御国の福音は英語の聖書では、the gospel of the kingdom、「王国の福音」となっています。また、ギリシャ語で御国はバシレイアーであり「王たること、支配、統治」という意味があります。簡単に言うと、御国とは「神が王として治める国」という意味になります。現代においても、王国がありますが、王様は飾りであり、人民が最高決議権を持っています。しかし、御国、つまり「神の王国」は神さまが王であり、主権をもって治める国なのであります。きょうは、私たちが御国に入り、御国に住むための4つの条件を申し上げたいと思います。
1.御国に入る条件
御国に入るためには、神と和解する必要があります。なぜなら、生まれつきの私たちは神と敵対して歩んでいるからです。エペソ2章にはかつての私たちは、「自分の背きと罪の中に死んでいた者である・・・不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲のままに生き・・・生まれながら御怒りを受けるべき子でした」と書かれています。簡単に言うと、神に背いて自分の肉の望むままに生きていたということです。これを聖書では「罪」と言います。この世の人たちは、神を認めようとせず、「自分が望むように生きて、何が悪い」と言うでしょう。確かに、国の法律を守り、税金などの義務を果たしていれば、だれからも文句は言われません。日本国民としては、それで良いかもしれません。しかし、その人が御国、神さまが王として治めている国に入りたいと願うなら、そういう訳にはいきません。たとえていうと、子どもが、勉強ができてオールAだとします。人格的にも申し分のない人物です。でも、その子どもが父親を一度も「お父さん」と呼んだことがなく、口も利かないとしたらどうでしょう。そればかりか、隣のおじさんを「お父さん」と呼んでいます。神さまは世界と私たちを造られた造り主であり、父なる神です。しかし、人類はイザヤ53章のように、「羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって」、生きています。しかも、創造主でない人間が作り出した神さまを拝んでいます。神さまはそれでも、一人ひとりに「人生」というプレゼントを与えておられます。これを一般恩寵といいますが、神さまはご自分を信じない人にも良い物を与えておられます。スポーツやゲームを楽しみ、恋人との語らい、夢を追い求める人生を与えておられます。私は毎日散歩していますが、若いカップルが手をつないで歩いています。「この人たちは神さまを信じていないのに、なんて幸せそうだんだ」と思います。でも、それはこの世限りのものであり、永遠ではありません。
もし、御国に入り、神さまと永遠に生きたいのであれば、神さまと和解する必要があります。パウロは詩篇を引用して「義人はいない。一人もいない。悟るものはいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用な者となった…」(ローマ3:10-12)と言いました。それでも神さまはご自分のもとに来るための道を開いてくださいました。それは「キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる神からの恵みです」(ローマ3:24)。私たちはこのキリストを信じることによって義と認められ、神と和解して、神の国に入ることができるのです。パウロはⅡコリント5章で「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(新改訳第三版)と勧めています。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)。だから、私たちは向きを変えて、神さまのもとに来る必要があります。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。悔い改めるとは、神を信じないで自分勝手な道を歩んでいた人が、向きを変えて、神の和解を受け入れるということです。今は恵みの時なのであり、良い行いは全く必要でありません。罪あるまま、ありのままで、神さまのところに行けるのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架で、すべての罪を贖ってくださったからです。パウロは救いを得た人のことをこう述べています。ローマ5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」アーメン。あなたは神との平和を持っておられるでしょうか?私たちが御国に入る唯一の条件は、キリストを信じて、神と和解し、神との平和を持つことです。
2.御国の律法
