value「バリュー」というのは、価値観という意味です。聖書は私たちがより良い価値観を持つための大きな助けになります。そして、Core value「コア・バリュー」というのは、私たちの「核となる価値観」です。基本的価値観と言っても良いでしょう。ところで、私は二つの顔を持っています。鈴木靖尋という自然人です。もう一つは宗教法人の代表役員です。言い換えると、教会の牧師です。私は一人の人間としてのコア・バリューを持って生きています。が、同時に亀有教会の牧師として、聖日礼拝の説教もしています。ということは、説教と牧会の在り方にも、個人のコア・バリューが影響しているということです。きょうは私が個人として、牧師として、大事にしている4つのコア・バリューをお分かちして、聖日礼拝のメッセージと替えたいと思います。
1.恵み
私が信仰生活において最も大事にしているコア・バリューは「恵み」、「主の恵み」です。エペソ2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。「恵み」というのは、価なしに与えられる幸いという意味です。私たちの救いはイエス・キリストを信じるだけで、与えられるものであり、私たちの行いではありません。言い換えると、律法を行うことによってではなく、信仰によって与えられるものです。これは、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙にも記されている「信仰義認」のことです。しかし、恵みは救いの一点にとどまらず、救われた後の信仰生活においても有効なのです。ある教会においては、洗礼を受けた後、聖書を読むこと、礼拝に出席すること、献金、奉仕、祈り、きよい生活・・・を指導します。悪いことではありません。しかし、それらが律法主義になってしまう恐れがあります。パウロは「律法は良いものであることを知っているが、私にはそれを行う力がない」(ローマ7:12-18)と言いました。私たちの内におられるキリストの御霊が、恵みによって、それらのことを行わせてくださるのです。私たちの頑張りや肉では行えないものを、御霊がしてくださるのです。私たちはキリストにとどまるなら、キリストが命と力を与えてくださるのです(ヨハネ15:4)。私は洗礼を受けて半年後、東京聖書学院基礎科に入学しました。そこでは、きよめ(聖化)を強調していました。きよめというのは、古い自分に死ぬということです。私はそのことをよく理解せず卒業しました。大川牧師からウォッチマンニーの『キリスト者の標準』を読むように言われました。驚いたことに、「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」(ローマ6:11)と書いてありました。私の古い人はキリストとともに十字架につけられて、死んでいたのです。自分で死ぬのではなく、すでに死なせてくださっていたのです。自我に死んでだんだんきよくなることを聖化と言います。しかし、聖化もキリストの恵みであることが分かりました。キリストにあって、きよくさせられているので、これから実質的にもきよめられていくということです。
その後、私は亀有教会から招聘を受け牧師になりました。1987年5月最初の礼拝説教で「3年で100名礼拝にならなければ辞める」と豪語しました。弟子訓練とかセルチャーチを取り入れましたが、なかなか礼拝人数は増えませんでした。夏のCSキャンプで子どもたちを大和カルバリーに送るときがあります。大川牧師が出迎えてくれ、その時、「100名礼拝になったか」と聞かれました。ですから、毎年、夏のCSキャンプに子どもたちを送って行ったとき、大川牧師と会わないことを願いました。教会がなかなか成長しないので、神さまから「パウロはあれだけ頑張ったのに、お前は何だ。歯がゆいぞ」と言われている感じがしました。2007年に聖書キリスト教会で『恵みの歩み』セミナーが開かれました。講師のスティーブ・マクベイ師も私と同じような経験をしたようです。キリスト様が先生に「あなたの行いではなく、あなた自身が欲しい」と言われたそうです。先生は「まだ、だめだ。もっとできるはずだ」という律法主義から、「何もしなくても愛している」という恵みの歩みに変えられたそうです。私は父なる神様が、私がキリストを信じたとき、満足しておられることを知りました。私が何かをして喜ばせなくても、父なる神様は既に喜んでおられるのです。私は神様の息子なので、神様の愛を勝ち取らなくても良いのです。私はパフォーマンス志向から解放され、恵みの中を歩むことができるようになりました。パウロもローマ8章で「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」と言っています。そういう訳で、私は信仰生活で最も重要な価値観は「恵み」であると思います。教会が大きくなることは私ではできないことです。なぜなら、他の人が関わっているからです。でも、私が神様を愛し、恵みによって教会に仕えることは誰も阻止できません。教会成長は私ができることではありません。私はただ自分の責任を果たせば良いのです。恵みによって生きるということはそういうことです。
