2026.7.26「死後の世界 ルカ16:19-24」

ルカ16章19節以降の物語には、死後の世界が記されています。その話が真実なのか、イエス様が作られた物語なのかはっきりとは分からないかもしれません。でも、三位一体の神である、イエス・キリストが「死後の世界」を語れないことはありません。聖書では一貫して、死後の世界であるよみ(陰府)の存在を語っています。ところで、仏教でも死後の世界をよみと言うようですが、それは中国に渡ったキリスト教である「景教」から来たものと思われます。かつて中国に渡った空海と最澄が景教と出会い、聖書も学びました。彼らが天国と地獄の考えを日本に持ち帰ったことは間違いありません。お釈迦様が教えた仏教にはそういう教えはありませんでした。

1.よみの存在

 死後の世界、よみの特徴をいくつか挙げたいと思います。唯物論者たちは、生命がなくなると、意識もなくなるので死とは無であると主張します。つまり「死後は何もない」と考えます。しかし、世界中の人たちは、死は終わりではなく、死後、魂はどこかで生きていると考えています。日本でも「旅立った」とか「他界した」などと言います。神道では「常世の国」を信じており、仏教では「極楽浄土」を信じています。彼らはよみに下った魂が厳しい修行を受けたあと、極楽浄土に行くのだと考えています。エジプトではよみを支配する神「セト」がおり、ギリシャ神話では「ハデス」と呼ばれています。日本では「閻魔大王」でしょうか?閻魔はインドの冥界の主「ヤマ」から来ていると言われています。とにかく、一部の唯物論者を除き、ほとんどの人が死後の世界を信じているのです。しかし、多くの人は死を恐れています。なぜなら、死後の世界がよく分からないからです。そこへ行くとクリスチャンは、死はそれほど怖くはありません。どんなところか聖書からわかっているからです。キリスト教の救いの一つは死の解決でもあります。

 旧約聖書ではよみをシェオールと言いました。最初に出てくるのが、創世記37章のヤコブの告白です。ヤコブは最愛の息子ヨセフが死んだものと思い、「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下っていきたい」(創世記37:35)と叫びました。世界で最も古い文学書の1つと呼ばれているヨブ記にもよみの存在が記されています。ヨブ7:9,10「雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません。その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。」驚くべきことに、ヨブ記にはよみからの救いについても記されています。ヨブ33:28、30「神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる」と。・・・人のたましいを滅びの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。」「滅びの穴」とは原文では「シェオール」であり、墓とかよみと訳せることばです。詩篇でも死後の世界を「よみ」と言っていますが、よみからの救いについても記されています。詩篇16:10「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」ペテロがペンテコステの日、イエス様の復活について、引用したみことばがこの詩篇16篇です。ソロモンは伝道者の書で「生きているうちに楽しめ」言ったあとこう述べています。伝道者9:10「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 ところで、ルカ16章でイエス様が語られた物語は、旧約聖書の「よみ」のことです。なぜなら、イエス様はまだ、罪の贖いを終えておらず、復活昇天もしていないからです。少し、よみの状況を見てみたいと思います。よみの上部には、父アブラハムおり、ラザロはそこで慰めを受けています。一方、よみの下部では、金持ちが熱さと渇きで苦しんでいます。よみの上部と下部には、渡ることができない大きな淵があります。簡単に言うと、よみの上部には善人がおり、よみの下部には悪人がいるということです。何が善で何が悪かは、ここでは言いません。多くの人は誤解しているようですが、よみは地獄ではありませんが、地獄の一丁目という感じがします。地獄は、福音書で「ゲヘナ」と呼ばれています。マタイ10:28「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」ゲヘナは焼却炉という意味であり、ヨハネ黙示録20章では「火の池」と呼ばれています。黙示録20:14,15「それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」なんと、よみそのものが、火の池で滅ぼされるのです。そのとき、金持ちはよみにいましたが、地獄にとても近いように思えます。なぜなら、彼は「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません」とアブラハムに願っているからです。

