私たち、日本人は何か罪を犯すと、人との関係のことしか考えません。「法律に触れなければ良い」とか、「だれも見ていないから平気だ」と思ったりします。ですから、耐震偽装問題ではありませんが、証人喚問に呼ばれても、平気で嘘をついたりします。しかし、みなさん私たちが何か罪を犯すと、3つの者が、私たちを訴えるのです。一人目は、天地万物を支配しておられる義なる神様です。二人目は、サタンです。三人目は、その人自身の良心が訴えます。イスラエルのダビデ王は、姦淫と殺人の罪を犯して、しばらくの間、しらんぷりしていました。ダビデは人々の目に隠し通すことができても、3つの者に対しては、隠すことができなかったのです。私たちも罪を犯すと、同じことが起こります。神様、サタン、良心の訴えに対して、どのような解決策があるのでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架で流された血です。きょうは、「血の効力」と題して、3つのポイントで学びたいと思います。
1.神様の赦し
すべての罪は、人間に対してではなく、神に対する罪なのです。この点が、私たち日本人が一番あいまいなところであります。残念ながら、日本人には絶対者なる神概念がありません。「人に迷惑をかけていなければ良いじゃないか」、「だれも見ていないから良いだろう」というところがあります。ある人が、子どもを連れてスイカ泥棒に行きました。子どもに見張りをさせて、食べごろのスイカを叩きながら、さがしていました。すると、子供が突然、「お父さん。見てるよ!」と叫びました。「だ、だれか来たのか?」とお父さんが聞きました。子どもは「神様が、見てるよ!」と答えたそうです。その子は、日曜学校に行っていたので、絶対者なる神様を知っていたのです。預言者ナタンが主の言葉をダビデに告げました。「私はあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ」(Ⅱサムエル12:7-10)。ダビデ自身も、そのことを詩篇51篇で告白しています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩篇51:3,4)。ですから、私たちが犯すすべての罪は、だれでもない、神様の前で犯す、そむきの罪なのです。ですから、私たちは、罪の赦しを求めるとき、まず、神様から赦していただく必要があります。
では、どのようにしたら、私たちは神様から罪を赦していただけるのでしょうか。旧約時代はさまざまないけにえをささげした。動物の血を祭壇に注いだり、ヒソプの葉につけて振りかけたりしました。なぜ、動物の血が必要だったのでしょうか?ヘブル9:22に「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあります。そして、レビ記17章には、「命として贖いをするのは血である。・・・すべての肉の命は、その血そのものであるからだ」と書かれています。罪はただでは赦されません。それ相当の代価、償いをしなければなりません。何か物を壊した場合は、弁償できるかもしれません。でも、物やお金で償えないものがあります。そういう場合、イスラエルの人たちは、清い動物の命である、血を差し出したのです。なぜなら、血はいのちそのものだからです。しかし、動物の血では限界があるとヘブル書は言います。ヘブル9:12「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」。イエス・キリストが、自らを十字架に渡し、ただ一度で贖いを完成されたのです。ヘブル書には「一度」あるいは「一つ」という言葉が、7章に1回、この9章には5回、10章には4回書かれています。イエス様は、一度で、永遠の贖いをまっとうされたのです。英語の聖書は、once for all、「一度で、すべて」となっています。先週の礼拝で、至聖所のことをお話しました。至聖所には契約の箱が置かれていました。契約の箱の蓋は、「贖いの蓋」と呼ばれ、純金でできていました。大祭司は、年に一度、贖罪の日に、ヤギと牡牛の血を携え、「贖いの蓋」に振り掛けて、民の罪の贖いをしました。この「贖いの蓋」こそが、ヒラスティーリオン、「なだめの供え物」であります。つまり、キリストの血によって、私たちに対する神様の怒りがなだめられたのです。神様は御子の死によって、満足したのです。今や、神様は十字架の贖いによって、怒りをひっこめ、どんな罪人でも、あわれみをもって赦されるのです。
ウォッチマンニーが『キリスト者の標準』という本でこのように述べています。「神様に近づく根拠は、いったい何にあるのでしょうか?あなたは、今日は神のために何かをしたというような、感情という不安定な根拠によって神に近づくのでしょうか。それともある確かなもの、すなわち血が流され、しかも神がそれをごらんになって満足しておられるという事実に、根拠を置くのでしょうか。もし、キリストの血に少しでも変化が生じる可能性があるとすれば、あなたが神に近づく基盤は信頼の薄いものとなるでしょう。しかし昔も今も、血には決して変化がありません。また今後もないのです。したがって神に大胆に近づくことができます。その大胆さは血を通してあなたのものとなり、決して自己のわざによって自分のものになるのではありません。今日の、あるいはきのうの、さらに一昨日の功績がどうであろうとも、至聖所へ向かう意識的な第一歩は、必ず、流されたキリストの血という、信頼のおける唯一の根拠に基づくものでなければなりません。その日が良くても悪くても、意識的に罪を犯そうが、犯すまいが、私たちの神への接近の土台は、必ずキリストの血によるのです。この真理は決して変わることがありません」。ハレルヤ!罪の赦しと、神様に近づくことの基礎は同じです。それは、弱いとか、あまり清い生活をしていないとか、関係ありません。キリストの血です。キリストの血こそが、私たちの罪をきよめ、はばかることなく聖所に入ることができるのです。
