2024.11.3「神の戒めを守る Ⅰヨハネ5:1-3」

私たちはキリストを信じることによって、罪赦され、永遠のいのちをいただきました。これは一方的な恵みであり、神からの賜物です。では、救われた私たちはどのようなことをして、どのようなことをしてはならないのでしょうか?まさか、自分勝手に自分の思い通り生きてよいということではないでしょう?神さまの指針というかガイド・ラインはどこにあるのでしょうか?私は、神さまの指針にあたるものが命令であり、戒めではないかと思います。

1.戒めは必要か?

私は、口語訳のほうが原書に近い訳だと思います。Ⅰヨハネ5:2,3「神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」ギリシャ語のエントレーはマタイ5:19「戒め」と訳されています。マタイ22:26「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と律法学者がイエス様に尋ねています。「戒め」とは十戒のことであり、英語の聖書はcommandmentです。つまり、ヨハネが言っている「命令」は、「戒め」であり、「律法」とも訳すことができます。なぜ、私がこのようにこだわるかと言うと、クリスチャンは「旧約聖書の十戒を始めとする律法を守る必要があるか」という問いです。確かにパウロは、ガラテヤ書3章で「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました…しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係りのもとにはいません」と述べています。つまり、律法はクリスチャンには不要であると解釈することができます。また、ローマ7章でパウロは「しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。…私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました」と告白しています。パウロは律法や戒めは良いものであると認めていますが、自分はそれを行う力がない、むしろ自分が憎んでいることを行っていると告白しています。ローマ8章にその解決があり、いのちの御霊の法則に従えば、罪と律法から解放されるということです。しかし、私たちは誤解しているところがあるかもしれません。「律法や戒めは悪いものだ。古い契約であり、もう私たちには不要である」と考えておられるでしょうか?律法主義は確かに悪ですが、律法自体は悪ではありません。パウロは「律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです」(ローマ7:12)と言っています。イエス様もマタイ5章で「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」(マタイ5:18,19)と言われました。

戒めや律法は永遠のものであり、信仰を持った後も必要だということです。なぜなら、それらは私たちが幸いに生きることができるように神が定めたものだからです。神さまはこの世界を造られたとき、一定の法則を与え、それは今も続いています。同じように、神さまは人間を造られたとき、道徳的な法則を与え、それは今も続いています。イエス様が「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」とおっしゃったとおりです。たとえば、十戒の五番目では「あなたの父と母を敬え」と命じられています。では、それを守るならどうなるのでしょう?「あなたの日々が長く続くようになる」つまり、祝福されるということです。さらに、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、隣人のものを欲してはならないと続きます。他にもたくさんの律法や戒めがあります。でも、それらは私たちの自由を奪うためにあるのでしょうか?確かに、律法や戒めは「あなたには罪がありますよ」ということを教えてくれます。自分に罪があることを知り、キリストによる救いをいただくことができました。でも、救われた後も律法や戒めが必要なのです。なぜなら、私たちがそれらを守って生きるなら、罪や災いから守られ、幸いを得ることができるからです。この地上には70億以上の人たち生きていますが、過半数の人たちが「そんなの関係ない」と律法や戒めを無視して生きているでしょう。確かに人が定めた法律があるので、不要と思われるかもしれません。でも、その根拠がどこから来ているのか分からないので、だんだん変質していきます。特に倫理的な戒めは時代とともに変わります。レビ記18:22「あなたは、女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである」と書かれています。パウロもローマ1章で「男と男が恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています」と言っています。ところが、時代が進むと、同姓婚も許されるようになり、ヨーロッパやアメリカもそうですが、キリスト教会がそれを認めています。本来、「性同一性障害」は、傷害であり病気なのですから、正常になるように治療する必要があるのです。多様性だとか、少数派の尊重だとか言っていますが、聖書の戒めから逸脱していることを知るべきです。   