2.高潔さ
高潔さは英語でintegrityです。日本語では、正直とか誠実と訳されることが多いと思います。でも私は、integrityという言葉が大好きです。動詞のintegrateは、統合するという意味があります。私は子供の時から、集中力がありませんでした。作文も図画工作も時間内で完成することができませんでした。テストも時間内で終えることができず、とても苦労しました。なぜなら、頭の中に「お前はだめだ。できない」という否定的なことばがあふれていたからです。それでも、一生懸命頑張るので、ブレーキとアクセルを一緒に踏んでいる状態でした。しかし、クリスチャンになり自分を正しく愛することを学びました。親とか先生、人のことばではなく、神さまが「あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」(イザヤ43:3)ということが分かりました。私の心の中に調和が生まれ、集中力がぐっと増しました。その結果、このような毎週の説教も1日ちょっとでできるようになりました。一週間に3つ作ることもあり、今では2年先のものまでできています。私のバラバラの人格が、イエス様の愛によって、1つに統合されたわけです。聖霊は私に「知恵」の賜物を与えてくださいました。学校の勉強はあまりできませんでしたが、聖霊によって神の知恵が与えられるので心配することはありません。聖書ではソロモンも神の知恵が与えられていました。主によって、統合されたことをとても感謝しています。
もう一つintegrityは正直とか誠実という意味があります。これは「神様の前で正直であり、裏表のない生活」のことでしょう。私はイエス様を信じる前は、他の人が私をどう思っているのかとても心配でした。「多くの人たちが私のことを理解してくれていない」と思っていました。でも、自分のことを理解してもらおうと頑張っても限界があります。箴言に「人を恐れると罠にかかる」(箴言29:25)と書いてあります。つまり、人の評価には限界があり、無理なんだということです。それよりも、神さまの前で正しく生きれば良いのです。最もすばらしいことは、イエス様が十字架で私のすべての罪を赦してくださったことです。罪の赦しばかりか、汚れや恥も取り除かれました。私は神様の前では裸であり、何も隠す必要がないのです。なぜなら、イエス様の血潮によってすべて赦されているからです。また、詩篇には神様は弁護者であると書かれています。また、他にvindicator、「擁護者」とも書かれています。vindicateというのは、「非難や疑いを取り去る、汚名や嫌疑などから免れさせる」という意味です。私はこれを知った時、人々がから誤解されたり、誹謗中傷されたりしても、「神さまは私のことを分かってくれる。神さまは私のことを擁護してくれる。神さまは私の味方だから」と思うようになりました。私は神様の前で正直に生きようと思っています。今さら飾っても、何になるでしょう?マタイ23章にありますが、イエス様は偽善者が大嫌いです。宗教は偽善になりやすいので危険性にあふれています。しかし、イエス様が私のことをご存じなので、ありのままで良いのです。私がこのように生きていますので、教会の兄弟姉妹も結構、ありのままの祈りをしています。献金のときは、自分の体験談を良く加えています。そこまで、言わなくても良いような感じがしますが、ありのままで良いという思いがあるからなのでしょう。おそらく、高潔という私のコア・バリューが皆さんに流れているのだと思います。神さまの前に正直に生きることはすばらしいことです。神さまが私たちの味方なのですから、人の目を恐れる必要はありません。
3.栄誉
栄誉は英語でhonorといいます。私が言いたいコア・バリューは、「栄誉、尊敬心をもって人々と接する」ということです。一人一人は、神から造られたものであり、固有の価値があります。創世記1:26,27「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。・・・神は人をご自身のかたちとして創造された」とあります。「かたち」というのは、英語ではイメージであり、どんな人でも神の似姿が刻まれているということです。私は学校で進化論を教えられました。進化論は弱肉強食を正当化するものであり、能力主義のもとになる考えです。人を能力で判断してはいけません。存在そのものに価値と意義があるのです。なぜなら、神さまがご自身のかたちに似せて造られたからです。もう一つは、キリストが全ての人のために死なれたこと、贖いの代価を払っておられるということです。Ⅱコリント5:16「ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。私たちはキリストの贖いを通して、自分をそして人々を見るべきであります。そうすると、一人ひとりは、イエス様のいのちを投げ出し、買い戻すほど、価値があることがわかります。つまり、神さまの創造とイエス様による贖いによって、二重の意味で、人には栄誉があり、尊敬心をもって接するべきだとうことです。これは単なるヒューマニズムではなく、神さまから来たものです。
