今日は、イエス様を信じた直後、その人が必要なものと思われることを4つだけ取り上げたいと思います。かなり前ですが、ビリーグラハム・クルセードという大集会がありました。最後に「イエス様を信じる人は前に出て来なさい」と招きがあります。大勢、イエス様を信じる決断の祈りをするのですが、教会につながる人はあまりありませんでした。お金をかけた割には、収穫が少ないということで、最近は大集会を開かなくなりました。もちろん、そういう集会もあっても良いのですが、一番重要なのは、「イエス様を信じた直後の人をどうするか?」であります。バスケットボールでは「こぼれ玉を拾う」ことをフォローアップと言います。キリスト教会で、フォローアップとは、信じた人の信仰が確立するまでお世話をするということです。
1.コミュニティにつながらせる
教会と言っても良いのですが、あえて共同体を表す「コミュニティ」という用語を用いたいと思います。なぜなら、教会は制度とか、組織、建物みたいなイメージがあるからです。教会は本来、神の民という意味なのですが、人よりも組織が優先されるところがあります。教会ではフォローアップ担当者などを作って、割り振りするところがあります。その点、コミュニティというのは、機械的ではなく、愛をもって親しい人間関係を作るという意味合いがあります。イエス様を信じたばかりの人は、霊的に赤ん坊のような状態です。お母さんの温かい守りとミルクが必要です。また、信じたばかりの人は簡単に躓きます。だれかが起こしてあげなければなりません。使徒9章にはパウロが回心した記事がありますが、教会の人たちは恐ろしくてだれも彼を受け入れませんでした。ところが、バルナバは彼を引き受け、エルサレム教会に彼が回心したことの様子を説明しました(使徒9:27)。バルナバは「慰めの子」という意味のあだ名ですが、教会にバルナバのような人がいるととても安心します。私が初めて教会に来たとき、別世界に来たような感じがしました。みんな明るくてニコニコしているのはいいですが、人間離れしているような感じがしました。私の場合は、洗礼を受けて半年後、「姉妹方が二階でお昼を食べませんか?」と誘われたのがきっかけで他の人と知り合いになりました。信じたばかり人というのは、友人も家族もみんな未信者です。信仰のことを話しても「宗教は危ない、かぶれてしまった…」とか言って、水をかけるでしょう。ですから、自分が持った信仰を励ましてくれる新しいコミュニティが必要なのです。こういう場合は受付の人が、兄弟姉妹と一緒に、その人のとこへ行って関係を持ったら良いです。バルナバのような「父の心」を持った兄弟姉妹が必要です。牧師が行くと、かえって躓かせる場合もありますので、どうぞ、兄弟姉妹が率先して行ってください。
ある教会は洗礼を受けた兄姉をすぐ奉仕につかせようとします。CSとか奏楽、何かの奉仕をさせます。何か責任を与えて、教会に継続して来させようとする魂胆です。中にはそれで良い人もしますが、信仰が安定するまで教会の奉仕をさせるのはとても危険です。なぜなら良い行いによって、義とされるような誤解を与えるからです。新興宗教では、伝道、献金、奉仕によってその人をがんじがらめにします。簡単にやめられないようにするわけです。人間の成長と同じように、まず無条件に愛されることが必要です。義務や使命ではなく、その人の賜物にあったものを発見し、最初は補助的な立場で奉仕すれば良いのです。私は前の教会では「献身」を表明したら、CSをはじめ、たくさんの奉仕をさせられました。一般の兄姉はお客さんで良いのですが、いざ「献身」をすると、教会の奉仕をするのが当たり前みたいになります。幸い、私は社会経験もあったので、乗り越えることができました。しかし、昨日まで熱心だった人が、突然、来なくなる場合もあります。おそらく、奉仕の重圧に耐えられなくなったのかもしれません。ですから、奉仕によって教会につながらせようとする考えは間違っています。教会は神の家族なので、家族のような共同体に受け入れるのが良いのです。Ⅰヨハネ2章には、教会には「子どもたち、若者、父たち」と三種類の人たちがいると書かれています。信じたばかりの人は、家族のような温かい人間関係の中で成長するのです。結構多くの人は、心の傷をかかえてやってきます。過去に自分を傷つけたような人がいると、怨念晴らしをされるかもしれません。いわゆる八つ当たりです。でも、信じたばかりの人は、そういうことが良くあるのです。これまで人を心から信じるということがなかったためです。教会は「愛し、赦し、受け入れ」の三拍子が最も重要です。その人は教会が安全な場所であることを理解して、兄弟姉妹との交わりを喜ぶようになるでしょう。
2.霊的成長を与える