2.サタンの訴え
サタンとは「神の敵」という意味です。現在、サタンの最も計略的な活動とは何でしょうか。黙示録12:10には、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と、書かれています。そうです、サタンは私たちを神様の前で、訴えるのです。「あの兄弟は、このような罪を犯しました。このまま見過ごしてしまうなら、あなたの義がそこなわれてしまいます。ぜひ、呪いと裁きは、私にお任せください」。ダビデが罪を犯したとき、どのようなことが起こったでしょうか?ダビデは罪を悔い改めて、赦されました。でも、呪いと裁きが、ダビデの家に入り込んでしまいました。剣がダビデの家から離れない。妻たちが取上げられて友のものになる。さらに、Ⅱサムエル12:14「しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」ダビデとバテシバとの間の子供が死ぬということです。その所に「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」とあります。「主の敵」とは、サタンであると考えることはできないでしょうか?サタンは、主の前に出て来て、「ダビデは、罪の刈り取りをするのが当然だ」と訴えたのではないでしょうか。他にも何箇所かそういう記事があります。ヨブ記においては、サタンがヨブを主の前に訴えています。ゼカリヤ書では、大祭司ヨシュアが訴えられています。おそらく、イエス様を裏切った、ペテロもユダも、厳しく訴えられたのではないでしょうか。もし、あなたが罪を犯すならば、サタンが神様の前で、あなたを訴えるでしょう。ついでに、サタンの手下である悪霊は、「お前の罪は赦されない。神様も赦してはくれないぞ!」と耳元で囁くでしょう。
さて、サタンの訴えに対して、キリストの血はどんな力があるのでしょうか。ヘブル9:12「ご自分の血によって」と書いてあります。主は大祭司として、特別な使命を帯び「ご自分の血によって」サタンに立ち向かわれるのです。アダム以来、堕落した人類は、パラダイスの外にいます。人間は、アダムと自分が犯した罪のために、神様の側に立つことができません。神様との間には、深い淵があって、渡ることができないのです。ところが、イエス・キリストの血は、人を神様へ、また神様を人へと結び、両者の関係を回復されます。人は神の恵みに預かり、神様は人の側にいてくださるため、何の恐れもなく、サタンに立ち向かうことができるのです。キリストにある者は、すでに神様の側にいるのです。サタンがあなたの罪を神様に訴える時、神様はどうするでしょうか。神様は御子の血を示されます。「下がれ!お前は、御子イエスの血が、すべての罪からきよめるということを知らないのか」と言うでしょう。サタンは神の御前で私たちを訴えるかもしれません。それに対して、パウロはこのように言っています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:31、33,34)。
それでは、サタンに対する私たちの態度はどうあるべきでしょうか。サタンは神のみならず、私たちの良心にも訴えるでしょう。「お前は罪を犯した。しかも絶えず犯し続けている。お前は弱い。だから神は、これ以上、お前に憐れみをかけることはできない。死んでお詫びをするしかない」。これは、サタンの嘘です。悪魔、サタンは嘘つき、Liarです。多くの人たちは、その声にだまされて、失望し、意気消沈してしまいます。もし、その時、私たちが彼の告訴を認めたならば、直ちに私たちは敗北を食らうのです。私たちがサタンの告訴を容易に認めてしまう理由は、私たちがまだ自分の正しさ(義)に望みを置いているところにあります。私たちは自分の善行によってではなく、いつも血によってサタンに応答すべきです。ある時、宗教改革者ルターは、サタンから訴えられました。サタンは、白い壁一面に、ルターが犯した罪を洗いざらい、書き上げました。そこには、自分が忘れていた罪も示されていました。ルターは驚きました。しかし、ルターはサタンに対して「お前が示した罪は正しい。まったく私はそういう者である。しかし、お前が見逃していることがある。それは、イエス・キリストの血によって、私の罪がすべて赦されたことである。サタンよ、引き下がれ!」と言って、赤いインクを壁に投げつけたそうです。私たちは罪人でした。私たちには何の誉れもありません。でも、キリストの尊い血が私たちの罪を聖めてくださったのです。キリストは今も助け主、弁護者です。もしも、サタンがしつこく、あなたのところに来るならば、こう言ってください。「その件はキリストの血によって既に、解決済みだ。文句があるなら、キリストのところに行ってくれ!」。三歳の子供でも言うことができます。「キリストのところに行ってくれ!」。尊い血に対する私たちの信仰こそが、サタンの告訴を沈黙せしめ、サタンを追い払うことができるのです。
2,30年前に流行った賛美があります。「罪、重荷を除くは、主の力、主の血は、日毎、我をきよむる奇しき力なり。力ある主イエスの血、受けよ、受けよ。力ある主イエスの血、受けよ、今、受けよ」。
3.良心のきよめ