私がなぜ「栄誉」ということをコア・バリューの1つにしたいかというと、私の生まれと育ちにおいて栄誉の一欠けらもなかったからです。8人兄妹の7番目に生まれ、父は酒を飲んであまり働かず、機能不全な家庭に育ちました。その代わり長女や長男が母を助け、私も高校を卒業できました。長女は市役所の職員でしたが、結婚後も家に来ては色々、世話をしてくれました。私と18も年が離れており、セータや靴を買ってくれました。私はあまり嬉しくありませんでした。なぜなら、両親ではなく同じ兄弟のお世話になっているので卑屈な思いがしました。3人の兄たちは、東京には働きに出ましたが、帰郷する度に「都会風」を吹かせて、私と妹を馬鹿にしました。一番、嫌だったのが、お盆と正月です。姉たちの夫、そして私の兄たちがテーブルについています。私はよく、ビールを買うために酒屋に行かせられました。ところが、私の席はなくて、別の部屋に隠れていました。兄は「挨拶もできないのか」と偉そうに言っていました。英語で一人分のことをportionと言います。portionは一人前の食物、分け前、相続財産という意味があります。はっきり言って、私には分け前がなかったということです。顔が黒いのでベトコンとか、ブタと兄たちから言われました。今でいうと虐待を受けて育ったわけですから、「栄誉」などとは縁のない生活でした。私自身が破れていたので、学校の先生は「こいつを叱っても良い」と思ったのかもしれません。「軽く見られる、馬鹿にされる、ないがしろにされる」ということが、当たり前でした。しかし、私の心の奥底では、深く傷ついていたのかもしれません。ですから、今でも不当な扱いを受け、存在を否定されると過剰反応してしまいます。ある時、咳が止まらなくて近くの診療所に行きました。二度目だったので、薬だけもらいたかったのですが、診察も受けなければならないということでした。しかし、待てども暮らせども、私の名前が呼ばれません。私より後から来た人が診察して、帰っているのにどうしてかと思いました。看護師や受付に「どうして待たされるのですか」と言っても答えてくれません。1時間半くらい待ったのかもしれません。向こうとしては、京子さんがコロナにかかっているか調べてから、私を診察したかったらしいのです。京子さんは私のずっと後に来て、診察が終わっていました。その後、私の診察になったのです。「私と京子と何の関係があるのか?」本当にバカにされた気がして「もう二度と来るものか!」と憤慨しました。栄誉、「人間の尊厳を守り、傷つけない」ということです。これは私の生い立ちから来た、コア・バリューかもしれません。私の場合はすごく歪んでいるので、みなさんに適用できたでしょうか?栄誉は、聖書的には神の創造と、キリストの贖いから来たものです。私は人に会うと「ああ、この人は両親から愛され、大事にされて生きてきたんだな」とすぐ分かります。その人自身から誇りがあふれているからです。妻の京子さんには、栄誉があります。だから、堂々としています。私は栄誉が生まれつきなかったので、一生懸命がんばらないと思っていました。でも、今はかなり癒されたので、不当な扱いをされても過剰反応することが少なくなりました。聖書に「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と言われています。同じように、自分の栄誉を大事にするように、あなたの隣人の栄誉も大事にすべきだということです。
4.イエス・キリスト
第四番目に言いたいコア・バリューはイエス・キリストです。「え?イエス・キリストが基本的価値観なの」と思われるでしょう?ところが、イエス・キリストが価値の基盤になっていない教会もあります。今から40年位前(1995年頃)でしょうか?『聖霊の第三の波』というのが、訪れました。その時、使徒の回復というのも一緒に起こり、『日本リバイバル連盟』なるものが福音派から起こりました。そのころ、日本の福音派の多くは癒しや奇跡を信じませんでした。大川牧師も癒しや異言の問題で、ある教団から締め出されてしまいました。福音派は「聖書は神のことばであり、一字一句間違いがない」と信じています。ところが、その中に記載されている聖霊の賜物、特に異言や癒し、預言はないというのです。Ⅰコリント13:8-10「預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。・・・完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです」とあります。