マタイ28章には「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」とあります。この正しい意味は、「弟子とするために、バプテスマを授け、イエス様が命じたことを守るように教えなさい」となります。キリストを信じた人が、すぐキリストの弟子になるのかというとそうではありません。解釈によってはクリスチャン、イコール、キリストの弟子なのですが、現実はそうではありません。弟子というのは、キリストを主として仰ぎ、従う人のことであります。ところが、洗礼を受けたばかりの人というのは、自分が心の王座に座り、キリストを脇に立たせています。何か困ったことがあると、王座に座らせます。これは、キリストは救い主ですが、人生の主として信じていない証拠です。主というのは、神さまであり、主人という意味です。つまり、自分を助けてくれる「救い主」以上のお方となります。私は黙示録3章20節のみことばから、イエス様が心のドアをたたいていると聞いて、心にお迎えしました。その時は、イエス様はお客さんであり、神さまとか主という存在ではありませんでした。洗礼を受けて、半年くらいたってから、イエス様が主であることを認め、自分はイエス様の足元に座りました。それでも、うっかりしていると、自分が王座に座って、イエス様を脇に置いたことは何度もありました。しかし、それだと失敗ばかりするし、平安もありません。ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」のみことばが鮮明に与えられました。その時、「イエス様ご自身が私の道、イエス様ご自身が私の真理、イエス様ご自身が私のいのち」だと悟りました。その時から、信仰が固まりそんなにぐらつくことはありませんでした。
また、霊的成長のためには聖書のみことばが必要です。Ⅰペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。私を導いてくれた職場の先輩は、最初Good News Bibleという英語の聖書をくださいました。宗教ぽいのが嫌いだったので、英語の方が馴染みやすくて良かったです。その後、洗礼を受けたとき、口語訳の聖書をプレゼントしてくださいました。「職場の先輩にずいぶんとお金を出させてしまったんだなー」と申し訳なく思っています。教会に通い出したら、副牧師が「一緒に聖書を勉強しよう」と言ってくれて、ナビゲーターの薄い本を一緒に学びました。10冊くらいありますが、4,5冊目からは自分一人でできるようになりました。分からないところは、職場の先輩や副牧師に質問しました。次第に、聖書の勉強に興味がわき、東京聖書学院の基礎科に入学しました。卒業後も、コツコツと聖書を勉強しました。その当時は良い信仰書がたくさんあり、勉強したい人にはとても良い環境だったと思います。今は買いたくても、本がありません。出版会社もクリスチャンが本を読まないので、縮小しているからです。その点、英語の本はどんどん良い本が出ています。私は一冊、最後まで読んだ本がありませんでしたが、ジョエル・オースチンの易しい本を読破してから変わりました。60歳になってから、急に目覚め、翻訳も手掛けるようになりました。牧師は勉強が好きでないと務まらないと思いますが、一般のクリスチャンであっても聖書勉強は必要です。人に教えるためではなく、まず自分が養われるためです。その後、機会があったら、他の人に分かち与えるのです。人に教えると、完全に自分のものになります。
最終的に、霊的成長で最も重要なことは、キリストに留まる信仰を持つということです。これができたら一人前のクリスチャンです。コロサイ2:7「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」パウロは堅い信仰を持つことを植物や建物にたとえています。キリストに根差すとは、イエス様からいのちをいただくということです。また、キリストに深く根ざすと、霊的な嵐においても持ちこたえることができます。聖書では椰子の木がたとえられています。詩篇92:12「正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの杉のように育ちます。」ご存じのように、椰子の木は、大風が来たら、たわんで耐えます。あるとき、アメリカで台風が襲った時、松の木やブナ、ヒノキは倒れましたが、椰子の木だけは残ったそうです。不思議なことに椰子の木は、次の台風に備え、もっと深く根を張るのだそうです。試練や苦しみのときこそ、キリストに根差し、堅い信仰を持ちましょう。もう1つは建物です。多くの人たちは上へ上へと昇ろうとします。たとえば、そこに30階、40階のタワーマンションがあるとします。しかし、上に伸びる前に地中に杭を打ち込んで耐えられるように頑丈な基礎を作ります。上に伸びることも重要ですが、基礎であるキリストにしっかり土台することも重要です。
