今回、ジョージ・バーナーの『ビジョンの力』と『ビジョンを行動に変える』という本を読んで、翻訳しました。とっても感動しましたので、メッセージとして残しておいた方が良いと思いました。しかし、私自身、ビジョンがないというか、ビジョンの乏しい人であることに気づきました。ビジョンというのが将来を見据えることであるならば、私はこれまで生き延びる人生を送ってきました。夢とか希望は抱いたことはありますが、はっきりしたビジョンは抱くことができませんでした。でも、この本を読んで、不完全ではあったけれど、それなりのビジョンは持っていたことが分かりました。39年の牧会を振り返って、ビジョンとは何かということも考えてみました。ちなみにビジョンは英語ではvisionです。少し唇を噛みながら発音させていただきます。
1.ビジョンを受けた人たち
「ビジョンとは何か」ということを考える前に、聖書からビジョンを持って生きた人たちのことを何人か取り上げたいと思います。聖書に「幻」visionがたくさん記されています。しかし、今日は、神さまが与えた命令を、あえて日本語の「ビジョン」に言い換えたいと思います。アブラハムはカルデアのウルの生まれでした。父は家族と共にカナンを目指していましたが、ハランで留まっていました。アブラハムが75才のとき、主から「あなたの土地、親族、父の家を離れて、私が示す地に生きなさい」というビジョンを受けました。高齢になると、どうしても保守的になり、住み慣れた地を離れ、親族や同胞を捨てることは困難です。しかし、アブラハムは全行程が示されていなかったにも関わらずそこを出発しました。アブラハムは、困難にめげず、神さまが与えたビジョンに従ったのです。そして、信仰の父、すべての国民の祝福となりました。
モーセは赤ん坊のとき、川で水浴していたファラオの娘に拾われました。やがて、ファラオの王子になり、高度な教育を受け、快適な生活を送っていました。ところが、40才のとき、同胞を助けるためにエジプト人を殺してしまいました。そのためファラオから命を狙われ、ミデヤンの荒野に逃げ、羊飼いになりました。80才になったとき、燃える柴の中から主が現れました。主から「イスラエルの民をエジプトの圧政から解放し、約束の地へと導け」というビジョンを受けました。モーセは「私にはできない」と何度も断りましたが、権威を与えられてファラオの前に立ちました。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した後、シナイ山で律法をいただきました。しかし、民たちは不信仰のゆえに約束の地に入ることができませんでした。モーセは忠実な神のしもべとして、120歳になるまで、40年もの間、荒野で、反抗的な民を導きました。
モーセが新天地に入る資格を失ったため、指導者のマントはヨシュアに渡されました。主は「神の律法に従い、軍事的勝利によって、約束の地を征服するように」というビジョンを彼に与えました。ヨシュアの時代には、軍事的征服と定住によって土地を清めるという、もう一つのビジョンが加えられました。「聖絶」(ジハード)という、ヒューマニズムでは考えられない、先住民を滅ぼし尽くすことが求められました。ヨシュアは偉大な軍事戦略家であり、戦士でした。しかし、神の力と祝福がなければ、神のビジョンを遂行できなかったでしょう。
ネヘミヤはペルシャ王の腹心として仕えていました。ある時、故郷のエルサレムが荒廃したまま放置されていることを聞き、嘆き悲しみ、断食して祈りました。主はネヘミヤに「イスラエルの民を結集して、エルサレムの城壁と城門を再建し、ユダヤ人の霊的復興を促進せよ」というビジョンを与えました。ネヘミヤはユダに行って都を再建したい旨を伝えました。王はネヘミヤに深く同情し、許可証と建築資材と資金と騎兵たちを与えて送り出しました。しかし、周りの民がそれを妬み、再建プロセスの邪魔をしました。ネヘミヤは効率的かつ効果的に組織化し、民たちに委任しました。民たちは懐疑論者や敵に立ち向かい、城壁はニか月足らずで再建されました。その後、ユダヤ人の霊的な生活を再建するという、より困難で、より意義深い仕事が始まりました。ポイントは、ネヘミヤが神が与えたビジョンに向かって走り出し、その実現のために全神経と持てるすべての資源を注いだことです。
新約聖書ではパウロを取り上げたいと思います。彼は熱心なユダヤ教徒で「道の者」を片っぱしから捕らえては投獄しました。ところが、ダマスコに向かう途中、復活の主と出会い、目が見えなくなりました。パウロは自分が迫害していたのは主ご自身であることを知り、何をしたら良いか尋ねました。主はアナニヤを介して「異邦人、王たち、イスラエルの子らに主の名を運ぶ」ビジョンを与えました。10数年間、鳴かず飛ばずの状態でしたが、バルナバによって呼び出され、アンテオケ教会で教えました。その後、迫害と困難に耐えながら、小アジアからヨーロッパに向けて福音を宣べ伝えに行きました。パウロは異邦人にキリスト教を伝道し、組織化し、育成し、ローマ帝国全土に改宗者の新しい教会を設立し、新しい信者が霊的に再生産するように励ましました。神がパウロに与えたビジョンは2000年たった今も生きています。
ただ今、聖書から神からのビジョンを行動に移した人たちをあげました。ビジョンの本質とは、神の特別な召命に対する根本的な従順であると考えられます。神のビジョンを追求することは、個人的に望ましいものでもなく、論理的な道でないことの方が多いかもしれません。しかし、神のビジョンに身をささげた人たちは、偉大なことを成し遂げることができました。それらは、人間の力や知恵ではとうてい成し遂げることはできません。ビジョンを与えるのは神さまですが、それを実現させるために、神さまが共に働いて下さいます。
2.ビジョンとは何か?