いのちのことば社のチェーンバイブルはその聖句の注釈として「聖書が完成したので、奇跡やしるしは不要である」と書かれていました。しかし、その聖句はイエス様の再臨のことを言っているのであり、聖書の完成(正典)のことを言っているのではないことは明らかです。歴史的に聖書が完成した後も、奇跡やしるし、癒しが世界中に起こっているからです。聖霊の賜物を強調する教会をカリスマ教会と言い、癒しや異言を行う牧師をカリスマ牧師と呼びました。私は聖書の奇跡やしるし、癒しを信じているので、カリスマ牧師と呼ばれても恥と思いません。私は大川牧師の弟子と呼ばれていますが、結構だと思っています。なぜなら、聖書にそのことが書いてあり、使徒パウロ自身がカリスマであったからです。彼は「だれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています」(Ⅰコリント14:18)と言いました。
しかし、私がここで言いたいのはこのことです。40年前『日本リバイバル連盟』が発足したとき、「聖霊派の人たちは集まるように」という署名運動がなされたことです。私も発足式に参加し、署名したことを記憶しています。でも、あとから「ちょっと違うのではないか」と思いました。そのころ、ベニー・ヒンが癒しの大集会を開いていました。日本にも来られ、私も二回ほど行きました。ベニー・ヒンが『聖霊様、お早うございます』という本を書きました。これまで、「父なる神様」とか、「イエス様」と呼んでお祈りしていましたが、「聖霊様」と呼んで祈ったことがありません。ですから、ベニー・ヒンが「聖霊様」と呼びかけるので、私たちも「聖霊様」と呼んで祈りました。でも、あとから「ちょっと違うのではないか」と思いました。何故、「私たちは聖霊派だ」とか、「聖霊様」と呼んで祈るのに違和感があるのでしょう?イエス様は「御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです」(ヨハネ16:14)と言われました。これは聖霊がイエス・キリストご自身を現すということです。言い換えると、聖霊様はご自分を現すのではなく、どちらかというとイエス・キリスト様の方を現す謙遜なお方だということです。私たちが聖霊を強調すればするほど、イエス・キリストの御名と栄光が高められるということです。そこからは「聖霊派」ということばは生まれません。なぜ、キリスト教会と呼ぶのでしょう?キリストが中心だからです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)と言われました。この世では数えきれないほどの「神様」がおられます。しかし、私たちの神様は「キリストの神様」なのです。私たちはキリストを通してでなければ、まことの神に達することができないのです。キリスト抜きの神様は、イスラム教になったり、他の様々な宗教になってしまいます。そうではなく、イエス・キリストが父のみもとに行くための贖い主であり、同時に父なる神の啓示者なのです。
聖霊の働きの強調、カリスマ運動は悪くはありません。聖書に書いてあるからです。でも、自分たちは聖霊派だと言ってはいけません。コリントの教会は「私はアポロにつく」「私はパウロにつく」いや「私はキリストにつく」と言っていました。私たちの信仰の中心は、イエス・キリストでなければなりません。聖霊は「キリストの御霊」とも呼ばれています。私たちの内に住んでおられるのは「聖霊」ですが、同時にイエス様ご自身であることを忘れてはいけません。マタイ28章でイエス様が「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われたとおりです。また、マルコ16章の最後には「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」とあります。これは、主イエス様が弟子たちと共に働かれたということなのです。つまり、聖霊はイエス・キリストご自身でもあるということです。そのことは、聖霊を無視しているわけでは決してありません。おそらく、聖霊は「いいんだよ。イエス・キリストの栄光が現れれば結構です」とおっしゃるに違いありません。聖霊の働きが教会を分断させることの方が、最も悲しいことです。こういう訳で、私は、コア・バリューはイエス・キリストご自身であると言いたいのです。イエス様をいくら強調しても強調し過ぎることはありません。イエス様の十字架より誇るものがあってはなりません。イエス様は贖い主、助け主、主の主、王の王なのです。聖霊はそのことを示すために、働いておられるのです。聖霊に満たされれば、満たされるほど、イエス様を愛し、イエス様に従う者になるのです。聖霊はイエス様の栄光を現すために来られているのです。私たちが死ぬときはどうでしょう?私は「イエス様、イエス様、イエス様」と最後の一息まで、そのように言って召されたいです。