御国に入った人は、御国の律法を守る必要があります。私たちが日本国民であるなら、日本の法律を守らなければならないのと同じです。ただし、御国の律法は神が私たちに与えたものであり、多数決とかで人間が決めたものではありません。イエス様は「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」(マタイ5:18)を言われました。道徳や倫理は時代とともに変わります。昨日まで良かったことが、今日から良くないことであるということもありえます。LGBTなど、性や結婚に関する法律がどんどん変わっています。少数の人たちを守ることは悪くはないと思いますが、大多数の人たちが不自由を覚えるという法律はどうかと思います。私が講壇からストレートに言うと、突き上げを食うかもしれませんが、神の律法は変わりません。旧約聖書には十戒をはじめ、多くの律法があります。神の律法は道路でいうと、センターラインとガードレールのような存在です。車はその間を走るならば安全です。センターラインをはみ出して走るなら、大事故に遭うでしょう。私たち人間は、神さまが定めた律法の内を歩むべきなのです。これは民主主義ではなく、神さまが私たちに与えたものであり、私たちは神の主権を認めなければなりません。
しかし、旧約聖書の律法は不完全でした。なぜなら、律法を守り行うことによって、神に受け入れられるのは困難だからです。パリサイ人や律法学者らは、律法の精神を忘れ、うわべだけで律法を守っていました。イエス様はその代わり、御国の律法をお与えになられました。マタイ5章から7章までの内容は、旧約聖書の律法に代わるものとして、私たちに与えられた御国の律法です。御国の律法は心の動機や思いをさばく、十戒よりもきびしいものでした。一般の法律は実際、行わなければ罪になりません。しかし、御国の律法は、むさぼりや憎しみ、不品行な思いを持っただけで「あなたには罪がある」とさばくのです。御国の律法の、一番のきわめつけはこれです。マタイ5章後半「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。・・・ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ジョン・ウェスレーはこのところから、「愛における完全」ということを言いました。でも、地上で生きている限り、律法を完全に守ることは不可能です。特に愛の律法は、これで十分であるとは言えないでしょう。でも、神さまは私たちに解決を与えてくださいました。それは、私たちが霊的に新しく生まれ、聖霊を内に宿すことによって可能になります。パウロはガラテヤ書5章で、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。…御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません」と言いました。アーメン。まず、キリストを信じると私たちが霊的に新しく生まれます。霊が生まれると何が罪で、何が罪でないか分かるようになります。そして、私たちの内におられる神の御霊が、律法を守れるように助けてくださるのです。この世では法律をはじめ、たくさんの決まり事があります。「コンプライアンス遵守」というのがありますが、人間の自由と尊厳を奪っているような気がします。私は『教会の理念』を作るとき、できるだけ決まり事を少なくしました。律法主義にならないためです。律法ではなく、御霊によって歩めば良いのです。Ⅱコリント3:6「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」アーメン。
3.御国の民の使命
神さまが王であるなら、私たちは臣民ということになります。臣民とは君主国において、君主に支配される者としての人民を指す語だそうです。戦時中は、大日本帝国憲法において、天皇を主権者とする臣民でした。そのため、個人の権利が著しく損なわれていました。旧約聖書においては、イスラエルが神の民、臣民でありました。新約聖書においては、イエス・キリストを信じて召された人たちが神の民、臣民なのです。イエス様は弟子たちに「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです」(ルカ12:32)と言われました。教会の原型は、イエス様のもとに集まった12弟子でした。ちなみに「教会」はギリシャ語で「エクレーシア」であり、「王様と収める大臣たち」と言う意味です。当時は、王様と大臣からなる集団をエクレーシアと呼んだそうです。たとえば、王様が国を作るときに、どんな大臣が必要でしょうか? 財政を管理する大蔵大臣、法律を管理する法務大臣、教育担当の文部大臣、他、建設、軍事、外交…いくつか考えられます。弟子たちは、だれがイエス様の左に座るか、右に座るか競い合っていました。イエス様がイスラエルを復興するメシアだと信じていたからです。しかし、イエス様の国はこの世のものではなく、まずは目に見えない王国としてやってきました。言い換えると、神の支配が最初にやってきて、あとから王様と土地が見えるかたちでやってくるというものです。マタイ6章で「御国が来るように祈れ」と言われているのは、そういうことです。