 戒めや律法は神さまが私たちに「この範囲内で生きなさいよ」と定めた道路のガードレールのようなものです。それを逸脱することを、trespass「不法」と言います。箴言10:29「主の道は、誠実な人には砦、不法を行う者には滅びである」と書かれています。戒めや律法は私たちの自由を制限したり、束縛したりするために与えられたものではありません。魚は水の中で生きるように造られました。魚が水を出たなら死んでしまいます。「あなたがたが、神が定めた制限内で生きるなら、安全に生きてゆけるよ」ということなのです。詩篇119篇は神の戒めや律法を賛美している書物です。詩篇119:15,16「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に目を留めます。私はあなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません」。詩篇119:67「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります。」私たちは痛みや苦しみに会わないと分からないところがあります。私もこれまでたくさんの授業料を払ってきました。でも、滅びないで生きてきたのは、主のあわれみであると感謝しています。哀歌3:22「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」アーメン。

2.なぜ、戒めを守るのか?

Ⅰヨハネ5:3「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」口語訳は「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」とあります。一口で言うなら、「神さまを愛しているので、戒めを守るのができる」ということです。言い換えると、神の戒めを守っている人は、神さまを愛している証拠であるということです。一般に、「命令や戒めを守れ」といわれると、嫌な思いをします。これは、ローマ7章で言われている、私たちの肉(罪)が反応するからです。でも、その人が、「命令や戒めは、神さまが私たちを愛しており、私たちを守りたいからだ」と理解したなならどうでしょう?納得できなくても、「従おう」と思うでしょう。でも、神さまに対する反逆心や不従順な思いがあるならどうでしょう。「ちょっとくらい破ってもかまうもんか!」と、破ってしまうかもしれません。旧約聖書にサウルとダビデと二人の王様が出てきます。主はサウルに「アマレクの家畜を全部、滅ぼし尽くしなさい」と命じられました。ところが、サウルは肥えたものを惜しんで殺しませんでした。後から彼は、「部下が勝手にやったのです。いけにえのためにとっておいたのです」と言い訳しました。また、ペリシテとの戦いの前に、祭司しかできないいけにえをささげてしまいました。理由は約束の日になっても、サムエルが来なかったからです。その後、「私は罪を犯しました。しかし、どうか私の民と長老とイスラエルの前で私を立ててください」(Ⅰサムエル15:30)と願いました。彼は真から悔い改めてはいなかったのです。一方、ダビデはどうでしょうか?彼はサウルよりももっと大きな罪を犯しました。自分の部下の妻を奪い、夫が戦場で死ぬように仕向けました。その後、彼女を妻として王室に迎えました。預言者ナタンから罪を責められたとき「私は主の前に罪あるものです」と告白しました。しかし、旧約聖書には「主はダビデを愛された」ということばが何度も出てきます。ダビデの方も主を心から愛していたことがわかります。ダビデは罪を犯しましたが、主の戒めを心から守ろうと努力した人です。そして、そのことがイスラエルの模範的な王として、高められることになったのです。

「神の命令(戒め)を守ることは神を愛することです」は、ヨハネが伝えた真理です。たとえば、両親から愛されている子どもは、喜んで両親の言うことを聞くでしょう。反抗するときもあるでしょうが、親の愛に応えようと努力するでしょう。問題は、神さまが私たちを愛していることを知っているかどうかです。エバはへびから誘惑されたとき、「神さまはケチなんだ、善悪の知識をひとりじめしようとしているんだ」と思ったのでしょう。イスラエルの民がエジプトから奇跡的に脱出することができました。しかし、1週間もたたないうちに「水がない、食べ物がない」と不平をもらしました。やがて不満がつのった彼らは「主は私たちを荒野で死なす気なんだ」と言いました。イスラエルの民の失敗は、私たちへの教訓です。ヘブル4:1「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。」このところに、「恐れる」と書かれていますが、これは神を恐れると言うことです。何かの間違いではないでしょうか?神を愛するではなく、神を恐れるとは、どういうことでしょう。旧約聖書ではたびたび、「主を恐れる」という表現が出てきます。しかし、それは主を愛することの、裏返しの表現であり、それら二つは矛盾していないのです。主を愛する人は、同時に主を恐れるのです。どういう意味でしょう?私たちが命令や戒めを守るのは、主を愛すると当時に、主を恐れるからです。それは、「罪を犯したら、罰を受ける」という恐れではありません。モーセが山で十戒を受けるときは、雷鳴と稲妻を厚い雲が山の上にありました。角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民は震え上がりました(出エジプト19:16)。イスラエルの民は主の愛を知らないのために、怖がって近づこうとしなかったのです。しかし、主は聖なるお方ですが、へりくだった者とともに住んで下さるお方です。幸いなことに、新約聖書の私たちはキリストの贖いによって、神さまを「アバ、父よ」と呼べる存在になりました。だからと言って、神さまをナメてはいけません。ある人たちは神さまを「天パパ」と呼んでいるようですが、私は反対です。そこには、どんな甘えも許されるような、イメージがあります。私たちは、神さまを愛していますが、同時に神さまを恐れています。それは、むやみに罪を犯さないということです。