 ルカ16章で、死後の世界において人間が無ではないことがはっきりと分かります。第一は、目が見え、肉体と同じ感覚があります。金持ちは非常な熱さと渇きを覚えていました。第二は、記憶があります。金持ちは玄関で物乞いをしていたラザロのことを知っていました。第三は、願いを持っています。彼の家には5人の兄妹がおり、「ラザロを私の家に送ってください。こんな苦しい場所に来ないように警告してください」と願っています。残念ながら、その願いは聞き入れられなかったようです。死後の世界の時間の経過と、私たちが住んでいる時間の経過は同じでないかもしれません。地上の世界は1日24時間ですが、陰府の世界は時間の感覚がなく、ループのようになっている可能性があります。つまり、あるところまで行くと、もとに戻り、それが繰り返されるということです。苦しみや悲しみ、後悔、怒り、喪失、痛み・・・そういうものを繰り返して味わうとしたら、まさしく地獄の一丁目です。日本では死んだ魂を供養していますが、聖書的にはどうでしょうか?よみに行った先祖たちは、「どうかこっちに来ないように」と願っているのではないでしょうか?私たちを呪っているのではなく、救いを得るように願っているのかもしれません。もちろん、よみに行った人たちが、自動的に地獄に行くとは限りません。黙示録20:12「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」とあるからです。

2.よみからの救い

 では、どうしたらよみの下部に行かないで、アブラハムのいる上部に行くことができるのでしょうか?もう一度言いますが、ルカ16章は旧約時代の物語です。私たちは、イエス様がおられるパラダイスに行くのですが、このところには救いの根拠みたいなものが記されています。まず、金持ちのことです。聖書には「ある金持ち」とだけ出ており、名前が記されていません。名前がないということは神様から覚えられていないということです。なぜでしょう?金持ちが悪いことはありません。ユダヤでは金持ちとは神様から祝福されている存在と考えられていたからです。でも彼は「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。「毎日」ですから、安息日を守り、神さまを礼拝することはなかったのでしょう。そして、彼にはあわれみの心である、神の愛がありませんでした。彼の門前にはラザロという貧しい人が寝ていたのですが、施しも得られず、ひもじい生活を余儀なくされていたようです。金持ちには罪あったのでしょうか?それは現代の私たちにも言えることですが「無関心」の罪です。パウロはローマ1章でこう述べています。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」日本人は文化的で勤勉な民族ですが、創造主なる神をあがめず、感謝もせず、偶像を拝んでいます。そういう意味では、この金持ちと全く同じです。多くの人たちは目の前に教会があるのに、立ち寄ろうとしません。宗教に一旦関わると捕らえられてしまうのではないかと恐れているからです。無関心も立派な罪であることを忘れてはいけません。ちなみに、よみとは神様が無関心な場所であるということを忘れてはいけません。なぜなら、この金持ちが「ラザロを五人の兄弟たちのところに遣わしてください」と願ったのに聞き入れてもらえなかったからです。

 一方、貧乏人のラザロはどうでしょうか?彼はちゃんと名前が記されています。ラザロとはエルアザルの短縮形で「神が助け」という意味があります。ヨハネ11章に出てくる、マルタとマリヤの弟も同じラザロという名前です。こちらのラザロは貧しくて、肉体的にも苦しみ続けていました。でも、何らかのかたちで神を礼拝していたことは確かです。なぜなら、彼が死んだとき複数の御使いがアブラハムのところに彼を連れて行ってくれたからです。ヘブル1:14「御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか」とあります。確かに、「生きている間、良いものを受けたか、悪いものを受けたか」で、永遠が決まるとしたら、福音的でありません。死後の報いはあると思いますが、このたとえから信仰告白とか信仰義認について語るのは無理があります。でも、はっきり言えることは、生きているうちに神との関係を持っているかが問われています。同じルカ16章の前半には「不正な管理人のたとえ」が記されています。そのたとえのポイントはこれです。ルカ16:9「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」そうです。この金持ちは、自分が持っている富によって、神さまと友達関係を結ぶ必要があったのです。マタイ25章には「最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」と書かれています。彼が神様と親しく交わり、また貧乏人ラザロに富の一部を投資していれば良かったのです。