マタイ25章には「タラントのたとえ」があり、自分に与えられた賜物をこの世において運用するように教えています。ルカ19章には「ミナのたとえ」がありますが、マタイのタラントとは幾分違います。どこが違うかと言うと、「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。・・・その人が帰って来るまで、これで商売をする」ということです。そして、10ミナもうけた人には10の町を支配させ、5ミナもうけた人には5つの町を支配させたことです。さらには、彼が王になるのを望まなかった敵どもを打ち殺させたことです。総合的に考えますと、将来、イエス様が王様として帰ってきたとき、ある人たちに御国を治めさせるということです。「タラントのたとえ」と「ミナのたとえ」の共通点は、この地上で、神さまから任せられたものにどのくらい忠実であったかが、御国における報いが決まるということです。多くの人たちは、御国は平等であると考えていますが、そうではないようです。その後からやってくる、新しい天と新しい地は平等かもしれませんが、御国、千年王国はそうではないようです。このことが分かると、「私たちはキリストを信じて天国に行くだけのクリスチャンではない」ということです。これまでの福音は御国の福音ではなく、天国の福音だったということです。もし、救いが天国に行くことであるなら、洗礼を受けるときに水の中に5分くらい沈めておけば良いでしょう。ビリーグラハムの集会では、「今晩、心臓が止まっても、神さまの前に立てますか」という天国の福音でした。ずるい人は天国行きの切符を手に入れたのだから、教会も行かず、好き勝手なことをしても良いと考えました。天国の福音は怠け者を作る福音でした。
私たちはこの地上において、神さまから与えられた賜物を十分に用いて、その召命を果たす責任があります。パウロはローマ11章で「神の賜物と召命は、取り消されることがない」と言いました。多くの人たちは神に仕える聖職者だけが、神に召されているのだと思っています。今でも、献身というと牧師や伝道者になることだと考えられています。宗教改革者マルチン・ルターは、神に召されているならどんな仕事であっても「ベルーフ(天職)」であると言いました。神さまに直接仕える仕事がきよくて、この世の仕事は俗的であるという考えは聖書的ではありません。医者、会計士、会社員、自営業、公務員…神様から召されているものであれば天職であり、きよいのです。問題は、自分がどんなことに召されているのか、神から与えられた使命を自覚しているということでしょう。結論的に言いますと、どんな職業であれ、どんな奉仕であれ、御国が拡大するように働くということです。当教会では毎年、教会総会があり、資料が作られます。いろんな活動がありますが「御国の拡大のために奉仕する」という文言を見て、感動しています。マタイ6章の「御名があがめられ、御国が来ますように」は私たちの教会のミッション・ステートメントではないかと思います。
4.御国の民の義務と保証
世界のどんな国に行っても、税金があり、なすべき義務があります。例外として、ドバイには税金がないそうです。石油で潤っているからでしょう。では、御国には税金があるのでしょうか?税金がありませんが、献金があります。献金は教会や宗教団体にささげるのではなく、神にささげることをお忘れなく。よく、「神さまの御用のためにお使いください」と祈りますが、半分は正しく、半分は間違っています。どういうことかというと、献金は神への感謝と献身のしるしであり、どんな目的に使おうと関知する事柄ではありません。もし、何かの目的のためにささげるのであれば、それはカンパであり、寄付、援助金ということになります。教会を組合のように考えている人は、「その献金が牧師給や伝道活動、建物維持のために」ということになります。そうなると、献金は会費とか維持費ということになります。しかし、献金はあくまでも神さまにささげるのであって、教会の働きのためでないことを知ってください。理屈ぽく聞こえるかもれませんが、神さまは私たちが精一杯献げるその心で満足されます。そして、「私はいらないから教会の働きのために使いなさい」と戻してくださるのです。直接、教会にささげるのではなく、一度神さまのところにささげられたものが、戻されるということです。神さまは宇宙全体を造られたお方であり、大金持ちです。私たちの献金がなければやっていけないお方ではありません。神さまは私たちのささげる心をご覧になって、30倍、60倍、100倍に報いてくださるお方なのです。