イエス様は父なる神さまから「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」(マルコ1:11)と言われました。その直後、悪魔の試みを受けられました。悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。神はあなたのために御使いたちに命じて、足が石に打ち当たらないようにする」と言いました。もちろん、父なる神は、愛する御子イエスのために、そのようにしてくださるでしょう。でも、イエス様は「あなたの神である主を試みてはならない」とその誘惑を退けました。もし、高いところから落ちたら、重力の法則で体が砕けて死んでしまいます。神さまはご自分が作られた自然の法則に逆らって、イエス様を支えることも可能です。でも、イエス様は神さまの愛を試すようなことはしませんでした。私たちにとってそれは、神を恐れるということと同じです。罪を犯したら、それだけの損害をこうむります。相応の罰も受けるでしょう。でも、私たちはあえて罪を犯しません。なぜなら、神さまを愛し、神さまを恐れているからです。イエス様はマタイ6章で「隠れたところで見ておられるあなたの父が、報いてくださいます」と言われました。これは、良いことであっても、悪いことであっても報いてくださるということです。神を恐れるとは、人が見ていようと見ていまいと、一貫した生き方をするということです。でも、それは神さまの罰を怖いからではなく、神さまを愛しているからです。神さまは私たちを愛しているので、間違って犯した罪を弁護してくださいます。神さまは横暴で、気まぐれなお方ではありません。私たちを一貫して愛しておられるお方です。私たちは神さまの愛を受けているので、神から与えられた命令や戒めを喜んで守るのです。神の命令は重荷とはなりません。私たちは重力を受けていますが、重力がない方が良いと思うかもしれません。でも、重力があるからこそ物質は安定し、私たちも立って歩けるのです。

3.戒めを守ることの保証

第三は、なぜ私たちが神の命令と戒めを守ることができるかというその保証について学びたいと思います。Ⅰヨハネ5:1-3「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」このところに、私たちがなぜ、神の命令と戒めを守ることができるのかという保証が記されています。それは、私たちが神から生まれたからです。神から生まれた者は神を愛し、神の命令を守ることができるのです。最も、重要な根拠は、神から生まれたということです。これは、驚くべき真理であって、このまま読み過ごすわけにはいきません。この世の人たちに、「あなたはどこから生まれましたか?」と聞くとどう答えるでしょうか?「はい、私は自分の両親から生まれました」と常識のある人はそう答えるでしょう。でも、クリスチャンが「私は神さまから生まれたんですよ」と答えるならどうでしょう?大笑いされるか、「あなたは頭がおかしいんじゃないの?」と馬鹿にされるでしょう。でも、ヨハネは「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」とはっきり言っています。ギリシャ語聖書では、生まれるは、ゲネオウです。本来は男に用いられ、子を儲けるという意味です。英語の聖書はGod has been begottenとなっています。「神が生んだ」という完了形です。どこかで、この表現を聞いたことがあるでしょうか?そうです。ヨハネ3章16節 only begotten Son「ひとり子」であります。パウロが神の子というとき、adoption養子縁組という法的な用語を用いています。ところが、ヨハネの場合は、「神から生まれた」と言うとき、生命的な意味で言っているのです。つまり、神からいのちが与えられて生まれたということです。これってすごいことではないでしょうか?

