ヨハネ15章のはじめに書かれている「ぶどうの木のたとえ」は、とても有名です。イエス様がぶどうの木であり、農夫は父なる神様です。欽定訳聖書では神様はヴァイン・ドレッサーになっており、ぶどうの枝を整える人です。私たちはぶどうの木につながっている、小さな枝であります。実際、ぶどうの木を見てみると、どこからが木でどこからが枝か分かりません。私たちはぶどうの実を結ぶように召されていますが、3つの実を結ぶ必要があると思います。
1.人格的な実
人格的な実とはイエス様のような品性を持つ人になるということです。私たちの性格は生まれつきのものと、後天的なものが組み合わさっていますのでそれぞれ違って良いのです。しかし、すべてのクリスチャンは、人格的な実を結ぶ必要があります。どんな実かというと、一番、有名なのはガラテヤ書5章です。多くの人たちは御霊の実は9つあると言いますが、そうではありません。コロサイ人の手紙やエペソ人の手紙にも、記されていることを忘れてはいけません。しかし、ここでは最も有名なガラテヤ5章22,23節のみことばを取り上げたいと思います。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」ある神学者は御霊の実はみかんの実のように1つであり、その中に9つの房があるのだと言います。でも、ヨハネ15章はぶどうにたとえられているので、1房に9つ以上の実がなっているとも考えられます。ビリー・グラハムは9つの実を3つに分けて解説しています。第一のグループは、愛、喜び、平安であり、神様との関係で結ぶ御霊の実であります。「確かにそうだなー」と思います。愛、喜び、平安はイエス様を信じたときに神様から即座に与えられるような感じがいたします。愛は無条件の愛であり、一生かけて学ぶ必要があります。なぜなら、私たちは条件付きの愛の中で生まれ、育ったからです。喜びですが、私はイエス様を信じたときに、即座に喜びが湧いてきました。救いの喜びは今でも継続しています。平安は英語ではピースですから、平和の方が良いかもしれません。平和はヘブル語でシャロームであり、環境や状況に左右されない安定した力があります。
第二のグループは寛容、親切、善意です。これらは人との関係で結ぶ必要がある御霊の実です。Ⅰコリント13章に「愛の賛歌」が記されていますが、最初にでてくることばが「愛は寛容である」ということばです。欽定訳聖書はLove suffers long、長く辛抱するという意味になっています。自然に湧き上がってくるというよりも、時間をかけて結ばれていくようなイメージがあります。年を重ねると寛容になるということでしょうか?また、人に対しては親切も善意も大事ですね。親切は一種の投資であり、そのまま帰ってこない場合も多々あります。善意はどうでしょう?裏切られたことがあっても、善意をもって接していくということが必要です。年を重ねていくと、だんだん人が信用できなくなります。いやな思いをしたり、裏切られた経験が蓄積されるからでしょう。Ⅰコリント13章の愛の賛歌には、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」とあります。ある英語の聖書では、love is never give upと訳されています。天国に行くまで、隣人を愛することをあきらめてはいけないということでしょう。
第三のグループは誠実、柔和、自制です。この三つは自分自身に対して結ばれる御霊の実だということです。「自分に誠実、自分に柔和、自分に自制」という意味になるでしょうか?「え?そうなの?」と疑問が湧いて来そうです。でも、分かるような気がします。私は職業柄、いろんな献金を受け取ることがあります。「これは私宛ての献金なのかな?あるいは教会への献金だろうか?」と、仕分けが必要になります。はっきり書いてあれば問題はないのですが、結婚式や葬儀のとき、教会にまとめて献金をなされる場合もあります。そのためにやっている訳でないので、「謝礼」をいただかなくても、良いのですが、ちょっとだけ困ってしまいます。また、その人から月定献金も預かるときもあります。神さまが見ておられるので、また自分に誠実であるため、絶対手をつけないようにしています。イエス様の弟子、イスカリオテのユダは「金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいた」(ヨハネ12:6)と書かれています。「自分に柔和」というのはどうでしょう?「自分に厳しく」というのは世の中でよく聞かれることばです。ローマ7章を見ると、律法は肉に対しては効果がないことが分かります。「するな」というと「する」し、「しなさい」というと「しない」のです。自分自身に対して律法ではなく、恵みによって接するならうまくいきます。「自分に自制」というのも、どうでしょう?欽定訳はself-controlとなっています。私は9つの御霊の実の中で、これが一番弱いかなーと思います。しゃべっていけないことはしゃべるし、家内にはよく怒るし、甘いものは食べるし、車の運転も荒いし…。結局は「自分に甘い」んですね。ですから、たえず御霊によって支配していただくしかありません。パウロは「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と言っています。
