2026.8.2「恐れを克服する 詩篇46:1-3」

私はクリスチャンになってたくさんの癒しと解放を受けてきました。最初はキリスト教の聖会に出ましたが、そこでは「罪の赦しときよめ」をいただきました。インナーヒーリングによって、劣等感や心の傷も癒されました。エリヤハウスでは「苦い根」の解放も受け、今では父母を恨んでいません。李光雨師や丸屋真也師によって認知行動療法的な癒しも受けました。私のテーマは「不当な扱い」であり、「なんでだよー」と叫んでいました。しかし、主が私を弁護し擁護してくださることを悟り、これからも解放されました。「これで良いかなー」と思いきや、最後に残ったのが「恐れ」でした。私の一番深いところに「恐れ」があることに気が付きました。

1.恐れの究極的解決

第一のポイントでは「生きている限り、恐れはある」ということを確認したいと思います。今、墓石の下にいる人たちは、恐れはありません。なぜなら、死んでいるからです。「恐れや不安のない日々を過ごしたい」という気持ちは分かりますが、薬を飲んで紛らわしてはいけません。まず、「生きている限り、恐れはある」と悟るべきです。その証拠に、聖書には365回「恐れるな」と書かれているからです。ということは、毎日一回分、恐れるようなことがやってくると言うことです。恐れが実際にあるので、聖書は「恐れるな!」と言っているのです。「生きている限り、恐れはある。恐れるのは当たり前」と思ったら、半分は解決したようなものです。

では、なぜ、私たちは恐れるのでしょう?恐れは一体どこからやって来たのでしょう?創世記3章に「恐れ」の原点が記されています。アダムとエバは食べてはならない木から食べました。すると、目が開かれ、自分たちが裸であることが分かりました。そして、二人は主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。神である主は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけました。アダムは「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています」と答えました。これまで、アダムとエバは何一つ恐れたことがありませんでした。いつも神様と親しく、交わっていたからです。しかし、二人は神様に逆らったので、恐れが入ってきたのです。それを聖書では罪と言います。アダムの子孫である私たちは罪があり、恐れがあります。でも、イエス・キリストによって罪が贖われ、恐れが去り、神の愛と平安で満たされました。私たちがイエス様を信じて救われた頃を思い出すと、「本当に恐れがなかったなー」と思います。そうです。クリスチャンは、根本的な罪と恐れは取り除かれ、解決されたのです。

でも、私たちは肉体を持って、この世で生きています。肉体は病気にもなるし、この世の情報を真に受けるところがあります。この世の神である悪魔は絶えず、私たちに恐れと不安の矢を放ってきます。私たちの心も不完全なので、神様に信頼するよりも、恐れに支配されてしまうときがあります。日本は地震大国であり、地震や津波の恐れがいつもあります。夏に台風が来ると線状降水帯が発生し川の氾濫、土砂崩れがいつ襲ってくるか分かりません。テレビでは二人に一人はガンになるので保険に入るように勧めています。自分の体がおかしいと「もしかしたら」と疑ってしまいます。近年、犯罪率が高まり、凶悪化しています。いつ事件に巻き込まれるか分かりません。女性の一人暮らしは怖いと思います?子どもはどうでしょう?アメリカほど誘拐事件はありませんが、交通事故に巻き込まれる危険はあります。高齢者はオレオレ詐欺にひっかかるので、電話も取れません。テレビや新聞では良いニュースよりも、悪いニュースを多く取り上げるので、知らず知らずのうちに恐れが心に入り込みます。また、私たちはだれかから批判されたり、悪口を言われると恐れます。私たちの周りには敵対する人が必ずいるものです。

イエス様は何とおっしゃっているのでしょうか?マタイ10:28-30「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」神様が全知全能であることは頭では分かるかもしれません。しかし、雀の一羽、髪の毛一本までも、神の御手の中にあるということです。このところで、強調されていることは「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」ということです。私たちは人からの迫害、天災や事故、悪者たち、病気を恐れて生きています。しかし、イエス様に言わせると、殺されても肉体だけであるということです。この世的には「死んだらおしまいだろう」と思ってしまいます。いのちほど大切なものはないからです。でも、イエス様は「むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」とおっしゃっています。イエス様は「肉体の死よりも、たましいの死が怖いのですよ。たましいも肉体もゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃっているのです。ゲヘナとは地獄であり、永遠の滅びです。そのことをお決めになられるのは神様です。その神様を恐れているなら、肉体の死はさほどでもないということです。