ビジョンということばがこの世において、頻繁に使われるようになったのは、1990年代以降だと言われています。大企業が、説得力のある未来像で社員や投資家を鼓舞できるリーダーを捜し始めました。ベストセラーのビジネス書もこのテーマを取り上げました。そのころ、キリスト教会も「指導者にビジョンがなければならない」と言い出し始めました。同時に箴言29章のみことばもこの根拠として取り上げられました。欽定訳聖書は“Where there is no revelation, the people perish”「啓示のないところでは、民は滅びる」と訳されています。新改訳2017年は「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」と訳しています。おそらく、「幻」というのは、神から与えられた啓示と言う意味でしょう。使徒2章にも「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻visionを見、老人は夢dreamを見る」とあります。では、ビジョンとは何なのでしょうか?『ビジョンの力』にこのように書かれていました。「ビジョンとは、これから先の日々において、物事がどのようにあり得るか、あるいはあるべきかについて、心の目で描いた絵のことである。ビジョンとは、視覚的な現実を意味し、現在は存在していない状態の肖像画である。この絵は内面化された個人的なものである。他人の未来像ではなく、自分だけのものなのだ。あなたの教会でビジョンを具現化させたいのであれば、最終的には他の人のためにその心の肖像画を描かなければならない。」今あげた定義に、何度か出て来たことばが、「絵」とか「肖像画」「視覚的な現実」というものでした。これがビジョンであります。
ビジョンと似ているものに「ミッション(使命)」があります。教会では聖句をあげながら、「自分たちのミッションはこれです」と言ったりします。教会の一般的な宣教目的を定義したものを「ミッション・ステートメント」と言います。この世では、「企業理念」とか「経営理念」のことです。教会があげている「ミッション・ステートメント」をいくつか挙げたいと思います。「神を愛し、隣人を愛する教会」、「出て行って福音を宣べ伝え、キリストの弟子とする教会」、「この地に御国をもたらすために内外で働く教会」、「キリストのからだに連なり、聖霊の賜物を用いて奉仕する教会」、「みことばと聖霊の力によって伝道する教会」…いろいろあげられますが、大体は聖書のみことばからとられたものが多いと思います。もし、これを個人のミッションにするならどうでしょう?「神を知り、神を愛し、神に仕える」、「どんなに犠牲を払ってでもキリストのように生きる」、「神に栄光と誉れをもたらす生き方をする」、「信仰と感謝をもって神の祝福を受けつつ、人々を祝福する」・・・これらは個人個人の使命であります。ただいま、教会と個人のミッションについていくつか例を挙げてみました。
ミッションとビジョンの違いは何でしょう?『ビジョンを行動に移す』という本ではこのように解説されています。「ビジョンはミッションよりも、焦点を絞った詳細なものです。ミッションは自由度があり、聖書的であまり文句はでません。対照的に、神のビジョンは、あなたにとって具体的であり、あなた独自のものです。ビジョンは、あなたが将来、どうあってほしいか、そしてその未来を想像する上でのあなたの役割に焦点を当てています。神があなたに与えるビジョンと同じものは、他の誰にも与えられません。なぜでしょう?なぜなら、賜物、能力、経験、機会、願望、人間的属性など、あなたと全く同じ人はこの地にいないからです。」アーメン。ミッションは一般的であり、普遍的です。しかし、ビジョンはあなた固有のものです。そのビジョンは戦略的で、刺激的で、エキサイティングで、興奮させるものです。その証拠として、ビジョンを持って生きている人は、エネルギッシュであり、情熱的です。
