現在、世界には約20億人のクリスチャンがいると言われています。日本は100万人以下、1%以下のクリスチャン人口ですが、やがて来るリバイバルの恩恵を受けたいと思います。そのためには、働き人を養成することが必要です。ルカ10章2節「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」を中心に、2つのポイントで学びたいと思います。
1.働き手が少ない
イエス様は「収穫が多いが、働き手が少ない」とおっしゃいました。なぜ、このようなことを言われたのでしょうか?その背景が、ルカ9章57節以降に書いてあります。何度か申し上げたことがありますが、聖書そのものには「章」とか「節」は書かれていません。これは、後代の人が便利だから付けたのです。みんなで読むとき、聖書箇所を説明するのにとても便利です。しかし、章を付けると、前から連続している出来事を分断してしまいます。きょうの箇所は、まさしくそのことを示してくれています。ルカ10:1「その後、主は別に72人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」とあります。「その後」というのは、「前に何かあった後に」という意味です。また「別に72人を指名して」とありますが、なぜ「別に」と言われたのでしょう?「本当は、指名したかった人たちがいたのに、叶わなかった」というニュアンスがこめられています。このところは「12弟子の他に72人を選んだ」と解釈しがちですが、前の箇所から連続してみるとそうではなことが分かります。別に72人を指名した理由が、9章57節以降に記されています。では、どんな人が自ら働き人に志願し、あるいはどんな人をイエス様は働き人にリクルートされたのでしょうか?
9章57節からの人物は「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」とイエス様に志願しました。こんな人がいるなんて、とてもすばらしいことです。でも、イエス様は彼の心を見抜いてこのように言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」。何故、イエス様はこのようなことを彼に言ったのでしょうか?彼は「イエス様について行っても良いが、この先の生活はどうなのだろう?寝るところや生活費はどうなるのだろう?」と心配していたのです。現代では、教会が牧師を招聘するとき、いろんなことが協議されます。「牧師給はいくらか、住居はどうか、車はあるか、社会保険、退職金積み立て、その他の厚生面はどうか?」私はこのところに来たときは、当教会は日本基督教団であったので、こういうことがはっきり決められ、非常に常識的でした。ところが、根本主義の教会は、昔ながら「信仰一本槍」のところがあり、薄給で霞を食べて生きなければならないところもあります。この人物は常識的な人であり、その後の生活の心配をしていたのでしょう?だから、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」とおっしゃったのです。言い換えると、「寝るところや生活費は、きっと与えるだろうけれど、そうでもないときもあるよ」ということです。この人は、イエス様のことばに驚いて、辞退したことでしょう。
次の人物は59節からです。今度は、イエス様の方から「私に従って来なさい」と言われました。ところが、彼は「まず行って、父を葬ることをお許しください」と言いました。彼は「まず」と言っていますが、欽定訳は”Lord, let me first go and bury my father.”「主よ、最初に行って、父を葬らせて下さい」と書いてあります。「主よ」と言っているのですから、ちゃんとした信仰があります。でも、first「最初に」と言っていますので、イエス様に従うことが二番目になっているということです。おそらく彼はその家の長男であり、他の兄弟よりも遺産の2倍を受けることができます。しかし、葬儀に間に合わない場合は他の兄弟たちと同じになります。そんなわけで「最初に」と言ったのでしょう。でも、イエス様はきついことをおっしゃっています。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」彼の父は確かに死んでいたでしょう。でも、「死人たちに…死人を葬らせなさい」とはどういう意味でしょう?彼らは肉体的には生きているかもしれないけど、霊的には死んでおり、死んだ父と同等であるということです。それよりも、「生きる人を捜し当てるために出て行って、神の国を言い広めなさい」ということなのです。ある人が「福音宣教とは今死なんとしている人が、今死なんとする人に福音を伝えることだ」と言いました。「福音を伝える人も、福音を聞く人もそう長くはない。両者とも明日まで生きていないかもしれない」ということです。クリスチャンでも、「ああ、あの時、福音を伝えておけば良かったなー」と後悔している人がたくさんいると思います。