他にも「謙遜」とか「慈愛」「忍耐」「感謝」「従順」というのがあるようです。ジョン・バニヤンの『天路歴程』を読むと、登場人物にその人の性格を表す名前がついています。その中には「聡子(さとこ」」さん(聡明な人)、「慎子(のりこ)」さん(慎み深い人)、敬子さん(神を敬う人)という乙女も登場しています。御霊の実はすべてのクリスチャンが結ぶ責任があります。でも、その人の性格と組み合わされて、独特な実が結ばれるような気がします。英語ではflavorであり、風味とか香りのことです。花や果実にもいろんなものがあるように、クリスチャン一人ひとりに、固有なflavorがあって良いのではないでしょうか?黙示録22章に「いのちの木」のことが書かれています。ヨハネ黙示録22:2「都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。」神様はバラエティに富んだお方であり、いろんな人を創り、いろんな人格的な実を与えたいと願っているのではないでしょうか?どうぞ、他の人と比べないで、イエス様を仰いで生きてください。イエス様にとどまるとき、自然と御霊の実が結ばれていくからです。その実を神様が食べて喜び、他の人が食べて喜び、そして自分が食べて喜ぶことができます。そうです。自分自身も御霊の実を食べて喜ぶことができるのです。アーメン。
2.行いの実
第二番目は行いの実です。マタイ25章には、ある人には5タラント、ある人には2タラント、ある人には1タラントの賜物が与えられていると書かれています。賜物は聖霊の賜物であり、Ⅰコリント12章、ローマ12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章に書かれています。ある神学者は「合計、30種類はあるのではないだろうか」と言っています。クリスチャンには最低1つは与えられていますが、いくつか他の賜物とミックスして与えられているようです。御霊の賜物は、キリストのからだの各器官としてたとえられていますので、からだなる教会から切り離されて用いられるということはまずありません。心臓や目、手や足が体から離れて、存在できるでしょうか?私たちはキリストのからだの一部分、一器官であって、助け合って奉仕するように召されているのです。奉仕とはミニストリーのことであり、神と人に仕えることです。昔は教会という建物の中で行うことが奉仕だと考えられてきました。ところが、最近は『7つの山を支配する』ということが言われています。家庭、宗教、ビジネス、教育、医療、政治、芸術にもクリスチャンの賜物が用いられるべきだということが見直されています。なぜなら、クリスチャンには賜物だけではなく、神の知恵と想像力が与えられているからです。もちろん、私たちは生活費を得るために労働を提供します。でも、世の人たちのように、お金を稼ぐためだけに働いているのではありません。働きながら、どこかでサービス(奉仕)をしているのです。「サービス残業」と聞くと、嫌な思いがするでしょうか。でも、クリスチャンはどこかで、お金以上のことを人々に与えているのです。励まし、祈り、癒し、神の知恵、神の祝福を与えることができます。
キリスト教会では長い間「行いではなく、恵みが大切だ」と教えられてきました。もちろん、救いを得るためには私たちの行いは全く不要です。でも、救われた後は良い行いが出てくるのです。エペソ2章は「信仰による恵みの救い」が書かれている有名な箇所です。エペソ2:9「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とはっきり書かれています。ところが、その後の10節はどうでしょう?「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」このところには、私たちは神の作品であると書かれています。でも、どのような作品なのでしょうか?それは、良い行いをするためにキリストによって創られた作品です。ある聖書は「傑作品」と訳しています。私たちは良い行いをすることができる、神の傑作品なのです。神がそのように私たちを創られたからです。でも、それだけではありません。「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」これはどういう意味でしょう?私たちが良い作品ということだけではなく、神が良い行いをも備えてくださるという意味ではないでしょうか?創世記22章には「主の山には備えがある」と書かれています。ヘブル語では「アドナイ・イルエ」であり、主は供給者という意味です。つまり、エペソ2章で言われているように、私たちが行くところどころに、「良い行い」を備えてくださるということです。私たちの人生において、どうしても必要なときがあります。お金もそうですが、行いにおいても危機的なときがあります。「果たして、乗り越えられるのだろうか?」というときがあるでしょう。でも、「主の山には備えがある」、良い行いを備えてくださるのです。