ヨハネは神から生まれたことをこのように表現しています。Ⅰヨハネ3:9「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」なんと、「神の種がその人のうちにとどまっている」といっています。種というギリシャ語は、「スペルマ」と言い、精子のことです。しかし、その種は他に、「神のことば」「神の霊」「神の新生命の芽」とも訳されるようです。でも、私は父なる神から生まれたのだったら、保健体育で習う「スペルマ」で良いと思います。なぜなら、「スペルマ」には父方の遺伝子が組み込まれているからです。つまり、私たちは法的な意味での神の子(養子)だけではなく、生命的な意味で神の子であるということです。なぜなら、神の種が宿っているからです。アーメン。でも、これはどういう意味なのでしょうか?エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」と書かれています。これはまさしく、聖霊によって新しく生まれるということです。さらに、エレミヤ31:33「私は、私の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す」と預言されています。かつて、神さまは石の板に律法を書き記しました。しかし、それではだめでした。なぜなら、心が変わっていなかったからです。道徳も同じで、「外側からあれしなさい、これをしてはいけない」といわれてもいのちがありません。神さまは最終的な解決として、神の種である神のいのちを私たちに与えてくださいました。それだけではなく、新しく生まれるとき心の板に律法を書き付けてくださったのです。これこそが、神さまの究極的な救いであり、命令と戒めを守る保証であり、それはいのちなのです。保証とはいのちです。いのちがなければ、神の戒めを実行できないのです。しかし、神のいのちがあるなら、外側から言われなくても、おのずとできるようになるのです。もっとも重要なのは、いのちです。

私は25歳のときイエス様を信じて洗礼を受けました。あまりの変わりようで、付き合っていた彼女も、同郷の友人も私から離れていきました。「鈴木はキリスト教にかぶれて、頭がおかしくなった」と思われたのです。確かにそれまでは、面白おかしく人生を生きてきました。しかし、キリストが道、真理、いのちだと分かったとき、すべてを捨てて、このお方の弟子になりたいと思いました。親たちは、道徳的で立派な人になるようにと、子どもを日曜学校に送ります。ところが、いざ、洗礼を受けるとなると、ストップをかけます。なぜでしょう?「偏った子どもにしたくない。もっと広い視野を持ってほしい」ということです。確かに世の中にはいろんな考えがあり、見方があります。しかし、すべてが相対的です。イエス様は私がthe truth, the way and the lifeと言ったのです。Theというのは、絶対的であり他はないという意味です。たしかに、世の中から見たら狭いかもしれません。でも、中に入ったなら奥が深くて、この世では味わえないものがあります。パウロはエペソ3章で「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っています。アーメン。この世においては、人がいくら外側から命令や戒めを与えても、守れないことはじゅうじゅう知っているでしょう。アダムの子孫は神に反逆して生きているので、かしこい悪魔のような存在になっているのです。彼らが得た知識と知恵によって、どうやったら法律に触れないで悪いことができるか考えています。彼らは神の目のよりも、人の目を恐れて生きています。ばれなければ良いだろうと、隠れて悪い事を行います。しかし、クリスチャンは違います。私たちを愛しておられる神さまを恐れて生きています。人が見ていようと、見ていまいと一貫した生き方をします。なぜなら、隠れたところで見ておられる父なる神さまが報いてくださるからです。神さまが報いてくださるとは何と幸いでしょう。私たちは神から与えられた律法や戒めを感謝して受け止めます。なぜなら、それらは私たちが安全に暮らせるように、神さまが与えてくださった定めだからです。世の中から見たら確かに窮屈に見えるかもしれません。ところが、神さまの中には豊かないのちがあり、喜びがあり、平安があります。それこそ本当の自由です。私たちは神さまの中にとどまって生きるとき、本当の人生が与えられます。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」アーメン。