三番目の人は「主よ、あなたに従います。ただ、まず自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」と言いました。彼は「あなたに従います」と言いながら、「まず」と言い訳をしています。イエス様は「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」と言われました。このことを考えますと、彼はイエス様に従うと言いながら、後ろを向いているということです。相反する二つのことを同時に行うことは不可能です。ヤコブは「そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです」(ヤコブ1:8)と言っています。決断を英語では、decisionと言いますが、これは「一方を選らんだなら、もう一方は殺す」という厳しい意味があるそうです。たとえば、私が牛乳を選んだなら、コカ・コーラは飲まないということです。「いや、両方いただきます」と牛乳とコカ・コーラを混ぜたら気持ち悪くなります。結婚も同じで一人の女性を選んだなら、全世界の他の女性を捨てなければならないのです。その反対も同じです。つまり、「イエス様に従うことを選んだなら、家の者たちのことは考えない。神さまにお委ねする」ということです。
私の家内の京子さんはまさしくその決断をせまられたようです。私が座間キリスト教会に来て、間もない頃ですが、京子さんは看護師をやめて、神学校に通いつつ、教会で奉仕をしていました。ある時、京子さんのお母さんが上京して来て「このために、看護学校に通わせたのではない」と迎えに来ていました。私は「ああ、大変だなー」と遠くから見ていました。恐らく「せっかく看護師になったのに、それを辞めて教会で働くとは何事ぞ!」と思ったのでしょう。度々、座間に来ていましたが、青木姉妹に誘われて、教会の礼拝にも出るようになりました。その二年後くらい、私と京子さんが結婚することになりました。でも、教会で奉仕をしながら看護師にも復帰し、可愛い孫まで生まれたので、諦めたのではないかと思います。お母さんは仲人の青木姉妹に導かれてイエス様を受け入れました。洗礼を受けたのは、それから30年後、80歳になってからです。京子さんはイエス様の召命を受けて、何もかも捨てて従ったのです。結婚も主にささげていたので、私のような者でも、「主のお召しだったら」と十字架を負って従ったのでしょう。聖書学院では本科生に行きたかったのですが、大川牧師に止められて教会献身者になりました。最初は信徒伝道者の私と結婚したのですが、やがて私が牧師になり、彼女は牧師夫人になりました。すべてを捨てて従ったので、子どもたちが与えられ、牧師夫人にもなったのではないかと思います。これは、私の見解ですが、本人はどのように思っているかは定かではありません。私もそうですが、主の召しを第一にして従うなら、すべてのものは与えられるということです。創世記にアブラハムがひとり子イサクをささげたら、主は藪の中に雄羊を用意しておられました。アドナイ・イルエ、「主の山には備えがある」ということです。
とにかく、この箇所を読むと、三人の人たちがイエス様に従うことを辞退したと想像できます。そのためイエス様は「別に72人を指名し…収穫は多いが、働き手が少ない」と言われたのでしょう。12弟子に対して「別に72人を指名し」とも解釈することもあります。でも、ルカ福音書を見るといろんな人を召したけど、着いて来なかったので「別に72人を指名した」と解釈することが妥当です。3人はダメだったけど、他に72人がいたということはすばらしいことではないでしょうか?72は12の6倍にあたります。つまり、12人の群れが、新たに6つ作られたということでしょう。今から30年くらい前、富士吉田で弟子訓練会がありました。そのとき、蒲郡教会から「刈り取り伝道」を教えてもらうことになりました。出席していた牧師が数チームに分かれ、蒲郡の数名のスタッフにくっついて路傍伝道をしました。私は遠藤牧師に連れられ、JR富士吉田駅で伝道しました。冬だったので、駅の待合室はストーブを炊いていました。勇気を出して、隣のおばさんに声をかけました。決断には至りませんでしたが、聖書のお話をすることができました。おそらく、72人の新兵たちは、12弟子たちの指導を受けながら伝道したのだと思います。あとの記事を読むと「悪霊が追い出されたりして」大盛況だったことが分かります。今日も、イエス様を信じてはいても、イエス様の伝道のために全面的に従うかどうか自由に選択することができます。でも、「イエス様に100%従う弟子にならなければならないのか?」と聞かれると即答はできません。はっきり言えることは、神の国にふさわしい人というのは、イエス様だけを見て、他のものを二の次、三の次にする人です。パウロは「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし…」(ピリピ3:13)と言っていますが、主イエスの召命を第一にすることがシンプルで、信仰的には最強の選択です。