私たちは良い行いによって、神さまから報いを受けることができます。タラントのたとえにおいても、ミナのたとえにおいても、最後に報いのことが書かれています。私たちが自分に与えられた賜物にいかに忠実であったかが問われ、それぞれに報いが与えられるのです。でも、長い間キリスト教会は「報いを望むなんて意地汚い」と言われてきました。讃美歌にも「報いを望まで、人に与えよ」とあります。また、聖歌687『まもなくかなたの』の三節が問題にされてきました。「良いことを励み、流れのそばでー、お受けいたしましょう、たまの冠を」とあります。神学校には日曜学校の授業がありましたが、その教師が「この歌詞は行いによる報いを説いているので間違っている」と言っていました。しかし、パウロはそうは言っていません。ピリピ3章で「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」と言っています。またⅠコリント9章では「ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい」とオリンピックのたとえを用いて教えています。ルカ19章のミナのたとえでは、10ミナもうけた人には10の町を、5ミナもうけた人には5つの町を治めるように命じました。ミナを使わずに隠しておいたしもべは、その1ミナが取り上げられました。これは千年王国の報いを語っている箇所です。千年王国つまり、御国においては、この地上でいかに忠実であったかが、報われるときなのです。人からの報いを受けるのは良くありませんが、神からの報いを受けることは期待して良いのです。
ヨハネ15:16「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため」とあります。でも、言い換えると「その実が残らない」場合もあるということです。せっかく奉仕したのにその実が残らないとはどういうことでしょうか?Ⅰコリント3章に、そのことを暗示しているみことばがあります。人々がキリストという土台の上にいろんな材料を用いて建物を建てています。それは神の建物と言われていますので、神の栄光のための奉仕に間違いありません。人々は「金、銀、宝石、木、草、藁」で建物を建てました。終わりの日、火がともに現れ、それぞれの働きがどのようなものかを試すのです。Ⅰコリント3:14,15「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」おそらく、金、銀、宝石で建てたものは残り、木、草、藁で建てたものは焼けてなくなるでしょう。しかし、その人の救いだけはなくなりません。「その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」とあるからです。外から見たら、神さまのための良い行いかもしれません。しかし、神さまの名前を利用した、自己目的の達成のためであるなら、木、草、藁で建てたものです。イエス様は「その実が残る」ように願っておられます。それを行っている心の動機が問われているのではないでしょうか?
3.救霊の実
救霊とは、人々の魂がキリストを信じて救われるということです。救って下さるのは、神さまですが、福音を伝えるのは私たちの使命です。イエス様が天にお帰りになる前に、弟子たちに与えた命令です。これは、マタイ28章と並んで、「大宣教命令」と呼ばれています、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」イエス様が12弟子に与えた命令は、教会への命令であり、私たちクリスチャン全員への命令でもあります。極端に言えば、イエス様の一番のご興味は、人の魂が救われることです。聖書で「救われる」というのは、病の癒し、困難からの救い、悪霊からの解放もあります。しかし、究極的には人の罪が赦され、永遠のいのちをいただくということです。そのためにはイエス・キリストを救い主として信じる必要があります。これをキリストの福音と言います。イエス様は公生涯のはじめ「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。「悔い改める」という意味は、「今まで犯した罪を悔い改める」という意味ではありません。それは救われていない人には無理です。なぜなら、霊的に死んでいるので、何が罪かも分からないからです。「悔い改める」は、ギリシャ語では、メタノエォーであり「思いを変える」「方向を変える」という意味のことばです。