さきほどのミッションを合わせて考えると、そのミッションを果たすための戦略的なものがビジョンです。また、ミッションは一般的ですが、ビジョンは一人ひとり違うということです。私は「この地に御国をもたらす教会」を当教会のミッション・ステートメントにしています。週報にそのみことばが印刷されています。でも、ビジョンは「福音宣教と聖霊の力によって、御国をもたらす教会」を目指しています。そのため私は毎週のメッセーに力を入れると同時に、聖霊の賜物による癒しや預言が現れるように願っています。私はカリスマ牧師と言われても、憤慨しません。なぜなら、使徒パウロこそが、あらゆる聖霊の賜物を用いて伝道したからです。パウロは「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(Ⅰコリント2:4)と言っているからです。繰り返しますが、ビジョンは神ご自身が、あなた個人に与えるものです。そこには明確な肖像画があり、現在は存在しない状態の肖像画です。神さまはあなたにビジョンを抱かせて、その方向にあなたを導き、一緒に実現したいと願っておられるのです。
3.神のビジョンの特徴
自分が得たものが本当に神のビジョンかどうか、どうやって知ることができるでしょうか?『ビジョンを行動に変える』という本に、「神のビジョンの特徴」という項目があり、5つありました。
➀ビジョンはあなたの快適な領域を脅かす
神のビジョンを受け入れる人々に、より優れた人生をもたらします。しかし、メッセージを伝え、それを実現しようとする者にとって、抵抗は当然のことです。パウロは石を投げられ、殴られ、辱められ、投獄されました。アブラハムはあざけられました。モーセは、陣営内からの不満や、陣営外からの軍事的脅威に耐えなければなりませんでした。あなたが誰であろうと、個人的な能力や霊的な賜物が何であろうと、神のビジョンを実行することは、人々を快適な領域から引き離すため、物議を醸すことになります。このことはあなたを不安にさせるかもしれないが、あなたにビジョンを与えた神にとっては重要な問題ではありません。結局のところ、神の視点に立てば、ビジョンとは楽なライフスタイルを提供することではなく、神の意志に従順であること、神の目標が達成されるのを見ることなのです。もしあなたが、人生が楽になるように主のビジョンを発見しようと熱望するなら、極度の失望を覚悟しなければなりません。ビジョンには常に苦悩、対立、懐疑が伴います。神からのビジョンはあなたの快適な領域を脅かします。
➁ビジョンは個人に託される
聖書の中で、神が決して委員会にビジョンを与えなかったことにお気づきでしょうか。すべての場合において、神はより良い未来のためにビジョンを仕立てた人物を選ばれたのです。神のビジョンは、あなたと神の間で直接、交わされるものであり、あなたがそのビジョンを実現するかどうかは、二人の間で評価されるものなのです。個人に対する神の意志を見極めるのに、神は集団を必要としません。もしあなたが神と適切な関係にあるのなら、あなたもそうではありません。
③ビジョンは冒険
結果重視の社会では、私たちはしばしば、期限を守ること、予算内に収まること、期待された結果を出すことを基準に業績を判断することです。しかし、神のビジョンを遂行する人々とともに働く神の方法を注意深く観察すると、最終的な目的地と同様に、その旅路も重要であることがわかります。言い換えれば、神は私たちが目的に到達するのを見るのと同じくらい、神のビジョンを追求する過程で私たちがどのように行動し、どのように変化し、何を経験するかに関心を寄せておられるのです。アブラハムとその仲間の寄留者たちを見てみましょう。新しい住まいへの道を歩む過程で彼らに起こったことこそ、神が強い関心を寄せていた変革の核心でした。新しい土地に到達することは、アブラハムの主に対するコミットメント(献身)を再定義する挑戦と変化ほど、神にとって重要ではありませんでした。モーセもまた、旅の意義を示す偉大な例です。約束の地に入ることを許されなかったからといって、彼の人生を失敗と判断することはできません。モーセに対する神の評価は、モーセが傲慢な殺人者、争いの絶えない民の短気な指導者から、真の人の指導者、神の恋人へとどのように変わったかということに基づいているのです。
④ビジョンはビジョンを見る人を凌駕する
目標、戦略、ビジョンには違いがあります。目標や戦略は、私たちが達成する可能性のある短期的な成果です。ビジョンは長期的な努力の結果です。モーセは長い人生を生きました。しかし、神が約束された地に彼の民が足を踏み入れるのを見届けるには、十分な長さではありませんでした。ビジョンは、彼の信頼する副官ヨシュアによって達成されました。私たちのタイミングや成功の測り方は、主のものではありません。私たちは、物事が解決し、完了し、すべてが整然と予測可能で、明確に定義され、予定通りに進むのを見たがります。神は別の予定表に基づいて行動され、私たちには決して知ることも理解することもできない理由があります。神が一人の人物に与えたビジョンは、神だけが知っているスケジュールに従って、一人または複数の後継者によって忠実に実行される可能性があることを理解すれば十分です。繰り返しますが、重要なのは達成ではなく忠実さです。ビジョンがその人を作り上げるのです。そして、その行程が大事なのです。