献金でもっとも有名な箇所はマラキ書です。マラキ3:10-12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は言われる──すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の【主】は言われる。」十分の一というのは、現代で言うと収入の十分の一を神様のところに持っていくということです。これは「什一献金」と呼ばれていますが、ある人たちは「什一返金であり、それ以上のものが献金なんだ」と言います。十分の一をささげるとどうなるかというと、天の窓が開かれ、あふれるばかりに祝福されます。食い荒らす者から守られ、不作にならず豊作になるということです。他の国の人たちが「幸せ者」と呼ぶでしょう。「どうして私は貧しいのでしょう?」「どうして私は事業が失敗するのでしょう?」「どうして私は病気や怪我で出費がかさむのでしょうか?」そう人はぜひ、収入の十分の一を神さまのところに持って行ってください。聖書に神さまを試して良いと言われている箇所はここしかないからです。ある人たちは「マラキ書は旧約聖書の律法であり、新約の私たちとは関係ないでしょう」と言うかもしれません。しかし、イエス様はマタイ23章で「十分の一もおろそかにしてはいけない」と認めておられます。私は洗礼準備会の時に必ず言うことにしています。「いくらささげるかはあなたの信仰です。もし、躓くくらいならささげなくても結構です。神さまは私たちの献金がなければやっていけないお方ではないからです」と言うようにしています。「献金をしなければならない」と律法的に考えるなら神さまは喜ばれないでしょう。「献金させていただきます」と特権のように考えるなら、神さまはそれを喜び、豊かに報いてくださるでしょう。
最後に献金とは別の御国の民である私たちの義務と保証があります。マタイ6:33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」45年前、教会に来た頃、さかんに賛美されていました。京子さんと婚約式に交換したキングジェームス訳を引っ張り出しました。But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness; and all these things shall be added unto you.ある親たちは、このみことばを子どもたちへの遺言として与えています。私も「まず神の国と神の義を求めたら、すべてのものが与えられるよ」と言いたいです。これこそ、御国の優先順位です。ある人たちの生活はとても混乱しています。英語ではmessy「取り散らかした、きたない、始末におえない」という意味です。生活に優先順位を持つことはとても大切です。私の優先順位は説教を作ることです。昔は多くの牧師がそうであるように、土曜日の夜まで苦しんでいました。しかし、ある時から「どうせ毎日曜日、説教するなら、もっと前から準備すればよいだろう」と思うようになりました。そして、木曜日の朝からはじめると、その日の夜、遅くても金曜日の午前中にはできることがわかりました。まず神の国とその義を求めたなら、どうなるのでしょう?「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」。文脈をみると、これらとは、食べるもの、飲むもの、着るものです。これらは神を信じない異邦人が切に求めているものです。そして、心配し、思い煩っています。私たちはそうであってはなりません。まず神の国と神の義を求めるのです。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられるからです。アーメン。
御国の福音とは、死んでから行く天国の福音ではありません。私たちはイエス・キリストを信じたなら、即、御国に入ることができます。でも、御国は神の王国という意味ですから、イエス様を主と仰ぎ、神の主権に従う必要があります。でも、それは私たちを不自由にするのではなく、神さまのご支配の中で守られ、本当の自由な生き方をすることができるのです。御国の律法は私たちを守る、神さまの囲いであり、定められた囲いの中で十分楽しんで生きることができるのです。この世の人たちは、神さまの囲いを無視して、自分たちの欲するままに生きています。そのため、悪魔の攻撃を受け、傷つき貧しい生活を強いられています。イエス様は「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(ヨハネ10:10)とおっしゃいました。この世の人たちは悪魔によって、盗み、殺し、滅ぼされています。私たちは、地上の国籍だけでなく、天国の国籍を持っています。私たちは神の民なので、神さまがご自分の民を必ず守ってくださいます。しかし、私たちはこの世にいながらも、御国の豊かさ、御国のいのちを味わうことができるのです。