 ところで、この二人の死の描写がとても印象的です。ルカ16:22「しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。」貧乏人ラザロはひとこと「死んだ」としか書かれていません。しかし、金持ちもまた「死んで葬られた」と書かれています。おそらく、金持ちの葬儀は多くの人達が集まり盛大だったと思われます。当時ユダヤでは1週間続けられ、防腐処理をして墓に葬られました。私も仕事柄、四つ木斎場に行きますが、二部屋をぶち抜いた大きな祭壇を見ることがあります。たくさんの花輪が掲げられ、会葬者も入口まで溢れています。でも、この金持ちのように、よみに下ってしまったなら寂しいです。つまり、葬儀の大きさとか弔問客には関係ないということです。御使いたちがちゃんと連れて行ってくれるか、それともよみに放置されるかです。上に行くためには、御使いたちによってかかえられて行く必要があります。ここで言っているのは、肉体ではなく、魂のことです。肉体は一旦、滅びてなくなりなりますが、魂はそうではないということです。医学では死を心臓が停止し、脳細胞が死に、生命活動が停止することを意味するでしょう?しかし、ヤコブ書では「たましいを離れたからだが、死んだものである」と書かれています。聖書は「魂あるいは霊魂が肉体を離れることを死という」のです。ですから、本体は肉体にあるのではなく、魂にあるのです、魂が御使いたちによってよみの上に連れていかれるか、あるいはよみに下るかどちらかなのです。後で申し上げますが、新約の私たちクリスチャンはよみではなく、パラダイスに引き上げられるのです。とにかく、肉体の死後、魂の行くところが違うのです。

 では、どうしたら下のよみにではなく、上のよみであるパラダイスに上ることができるのでしょうか?ルカ16章から分かることは、生きているうちに、神様と親しい関係を結ぶということです。ルカ16章前半には、「不正な富で、自分のために友を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まい迎え入れてくれます」と書いてありました。不正な富とは、お金や財産、私たちのもっている様々な資源です。そこには、時間も能力も労力もあるでしょう。とにかく、そういうものを用いて、神さまと親しい関係を持つということです。また、マタイ25章にあるように「最も小さい者たちのひとりに親切な行いをする」ということです。しかし、福音書にはローマ人への手紙のように「イエスの贖いを信じて義とされる」というくだりはありません。私たちプロテスタント教会では、救いを「信仰告白」とか「信仰義認」みたいに、観念的にとらえるところがあります。それも必要ですが、神さまと親しい関係を持つということです。私たちはイエス様を通して神様を父と呼び、近づき、親しい交わりを持つことができるのです。父なる神様は私たちのために永遠の御国を用意してくださっています。ハレルヤ!

3.よみからパラダイスへ

 新約聖書において、「パラダイス」ということばが三か所出てきます。ルカ福音書にありますが、イエス様のとなりで十字架につけられた片方の犯罪人が「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言いました。するとイエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)と言われました。パラダイスはペルシャ語の「塀で囲まれた庭や果樹園」から来たようです。その後、ユダヤ人は「族長や選ばれた者や義人の魂が死後、行く場所として用いています。二番目は、使徒パウロ自身のことです。彼は「肉体を離れて、パラダイスに引き上げられた」(Ⅱコリント12:4)と言っています。ここで言うパラダイスは神さまがおられる第三の天という意味です。三番目はヨハネ黙示録2章にあります。黙示録2:7「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」とあります。パラダイスというのは、一般的に「楽園」という意味ですが、旧約聖書のよみとは違った場所のようです。神学的にはイエス様がよみにくだって復活したとき、よみの一部を携え挙げて、そこをパラダイスにしたと考えられています。前のポイントで言いましたが、旧約時代は義人たちの魂がいるよみの上の部分があり、悪人たちがいるよみの下の部分がありました。その間は行き来ができないくらいの深い淵がありました。イエス様は復活されたとき、よみの上部を一緒に引き上げて、そこをパラダイスにしたのです。