ヘブル9:13,14「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」。「良心」は善悪の判断する神様が与えた恵みであります。しかし、私たちの良心は絶対的な基準を持っているわけではありません。親のしつけや先生の教え、あるいは社会通念によって、多大な影響を受けます。ですから、ある場所に行けば「それは悪い」と言われるし、別な場所に行けば「そんなの悪くない」と判断されたりします。私は小学校まで、ご飯を食べるときは正座をしていました。あぐらをかいてご飯をたべることは悪いことだと思っていたわけです。ま、そのくらいは良いとしても、大人になりますと、さまざまな問題に出くわします。たとえば、結婚前の性交渉、中絶、離婚などモラルの問題は、どんどん変わります。そんなの罪じゃないと人々は言うかもしれません。クリスチャンでさえも、この世の基準に合わせようとするでしょう。そういう場合、私たちは、良心をみことばに合わせなければなりません。世界の標準時刻は、グリニッジ天文台であると勉強したことがあります。それと同じように、私たちは良心を、聖書のみことばに合わせる必要があるのです。また、私たちの良心はアダム以来の罪を帯びています。これを聖書は「汚れた良心」あるいは「邪悪な良心」と読んでいます。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」。「邪悪な良心」は、キリストの贖いの力では満足せず、善行や宗教的な行為を加えて、安心しようとします。たとえば、奉仕や献金、伝道すらも、良心の責めから逃れるための行為になります。これだけ良いことをすれば、前の罪と差し引きゼロになるんじゃないかと思ったりします。聖書に出てくるパリサイ人は、「私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」と神様に報告しています。彼の自己義認は、自分の邪悪な良心をごまかすための行為だったのかもしれません。みなさんのほとんどは、毎週教会に来られていると思います。それは、すばらしいことです。でも、何かやましいことをしている人は、教会から遠のくかもしれません。なぜなら、「私のような罪を犯していては、もう神様の前に出ることはできない」と考えるからです。つまり、キリストの完全な贖いよりも、自分が犯した罪の方が重いのです。このように「汚れた良心」は、善行や宗教的的行為、自己義認、あるいは過度の罪責感へと駆り立てて行きます。世の宗教は、人間が元来持っている、「汚れた良心」に訴えるところがあります。
しかし、聖書は何と言っているでしょうか。ヘブル9:14「その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」と書かれています。また、ヘブル10:22「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、・・・全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」と言われています。2つの聖句に共通していることは、キリストの血が私たちの汚れた良心をきよめて下さるということです。どういうことかと申しますと、神様と私たちの間にある罪責感、罪意識が取り除かれるということです。つまり、自分の良心の思いとは関係なく、私たちはキリストの血によって、いつでも神様のところに近づけるという確信が持てるということです。もう一度くりかえします。キリストの血が、私たちの良心に注がれると、罪意識が取り除かれ、神様に対して、もはや良心のとがめを持たなくなるのです。ウォッチマンニーは「くもりなき良心は、決して私たちが何ごとかをすることによって得られるものではなく、主イエスが血を流すことによってなされたみわざにのみ基づいているのです」と言いました。もし、私たちの行ないや感情によって、神様に近づこうとするなら、いつそのことがかなうか分かりません。でも、キリストの血の注ぎを受けるなら、咎めが去り、「ハレルヤ!主よ、あなたがいつも私を愛していることを感謝します」と告白できるでしょう。私は飛行機を操縦したことはありませんが、パイロットは計器だけを見て飛ぶ訓練を受けるそうです。例えば、真っ暗な海の上を飛ぶときは、自分の飛行機が水平なのか、斜めなのかわかりません。どのくらいの高度で、どのくらいの速さで飛んでいるのかも分からないでしょう。そういうときは、自分の感覚ではなく、計器だけを見て操縦するわけです。自分の感覚が「高度が落ちているぞ、もしかしたら墜落するんじゃないだろうか」と告げるかもしれません。でも、パイロットは、高度計を見て「大丈夫だ、心配ない」と自分に言いきかせます。あなたの良心が、「今朝、あなたは妻と口論したので、賛美の奉仕にふさわしくない」と言うかもしれません。「おお、主よ、私の罪をお赦しください。私はイエス様の血がすべての悪からきよめてくださることを信じます。イエス様、あなたの血によって、大胆に神の御座に近づくことができることを感謝します。アーメン」。このように、私たちはその日が良くても悪くても、意識的に罪を犯そうが犯すまいが、キリストの血によって、いつでも、はばかることなく、御座に近づくことができるのです。
きょうは、キリストの血の効力についてお話ししました。ある人たちは「血?なんて野蛮なんだろう」と敬遠するかもしれません。この世の宗教は血のことは話しません。ためになる教えを説いたり、ありがたいお経を唱えてくれるかもしれません。しかし、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。なぜなら、罪は命である血でしか贖えないからです。キリストの血こそが、神の怒りを和らげ、サタンの訴えを封じ込め、良心の咎めを取り去ることができるのです。世の人が何と言おうと、キリストの血こそが、罪と悪魔に勝利できる力なのです。