスト教界では、特定秘密保護法案に反対する教団として、日本基督教協議会、日本基督改革派教会、カトリック中央協議会、日本ホーリネス教団、基督兄弟団などが声明を出していましたが、可決されてからは、日本聖公会も廃止を求めて声明を出しました。

 

私の通う大学では反対運動が盛んで、各所で議論が交わされ、祈り会がもたれていました。

 

法案があっけなく可決された時には、反対派の人は、「人間は歴史からは何も学ばない事が解りました!」と、戦前の治安維持法で宗教団体が弾圧されたことを例に出して落胆していました。

しかし一方で、賛成派の人たちは「反対派は極端な解釈をし過ぎだ」と言っていました。

他にも、そもそも宗教団体が政治に関与することを快く思わない人もいました。

 

さて私はというと、賛成、あるいは反対、どちらの立場をとるべきか・・・。

どちらの言っていることも一理ある。でも、そもそもクリスチャンが政治に口出しするべきなのか?

・・・などと考えているうちに可決されてしまって、ちょっと情けない気持ちになりました。

この法案が私たちの活動に支障をきたすようになっていくのかどうかは解りませんが、イエス様が教えてくださったように、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに心の目と耳を開いて、行く末を見て行こうと思っています。それが私にできる神の国の民の義務だと思うからです。

 

パウロは13:3,4でこう言いました。

 

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13:3

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

13:4

それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。

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私たちは地上の民主国家の主権者として、また神の国の民としての二足のわらじを履いています。

いえ、履いていなければならないのです。

 

限界があるこの世の権威、権力に対してのキリスト者の服従は、決して奴隷的なものではありません。

パウロは「善を行いなさい」と教えました。キリスト者は、「善をもって悪に打ち勝つ」といった積極的で柔軟な愛の精神をもって服従するのです。

 

そしてその背後に、神の定めと摂理が働いていることを知り、それゆえに私たちはこの世の権威に服従することができるのです。またパウロは

 

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13:7

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

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と言いました。

 

これは、国家と社会と自己に対して、また、誰に対しても義務を果たす責任を持ちなさいと教えているのです。

 

最後に、神の国の民としての義務を果たすとは、どういうことなのかについて考えてみましょう。

 

この世の歩みの中で、神に本当に仕えてゆくということは、世と距離を置いて何もせず、山の中に隠遁するようなことではありません。

 

私たちは人に仕えることを通して神に仕えています。しかしどんなに素晴らしい社会的貢献をしていたとしても、神様に対して義務を果たしているという自覚がないなら、その営みは、神様の意思とはかけ離れたものになりかねません。

 

私たちは、つい世の仕事に一生懸命になってしまい、神の国の民としての義務とは何かについて考えることを忘れてしまいます。しかし、地の塩、世の光として生きるには、常に神の国の民の義務について考え続ける必要があります。

 

キリスト者は世の人から見ると、ただ軟弱なだけの主義主張のない排他的な人たちに見られがちです。

だからこそ、何にでも迎合するのではなく、パウロのような気概をもつ必要があるのです。

先ほども申しましたが、現代の私たちに与えられている最大のミッションは福音伝道です。

しかしそれは、ガンガン表に出て行って伝道するということだけを言っているのではありません。

 

肝心なのは、私たちの生きざまです。

私たちの生きざまを通して、世の人は神の栄光を見るのです。

 

まず、

①自分は何者でもなく、何の力もなく、すべては神様の御愛と憐れみ、イエス様の恵みによって回復が

 与えられているということを自覚する。

 

②神様に対して嘘をつかず、情けない自分をすべてさらけだし、苦い涙を流しつつ、ひれ伏し、全信頼を

 置く。

 

③聖霊なる神様によって日々の力が与えられているということを知り、更なる原動力となっていただけるよう 

 に祈り求める。

 

④イエス様が私たちにしてくださった事のひとつひとつを想い起して感謝し、賛美し、褒め称える。

 

もうそれだけで、その人は無意識に神の栄光を現していることになるのです。

 

この年末年始、イエス様の警告を思い返し、この世の権威にどう従うべきか、また神の国の民としての義務を果たすためには何をすれば良いかについて、主から知恵をいただき、じっくり考えてみましょう。