3.証しができるようにする
私は洗礼を受ける前から、座間キリスト教会の祈祷会に出席しました。説教の前、30分間くらいそれぞれが立って、みんなの前で証しをします。最初「証し」って何だろうと思いました。簡単に言うと、信仰の体験談です。めいめいが、救いの証しだったり、最近起きた不思議な出来事を証しします。最初に来たときは、「主観的で、ひとりよがりで、なんてまとまりのない話だろう」と思いました。その人たちは、「神さまの恵み」だとか、「神さまのみわざ」だと言うのですが、「あなたがそう思っているだけで、普通じゃない」とさばく気持ちがありました。もちろん、証ししている人たちは、説教やスピーチを学んだことのない人たちであり、無理もないことです。でも、その時は、「こういう風に話した方が良いですよ」という指導はなしで、とにかくみんなの前で話すということが目的だったように思います。もちろん、論理的でまとまった話をすればよいのですが、そこでは自分のことを発表する勇気が大事ではないかと思いました。多くの場合、家族や友人はみんな未信者なので、信仰の話をする機会はあまりありません。教会だったら大丈夫、受け入れてもらえるという安心感があったのではないかと思います。ですから、祈祷会でなくても、小グループで信仰の体験談を分かち合うことはとても重要だと思います。その時、相手のことをさばかずに、100%受け入れ、共に喜び、共に泣く気持ちが重要だと思いました。
証しができるようにとは、伝道のための第一歩であります。「伝道」というと、緊張して口が開かなくなります。しかし、救いの証しから始めたら良いと思います。昔「証し伝道」という言い方がありましたが、伝道でなくて、分かち合いで良いです。愛するイエス様を紹介することはすばらしいことではないでしょうか?そのときに、3つのポイントがあります。救われる前、救われたときのきっかけ、救われた後のことです。信じる前、信じるときのきっかけ、信じた後でも構いません。聞く人も大変なので、3分から5分で短く話すことができたら幸いです。ビフォー・アフターというテレビ番組もありますが、信じる前と信じた後のことです。もう1つ重要なのは、テーマを絞る、できたら1つにするということです。時間が3分から5分しかないのですから、あれもこれも話すことができません。その人にあったもの、その場にあったものをチョイスする必要があります。なぜなら、人は自分の興味あることしか聞かないからです。みんなの前で公に話す場合は、「得意の18番」でも良いかもしれません。しかし、相手が一人であったり、少人数の場合は、その場にあったものをチョイスする必要があります。しかし、洗礼を受けた当時というものは、そんなに引き出しがないので、「鉄板」もので良いです。あなたが熱心に語るなら、聞く人は自分とテーマが違っていても、耳を傾けざるを得ないでしょう。熱心というのは、人を引き付ける力があります。自分が救われた証しを熱心に語れなければ、「本当に信じているのか?」逆に疑われてしまいます。だんだん場をこなしているうちに、効果的な証しができるようになります。どうしても最初は「あなたも信じてください」と説教調になるかもしれません。失敗を重ねているうち、相手の懐にふわっと入ることのできる証しができるようになります。洗礼を受けたばかりの人は最も未信者の友人が多いときです。そういう意味で、証し伝道はとても有効です。
私は洗礼を受けた翌年、東京聖書学院の基礎科に入りました。そこは「きよめ」を強調する教団でした。「ことばよりも、生活の証しが立っていなければ、伝道できない」と教えられました。その時から、急に恐れがやってきて、「まだキリストを証しするには不十分だ」という思いがありました。神学校へ行って、かえって伝道できなくなったのです。卒業後、サラン教会の弟子訓練と出会いました。玉(おく)牧師は、「初代教会の人たちは自分のきよい行いによって迫害されなかった。キリストを宣べ伝えたために迫害されたのだ。キリストを宣べ伝えると、それに伴った清い生活ができるのだ。まず、口を開かなければならない」と言われました。本当だなーと思いました。「恥は我がもの、栄えは主のもの」という格言がありますが、「こんなものでも神様から愛され、救いを得ました」の方が良いのです。とにかく、口を開くということです。口を開いて、神さまのすばらしさ、キリストの福音を伝えるのです。
4.癒しと解放を受ける