その根拠となるみことばがエペソ4章にあります。エペソ4:8-9「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。」「多くの捕虜」というのが、よみの上部にいた魂ではないかと思います。イエス様はよみの上部を携え挙げて、パラダイスを作られたと考えられます。イエス様の復活以降、信仰者はよみではなく、天上のパラダイスに行くのです。パラダイスが一般に言われている「天国」ということになります。すると、死んだ人たちすべてがパラダイスである、天国に行くとは限らないのです。キリストを信じないで死んだ魂は、旧約時代から存続していたよみの下部に行くことになります。問題は「悪人はよみの下部に、義人はよみの上部に行く」という考えです。ルカ23章に出てくる、イエス様と十字架につけられた二人の犯罪人は完全に「悪人」です。しかし、片方の犯罪人はイエス様の祈りを聞いて悔い改めました。ルカ23:41-42「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼は自分が十字架につけられて死ぬのは当然の報いであると分かっていました。しかしそれだけではありません。「この方は、悪いことは何もしていない。この方は、やがて来る御国の王である」ことを知ったのです。そして、彼はその時は「私を思い出して」くださいと願いました。欽定訳聖書には”Lord, remember me when You come into Your kingdom.”となっています。イエス様をLord、「主よ」呼んでいます。たとえそれが、付加であろうと、イエス様が来るべき御国の王であることを信じていたことは確かです。つまり、それは完全な信仰告白であったので、イエス様は「まことに・・・あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と言ったのです、

 厳密にはイエス様は十字架の後、死んでよみにくだりますので、パラダイスはまだ来ていません。前のポイントでも言いましたが、死後の世界は24時間ではありません。おそらく、片方の犯罪人は死んで、よみの上部に行ったのだと思います。その後、イエス様が復活したとき、彼がいたよみの上部を携え挙げて、パラダイスにしたのです。でも、はっきり言えることは、彼がパラダイスの第一号であることは間違いありません。旧約時代のよみにいる時間が最も短かったのは、片方の犯罪人だったのですから。そこで問われる、悪人と善人の問題です。旧約聖書には律法があったので、そういう基準があったかもしれません。しかし、新約聖書においては、キリストを信じる人は義とされますので、善人なのです。逆に言うと、良い行いをしている善人であったとしても、新約聖書においては悪人なのです。なぜなら、神の前に義とされるのは、私たちの良い行いではなく、キリストを信じる信仰だからです。その最も良い例が、イエス様と共に十字架につけられた片方の犯罪人です。彼は両手両足を十字架につけられているので、良い行いをすることができません。教会に行くこともできないし、聖書を読むこともできません。間もなく、殺されるので、何かを弁償したり、犯した罪を償うこともできません。彼こそが、信仰のみによって救われた義人なのであります。そして、死後、パラダイスに直行しました。彼こそ、全人類の中で最もラッキーな人はいないでしょう。何の希望もなく、隣の犯罪人のように、神と人々を呪って死ぬ運命でした。私もクリスチャンになっていなければ、神と人々を呪って死んでいたでしょう。でも、彼はイエス様の祈りを一番近くで聞くことができました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)。この祈りは、直接的には、ご自分を十字架に渡したユダヤ人、ローマ兵たちへの祈りでした。しかし、このイエス様の祈りは、全人類に対して向けられたとりなしの祈りでもありました。イエス様の隣にいた片方の犯罪人は「これは私に向けての祈りである」と分かったのです。彼は「私を思い出してください」としか言えませんでした。でも、イエス様はそれで充分とみなし「まことに・・・あなたは今日、パラダイスにいます」と言ってくれました。

 人類は、アダムとエバ以来、Paradise Lost失楽園の道を歩んでいます。人間は知性を誇り、ユートピアを作ろうとしましたが二つの大戦で失敗しました。現代は持続可能な社会を作ろうとやっきになっていますが、この世はいつまでも続きません。イエス様は御国を携えて間もなくやっています。でも、その前に亡くなった人のために、よみではなく、パラダイスを作ってくださいました。私たちは、たとえ死んでも、パラダイスに上って御国を待つことができるのです。ハレルヤ!主よ、来てください。それまで私たちは与えられた地上の日々を大事に使うことができますように。一人でも多くの人が救われ、御国に入ることができるように私たちを用いて下さい。