2.収穫の備え
ルカ10:2「そして彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」このところで言われていることは何でしょう?私はこれまで、「収穫を与えてください」とお祈りしてきました。収穫というのは、大勢の人たちがイエス様を信じて救われるということです。日本の教会はクリスチャン人口が1%もいません。プロテスタントが明治の初期に入ったのですから、160年以上もたっています。隣の韓国は1970年頃からリバイバルが来て、ソウルは30%がクリスチャンだと言われています。私は2度行ったことがありますが、あちこちに十字架が見えます。アルゼンチンやアメリカの各地にもリバイバルが起きました。日本の福音派は『教会成長』という名目で、アメリカの大教会からその秘訣を学ぼうとしました。しかし、1万人の教会の方式を100名にも満たない教会に取り入れてもやはり無理がありました。私も弟子訓練、セルチャーチ、癒しと解放を学びました。しかし、当亀有教会の礼拝は相変わらず60名前後です。私は「うまくいかなくっても」というクリスマスの賛美で泣きました。しかし、それから新型コロナウイルスが日本にもやってきました。ほとんどの教会の伝道活動が制限されました。ところが、私は時間ができたので、ビルジョンソンやクリス・バロトンの本を読み、それを翻訳することに目覚めました。今現在(2026.2.8)、100冊以上の本を訳し、製本し、大和カルバリーに送りつけています。そして、今から3年前ですが、マイク・ビッケル師の”Growing in Prayer”『祈りの中で成長する』という本を訳しました。大川牧師もマイク・ビッケル師のことをご存じであり、「その本を早く読みたい」とリクエストされました。読んだらびっくり、この終末の時代、10億人の人たちが救われるリバイバルが起こると書いてありました。私は「これは、まゆつばものだ」と思いました。でも、その三年間、ビルジョンソン系の本を読んでは訳してきたので、落ち込みからすっかり解放されていることが分かりました。「うまくいく、リバイバルは必ず起こる」という信仰にまで回復しました。
どうしてこのようなことを言うか、聖書に根拠があります。旧約聖書に「後の雨」という表現が度々出てきます。ヨエル書2:23「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。」乾燥地帯のパレスチナでは大雨が二度降ります。10月から11月に降る雨を「初めの雨」というのですが、その時、人々は麦の種を蒔きます。そして、3月から4月にかけて降る雨を「後の雨」と言います。土地がひからびていますので、この雨は収穫前に降らなければなりません。この雨が降ることによって、穀物に豊かな実りをもたらすのです。「初めの雨」というのが、ペンテコステの日、3000人が救われて、初代教会が誕生した出来事を象徴しています。では、「後の雨」いうのはいつなのでしょうか?ゼカリヤ10:1 「【主】に雨を求めよ、後の雨の時に。【主】は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」このことばは、終末の時代に成就する預言です。解釈すると、世の終わり、イエス・キリストが再び来られるとき、大雨が降り、大勢の人たちが救われるということです。奥山実師は「雨は二度降る」という教えをしておられます。最初の雨はペンテコステです。その後は、パラパラと降るというのです。歴史を振り返りますと、16世紀、ルターの宗教改革の時、雨が降りました。18世紀、ジョンウェスレーの時も雨が降りました。19世紀からアメリカの各地に雨が降りました。20世紀には中国やインドネシア、アルゼンチンにも雨が降りました。でも、それらは大雨ではなく、パラパラとしか降っていない雨です。しかし、今やイスラエルの国が独立し、世の終わりの前兆がはっきりしています。まもなく第三神殿が建てられ、「不法の人」が立つかもしれません。イエス様はマタイ24章で「御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証され、それから終わりが来ます」と言われました。現在、12,000の部族の原語に聖書が訳され、福音が届いています。直接行かなくても、インターネットや電波によって世界中に福音が届いています。現在最も顕著なのが、アフリカでありどの部族にも福音が届いて、大勢の人たちが救われています。問題は赤道近くに住む、イスラム教徒たちです。そこは、最も宣教が難しい場所であり、子どもが信じたら親から殺されていまいます。でも、イエス・キリストが超自然的に彼らの前に現れ、彼らはパウロのように倒され、起き上がったときはキリストを信じているのです。