「鉄は熱いうちに打て」ということわざがあります。洗礼を受けたら、即、癒しと解放を受けたら良いです。クリスチャンになる前は、霊的に死んでいたので、何も考えないで生きてきました。私などは、嘘、泥棒、性的不品行、酩酊、言葉の暴力、むさぼり、高慢…ありとあらゆることを平気でやってきました。洗礼を受けたとき、かなりきよめられましたが、肉と魂に染み込んでいる悪いものがまだありました。クリスチャンになりますと、霊的に目覚めるので、「結構、自分は罪深いなー」と驚きます。Ⅰヨハネ1章に有名なみことばがあります。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8,9)。このところに、「自分の罪を告白する、そうするとすべての不義からきよめられる」とあります。告白というのは、ありのままを神様の前に述べるということです。エペソ4章に「実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。・・・明らかにされるものはみな光だからです」とあります。隠して置くと、きよめられることはありません。神さまの前に告白すると、罪の鎖が砕かれて、解放されます。また、人を赦さない罪、恨み、憎しみもひそんでいます。これらが霊的成長を妨げます。加害者部分も被害者部分も十字架によって、取り除いていただくということです。昔、石原良人師の解放のキャンプに参加したことがあります。実際、告白した罪を紙に書き、それを十字架に釘付けをする場面もありました。けっこうドロドロした感じがしますが、心の底のどぶさらいなので、一回経験すると良いと思います。
しかし、キャンプに参加する機会がない場合は、礼拝や個人の祈りの中で、1つずつ解決していくしかありません。最初は一人では無理なので、先輩のクリスチャンから、あるいは小グループ内で、指導を仰ぐ必要があります。うちはやっていませんが、「エリヤハウス・祈りのミニストリー」というのがあります。4,5人でグループをつくり、奉仕分担します。ミストリーを受ける人、聞いて導く人、サブの人、だまって祈る人…交代交代でそれを行います。そのとき、「〇〇ちゃん」みたいに子供のころ呼ばれた名前で互いに呼ぶようにしています。なぜなら、多くの罪や傷は、子どものころ形成されるからです。親に対して怒った、内なる誓いをした、赦せない思いを持った・・・とか告白します。その場にイエス様がおられますので、熟練したカウンセラーは必要ありません。重要なのは質問です。「その時、どんな感情を抱きましたか?」…「寂しかった、悔しかった、憤慨した」。「そのとき、何を思いましたか?」「味方になってくれる人は誰もいないと思いった、だれも信用してはいけないと思った」とか。「その場にイエス様はおられたでしょうか?」悲しかったその人の過去のある場面において、あたりを見てもらうと、悲しんでいるイエス様がおられたりします。エリヤハウスは時間がかかりますが、現代では預言や知識のことばによって、即座に癒される場合もあります。とにかく、最初は人のお世話になることを恥じてはいけません。赤ん坊はお母さんから下の世話を受けます。みんなそういうところを通りました。クリスチャンになりたての頃は、一人では無理なので、だれかから祈ってもらう必要があります。そうやって、お世話になった経験のある人が、はじめて人の世話をすることができるようになるのです。
私は石原師の解放のキャンプをはじめ、エリヤハウス、丸屋師や李光雨師からカウンセリングを学びました。また、ニール・アンダーソンなど癒しと解放の本も読みました。結論から言うと、この地上では完全に癒されることはないということです。内省と言いましょうか自分の癒しだけを求めていると罠にはまります。神さまは生まれた時から、性格、能力、好みを与えたのです。その中には長所も欠点も含まれています。聖書を読むと欠点のある人、罪を犯した人を神様はあえて用いられたことがわかります。モーセは人殺し、アブラハムは嘘つき、ヤコブは泥棒、ギデオンは臆病者、ダビデは姦淫と殺人を犯しました。ヨナは逆方向に行きました。ペテロはいい加減、トマスは疑り深く、ヤコブとヨハネは怒りぽい人たちでした。神さまがそのように造られたのですから、そこを伸ばしていけば良いのです。何かできるとか、何かできないではなく、キリストにあって自分は何者か、アイデンティティの方が重要なのです。この世は何ができるかで人を決めるところがあります。聖書は全く逆であり、「あなたが何者か」を本当に知るなら、それに相応しい行いが出てくるのです。私たちは神様を喜ばせるために、パフォーマンスしなくて良いです。神さまは私たちがキリストを信じて神の子になったとき、十分満足されました。行いが必要であれば、行く先々、良い行いを備えてくださいます。私たちは神の作品であるからです。私たちは罪赦された罪人ではありません。それだったら、また罪を犯しても不思議ではありません。そうではなく、キリストによって義と認められた聖徒なのです。それだったら、正しい行いをしようと思うでしょう。また、神さまが王であるなら、私たちは王子、王女なのです。私たちは生き延びるために生きているのではありません。神の栄光を現すために生きているのです。