⑤ビジョンは神の目的を反映する
神は人間とは異なるルールで行動し、異なる結果を求めます。神は富や名声、技術革新、記録、後世、人間の欲望などには関心がありません。神は聖さと従順を大切にされます。多くの場合、神が私たちをより義となるように助けてくださる方法は、私たちが勧める方法とはまったく異なります。何万人もの人々を、40年間砂漠をハイキングさせるのは、人間的な戦略ではありません。神だけが全知であり、私たちに対する神のビジョンは、たとえそれが私たちの思い込みや好み、祈りと相反するものであっても、可能な限り最善のビジョンなのです。私たちが知る必要があるのは、神のビジョンには、もし私たちが従えば、神が私たちの想像を超える祝福を与えてくださるという永遠の保証がついているということだけです。
私は1995年からセルチャーチを目指しました。その時、先輩の牧師たちから「断食して祈り、神からのビジョンをいただきなさい」と言われ、祈りました。かつて、練馬の小笠原牧師を招いてメッセージをしていただいたことがあります。先生は、ゼカリヤ書4章6節「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」の御言葉から、ビジョンが与えられたと証しておられました。。私は教会が成長するなら何でも良いという動機で始めました。それまで、私にとって「教会が成長するとは、礼拝人数が多くなる」ことでした。やがて、私に与えられた神からのビジョンがはっきりしてきました。教会は一般の組織ではなく、一人ひとりがキリストのからだに連なっている有機体である分かりました。セルというのは「細胞」という意味ですが、キリストのからだを構成する小グループという理解でした。伝統的な教会は、牧師や役員会が「こういうことをしよう」と会議で決めます。その次に、教会員が何人か集まり委員会を作って牧師や役員会が決めたことを実行します。まさしくトップダウン的であり、それぞれ聖霊の賜物ではなく、使命によって人々が結集されます。ちょうどその頃、インドネシアのエディ・レオ師が日本に来て指導してくださいました。その時、エディ師は「教会のかしらはキリストであり、すべての信者はかしらであるキリストに聞いて、行動すべきである」と教えてくれました。コーチングを含めセルチャーチに20年間携わりました。でも、礼拝人数は100名を超えませんでした。ですから、私的にはセルチャーチは失敗でした。「うまくいかなかったけど…」でした。しかし、教会員たちは「先生、失敗じゃありませんよ」と励ましてくれました。
私は73才、引退する年齢を過ぎています。私のビジョンは私と共に消え去るのでしょうか?でも、この教会に残したビジョンとは何だったのでしょう。そのとき、分かりました。教会のかしらはイエス・キリストであり、教会員一人ひとりはその器官です。聖霊は一人ひとりに、賜物と動機を与え「私はこれをしたい」「私はこれをもって主に仕える」という風に導いてくださいます。私は後半の20年間、牧師と役員会で「これしてください」「これをしましょう」と言ったことはほとんどありません。そうではなく、教会員が「私はこういうことをしたいのです」と言えば、「ああ、良いですよ」と牧師と役員会がサポートすることにしました。ただし、「個人ではなく、同じ思いをもつ小グループではじめてください」とお願いしました。一般の教会では、牧師と役員会の承諾がなければ何もできませんが、当教会は自主性を重んじています。自分たちで決めたら、責任を自分たちで負うのが当たり前だからです。私の個人のビジョンは聖霊の賜物と力がキリストのからだに顕著に現れることです。癒しや預言もたくさん学んできました。今は、アメリカのビルジョンソンのベテル教会から学んでいます。とにかく、かしらであるキリストが教会を建てて行くことを信頼します。その時、聖霊が必要な賜物と力を与えてくださると信じます。根底を流れている価値観は「主の恵み」です。律法ではなく、すべてが主の恵みによってなされるということです。人数よりも、このようなビジョンが当亀有教会に残っていれば大成功です。