すべての人は生まれた時から、神から離れ、自分勝手な道を歩んでいます。そのままでは、罪がさばかれ永遠の滅びでしかありません。しかし、イエス・キリストが人になり、十字架ですべての罪を贖ってくださいました。そのことにより、私たちがキリストを信じるだけで、罪赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。永遠のいのちとは、神のいのちであり、肉体が死んでも永遠の御国に住まうことができる神のプレゼントです。多くの人は、そんなのいらないと言うでしょう。でも、死んでからでは遅すぎるのです。生きているうちに、キリストを信じて永遠のいのちをいただくのです。悔い改めとは、向きを変えて、キリストを信じることなのです。キリストは道であり、真理であり、いのちです。この方を通して、私たちは神さまのところに行けるのです。神さまは永遠の命、永遠の御国を私たちのために用意しておられるのです。
でも、生まれたときからクリスチャンである人は、一人もいません。無知であるか、意識的に反抗しているのです。日本人の多くはキリストの福音を聞いたことがありません。唯一の神という理解がないので、神と言えば、神社とか、人間が考えた神です。仏教は「神」といは言いませんが、死後の生まれ変わりという輪廻を信じています。日本人の伝道が難しいのは、仏教の教えが根本にあるからです。「私の家は仏教です」と言いますが、個人的に信じているわけではありません。また徳川幕府により「キリスト教は邪教である」と教えられたので、信じたら十字架で殺される恐ろしい宗教であると思われています。そのため日本人は、第一に世界と私たち人間を創造された創造主なる神を信じる必要があります。その次に、神の御子イエスが人間となり、罪を贖って十字架に死なれ、三日目によみがえられたことを話さなければなりません。日本が文化的な国なのに、クリスチャンが少ないのは唯一の神さまとキリストという二方を信じなければならないからです。私は23歳で建設会社をやめ、貿易会社に入りました。その時、私を面倒見てくれた人がクリスチャンでした。私は、英文タイプは多少打てましたが、ドキュメントはさっぱり分かりません。1つ1つ手取り、足取り教えていただきました。だから、先輩が勧めるキリスト教についても耳を傾けないわけにはいきません。最初は「神がいるなら見せてくれ」と笑って言いました。しかし、1年間も伝道されると、だんだん偏見が取り除かれて、教会に行ってみようかと思いました。1979年4月15日のイースターの礼拝の後、先輩が私のアパートを訪ねてくれました。午後12時半~夜の9時半まで、伝道されました。「鈴木君、神さまを信じて、もしいなかったとしても、失うものはないだろう」と言われました。最後に、「イエス様が私の心のドアをたたいておられる。外側には取っ手がなくて、内側からしか開けられないんだ」と言われました。私は「じゃ、信じるよ」と、根負けしてイエス様を受け入れました。先輩は驚いて「今から、大川先生のところに行こう」と言うのです。「私はもう遅いから良いよ。信じたんだから」と言いました。朝起きると、アパートの前の生垣が輝いて見えました。心の暗闇が追い出され、光が入ってきましという体験をしました。そして、6月10日洗礼を受けました。それから人生が変わりました。
ローマ10章に「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあります。そうです。私たちも以前、だれかからキリストの福音を聞いて信じました。今度は私たちが他の人に伝える番です。福音を伝えるのは牧師や伝道者だと思ったら大間違いです。マルコ16章の命令は、信じているすべてのクリスチャンに向けられた命令です。牧師や伝道者はあなたの家や職場に行くことができません。あなたが毎日出会っている人が、伝道の対象者であり、あなたの責任なのです。「信じさせなければ」ならないと思うので、緊張するのです。福音を宣べ伝えるのは私たちの責任です。救ってくださるのは神様です。私たちがその人のため祈っていると、聖霊様がその人を訪れてくださり、飢え渇きを与えてくれます。向こうから「救われるためには何をしたら良いのでしょう」と聞いてくるでしょう。その時とばかり、自分が救われたことと、キリストがなされたみわざを語るのです。一度で信じさせるのではなく、ひと口サイズに小分けして語るのです。
私たちはやがてこの世を去ります。向こうではイエス様を信じた兄弟姉妹と再会することができます。その中に私たちの家族や知人、友人がいたら何と幸いでしょう。自分が伝えた人からきっと感謝されるでしょう。「よく、私にイエス様を紹介してくれました。本当にありがとう。やっぱり天国はあるんですね」。「アーメン。私もあなたと再会してうれしいです」と、共に抱き合い、喜ぶことでしょう。「ああ、あの人にも福音を伝えておくべきだった!」と後悔することがないように、日ごろから、名前を挙げて祈り、チャンスがあったら福音を語りましょう。