恐れの究極的な解決がここにあります。世の人たちが恐れているのは肉体の死です。肉体の死よりも恐ろしいのはたましいの死、永遠の死です。たとえ、肉体の死がやってきても、たましいの死が免除され、永遠の命が与えられたら元が取れます。パウロは、「クリスチャンは、イエス様と十字架につけられて死んで、イエス様と共によみがえった存在である」と言っています。私たちはイエス様と一緒に死んだ存在です。ガラテヤ2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」もう一度言いますが、クリスチャンとは一度、キリストと共に死んだ存在なのです。一度、死んだのですから、二度目はそんなに怖くないはずです。いや、たとえ死んでも、私たちには永遠のいのちがあり、世の終わりにはよみがえることができます。この世においてはいろんな死に方があります。クリスチャンといえども、かっこよい死に方は保証できません。この世では死ぬことが最も恐ろしいでしょう。でも、私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえり、死を克服した存在です。

2.恐れと信仰

恐れと信仰は共通しています。まだ見ていないものを、見て生きています。まだ起きていないことを、起きたことのように考えています。また、恐れと信仰は私たちの中でたえず綱引きしています。恐れが大きくなると信仰がなくなります。逆に信仰が大きくなると恐れがなくなります。恐れと信仰は共存できません。私たちはたえず、恐れを選ぶか、それとも信仰を選ぶか決めなければなりません。旧約聖書と新約聖書から1か所ずつその例を取り上げたいと思います。

民数記13章に書いてありますが、モーセはこれから入るカナンの地に12人の偵察隊を送りました。彼らは40日行き巡り、その地の産物を携えて戻ってきました。確かにその地は、乳と蜜がながれている豊かな場所でした。しかし、そこにはたくさんの先住民が住んでおり、高い城壁を持っていました。10人は「攻め上ることはできない」と言い、2人は「攻め上りましょう」と言いました。2つのグループは同じものを見て帰ってきたのですが、どうしてこのように違ってしまったのでしょう?最初の10人はこのように報告しています。民数記13:31以降「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。・・・私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。・・・私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」ひどい話ですが、神の民イスラエルをバッタのようにたとえたのです。一方、カレブとヨシュアは「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と主張しました。イスラエルの全会衆はどちらの方を信じたでしょうか?否定的な報告です。14章にありますが、民たちは泣き明かし、「エジプトあるいは荒野で死んでいたらよかったのだ」と言いました。

それでも、ヨシュアとカレブはその地が良い地であることを再び取り上げ、「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。主が私たちと共におられるのだ。恐れてはならない」(民数記14:9)と言いました。二人は繰り返し、「恐れてはならない。攻め上りましょう」と主張しました。主は信じようとしない人たちに怒りを燃やし、「20歳以上の人たちは約束の地に入ることができない。40年間荒野をさまようことになるのだ」と言われました。私たちはこのところから恐れは伝染しやすいことを知るべきです。民たちは10人の否定的はことばを信じ、2人の信仰的なことばを退けたのです。イスラエルの全会衆は、10人の報告から、カナン人とその城壁、そして巨人を見たのです。実際はまだ見ていないのに、彼らを恐れたのです。しかし、カレブとヨシュアは10人と同じものを見ましたが、主がその地を与えてくださるという信仰の目で見たのです。彼ら二人は「その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。主が共におられるのだ。恐れてはならない」と信仰のことばを発しましたが、受け入れてもらえませんでした。なぜなら、恐れが全会衆を飲み込んでいたからです。生まれつきの人間は、恐れて、信仰のことばを受け入れることができません。このように恐れと信仰は互いにぶつかり合ってしまうのです。