それはともかく、日本です。マイク・ビッケル師の”Growing in Prayer”『祈りの中で成長する』から学んだことが2つあります。後の雨、キリストが再臨される前は、10億人が救われるので、どんな未信者も救われるチャンスが訪れるということです。聖霊の傾注が著しいので、人々は「救われるためには何をしたら良いでしょうか?」と私たちのところにやってくると言います。学んだことの1つは、「祈る」ということです。イエス様は「収穫のために祈れ」とは言っていません。収穫のことは問題がありません。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われました。ですから、働き手が与えられるように祈るということです。働き手とは、福音を伝えて、救いに導くということです。祈っていると「私も働き手に召されているのではないだろうか」と思うようになります。宣教への情熱が自然に湧いてくるということです。私もそうでしたが、「祈るだけで良いのだろうか?」とあまり祈らないできました。でも、マイク・ビッケル師の本を読んでから、祈るようになりました。祈ると、神さまの心が分かり、失われている人たちへの愛が増し加わります。第二番目は備えるということです。世の人々が「救われるためにはどうしたら良いでしょうか」と私たちのところにやって来ます。なぜなら、聖霊が「罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさる」(ヨハネ16:8)からです。使徒の働きを見ると、ペテロにユダヤ人が「私たちはどうしたら良いでしょうか?」と尋ねました。ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒2:38)と言いました。「悔い改め」の意味は、個々の罪を告白することではなく、「私は罪人です。キリストを必要としています」という方向転換のことを意味します。使徒16章ではローマの看守がパウロたちに「救われるためには、何をしなければなりませんか?」と聞いています。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。そして、看守とその家族はその夜、バプテスマを受けました。両者とも、とてもシンプルなのに驚かされます。私も2000年過ぎ、ゴスペルでたくさんの人たちが救われましたが、洗礼準備会なしでバプテスマを受けた人もいます。
そこで、私たちが必要なのは、入信に導く際、どうしても理解してもらわなければならないことがあります。私たちクリスチャンは重要なポイントをあらかじめ知って、それを伝える必要があります。もし、リバイバルが起こったら牧師一人では扱いきれません。「救われるためにはどうしたら良いでしょうか」と詰めかけてやってくるからです。有名な『四つの法則』というのがあります。これは全く興味のない人には無理ですが、救いを求める人には有効です。第一は聖書の神は唯一であり、創造主だということです。日本人は神社や偶像の神様しか思い浮かべないからです。第二は、私たちには罪があるので、神さまのところに行けないということです。ここでいう罪は犯罪ではなく、神を信じず、自己中心で生きていることです。第三は、イエス・キリストです。神様はご自分のひとり子、イエス・キリストを地上に送って下さったということです。イエス様は私たちの罪を負って、代わりに十字架で死んでくださいました。そして、三日目にイエス様はよみがえり、罪と死の問題を解決してくださいました。第四は、このキリストを信じるということです。キリストはあなたの救い主であり、主(神様)です。この方を心にお迎えすることが信じるということです。イエス様はあなたの心のドアをたたいています。あなたが決断するなら、イエス様はあなたの心に入って下さり、永遠のいのちをあなたに与えてくださいます。神さまを信じたいという人には『四つの法則』はとても有効です。多くの人たちは、「信じます」と言うことを、自ら言うことができません。ですから、オウム返しに祈ってもらいます。そのとき、あまり複雑にしてはいけません。「イエス様、私のために十字架にかかり罪を解決してくださってありがとうございます。私はイエス様を救い主、人生の主として受け入れます」と祈り、それをオウム返しに祈ってもらいます。最後に、ひとことでも、その人の口で「信じます」と告白してもらうと万全です。収穫は問題ありません。働き手が与えられるように、また自らも働き手になれるように祈ることです。そうすれば、向こうから勝手に「救われるためにはどうしたら良いでしょうか?」とやってきます。説得したり、説教する必要はありません。自分たちが信じているキリストを信じてもらえば良いのです。議論をしないで、「祈りましょう」と祈りの中で、導いても良いのです。その時、聖霊が自分にも相手にも働いてくださり、「信じる」気持ちになるのです。最後は「信じます」という告白をいただくだけです。世の終わりは、人々に飢え渇きが与えられ簡単に救われます。先週の金曜日の早朝夢を見ました。13人の高校生が教会にやってきて、洗礼を受けたいというのです。ガウンを着て、彼らを横一列に並べながら、洗礼準備会はどうしようかと迷っていました。主は終わりの時代、夢と幻によって宣教活動を励ましてくださいます。