もう1つはペテロが湖の上を歩いた奇跡です。多くの人たちは、「ペテロは沈んだ、ペテロ溺れた」と言いますが、二三歩、いや四五歩は水の上を歩いたことは間違いありません。マタイ14章にその記事が記されていますが、恐れと信仰の二つがぶつかり合っています。ペテロは湖の上におられるイエス様に「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と願いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行きました。ペテロはすばらしい信仰を持っていました。イエス様が「来なさい」ということばに賭けたのです。これはペテロだけに語られた生けることば「レーマ」です。ですから、だれでも水の上を歩くことはできません。ペテロはイエス様のことばを握って、水の上を渡ったのです。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びました。風は見えませんが、おそらく波しぶきが顔に吹き付けたのでしょう。そのとたん、彼の理性が目覚めました。「人が水の上を歩けるはずがない。私は沈んでおぼれてしまうだろう」と恐れがやってきました。そのとたん、彼の体が沈み始めたのです。言い換えると信仰よりも、恐れが勝利したのです。イエス様はペテロの手をつかみ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。ペテロは最初、イエス様のことばを聞いたとき、イエス様のところへ行けると信じました。しかし、途中、波しぶきを顔に浴び、恐れがやって来ました。そのとたん、彼の体は沈み始めました。

では、どうしたらペテロが恐れにやられないで、信じ続けて、イエス様のところにたどり着くことができたのでしょうか?一番の問題は、ペテロがイエス様から目をそらし、強風を見たことです。言い換えるとイエス様のことばよりも、人間の五感と理性を信じたことです。イエス様のことばを信じると信仰がやってきて、人間の五感と理性を信じると恐れがやってきます。私たちが恐れに負けないで、信じ続けるためには、イエス様から目をそらさないことです。ヘブル12:2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」とあります。また、恐れを締め出すためのすばらしい聖句をご紹介したいと思います。Ⅰヨハネ4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」アーメン。神の愛で満たされると、恐れが締め出されるのです。恐れは不信仰です。私たちは「恐れないようにしよう」と努力しても無駄です。それよりも、神の愛で満たされることを願うのです。全き愛は恐れを締め出すからです。また、神は光によくたとえられます。自分の部屋が暗闇だったらどうするでしょう?電灯をともしたら、暗闇は追い出されます。同じように、光であるイエス様を心にお迎えしたらどうでしょう?恐れは出ていきます。ですから、私たちは恐れよりも、神の愛を思う信仰を選び取るべきなのです。鉄の船が水の上に浮いてられるのは何故でしょう?それは厚い鉄板によって水を排除しているからです。しかし、水を入れてしまうと船は沈没してしまいます。恐れを自分の人生に入れてしまうと、沈没してしまいます。ですから、神さまの全き愛によって満たしていただきましょう。神は愛だからです。

3.恐れを克服する

 最後に絶えず襲ってくる恐れにどう対処すべきか?恐れを克服するためには何が必要なのかということを学びたいと思います。第一のポイントで学びましたが、恐れの原因は神さまに背いて、罪を犯したことでした。犯した罪のために神が共におられなくなりました。アダムとエバはどうしたでしょう?創世記3:7「こうして、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、恐れと恥を覆ったのです。いちじくの葉は、アダムとエバが創った人工的バリヤーということができます。罪を犯す前は、神様の栄光が二人を覆っていました。しかし、今は絶えず襲ってくる恐れと恥を、人工的バリヤーで覆うしかありません。これが、アダム以来、神から離れた人間が行っていることです。恐れから自分を守る人工的バリヤーにはどういうものがあるでしょうか?お金や財産があります。学歴や職業でしょうか?美貌や知性や才能もバリヤーになります。女性にとっては、結婚、子供、お家がバリヤーになるかもしれません。人脈や多くのファンもそうです。最近はSNSによって多くの人たちとつながることができます。ユーチューバーは、できるだけたくさんのフォロアー数とかチャンネル登録を求めています。しかし、それらすべては「いちじくの葉」であり、人工的バリヤーです。「いちじくの葉」は残念ですが、長持ちしません。すぐ枯れるので、新しいものと取り換えなければなりません。人々の評価とか、流行の波に乗り続けることは大変です。恐れと恥は、常に絶えずやってきます。

しかし、神さまは永続的な解決を与えてくれました。創世記3:21「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」とあります。エデンの園ではじめて血が流されました。神さまは皮の衣を作って彼らに着せられました。これは、やがて来るイエス・キリストの贖いの予表です。人はイエス・キリストの贖いをいただくとき、神さまからの被いをいただくことができるのです。ちなみに旧約聖書で「贖う」はヘブル語で「ガアール」と言いますが、「買い戻す」という意味です。しかし、贖いにおいて、もう一つ「カファル」も使われます。これは「覆う」という意味です。ヤコブ書5章には「罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになる」と書かれています。また、Ⅰペテロ4章には「愛は多くの罪をおおうからです」とあります。そういう意味からも、私たちは恐れと恥を隠してくれる、覆いが必要なのです。しかし、その覆いは人工的なものではなく、キリストの贖いであり、神さまご自身であるべきです。この世の人たちは、そういうものがないので、身分や持ち物で一生懸命、覆おうとしています。でも、すぐまた恐れが顔をのぞかせます。

旧約聖書には神が自分を恐れから守ってくれる方であることをたくさん記されています。ダビデはサウル王からいのちを狙われ、荒野や洞窟を逃げ回りました。そのようなダビデにとって、神さまご自身が守りであり、覆いであることが分かります。一番有名なのは、詩篇46篇ではないかと思います。宗教改革者マルチン・ルタ―がこの箇所から讃美を作っています。「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえわれらは恐れない」とあります。さらに読んでいくと「避け所」は「砦」とも訳されており、攻撃するための要塞という意味もあります。詩篇の他の箇所を読むと、主は盾であるとか、岩、高き櫓、力であると書かれています。どれもこれも戦いと関係のあることばです。パウロはエペソ6章で「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」と言っています。その後、真理の帯、正義の胸当て、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣をあげています。そういう意味で、信仰は悪しき霊との戦いでもあります。彼らはたえず、恐れと疑いの火矢を放ってくるからです。私たちは神から与えられた武具を身に着ける必要があります。つまり、神さまご自身の守りをいただくと共に、神の武具で身を固める必要があるんだということです。すばらしいことに、イエス・キリストは十字架と復活によってサタンに勝利してくださいました。私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うことができるのです。イエス様はヨハネ16章で「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」とおっしゃっているとおりです。

繰り返しになりますが、天国に行くまで罪との戦いがあります。また、天国に行くまで恐れが付きまとうことも確かです。第一のポイントで申し上げました。私たちは肉体しか殺せない人々を恐れません。肉体も魂もほろぼすことのできる神様を恐れます。クリスチャンはキリストと共に一度死んだ存在です。生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられます。最も権威ある神様を恐れて生きるなら、この世のあらゆる恐れから解放されます。第二のポイントでは恐れと信仰は似ていると申し上げました。両者ともまだ来ていないものを、来ているかのように思うからです。私たちはこの世で生きているので、恐れに関するニュースが洪水のように押し寄せてきます。災害、犯罪、事故、病気…気を付けたり準備することは必要です。でも、必要なのは恐れではなく、信仰を選ぶことです。信仰の完成者であるイエス様から目を離してはいけません。ペテロは風を見て、イエス様から目を離したので溺れてしまいました。第三のポイントでは人工的なバリヤーの話をしました。この世の人たちは「いちじくの葉」で恐れや恥を覆おうとやっきになっています。しかし、それは束の間であり、長く持ちません。まず、私たちはイエス様の贖いを私たちはいただくべきです。その次は、神さまご自身が私たちの守りになってくれることを信じなければなりません。なぜなら、信仰生活は悪しき霊との戦いだからです。神さまは私たちの避けどころ、盾、高き櫓、岩です。ダビデは詩篇23篇で「たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」と言いました。そして、私たちを追いかけてくるのは、恐れではありません。「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます」アーメン。敵から来る恐れよりも、主から来るいつくしみと恵みが多くて強力なのです。私たちは幼子のように、全能なる神様のふところで休むことができます。主は我らの避けどころ、また力です。